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予感
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「どうだ。黒板のお祝いアートは仕上がったのか」
威勢のいい声とともに、担任の曽我が教室のドアを開いた。
さすがに、机に座っているのはまずいと思ったのだろう。俊敏に飛び降りた力也が、曽我へ馴れ馴れしい口を開いた。
「たったいま、仕上がったところっす! 先生! いやー、俺ら絵が苦手だから、苦労したよな。な!」
「ほんと、大変だったんだからぁ」
仏頂面を見せて、鈴音が力也のあとに続く。
調子のいいふたりに、呆れた気持ちを持ちながらも、栞は、そっと鈴音の表情をうかがった。誰にでも愛想がいい鈴音だが、それは男子生徒に対してだけだ。曽我を含め、男性教師には案外そっけない。
栞としても、軽いノリで、今回も簡単に自分へ居残りを指名した曽我に対して、いい印象を持っていなかった。これまでの一年間、事あることにいいように使われてきた。
委員長なんて、本当に雑用係だ。内申書に関係なければ、委員長という肩書きなんかに、手を挙げるわけがない。
来年度、大学受験がある最終学年で、曽我が担任にさえ当たらなければそれでいいと、栞は内心考えていた。
曽我は、黒板へ顔を向ける。
そして、高校生のように能天気な声をあげた。
「お、桜の花が満開で卒業らしくて、いいんじゃないか?」
「それじゃあ、もう帰ってもいいっすか?」
「ああ。上出来上出来! おまえたちも早く、帰れ帰れ! そろそろ暗くなってくるから、寄り道するなよ!」
上機嫌で、曽我は口にする。
自分も、神園と食事にいく約束を無理やり取りつけたために、早く生徒を追いだしたい気持ちでいっぱいなのだろう。
曽我がテンション高く手を叩いたときに、教室のドアから神園が顔をのぞかせた。
「あら、すごい。桜がいっぱいね」
教室へ入ってきながら、神園は黒板へ視線を向けてつぶやく。それから、神園は残っていた生徒たちを見回した。その視線が、栞と英二の手の上で止まる。
「先生、上手に描けた? 褒めてくれる?」
媚びを売るように小首をかしげながら、つつっと鈴音は神園へ近寄る。
だが、顔をあげた神園は、黒板の前に立つふたりへ微笑んだ。黒板を仕上げた人物が誰なのか、すぐに気づいたらしい。
「ありがとう。これで明日は、三年一組の卒業生も喜んでくれるわね」
低く小さな声だ。
だが、栞としては、感謝の言葉をかけられただけで、溜飲が下がる気がした。
歳が近い神園は、栞たち女子生徒にとって、話しやすい先生だ。まだまだ教師としての情熱も持っているのか、生徒の相談ごとにも親身になって聞いてくれる。
普段から教師の指示に従えというくせに、校内で暴力にものをいわせて牛耳る力也に、コロッと卑屈な態度を見せる曽我と比べて、はるかに信用ができる気がしていた。
神園から思ったとおりの賞賛を得られなかった鈴音が不服そうに、ツンとした表情となって踵を返す。
黒板へ視線を戻した神園は、懐かしそうに表情をゆるめた。
「卒業式か……。私がここを卒業して、もう五年が経つのね」
「え? 先生、ここの卒業生だったんですか?」
栞が、驚いたように聞き返した。
新任として一年前にやってきた神園だったが、ここの卒業生だと聞いたのは初耳だ。その話に興味がわいたのか、鈴音も目を輝かせて近寄っている。
神園は、彼女たちに向かって苦笑を浮かべた。
「ええ、なんだか先輩風を吹かせたくなくて、わざわざ言わなかったけれど。でも、母校へ教師として戻ってこられて、とても嬉しかったわ」
「先生になってやってきたとき、高校はどうだった? なにか変わったところってある? あ、でも、五年程度じゃ、それほど変わらないかな」
鈴音の質問に、話が長引きそうな気配を感じた曽我が、慌てて声をあげた。
「ほら、みんな! 帰る用意をして、さっさと教室から出る! ぼくが、教室と学校の戸締りまでして回らなきゃいけないからな。神園先生もその辺で。遅くなりますから」
「はぁい」
しぶしぶと、鈴音が引きさがった。そして肩をすくめると、力也や忠太、英二のもとへ駆け寄っていく。栞も、自分のカバンを置いた席へ向かって歩きだした。
神園が曽我へ、小さく頭をさげるのが視界に映る。
ようやく皆が帰る気になったときに、ふいに栞は、鳥肌が立つのを感じた。
動かしていた足が、いつのまにか止まった。
――なんだろう?
この、耳もとで誰かが、ささやいている感覚。
どこからか、視線を向けられる、ぞわぞわとした感じ。
寒気を感じたように、栞は両腕を抱きしめた。陽がかたむいた教室の四隅から、闇が滲んで這いでてくるような、禍々しい気配がする。
なんで、みんな、気がつかないのだろう?
それでも栞が、どうにか声をだそうとした瞬間、その放送がはじまった。
最初は、校内放送に気がつかないくらい、静かなはじまり方だった。
レコードの針を落としたときのような、少しざらざらとした空気と、衣擦れの音が重なった。放送に気がついて、栞をはじめとする数人がスピーカーを怪訝な表情で見あげたとき、明らかに誰かの呼吸音が、向こうの空間から聞こえた。
ひゅー、ひゅーとした、聞くだけで苦しくなるような、かすれた呼吸だ。
「――なに? これ……」
ぽかんとした表情の鈴音が、横にいた力也の腕にすり寄って問いかける。
しがみつかれた力也も、なんだかよくわかっていない顔になって見あげていた。
異様な放送に、誰もが息をひそめて聞き耳を立てる。
そのとき、スピーカーの向こう側の遠くのほうから、かすかな複数人の笑い声がした。同時に、はっきりとした声がかぶさる。
『ほら、逃げろよ!』
はやし立てるような、ざわめき。
『捕まったら罰ゲームだ! どんなことでも、言うことを聞いてもらうぞ! 今回はそういうルールだからな!』
とたんに、かすれた呼吸がひきしぼられるように、ひときわ大きくなった。
威勢のいい声とともに、担任の曽我が教室のドアを開いた。
さすがに、机に座っているのはまずいと思ったのだろう。俊敏に飛び降りた力也が、曽我へ馴れ馴れしい口を開いた。
「たったいま、仕上がったところっす! 先生! いやー、俺ら絵が苦手だから、苦労したよな。な!」
「ほんと、大変だったんだからぁ」
仏頂面を見せて、鈴音が力也のあとに続く。
調子のいいふたりに、呆れた気持ちを持ちながらも、栞は、そっと鈴音の表情をうかがった。誰にでも愛想がいい鈴音だが、それは男子生徒に対してだけだ。曽我を含め、男性教師には案外そっけない。
栞としても、軽いノリで、今回も簡単に自分へ居残りを指名した曽我に対して、いい印象を持っていなかった。これまでの一年間、事あることにいいように使われてきた。
委員長なんて、本当に雑用係だ。内申書に関係なければ、委員長という肩書きなんかに、手を挙げるわけがない。
来年度、大学受験がある最終学年で、曽我が担任にさえ当たらなければそれでいいと、栞は内心考えていた。
曽我は、黒板へ顔を向ける。
そして、高校生のように能天気な声をあげた。
「お、桜の花が満開で卒業らしくて、いいんじゃないか?」
「それじゃあ、もう帰ってもいいっすか?」
「ああ。上出来上出来! おまえたちも早く、帰れ帰れ! そろそろ暗くなってくるから、寄り道するなよ!」
上機嫌で、曽我は口にする。
自分も、神園と食事にいく約束を無理やり取りつけたために、早く生徒を追いだしたい気持ちでいっぱいなのだろう。
曽我がテンション高く手を叩いたときに、教室のドアから神園が顔をのぞかせた。
「あら、すごい。桜がいっぱいね」
教室へ入ってきながら、神園は黒板へ視線を向けてつぶやく。それから、神園は残っていた生徒たちを見回した。その視線が、栞と英二の手の上で止まる。
「先生、上手に描けた? 褒めてくれる?」
媚びを売るように小首をかしげながら、つつっと鈴音は神園へ近寄る。
だが、顔をあげた神園は、黒板の前に立つふたりへ微笑んだ。黒板を仕上げた人物が誰なのか、すぐに気づいたらしい。
「ありがとう。これで明日は、三年一組の卒業生も喜んでくれるわね」
低く小さな声だ。
だが、栞としては、感謝の言葉をかけられただけで、溜飲が下がる気がした。
歳が近い神園は、栞たち女子生徒にとって、話しやすい先生だ。まだまだ教師としての情熱も持っているのか、生徒の相談ごとにも親身になって聞いてくれる。
普段から教師の指示に従えというくせに、校内で暴力にものをいわせて牛耳る力也に、コロッと卑屈な態度を見せる曽我と比べて、はるかに信用ができる気がしていた。
神園から思ったとおりの賞賛を得られなかった鈴音が不服そうに、ツンとした表情となって踵を返す。
黒板へ視線を戻した神園は、懐かしそうに表情をゆるめた。
「卒業式か……。私がここを卒業して、もう五年が経つのね」
「え? 先生、ここの卒業生だったんですか?」
栞が、驚いたように聞き返した。
新任として一年前にやってきた神園だったが、ここの卒業生だと聞いたのは初耳だ。その話に興味がわいたのか、鈴音も目を輝かせて近寄っている。
神園は、彼女たちに向かって苦笑を浮かべた。
「ええ、なんだか先輩風を吹かせたくなくて、わざわざ言わなかったけれど。でも、母校へ教師として戻ってこられて、とても嬉しかったわ」
「先生になってやってきたとき、高校はどうだった? なにか変わったところってある? あ、でも、五年程度じゃ、それほど変わらないかな」
鈴音の質問に、話が長引きそうな気配を感じた曽我が、慌てて声をあげた。
「ほら、みんな! 帰る用意をして、さっさと教室から出る! ぼくが、教室と学校の戸締りまでして回らなきゃいけないからな。神園先生もその辺で。遅くなりますから」
「はぁい」
しぶしぶと、鈴音が引きさがった。そして肩をすくめると、力也や忠太、英二のもとへ駆け寄っていく。栞も、自分のカバンを置いた席へ向かって歩きだした。
神園が曽我へ、小さく頭をさげるのが視界に映る。
ようやく皆が帰る気になったときに、ふいに栞は、鳥肌が立つのを感じた。
動かしていた足が、いつのまにか止まった。
――なんだろう?
この、耳もとで誰かが、ささやいている感覚。
どこからか、視線を向けられる、ぞわぞわとした感じ。
寒気を感じたように、栞は両腕を抱きしめた。陽がかたむいた教室の四隅から、闇が滲んで這いでてくるような、禍々しい気配がする。
なんで、みんな、気がつかないのだろう?
それでも栞が、どうにか声をだそうとした瞬間、その放送がはじまった。
最初は、校内放送に気がつかないくらい、静かなはじまり方だった。
レコードの針を落としたときのような、少しざらざらとした空気と、衣擦れの音が重なった。放送に気がついて、栞をはじめとする数人がスピーカーを怪訝な表情で見あげたとき、明らかに誰かの呼吸音が、向こうの空間から聞こえた。
ひゅー、ひゅーとした、聞くだけで苦しくなるような、かすれた呼吸だ。
「――なに? これ……」
ぽかんとした表情の鈴音が、横にいた力也の腕にすり寄って問いかける。
しがみつかれた力也も、なんだかよくわかっていない顔になって見あげていた。
異様な放送に、誰もが息をひそめて聞き耳を立てる。
そのとき、スピーカーの向こう側の遠くのほうから、かすかな複数人の笑い声がした。同時に、はっきりとした声がかぶさる。
『ほら、逃げろよ!』
はやし立てるような、ざわめき。
『捕まったら罰ゲームだ! どんなことでも、言うことを聞いてもらうぞ! 今回はそういうルールだからな!』
とたんに、かすれた呼吸がひきしぼられるように、ひときわ大きくなった。
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