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茉理との今後
しおりを挟む「美穂………」
涙ぐんで、哀しげに俺から目をそらした美穂をみて、すべてを悟った気がした。
もう勝負はついたってことだ。
ここでジタバタするのはみっともない。
「……そうか、出て行くんだな」
うつむいている美穂に力なくつぶやく。
「…お世話になりました。本当にありがとう」
美穂は震える声でささやくと、深々と頭を下げた。
優柔不断な美穂が自分で決めたのだ。
もう、なにも言うことはないだろう。
「世話になったのは俺のほうだろ。まぁ、確かにあいつのほうがおまえには合ってるな。俺よりずっと真面目そうだ」
「………… 」
うつむいている美穂は肩を震わせて泣いていた。
未練たらしい気持ちがないわけではないが、意外なほど冷静な自分に驚く。
ひと昔前なら、あの若造を殴り倒して、美穂に対しても散々な悪態をついていたに違いない。
俺も少しは大人になったのか?
俺は美穂の一体なにを愛していたのかな?
なんとなく、保護責任者から解任されたかのように、肩の荷が下りた気がした。
俺以外、美穂を幸せにできる人間など、存在しないと思い込んでいたから。
誘拐事件などを起こし、失業させてしまったことにも責任を感じていた。
美穂は従順で、家事能力に優れていたけれど、あまりにメンタルが脆すぎた。
花蓮も彩矢も似たようなタイプだった。
俺にはそんなメンヘラ人間の気持ちなど、理解できるわけもなく、また同じように寂しい思いをさせてしまうだけだ。
そのことが、結婚を躊躇わせていた一番の理由だったかも知れない。
美穂は俺のそんな迷いに不安を感じていたのだろう。
愛されようと健気に尽くす美穂は、いじらしくて可愛かったけれど。
頼りなく儚《はかな》げで、薄幸だった美穂を幸せにしてやりたいと思った。
別に俺じゃなくても良かったわけだ。
あいつが幸せになれるなら、これでいいじゃないか。
まるで娘を嫁に出す父親のような心境だ。
「美穂、いい相手を見つけてよかったな。じゃあな、幸せになれ」
出入り口の扉を開け、エントランスホールを抜ける。
オートロックの自動ドアを解除すると、背後から「先生!!」と呼ぶ声がした。
振り向くと、美穂ではなくて茉理だった。
「なんだよ、おまえは早く家に帰れ!」
さすがにこんなときは放っておいてもらいたい。
「帰るよ、帰るけど、、ごめん。茉理のせいでこんなことになっちゃって………」
茉理は心底反省しているみたいな情けない顔で俺を見つめた。
フラれた俺を慰めに来たってわけだな。
「おまえに同情なんてされたくないよ。美穂が幸せになれるならそれでいい。あいつは悪い男ではなさそうだ」
不器用なくらい真面目で実直に見えた。
運に見放されていた美穂にも、やっとツキがまわって来たんだろ。
「茉理、美穂さんは先生を選ぶと思ってた。今だってきっと先生のことが好きだよ。なのにそんなに簡単に諦めちゃっていいの?」
「美穂が選んだんだ。それでいいだろう。俺よりあいつの方が美穂を幸せにできる」
「でも、、美穂さんが好きなんでしょう。あきらめるの早すぎだよ」
ガラにもなく茉理は目に涙を浮かべていた。
「あの男がろくでなしなら渡さないけどな。俺は美穂の幸せを邪魔したくはない。大体おまえは人の心配をしている場合か? なんで高校を中退なんてしたんだよ。まったく、、」
今は美穂よりこいつのほうがよほど心配だ。
「……茉理は逞《たくま》しいから大丈夫だもん」
大丈夫といいながら茉理は暗い顔をしてうつむいた。
どいつもこいつも毒親の餌食にされて、困ったものだ。
家事代行のほかに、夜のサービスをしてもいいから雇って欲しいと言ってたな。
もしかして、俺が断ったら違う客を見つけなければいけなくなるのか?
「遅いから家まで送るよ。車の鍵を取ってくるからここで待ってろ」
自宅へ戻ると、食洗機と洗濯機のまわる音がしていて、リビングもキッチンもすっきりと見違えるように片づいていた。
美穂がいた時間は、たかだか二十分くらいなものだったはずだけれど。
あいつは魔法使いか?
まぁ、ちゃんとゴミを捨てて、洗濯物を洗濯機に放り込めば、散乱していたものは無くなって当たり前だけれど。
床はルンバも忙しく動きまわって仕事をしていた。
美穂が言っていたように、この家には代行サービスなどいらないような気もする。
ましてや料理もできない茉理など、なんの役にも立たない。
だけど………
玄関のシューズクローゼットの上に、茉理と美穂が置いていったスペアキーが二つ並んであった。
車の鍵と、そのスペアキーをひとつ掴んで家を出た。
エレベーターで一階に降りると、茉理はエントランスのロビーにボンヤリ突っ立っていた。
「茉理、行くぞ」
「あ、ごめんなさい。かえって面倒かけちゃったね。アハハ」
「おまえは初めからそのつもりだろう!」
まったく、こいつは美穂とは全然違うな。
図々しいと思いながらも、わかりやすくてサッパリしているところが自分に似ている。
似た者同士なだけに、手の内がみえみえで鼻につく。
茉理のマンションへは一度だけ送って行ったことがあった。大通駅のそばで利便性の高いレディースマンションだったけれど。
今はそこのマンションを引き払い、母親の勤め先に近いススキノに引っ越したのだという。
高校を中退しなきゃいけなくなるくらいだから、家賃に金をかけられるわけもない。
ナビに茉理の新しい住所を入力して、琴似からススキノ方面へと向かった。
夜の八時も過ぎて、帰宅時の混雑もすでに解消され、走行はスムーズだ。
美穂は今頃どうしているだろう。
新しい男ができた途端、女というのは手のひらを返したように冷たくなるものだ。
いつまでも未練たらしく思っている男とは違う。
まさか教習所にそんな出会いがあったとはな。
あんな奥手な女に浮気をされるとは思ってもみなかった。
美穂にとっては浮気ではなく、本気だったのだろう。
「ねぇ、いま美穂さんのこと考えてるでしょ?」
助手席の茉理がそう言って、俺の顔を覗き込んだ。
「だからなんだって言うんだよ。考えて悪いか? さっき別れたばかりなんだぞ」
「だから諦めるの早いって言ったでしょ。茉理の忠告を無視するからよ」
「別れたことを悔やんでる訳じゃないよ。クーラーつけてるのになんで窓あけてんだよ」
いつのまにか助手席側の窓が開いていた。
「だって夜風のほうが気持ちいいんだもん」
奇抜だった茉理のブルーグレイのショートヘアは、黒へと変わっていた。以前よりも少し伸びて、外から吹き込む風にサラサラと揺れている。
夜風に吹かれ、十七歳の女子高生とドライブしていることが不思議に思える。
こいつとこんな風に関わるのも何かの縁なのか。
札幌中心部に近づくにつれ、ビルやネオンの灯りで明るさが増してきた。
この速さだと、あと五分もしたら目的地に到着するだろうな。
茉理とこのまま別れてしまうのが、なんとなく名残惜しい気がした。
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