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佐野さんとの別れ
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*彩矢*
莉子ちゃんに会うのは、なん年ぶりなのだろう。
「あら、彩矢、 具合はもう良くなったの?」
今までの経緯など、すでに忘れてしまったかのように、あっけらかんと言う莉子ちゃん。
潤一と未だに続いていたのだと思い、呆れるとともに、莉子ちゃんの目立った大きなお腹に愕然とする。
「…………」
言葉を失って呆然としていると、
「突っ立ってないであがりなさいよ。悠李! あんたのママが迎えに来たよ~!」
そう言って客用のスリッパを出した。
「えっ、ママ? ママが来たの?」
奥から声が聞こえて、ドタドタと走って来る悠李がみえた。
「悠李!」
「ママー!」
胸に飛び込んで来た悠李を抱きしめた。
「ごめんね、悠李、ごめん……」
ーーやっと会えた。
元気な悠李を見て安心し、涙が溢れる。
「な~に? たったの三日で涙のご対面? そんなものなのかなぁ、私にはまだわかんないけどさ。とにかく、あがったら? お茶くらい飲んでいきなさいよ、ふぅ!」
コットンの涼しげなマタニティードレスを着た莉子ちゃんは肩で息をついた。
本当にあがっていいものかどうか迷う。
「悠李ママの顔を描いてたの。みて、みて」
悠李が手をひっぱるので、スリッパを履いてリビングへ入る。
十畳ほどの狭いリビングダイニング。
色に統一感のないインテリアだけれど、すっきりと片付いている部屋は、塵のひとつもないほどに清潔感が漂っていた。
そういえば莉子ちゃんはとても潔癖症だった。
「適当なとこに座ってて。アイスコーヒーがいい? それとも麦茶?」
「あ、なにも、、すぐに帰りますから」
窓の向こうに豊平川の河川敷が見えた。夕暮れの川はうす暗いオレンジ色に染まってキラキラしていた。
麦茶をテーブルにおいて、莉子ちゃんは突き出たお腹に手を当てながら、ソファにどさりと腰をおろした。
「ふーっ、毎日、暑くて死にそう。妊婦って大変だね~」
そう言ってひたいの汗をぬぐった。
クーラーもなく西日が射すこの部屋は、琴似のマンションよりもかなり暑かった。
「悠李、元気で安心しました。大変なときにお世話になってごめんなさい」
莉子ちゃんに頭を下げた。
「ううん、もっといてくれても良かったの。時給二千円って言うからさ。一日で四万八千円よ~! 一週間くらい頼むって言われてたのにさ、残念。これから出産でしょ。メッチャお金かかるからさ」
「時給って、……だって潤一さんの子なんですよね? なのに、どうして?」
莉子ちゃんの顔を見られず、うつむきながら恐る恐る尋ねる。
「はぁ、なにそれ? 潤一になんて、別れて以来会ってなかったよ。突然電話なんか寄こして子供みてくれって言われてさ、びっくりしちゃった」
「えっ、じゃあ、誰の子供なんですか?」
「誰って、宏くんの子だよ。結婚したって言ってないから分からないか。潤一と別れて宏くんのとこに戻ったの。莉子にはやっぱり宏くんの方が合ってた。……病院で見る潤一は本当にかっこよくて憧れてたけどさ、一緒に暮らすのはちょっと無理だった、、ほとんど家になんかいないし。彩矢はその後うまくいってる?」
まだ真実を全て莉子ちゃんに打ち明ける気持ちにはなれなかった。
「うまくはいってないかな、、わたしも離婚するかも知れない」
「そっか、まぁ、わかるけどね。潤一は悪い人ではないんだけどさ。憎めないし、仕事もできるし。ああいう旦那がいいって人もたくさんいるのかも知れないけどね」
「予定日はいつなんですか?」
「十月のあたま。宏くん、すごく楽しみにしてるんだ。宏くんには本当に悪いことしちゃったからさ、莉子。今度は宏くんのこと、ちゃんと幸せにしてあげようって思ってるの」
「宏樹さん、優しいですもんね。いいパパになりそう」
「ママ、見て! ママの顔描けたよー!」
まるで宇宙人のような顔をしている絵を見て、吹き出しそうになる。
「わ~ すごく可愛くかけてる。悠李、ありがとう」
「悠李はすごくお利口さんだったよ。最初の日はママ~って泣いてたけどね。ママは病気だから、治ったらすぐな迎えにくるから、いい子にして待ってようねって。ねぇ、悠李!」
「うん、悠李、お利口にしてた。莉子ちゃんがイチゴのかき氷作ってくれた」
「もっと、美味しいものだって作ってあげたじゃないの~」
莉子ちゃんは少し不満げに口をとがらせた。
「莉子ちゃん、本当にありがとう。実は潤一さんと色々あって、悠李を隠されてたの。だから、どこにいるのかが分からなくて、ずっと心配で、夜もよく寝られなくて。よかった、悠李こんなに良くしてもらってて」
「え~っ、そうだったの。ふ~ん、なにがあったか知らないけど、相当怒らせたわけね。でも、三日ですんでよかったね。……私も彩矢には悪いことしたって思っててさ、その罪滅ぼしじゃないけど、だから、悠李とはいっぱい遊んだよ」
「ありがとう、莉子ちゃん。悠李、じゃあ、そろそろ帰ろう。バァバも心配しているから」
「うん、バァバのうちに行く」
悠李はドタドタと玄関に走っていった。
「じゃあ、悠李、またね。赤ちゃん産まれたら見にきてね」
莉子ちゃんが悠李に握手をして言った。
手を振る悠李を、お腹の大きい莉子ちゃんが、わざわざ見送りに出てきてくれた。
「莉子ちゃん、バイバイ!」
クーラーなんかなくても、狭い市営住宅でも、莉子ちゃんとっても幸せそうだった。
潤一とはやはり離婚になるのだろうな。
車を運転しながら、今後のことを考える。
潤一は悠李が実の子供であろうとなかろうと、あのようにしか関わることの出来ない父親なのだろう。
雪花のことだって可愛がりはするものの、自分の仕事や、やりたいことまでを犠牲にしたりはしない。
元々がマイホームパパではないということだ。
だから、あれでも自分では十分に悠李を可愛がってあげていたつもりで、あれ以上のことは実の子供にさえもしてあげられない父親なのだろう。
潤一なりに我慢をして、悠李を可愛がってくれていた。
本当にそう思う。
そんな潤一に、私はひどい裏切り方をしてしまったのだ。
誤解はあるとはいえ、弁解はできない。
佐野さんに未練があったのだから。
いくら寂しかったからって、写真をあげたり、LINEを交換なんて本当はすべきではなかった。
悠李に口止めしなければいけないようなことを、実際にしていたのだから。
潤一さんが離婚をしたいのならそれでもいい。
だけど、親権を渡さないって、そんな……。
ひどく傷つけてしまった潤一とはこれ以上、争いたくはないけれど。
実家に帰ると母が雪花をおぶって挽肉をこねていた。
「あら、悠ちゃん、やっと帰ってきた。バァバ、きっと帰ってくると思って悠ちゃんが好きなハンバーグを作ってたのよ」
「わーい! ハンバーグ!」
夕食を食べさせ、悠李と雪花をお風呂に入れる。父も帰ってきて、食後は悠李の遊び相手にされていた。
離婚となると両親にもまた心配をかけることになる。
最近、白髪が増えた父の頭を見て切ない気持ちになった。
うちの両親は、裏表のない潤一の開けっぴろげな性格を気に入っていた。
結婚の経緯にはかなり問題があったとはいえ、娘の夫が医師であることには誇らしささえ感じているようだ。
また離婚をすると言ったら、なんと思うのだろう。
父と一緒にLEGOで遊んでいた悠李があくびをした。
「悠李、疲れたね。もう寝よう」
リビングに続く和室に連れて行き、敷かれた布団へ寝かしつける。
絵本の一冊も読み終えないうちに、悠李は寝息をたて始めた。
タオルケットをかけて悠李の寝顔を見つめ、一緒にいられることの幸せを感じた。
昨日までの三日間の苦しみを考えると、こんな当たり前のことが、こんなにも有り難く幸せなことだったなんて。
母と歌番組などを見ていたら、寝不足気味だったので疲れを感じた。
歯を磨き、パジャマに着替えて悠李の隣に布団を敷く。
佐野さんに知らせていなかったことにふと気づき、LINEで報告する。
返信ではなく、通話の着信に驚く。
声を聞いたら逢いたくなった。
潤一をあんなに傷つけておきながら………。
でも、もう逢えないなんて。
これで本当に最後にするから。
佐野さんにだって、最後に悠李とお別れをさせてあげたいから。
マンションの駐車場で会う約束して、パジャマから洋服に着替えた。
「ちょっと、マンションに着替えを取りに行ってくるね」
寝ている悠李を抱っこして、テレビドラマを見ていた母にそう伝える。
「えっ、これから? 悠ちゃんを連れて? もう遅いじゃないの。明日じゃダメなの?」
「うん、潤一さんが悠李に逢いたいって言ってて……」
「自分で隠していたくせに、こんな夜になってから逢いたいだなんて、相変わらず勝手ね!」
「着替えを取ったらすぐに帰ってくるから」
憤慨している母を無視して、玄関に向かって歩きだすと、母が手伝ってドアを開けてくれた。
「悠ちゃん、せっかく気持ちよく寝てるのに。気をつけて行ってらっしゃいよ」
車のドアも開けてくれて、悠李をチャイルドシートに寝かせた。
「じゃあ、ちょっと行ってきます」
車の中が少し暑かったけれど、エアコンはやめて窓を少しだけ開けた。
生温かい風と、きりぎりすの鳴く声がが入ってきた。
佐野さんに逢えると思うだけで、胸が高鳴る。
だけど、……今日でお別れにしよう。
潤一は、あと一ヶ月でロスへ行ってしまうというのに、さほど寂しさを感じない。いつも放って置かれているからかも知れない。
マンションには時々、帰っているのだろうか。着替えなんかはどうしているのかな。
ロスでの一人暮らしを思うと、かわいそうな気もしてくるけれど。メイドでも雇うのかも知れない。
あれこれ考えていたら、マンションの駐車場に着いた。
佐野さんがもう到着していて、こっちに向かってきた。
佐野さんは悠李に逢いにきたのだ。
私ではなく悠李に。
そう、佐野さんが逢いたいのは悠李だけ。
私にはもうなんの未練もなくて、有紀だけを愛している。
佐野さんが潤一のように、同時に何人もの女性を好きにはなれない人だということが、今は寂しかった。
寝ている悠李を佐野さんに頼んで、マンションへ向かった。
やはり、潤一は帰ってなかった。浮気をしているのかも知れない。チャンスさえあれば、なんのためらいもなく浮気をする人なのだから。
クローゼットから着替えを取り出し、お気に入りのおもちゃも少し紙袋に入れてマンションを出た。
車に戻ると、佐野さんが悠李の手を握って、泣いているように見えた。
有紀と潤一には確かに悪いことをしたと思う。だけど、不思議と後悔はない。
悠李はあまりに小さくて、佐野さんのことなど忘れてしまうだろうけれど、佐野さんは悠李のことを決して忘れないと思った。
短い間だったけれど、本当の親子みたいに遊んでくれて、そんな二人を見ることができて幸せだった。
だから、だから、もうこれでおしまい。
佐野さん、ありがとう。
寂しく車から降りた佐野さんに、別れを告げた。
莉子ちゃんに会うのは、なん年ぶりなのだろう。
「あら、彩矢、 具合はもう良くなったの?」
今までの経緯など、すでに忘れてしまったかのように、あっけらかんと言う莉子ちゃん。
潤一と未だに続いていたのだと思い、呆れるとともに、莉子ちゃんの目立った大きなお腹に愕然とする。
「…………」
言葉を失って呆然としていると、
「突っ立ってないであがりなさいよ。悠李! あんたのママが迎えに来たよ~!」
そう言って客用のスリッパを出した。
「えっ、ママ? ママが来たの?」
奥から声が聞こえて、ドタドタと走って来る悠李がみえた。
「悠李!」
「ママー!」
胸に飛び込んで来た悠李を抱きしめた。
「ごめんね、悠李、ごめん……」
ーーやっと会えた。
元気な悠李を見て安心し、涙が溢れる。
「な~に? たったの三日で涙のご対面? そんなものなのかなぁ、私にはまだわかんないけどさ。とにかく、あがったら? お茶くらい飲んでいきなさいよ、ふぅ!」
コットンの涼しげなマタニティードレスを着た莉子ちゃんは肩で息をついた。
本当にあがっていいものかどうか迷う。
「悠李ママの顔を描いてたの。みて、みて」
悠李が手をひっぱるので、スリッパを履いてリビングへ入る。
十畳ほどの狭いリビングダイニング。
色に統一感のないインテリアだけれど、すっきりと片付いている部屋は、塵のひとつもないほどに清潔感が漂っていた。
そういえば莉子ちゃんはとても潔癖症だった。
「適当なとこに座ってて。アイスコーヒーがいい? それとも麦茶?」
「あ、なにも、、すぐに帰りますから」
窓の向こうに豊平川の河川敷が見えた。夕暮れの川はうす暗いオレンジ色に染まってキラキラしていた。
麦茶をテーブルにおいて、莉子ちゃんは突き出たお腹に手を当てながら、ソファにどさりと腰をおろした。
「ふーっ、毎日、暑くて死にそう。妊婦って大変だね~」
そう言ってひたいの汗をぬぐった。
クーラーもなく西日が射すこの部屋は、琴似のマンションよりもかなり暑かった。
「悠李、元気で安心しました。大変なときにお世話になってごめんなさい」
莉子ちゃんに頭を下げた。
「ううん、もっといてくれても良かったの。時給二千円って言うからさ。一日で四万八千円よ~! 一週間くらい頼むって言われてたのにさ、残念。これから出産でしょ。メッチャお金かかるからさ」
「時給って、……だって潤一さんの子なんですよね? なのに、どうして?」
莉子ちゃんの顔を見られず、うつむきながら恐る恐る尋ねる。
「はぁ、なにそれ? 潤一になんて、別れて以来会ってなかったよ。突然電話なんか寄こして子供みてくれって言われてさ、びっくりしちゃった」
「えっ、じゃあ、誰の子供なんですか?」
「誰って、宏くんの子だよ。結婚したって言ってないから分からないか。潤一と別れて宏くんのとこに戻ったの。莉子にはやっぱり宏くんの方が合ってた。……病院で見る潤一は本当にかっこよくて憧れてたけどさ、一緒に暮らすのはちょっと無理だった、、ほとんど家になんかいないし。彩矢はその後うまくいってる?」
まだ真実を全て莉子ちゃんに打ち明ける気持ちにはなれなかった。
「うまくはいってないかな、、わたしも離婚するかも知れない」
「そっか、まぁ、わかるけどね。潤一は悪い人ではないんだけどさ。憎めないし、仕事もできるし。ああいう旦那がいいって人もたくさんいるのかも知れないけどね」
「予定日はいつなんですか?」
「十月のあたま。宏くん、すごく楽しみにしてるんだ。宏くんには本当に悪いことしちゃったからさ、莉子。今度は宏くんのこと、ちゃんと幸せにしてあげようって思ってるの」
「宏樹さん、優しいですもんね。いいパパになりそう」
「ママ、見て! ママの顔描けたよー!」
まるで宇宙人のような顔をしている絵を見て、吹き出しそうになる。
「わ~ すごく可愛くかけてる。悠李、ありがとう」
「悠李はすごくお利口さんだったよ。最初の日はママ~って泣いてたけどね。ママは病気だから、治ったらすぐな迎えにくるから、いい子にして待ってようねって。ねぇ、悠李!」
「うん、悠李、お利口にしてた。莉子ちゃんがイチゴのかき氷作ってくれた」
「もっと、美味しいものだって作ってあげたじゃないの~」
莉子ちゃんは少し不満げに口をとがらせた。
「莉子ちゃん、本当にありがとう。実は潤一さんと色々あって、悠李を隠されてたの。だから、どこにいるのかが分からなくて、ずっと心配で、夜もよく寝られなくて。よかった、悠李こんなに良くしてもらってて」
「え~っ、そうだったの。ふ~ん、なにがあったか知らないけど、相当怒らせたわけね。でも、三日ですんでよかったね。……私も彩矢には悪いことしたって思っててさ、その罪滅ぼしじゃないけど、だから、悠李とはいっぱい遊んだよ」
「ありがとう、莉子ちゃん。悠李、じゃあ、そろそろ帰ろう。バァバも心配しているから」
「うん、バァバのうちに行く」
悠李はドタドタと玄関に走っていった。
「じゃあ、悠李、またね。赤ちゃん産まれたら見にきてね」
莉子ちゃんが悠李に握手をして言った。
手を振る悠李を、お腹の大きい莉子ちゃんが、わざわざ見送りに出てきてくれた。
「莉子ちゃん、バイバイ!」
クーラーなんかなくても、狭い市営住宅でも、莉子ちゃんとっても幸せそうだった。
潤一とはやはり離婚になるのだろうな。
車を運転しながら、今後のことを考える。
潤一は悠李が実の子供であろうとなかろうと、あのようにしか関わることの出来ない父親なのだろう。
雪花のことだって可愛がりはするものの、自分の仕事や、やりたいことまでを犠牲にしたりはしない。
元々がマイホームパパではないということだ。
だから、あれでも自分では十分に悠李を可愛がってあげていたつもりで、あれ以上のことは実の子供にさえもしてあげられない父親なのだろう。
潤一なりに我慢をして、悠李を可愛がってくれていた。
本当にそう思う。
そんな潤一に、私はひどい裏切り方をしてしまったのだ。
誤解はあるとはいえ、弁解はできない。
佐野さんに未練があったのだから。
いくら寂しかったからって、写真をあげたり、LINEを交換なんて本当はすべきではなかった。
悠李に口止めしなければいけないようなことを、実際にしていたのだから。
潤一さんが離婚をしたいのならそれでもいい。
だけど、親権を渡さないって、そんな……。
ひどく傷つけてしまった潤一とはこれ以上、争いたくはないけれど。
実家に帰ると母が雪花をおぶって挽肉をこねていた。
「あら、悠ちゃん、やっと帰ってきた。バァバ、きっと帰ってくると思って悠ちゃんが好きなハンバーグを作ってたのよ」
「わーい! ハンバーグ!」
夕食を食べさせ、悠李と雪花をお風呂に入れる。父も帰ってきて、食後は悠李の遊び相手にされていた。
離婚となると両親にもまた心配をかけることになる。
最近、白髪が増えた父の頭を見て切ない気持ちになった。
うちの両親は、裏表のない潤一の開けっぴろげな性格を気に入っていた。
結婚の経緯にはかなり問題があったとはいえ、娘の夫が医師であることには誇らしささえ感じているようだ。
また離婚をすると言ったら、なんと思うのだろう。
父と一緒にLEGOで遊んでいた悠李があくびをした。
「悠李、疲れたね。もう寝よう」
リビングに続く和室に連れて行き、敷かれた布団へ寝かしつける。
絵本の一冊も読み終えないうちに、悠李は寝息をたて始めた。
タオルケットをかけて悠李の寝顔を見つめ、一緒にいられることの幸せを感じた。
昨日までの三日間の苦しみを考えると、こんな当たり前のことが、こんなにも有り難く幸せなことだったなんて。
母と歌番組などを見ていたら、寝不足気味だったので疲れを感じた。
歯を磨き、パジャマに着替えて悠李の隣に布団を敷く。
佐野さんに知らせていなかったことにふと気づき、LINEで報告する。
返信ではなく、通話の着信に驚く。
声を聞いたら逢いたくなった。
潤一をあんなに傷つけておきながら………。
でも、もう逢えないなんて。
これで本当に最後にするから。
佐野さんにだって、最後に悠李とお別れをさせてあげたいから。
マンションの駐車場で会う約束して、パジャマから洋服に着替えた。
「ちょっと、マンションに着替えを取りに行ってくるね」
寝ている悠李を抱っこして、テレビドラマを見ていた母にそう伝える。
「えっ、これから? 悠ちゃんを連れて? もう遅いじゃないの。明日じゃダメなの?」
「うん、潤一さんが悠李に逢いたいって言ってて……」
「自分で隠していたくせに、こんな夜になってから逢いたいだなんて、相変わらず勝手ね!」
「着替えを取ったらすぐに帰ってくるから」
憤慨している母を無視して、玄関に向かって歩きだすと、母が手伝ってドアを開けてくれた。
「悠ちゃん、せっかく気持ちよく寝てるのに。気をつけて行ってらっしゃいよ」
車のドアも開けてくれて、悠李をチャイルドシートに寝かせた。
「じゃあ、ちょっと行ってきます」
車の中が少し暑かったけれど、エアコンはやめて窓を少しだけ開けた。
生温かい風と、きりぎりすの鳴く声がが入ってきた。
佐野さんに逢えると思うだけで、胸が高鳴る。
だけど、……今日でお別れにしよう。
潤一は、あと一ヶ月でロスへ行ってしまうというのに、さほど寂しさを感じない。いつも放って置かれているからかも知れない。
マンションには時々、帰っているのだろうか。着替えなんかはどうしているのかな。
ロスでの一人暮らしを思うと、かわいそうな気もしてくるけれど。メイドでも雇うのかも知れない。
あれこれ考えていたら、マンションの駐車場に着いた。
佐野さんがもう到着していて、こっちに向かってきた。
佐野さんは悠李に逢いにきたのだ。
私ではなく悠李に。
そう、佐野さんが逢いたいのは悠李だけ。
私にはもうなんの未練もなくて、有紀だけを愛している。
佐野さんが潤一のように、同時に何人もの女性を好きにはなれない人だということが、今は寂しかった。
寝ている悠李を佐野さんに頼んで、マンションへ向かった。
やはり、潤一は帰ってなかった。浮気をしているのかも知れない。チャンスさえあれば、なんのためらいもなく浮気をする人なのだから。
クローゼットから着替えを取り出し、お気に入りのおもちゃも少し紙袋に入れてマンションを出た。
車に戻ると、佐野さんが悠李の手を握って、泣いているように見えた。
有紀と潤一には確かに悪いことをしたと思う。だけど、不思議と後悔はない。
悠李はあまりに小さくて、佐野さんのことなど忘れてしまうだろうけれど、佐野さんは悠李のことを決して忘れないと思った。
短い間だったけれど、本当の親子みたいに遊んでくれて、そんな二人を見ることができて幸せだった。
だから、だから、もうこれでおしまい。
佐野さん、ありがとう。
寂しく車から降りた佐野さんに、別れを告げた。
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