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38.想い人とは

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「陛下、私、ルーベンスがご挨拶に参りました」



父の深々とした礼に応えるように、王座に座る陛下は威厳ある微笑みを浮かべる。



「おお、侯爵。よく来た。ヴィンセントとエルミーヌも息災だったか? そして、公爵の隣にいるのは…クルーズ伯爵だな」


その一言に、伯爵は、大げさに感激の声を上げる。


「陛下! 一介の伯爵である私の名前を覚えていてくださるとは、光栄の極みでございます! 実はその光栄ついでと言いますか、このたび、王太子殿下の元婚約者であるエルミーヌ嬢と婚約する運びとなりまして――僭越ながら、これも何かの縁だと思っております!」


その高い声がホールに響き渡り、周囲の視線が私たちに集まる。

恥ずかしさで耳が熱くなるのを感じながら、内心で小さく息を吐いた。



「婚約とな?」


陛下の厳かな声が、伯爵の言葉を遮る。


「ええ、もう侯爵とは話を詰めておりまして、あとは陛下の許可をいただくだけで――」



「なるほど。エルミーヌ、君は伯爵を選んだということかね?」



鋭い視線を向けられ、私は即座に答える。



「いいえ」


きっぱりと答えた私の声が、ホールの静寂に響く。お父様が血相を変えて大声を上げた。



「エルミーヌ!!」


その怒鳴り声に私は一瞬怯むが、陛下が静かに続ける。



「それであれば、許可は出せん。侯爵家にはまだ王命が届いていなかったか? エルミーヌとシャルロットの婚約者については、彼女ら自身が選ぶようにと既に王命を出している」



その言葉に父は明らかに狼狽し、動揺を隠せない。ああ、陛下はわざと父にこの話を届けていなかったのね。



「な、なぜそんなことが!」



父が取り乱す中、陛下が言葉を続けた。


「モンフォール公爵に提案されてな。いずれは、義理の娘になる予定だった者たちだ。せめてもの詫び、そして娘たちへの親心。そうは思わんか?」



「っ! しかし、エルミーヌ嬢は世間的には傷物です!  簡単に婚約者を見つけられるとは思えません。それゆえ――」



大した傷ではありませんのに…。





「ほぅ、侯爵。邸には、若い令息たちからの申し込みが殺到していると聞いているが?」


陛下が、お父様の言葉にかぶせるように言った。


――申し込み? 初耳ですけれど。



「み、身分が低い者が大半で。そうであれば、娘を嫁に出すわけにはいかないのです。私の親心をお察しください、陛下」



お父様が芝居がかった口調で言う。親心――それはどこかに置き忘れてきたのではなかったのかしら?



ヴィンセント様が一歩前へ出る。


「身分が問題か。なるほど。それならば、私ならどうだろう? ぜひ私も婚約者として名乗りを上げたい。公爵令息の私では身分不足というはないだろう」



――? ヴィンセント様?


私が驚きで言葉を失っている間に、お父様が不快感を隠しきれない声を上げる。



「はは、ご冗談を。モンフォール公爵令息は、美しい令嬢たちとの噂が絶えないではないですか。エルミーヌなど――」


「なんと、父であるあなたがエルミーヌの良さを分かっていないとは! それに、私の噂は、想い人と結ばれないために起こした愚行の結果だとしたらどうします?」



ヴィンセント様がそう言いながら私に向ける眼差しは、優しく、それでいて何かを含んでいるように見えた。


想い人――? 私?


「侯爵! どういうことだ!」



伯爵が怒声を上げるも、ヴィンセント様は冷静そのものだ。



「お二人とも、陛下の前です。どうかお静かに」



その一言で場が落ち着きを取り戻したかに見えた。そして、陛下が突然話題を変える。



「ああ、よいよい。時に侯爵、尋ねたいことがあるのだが、よいか?」

「え? は、はい、もちろんです。何でございましょう」


お父様は、伯爵からの話を逸らす気満々ね。ああ、伯爵様は、無視されたことが気に食わなかったのか、怒ったままいなくなってしまった。許可なく陛下の前を辞するとは…。ほら、あそこで、我が国の宰相がチェックしてますのに。不敬に問われても知りませんわよ。



「エルミーヌが婚約者だった時に、侯爵は婚約者の費用を借用したな。エルミーヌは婚約者ではなくなったのだから、早急に返済の義務が生じる。この後、財務官長と話をするように」

「ま、待ってください! 借用とは――」

「もらったと言うつもりか? 王家の資金だと知っての発言なら、横領ということになるが?」



お父様が青ざめていくのが分かる。


「…ええ借用です。し、しかし、早急にというのはあまりにも」


「金額が大きいからな。早急でなくてもいいのだが、返済の見込みがないのは困る。財務官長!」


「はい、陛下」


「何やら話が長くなりそうだから、夜会の途中だが、侯爵と別室で話をしてくれ。私へは報告でよい、頼んだぞ」



財務官? いったいどこに控えていたのかしら?



「さあ、ヴィンセント、エルミーヌ。ダンスの時間はまだ始まったばかりだ。楽しんでおいで」

ヴィンセント様が私に手を差し伸べる。その手を取りながら、私は先ほどの言葉の意味を完全に理解できないまま、なんとか淑女の仮面を保つ。





ホールへ向かうその背後で、お父様が消え入りそうな声で何かを弁明しているのが聞こえたが、頭の中は先ほどの言葉でいっぱいだった。




――想い人って、一体誰のことなのかしら?



ホールはすでに、華やかな衣装に身を包んだ貴族たちが音楽に合わせて優雅にステップを踏んでいる。





「エルミーヌ、何か考え込んでいるのかい?」


私を見つめるヴィンセント様の瞳が、ほんの少し心配そうに揺れている。



「いえ…その、先ほどの想い人というお話が気になって…」


口を滑らせたことに気づいた瞬間、頬が熱くなる。ヴィンセント様は驚くどころか、穏やかに微笑んだ。そして、その目は、まっすぐに私だけを見つめている。



その瞬間、音楽が切り替わり、新しい曲が始まった。ヴィンセント様は自然な流れで私を引き寄せる。手を取り、ゆっくりとステップを踏み出した。



「ほら、今はこのダンスを楽しもう。君との初めてのダンスなんだから」



彼のリードに従いながら、私は心がふわりと軽くなるのを感じた。
この時間だけでも、幸せを感じていいのだろうか?
不安や迷いを一旦忘れて、ヴィンセント様と踊ることに集中した。



周囲からは視線を感じたが、それがどうでもよくなっていくのが不思議だった。
音楽が心地よく耳に響き、彼との一歩一歩がまるで永遠に続く夢のように思えた。


***




ダンスが終わり、再び彼の手に導かれてホールの片隅に進むと、彼はふいに立ち止まった。そして静かに私の手を握りしめ、言った。



「エルミーヌ、君が選ぶ相手が誰であっても、君の幸せを心から願い続けるつもりだよ」


心臓が強く打ち、息が詰まりそうになる。想い人はやはり私なのだろうか。
彼の言葉の重みが、私の中に深く染み込む。



「ヴィンセント様…なぜ…?」

「理由を知りたいかい?」



彼は意味深な笑みを浮かべ、私の髪をそっと撫でた。



「エルミーヌ!」

シャルロットが、心配した顔で急いでやって来る。




「大丈夫だった? 侯爵から助けようにも、曲が始まってしまって。お兄様、約束は守ってくれたのでしょうね」

「当然だ。心配するな」


ほっとしたようなシャルロットに抱きしめられた。約束って、本当に私のことだったのねと嬉しくなった。





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