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第八章 勇者と堕ちた星読み
しおりを挟む物心ついたときから、星読みの館に居た。星読みとしての生活を教えられ、その通りに暮らした。両親に従い、教主に従い、過ごしてきた。祈りを捧げ、清貧を旨とし、夜は星の加護が得られるようにと祈りを捧げ、早く休んだ。やがて優秀な星読み……北極星(ポラリス)として認められ、父が、母が居なくなってからも、敬虔な星読みの信徒として生きてきた。
けれど……両親と離れ離れになった寂しさからか、元々持っていた好奇心故か、彼の中で外への興味が首を擡げた。外の世界は、どんな場所だろう。星読みでない人々の暮らしとはどういったものなのだろうか。夜に明かりが消えない街があるというのは本当だろうか。
いけないことだと知りながら、経験な信徒であった少年は外の世界を知ろうとした。皆が寝静まった頃に恐る恐る館を抜け出した。拍子抜けな程簡単に出来てしまったことに戸惑いながら彼は結局街を出ることは出来なかった。外に出ようと思えばいつでも出来てしまうのだ、と言う想いと、星読みの信徒としての職務を放り出してはならないという想いで、それ以上足を進めることが出来なくなったのだ。
何度も何度も、外に出ては館へ戻るということを彼は繰り返した。外に出たい、出たくない。星読みの魔法使いとしての矜持を棄ててしまいたい、否そんなことは赦されない。そんな感情に板挟みになり、悩んでいる内に彼もまた、彼の両親と同じように特別な星読み、ポラリスとなれるだけの力を見出されるようになっていた。星読みとしての戒律を破っているという秘密を抱えたまま。
少し外に出るくらいならば星も赦してくれる。だから少しだけ、ほんの少しだけ、と彼は時折戒律を破り外に出た。そして、熱心に祈りを捧げた。どうか、星読みの魔法使いのままでいられますように、と。半ば怯えるように。
優秀な星読みの信徒としての矜持と一人の人間としての好奇心。その二つが乗った天秤は常に揺れ続けていた。その天秤が大きく傾いたのは、或る二人の旅人の訪れのため。昨今世の中を騒がせている魔王を倒すために旅立ったという勇者たち。彼らとの出会いは、彼の好奇心を大きく成長させた。外がどんな場所か知りたい。彼らと話をしたい。そんな想いで、彼は動いた。……動いてしまったのだ。
***
最近は日常となりつつあった、勇者たちとの夜の散歩を終え、部屋に戻ろうとしたとき、その部屋の前に人影を見つけたその瞬間、呼吸が止まったような気がした。決して大柄な訳ではない、けれども強大な力を感じさせる存在……星読教の教主である男性は静かな表情で夜間外出をしていたユスティニアを見つめていた。
「教主、様」
掠れた声で紡げたのはそれだけ。弁明の言葉など、出てくるはずがなかった。ずっと、ずっと、これは誤りだと知っていたのだから。足ががくがくと震える。叱られる寸前の子供のように俯く彼に歩み寄って、教主の男性……ラースは厳かな声で言った。
「ユスティニア、今私の目の前で魔法を使ってみなさい」
出来ますか、という言葉は問いかけの形をしてこそいたが、命令に近い強さを持っていた。その言葉に頷いて、ユスティニアは手を伸ばす。その指先は、微かに震えていた。
「……スティラ・ポラリス」
震える声で紡いだ呪文。何度も何度も呟いたそれは間違ってなどいないはずなのに、手の上に灯る光は、まるで消えかけの蝋燭の炎のように頼りない。それを見て眉を寄せた教主は低い声で言う。
「光が弱いようですね、もう一度」
そう言われたユスティニアはびくりと肩を跳ねさせた。それから、一度深く深呼吸をして、もう一度呪文を紡ぐ。
「スティラ・ポラリス……っ」
震える声に同調するように、その光は揺れる。そして、ふつりと消えてしまった。
「……っ」
どうしてそうなったのかは、誰よりもユスティニアが良く知っている。嗚呼、ついに、と思う。ついに、星に見放されてしまったのだ、と。
幼い頃、ユスティニアは教主に問うたことがあった。何故自分たちは戒律を守らなければならないのか、と。純粋な好奇心から来た質問に、教主は答えた。
自分たち星読みの魔法使いは星に祈りを捧げることによって他の人間より強い魔法を使える。しかしその戒律を破れば星から見捨てられてしまい、力を失ってしまう。そうなってしまえば、祈りと治癒の力しか持たない自分たちは獣や穢れた人間の居る世界で生き残れなくなってしまうだろう。だから、星に祈りを捧げなければならない。星に見捨てられることがないように励まなければならないのだと、教主はそう答えたのだ。
自分は、その戒律を破り続けた。眠らなければならない夜に出かけ、"穢れ"である外の人間と触れ合ってしまった。星についに、見捨てられてしまったのだ。
……リオニス達に近づいたことに後悔はない。彼らと親しくならなければ良かったという想いはない。彼らを恨むことなんて、当然ない。けれど……取り返しのつかないことをしてしまったのだという絶望感は、どうしてもあって。
「私が気づいていないと思っていましたか」
冷ややかな声で、教主は言う。いつの間にか自分が座りこんでしまっていることに気が付いたのはその声が頭上から聞こえてきたからだった。
「残念です。貴方はポラリスになることが出来る素質を持っていたというのに」
溜息。冷たい声。今まで一度もぶつけられたことのないそれを受け、ユスティニアは体を縮めた。そのまま、教主が紡ぐであろう最後の言葉を想像しながら、雨に濡れた捨て猫のように体を震わせることしか出来なかった。
「星に見捨てられた貴方に与える罰はただ一つです。他の星読みのためです。……わかりますね?」
紡がれた冷たく残酷なその言葉にユスティニアは深々と項垂れた。その頬の一筋伝い落ちていく涙を拭うものは当然なかった。
***
穏やかな朝陽が差し込む部屋。いつも通り、今日の任務を聞くために、リオニスとシュライクとは教主の部屋を訪れていた。穏やかに微笑んだ教主は二人に向かって深々と頭を下げ、言葉を紡いだ。
「リオニス様、シュライク様、これまでありがとうございました。この辺りの魔獣もすっかり居なくなり、街の皆も感謝しています」
そう言われてリオニスは頷いて見せる。
「えぇ。今日の北の森の討伐でひと段落するのでそろそろ発とうと思っていました」
星読みの街周辺の魔獣の討伐は殆ど終わった。これで暫くは心配いらない、と言う状況になったため、そろそろ旅立とうと思っていた。それにあたって、治癒術師で誰か一緒に来てくれそうな人が居ないか、と教主に問おうと思ってリオニスは彼の方を見る。しかしリオニスが口を開くより早く、部屋の中を見渡していたシュライクが彼に問いかけた。
「……なぁ、ユスティは?」
部屋の中にいつも共に魔獣の討伐に赴いてくれていた魔法使いの姿がない。いつもならば此処で待機していて、任務内容を聞いた後そのまま共に任務に赴くというのに。
確かに、とリオニスは顔を上げ、教主を見る。彼は痛ましげに顔を歪めた後、そっと溜息を吐き出して、言った。
「彼はもう此処に来ません。彼は戒律を破り、貴方がたと親しくなった。そのために星に見捨てられてしまいましたので」
その言葉に、二人は驚愕の表情を浮かべる。その言葉の意味を理解できない程鈍感な訳ではない。それでも、納得はいかなくて。
「ユスティは悪くない、俺たちが頼んで……!」
そうリオニスは言う。戒律のことは知っていた。それなのにユスティニアに積極的に接触し、親しくなったのは自分たちだ。罰されるならば自分たちの方だ、とリオニスは言う。しかしその言葉にラースは緩く首を振った。
「確かにそうかもしれません。しかし誘惑を断ち切れず、戒律を破ったことは確かです」
冷静な彼の言葉にリオニス達への怒りや棘はなかった。あくまでも、星読みの信徒でありながら戒律を破り、旅人たちと親しくなるという過ちを犯したユスティニアが悪い、と彼は毅然とした態度で言うのだ。
「彼は戒律を破り、星の力を失いました。ポラリスとしての資格もなく、信徒として堕落してしまったのです。
このままでは星読み全てが星から見放されてしまう。戒律を破った者は罰さなければならないのです」
それが規則なのだ、とラースは言う。罰、と言う言葉にシュライクは体を強張らせた。
「罰、って」
掠れた声での問いに、ラースは顔を歪めた。それから目を伏せ、そっと溜息を吐き出すと……
「彼は祈りを捧げた後、火刑に処されます」
そう、告げた。
「な!?」
「厳しすぎないか!?」
二人はそう声を上げる。この館に宿泊をするときに確かに様々な戒律を教え込まれ、それを破れば罰を受けるとも聞いてはいた。あくまでそれはこの館で暮らす者に限られますけどね、と言う言葉故に深く考えてはいなかったが……その罰が、そんなにも重い物とは考えもしなかったのだ。
ラースは深々と溜息を吐き出す。そして、旅人二人を見据え、淡々とした口調で言った。
「彼をはじめとする信徒には初めから告げてあることです。星を裏切ることは許されない、と彼は知っていたはずです。それなのに彼は戒律を破り続けた。その結果、星から完全に見放されてしまったのです」
その言葉から、ユスティニアが規則を破っていたこと……夜間に外出していたこと、リオニスやシュライクと親しくなっていたことにラースは少なからず気が付いていたらしいことを知った。
何故、やめた方が良いと止めてやらなかったのか、と一瞬考えて、すぐに脳内で首を振る。例え……こうなると知っていても自分やシュライクは、彼と親しくならずにはいられなかっただろう。もしこうなる未来を避けようと思うなら一番初めに彼が部屋に来た時に突っぱねるべきだった。今更後悔しても遅いけれど。
「でも、流石に厳しすぎる、のでは」
彼が戒律を破ったのは事実だが、それは命を持って償わなければならない程の罪なのか、とリオニスは問う。シュライクも横で頷いて、縋るような視線をラースに向ける。ラースは緩く首を振ると、答えた。
「星に見放された魔法使いをそのままにすることは、星読みたち全てを危険に晒します。星読みたち全てが見放される訳にはいかない。だから星に見放された、戒律を破った者を適切に罰することで他の星読みたちは星に赦しを請うのですよ」
そういう仕来りなのだと言われてしまえば部外者であるリオニスたちには何も言えない。弁解のしようもなく、二人はただ拳を握り俯くことしかできなかった。そんな二人を見つめ、ラースはそっと息を吐くと、彼らから視線を外した。
「……最後に挨拶をすることくらいは許可しましょう。刑の執行は本日の深夜ですので」
***
二人は星読みの信徒の一人にユスティニアが収監されている地下牢に案内された。見張りが付くかと思ったが、その信徒はユスティニアの二の舞になるのを恐れてか、一度二人に礼をするとあっさりと離れていった。
ユスティニアは冷たい牢の中で、胸の前で手を組み、祈りを捧げているようだった。泣いている様子も嘆いている様子もない。極々普通、いつも通りの彼のように見えた。
「ユスティ!」
そうリオニスが呼ぶと、彼は顔を上げた。そして二人の姿を見るとふわりと花が綻ぶように笑った。
「リオニス、シュライク」
来てくださったのですね、と言った彼は牢の入り口の方へ歩いてくる。じゃらじゃら、と重々しい音が鳴るのを見てそちらを見れば、彼の細い足首には鈍く光る鎖付きの足枷がはめられていた。それを見てシュライクは顔を歪めた。
「ごめん、俺たちの所為で、こんな……」
シュライクはそう言って俯く。固く握った拳からぽたりと血が滴る。彼はリオニス以上にユスティニアと親しくしていた。彼の誘いにいつも嬉しそうに乗り、彼にせがまれた話を迷いなくしていた。それ故に抱く罪悪感もリオニス以上なのだろう。
しかしそんな彼の顔を見て、ユスティニアは微笑んだままに首を振った。
「気にしないでください、お二人は悪くない。僕が望んでしたことです。いずれこうなることはわかっていたのに」
自分が悪い、と彼は迷いなく言う。胸元に下がったロザリオをしっかりと握りしめて、彼は微笑みながら言った。
「堕ちた星読みとして裁きを受けるのは至極当然のことなのです。祈りの時間を頂けただけ、温情でしょう。そのお陰でこうしてリオニスやシュライクとも話が出来ました」
静かな声でそういう彼は、もう全てを受け入れている表情だった。それを見てぐっと唇を噛んだシュライクは半ば叫ぶような声を上げた。
「なぁ、此処から出て行こうぜ!」
「おいシュライク!」
見張りは居ないにせよ、先刻自分たちを此処まで連れてきたあの信徒には聞こえているかもしれない。そう思いながらリオニスは宥めるようにシュライクの肩を引っ張る。しかし彼は声のトーンを落とすこともせず、言った。
「出て行こう、此処の奴ら警戒心全くないから出来るって! 俺がこんな牢はぶち壊してやるから……そしたら、俺たちと一緒に旅しようぜ!」
そうだ、それが良い! とシュライクは言う。一緒に旅に出よう、仲間として一緒に行こう、と。
……確かに彼ならば、それくらいできるだろう。この牢を歪めるくらいのことは、シュライクの怪力でどうとでもなりそうだ。その後は当然お尋ね者になる訳だが、"外の世界"への接触を極力しないようにしている星読みの館の人々が自分たちを追ってくるとは考えにくい。確かに逃げてしまえば、ユスティニアは助かるのかもしれない、とリオニスは思った。
しかし、ユスティニアはその言葉に頷かない。緩く首を振って、相変わらずに穏やかに微笑んだまま、まるで諭すように言うのだ。
「駄目ですよ、シュライク。僕が逃げたら、星読みの皆が星に見放されてしまうかもしれない。そんなこと、絶対に起こしてはいけないんです。それに……」
そこで一度言葉を切った彼は目を伏せる。それから自分の掌をじっと見つめ、呟くような声で言った。
「外に出たところで意味がありません。
僕はもう魔法を使えない。例え外に出たところで貴方たちの役には立てないんです」
そう言った彼は小さな声でいつも彼がシュライクやリオニスを守るために紡いでくれていた魔法の呪文を呟く。しかし、彼の手に灯るのは蛍火のように弱弱しいもので、すぐに吹き消したように消えてしまった。いつも彼が使ってくれていた、優秀な魔法使いとしての力はもうないのだ、と彼は言う。
絶句する二人を見つめ、ユスティニアは少し困ったように笑った。いつも、"秘密ですよ"と言いながら二人と外の世界を見に行っていた時と同じように。
「だから、僕はこの運命を受け入れます」
そう言いながら彼は強く、ロザリオを握りしめた。そして、歌うように、祈るように、優しい声で言った。
「さようならリオニス、シュライク。僕は貴方たちと出会えたこの星の巡り合わせに感謝します」
***
何を言ってもユスティニアを説得することはできないまま、リオニスとシュライクは牢から連れ出された。その信徒にも火刑は厳しすぎるのではないかと問うてみたが、彼もまた緩く首を振るばかりだった。
そのまま、牢へ案内してくれた信徒と共に最後の任務をこなし、館に戻ってくるまでの間にも様々なことを考えたが、どれも碌な案ではなかった。無理矢理ユスティニアを連れ出すことも考えた。牢を壊し、ユスティニアを連れて走れば、恐らく逃げることはできる。お尋ね者になるにしても魔王を倒す勇者の仲間だと言えば許されるかもしれない。しかしそんな無茶な行動はあまりに賭け過ぎるし……何より、無理矢理連れ出すことがユスティニアの心を傷つけることがわかり切っていた。彼は星読みの信徒として戒律を破ったことを悔いていて、他の星読みが星に見捨てられないようにと罰を受けようとしているのだ。そんな彼を強引に連れ出せば、彼の心が壊れてしまうかもしれない。
ならば逆に教主を説得するしかない、と言うのが二人の出した結論だった。火刑と言うのはあまりに重すぎる、何か他に手段はないのか、と。部外者であることは重々承知の上で、無知であるが故の無茶を通せないか、と。
刑の執行は今日の深夜だと言っていた。今ならばまだ間に合う。そう思い、夜も更けた頃、二人は教主の部屋を訪ねた。刑の執行は彼が行うと言っていたから今日は眠らずに起きているはずだ、と。
部屋の前に立った瞬間、シュライクはぴくりと体を跳ねさせた。そして険しい顔をしながら、ドアに耳を付ける。
「シュライク?」
「しっ。リオも、耳澄まして聞いてみろ」
リオニスは怪訝そうに眉を寄せながら、シュライクと同じように扉に耳を当てた。微かに聞こえてきたのは慌てたような教主の声と、低く軽薄な男の声だった。
「どうか、どうかお願いいたします。穢れたポラリスを捧げることなどできません、あれは信徒たちへの見せしめとして火刑に処します、もうこんなことが起きないように、ですから……」
「じゃあ今回の俺への贄はどうするんだ?」
そんなやり取りが聞こえてきて、リオニスは大きく目を見開く。シュライクと視線を合わせると小さく頷いて、こっそりと部屋の扉を薄く開ける。微かに聞こえてくる声が、僅かに大きくなった。
「すぐに新しいポラリスを育てます、ですから……」
「俺はアレが喰いたかったんだ、代わりなぞ要らん」
ドアの隙間から見えるのは、長い黒髪の男に縋りつく無様な教主の姿だった。いつもリオニス達が見てきた威厳は何処にも見受けられない。教主は怯えたような声で、叫ぶ。
「そんな……これまで私は貴方様のために尽くしてきました! 望まれるまま、穢れなき信徒を育て、優れた魔力を持った贄を……!」
「止められる段階で止めなかったアンタの責任だろうが、あのポラリスに反逆されるのが怖くて何も言えなかった臆病者が」
吐き捨てるように男が言う。教主はそんな、と震える声で何やら言葉を紡いでいた。
そんな二人のやり取りを聞いて、リオニスは茫然としていた。ポラリスを捧げる。穢れなき信徒を贄に。そんな言葉たちから想像できる結論は……――
茫然とする二人を他所に、室内での会話は続く。呆れたように深々と溜息を吐き出した男は縋りつく教主を足で蹴り飛ばし、言った。
「契約はこれまでだな、教主様。或いは……」
そこで、一度言葉が途切れる。
「あの穢れたポラリスともう一つオマケをもらうというのは良いな。そこで覗いてる勇者サマとかなぁ!」
そんな言葉と同時、ドアが勢いよく開いて、リオニスは部屋の中に引きずり込まれた。そのまま、床に転がる。強かに体を打ち付けて、彼は小さく呻いた。
「ぐ……っ」
「リオ!」
シュライクも部屋に飛び込んできて、リオニスを庇うように立つ。そんな二人を見つめるのは、漆黒の男。浅黒い肌に鮮やかな金色の瞳が良く目立つ。恐ろしい程美しく、恐ろしい程強い魔力を感じさせるそれを見て、その威圧感に負けぬようにとシュライクはぐっと強く床を踏みしめた。
「どういうことだ、これは!」
吠えるように、シュライクは言う。リオニスは呼吸を整えながら体を起こし、剣を抜く。先刻男に蹴り飛ばされた教主は狼狽して動けずにいる。彼の代わりに、漆黒の男が笑みを浮かべて、答えた。
「どういうことも、こういうことだ!」
そういうと同時、男の背にばさりと大きな翼が開く。漆黒の、大きな翼。人間らしからぬその姿が想像させたのは。
「悪魔……」
文献の中でしか聞いたことがなかった存在だった。漆黒の翼と強い魔力を持ち、人間を堕落させる存在。それを呼び出す手段が書かれた文献も幾らかあったが、その方法と言うのは大体曖昧模糊なもので、眉唾物だと判断する者が多かったはずだ。悪魔と言う存在そのものが想像上のものだ、と言う文献もあるほどだった。
しかし、眼前の男はリオニスの言葉に、笑って拍手をした。
「正解だ、勇者様。本来俺たちはあまり地上世界には来られないんだが今は秩序がハチャメチャになってるお蔭で簡単に出てこられる。俺のような存在を欲した人間が居ればな!」
そう言いながら、男は無様に床に座り込んだままの教主を示し、言った。
「そこの教主様と俺は契約したのさ!
穢れなき信徒を贄に、強い魔力と教主としての権力を、ってな!」
この部屋の中でのやり取りを聞いているときから薄々感じ取ってはいた。星読教などと言う宗教は存在しないのだ、と。しかしまさか、教主が悪魔と契約を交わし、剰え贄として信徒を捧げていたなんて……――
「じゃあ、あの戒律も……」
「そんなもん、俺好みの贄を育てるための方法に決まってんだろ!」
吐き捨てるように、悪魔は言い放つ。いとも簡単に、残酷に、真実を投げつけてくる。
「外の世界に触れなければ人間は穢れない。夜に外に出なければ一層だ。それに俺様が堂々と外に出られるのは夜だからなぁ。教主様とやり取りをするのも、贄を受け取るのも、敬虔な信者共が眠ってる夜にしてしまえば都合が良い、って訳さ!」
そう言った悪魔は舌なめずりをした。そして恍惚とした表情で語る。
「人間にはわからねぇだろうが、穢れていない人間ってのは美味いんだぜ。
それにな、自分が今まで信じてきたものが全て偽りだったと知った時の人間の顔程見ていて楽しい見世物はねぇ!
無様で無力な人間に呼び出されたんだ、それくらいの楽しみは用意してもらわないと、なぁ? 教主様」
揶揄うように、歌うように、悪魔は教主……ラースに言う。びくりと肩を跳ねさせる彼を見て顔を歪めたリオニスは小さく呟いた。
「悪魔と契約なんて、何故そんな真似を……」
「違う、違うのです、勇者様……」
弁明の言葉を紡ごうとする教主を遮り悪魔は叫んだ。
「教えてやろうか勇者の坊ちゃん、宗教ってのは儲かるのさ。なぁ? それに、気持ち悦い。そうだろう? 教主様」
くつくつと笑う悪魔に、ラースは答えない。答えないが、その蒼白な顔が、表情が、答えだった。
朗々と、物語を吟じるように悪魔は語る。愚かな人間との契約を。
元々、男は何も持っていなかった。富も人望も。持っていたのは生まれ育った家から盗み出した一冊の本。悪魔を呼び出す方法が書かれたその本と男が持った果てない欲望から、悪魔は呼び出された。男が悪魔に望んだのは強い権力だったのだ。多くの人間に慕われたい、多くの富を得たい。そんなどうしようもない、弱い弱い人間の欲望。
悪魔はそれに応えた。強い治癒の魔力を持つ人間を何人か選び出し、魔法を使って契約者の男を教主として信じさせ、星読教と言う宗教を創り出した。そこで修行を積めば強い治癒の魔法を使うことが出来るようになる。星を信じ、読めば強い魔法を使うことが出来る。そう触れ回れば、すぐに信徒は集まった。男は望んだ富を、権力を得たのだ。
そして代償に望んだのは穢れなき人間の贄。敬虔な信徒の眼前でその信仰を否定し、絶望させ、喰らうことを望んだ。その贄を育てるための方法……それが、星読教の戒律だった。外の世界の穢れに触れさせず、外に出たいという望みすら持たないように育てた哀れな小鳥たち。その中でも特に優れた魔力を持った者を沈まぬ星、ポラリスと呼び、悪魔への贄として捧げていたのだ。表向きは星の力を得て魔法を使う敬虔な信徒を育てる館として、そして裏では穢れなき哀れな贄を得るための館として、男はこの場所を利用していたのだ。
「少し手助けしてやれば後は皆、偽薬効果って奴でどいつもこいつも信じてくれて楽だったぜ!」
けらけらと嗤う、悪魔。人間は愚かだと、そう嗤う。それを見てぎりっと唇を噛んだシュライクが叫んだ。
「あぁクソ!」
彼は怒りに燃えたネモフィラ色の瞳で悪魔を、教主を睨む。
思い出すのは、あの優しい青年。戒律だから、と自分を律して、それでも抗えない好奇心から自分たちと交流し、そのことへの後悔や恨み言は一つも口に出さず、今はただ罰されるのを待ち祈りを捧げている、優しく敬虔な信徒。彼が信じてきたものが、愚かな人間が悪魔に望み創らせた虚構だったなんて彼が、教主を信じた者が知ったならば、一体何を思うだろう。
「さぁて、ネタバラシも終わったところで……お前たちを先にいただくとするか」
緩く舌なめずりをした悪魔は、歌うような声音でそう言う。全てを語ったということは、この悪魔は自分たちを逃がすつもりがない。それは、リオニス達にもよくわかっていた。……尤も、相手が逃がすつもりがあったとしても、彼らが悪魔を許すつもりがなかった訳だが。
「どいてろ教主様、邪魔だ!!」
強く地面を蹴り、一跳びで悪魔と教主の元へ辿り着いたシュライクは悪魔の横で蹲っていた教主を放り投げる。部屋の奥に転げた愚かな男はそのままブルブルと震えながら、蹲った。シュライクはそのまま、悪魔に向かって飛び掛かる。
「はは、身一つで飛び掛かってくるか! 蛮勇だな!」
そう嗤った悪魔は自分に飛び掛かってきたシュライクの拳をいとも簡単に受け止める。そして緩く口角を上げて、その耳元に囁くように、言った。
「悪魔と戦うのは初めてだろう、覚えておくと良い。近づけば近づく程、魔法はかけやすいってことをな!」
その言葉と同時。掴まれたシュライクの手を伝い、黒い靄のようなものが彼を覆っていく。
「ぐ、う、ぁああ……ッ」
シュライクが苦悶の声を上げる。必死にもがく彼を嘲るように悪魔は彼の拳を握る手に力を込めた。鋭く尖った悪魔の爪が彼の手に食い込み、傷を残す。必死にもがく彼だが、見た目より力があるのか、振り解けずにいる。
「シュライク!」
リオニスは彼の名を呼び、剣を抜き放つと、悪魔に向かって斬りかかった。すると彼はあっさりとシュライクの手を離す。しかしシュライクはそのまま地面に倒れ、苦し気にもがくばかりで、立ち上がれないでいる。彼の体を覆う靄は、まるで彼を侵食するように濃くなっていく。
「挨拶代わりの魔法だってのに、張り合いがねぇな」
ふん、と鼻を鳴らす悪魔。彼は指先に魔力を込め、倒れたままのシュライクに向ける。それを見て顔を歪めたリオニスは強く地面を蹴った。剣を振るい、悪魔に斬りかかる。悪魔はそれを黒い魔力で弾きながら、リオニスを見た。
「相手は俺だ! お前の目的は勇者なんだろう?」
リオニスは悪魔にそう低い声で言い放ち、剣を振った。悪魔はにやりと笑って、リオニスの長髪に乗る。
「良いぜ、思いあがった勇者様を先に喰らってやろうじゃないか」
一先ずは自分に意識を引き付けられた、とリオニスは心の中で安堵の息を吐きながら、ちら、とシュライクに視線を向ける。荒く息を吐いている彼は、まだ立ち上がれそうにない。立ち上がれたとしても戦えるかはわからない。あの至近距離で受けた悪魔の魔法のダメージを軽減する方法をリオニスは知らない。早く、この悪魔を倒さなければ。そして、ユスティニアを迎えに行けば……そう考えた、その時。
「教主、様……?」
じゃらり、と背後で鎖が鳴る音が響いた。
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主人公は男の娘です 基本主人公が自分を表す時は「私」と表現します
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