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はじまり
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「いよいよ明日が卒業式ですか……」
神園日和は、机の上でプリントの束をそろえるように立てながら、少し感慨深くつぶやいた。彼女は、自身が通っていた母校で念願の教師になり、ようやく一年が経とうとしている。
顔立ちは地味で化粧っけがなく、肩口できっちりと切りそろえられた栗色の髪は、やや野暮ったいイメージがある。だが、地味とは慎ましさでもあり、聖職である高校教師として、他教職員や保護者に受けがよかった。
新任らしく覚えることや慣れないことばかりに気が向いてしまっており、元気で溌剌とした活きのいい生徒たちに向かって、まだまだ教師らしい振る舞いができているとは言えない。
低めのおっとり声で現代国語の授業を行っているが、それでも、いまのところ生徒から馬鹿にされることもなく、どうにか二年一組の副担任を終えようとしていた。
「そうですねぇ。でもまあ、ぼくらは二年の受け持ちなんで、明日も、それほど大変でもないですがね。やっぱり主役は、卒業学年の三年生と、その担任だ」
神園の言葉に、この高校では六年目となる曽我允史が、先輩らしく余裕の態度を見せた。神園へ、にっこりとした爽やかな笑みを向ける。
二十代後半の独身男性教師であり、すっきりと顔立ちが整っている曽我は、女子生徒に人気がある。アイロンのかかったYシャツに濃い色合いのベスト、グレーのスラックスという服装を好む、世界史が担当の教師だ。
そして、二年一組の担任である。
「神園先生は今年一年目でしたが、どんな感じでした? まあ、我々のクラスは四人ほど羽目を外す問題児がいて、少々てこずったかもしれませんが」
「そうですね……。緊張して、無我夢中の一年で」
うつむき加減になりながら、小さな声で神園は応える。神園のぼそぼそとした話し方は、少しも若々しさが感じられないなと、いつも曽我は心の中で思っていた。
そんな感情を顔にださず、曽我は、快活な笑い声をあげる。
「神園先生も、来年は担任を任されるかもしれないから、もっと自信を持って堂々としてもらわなきゃ」
「ええ、頑張ります」
ふたりは、受け持ちの生徒の成績表を作成するため、もう誰もいない職員室で、書類と情報を擦り合わせていた。
三学期の成績通知表は学年の総まとめであり、来年は進路を決定する最終学年となるため、評価する側も慎重になる。
そのような作業もあったが、もうひとつ、彼らには用事があった。
「そろそろ連中は、お祝い黒板アートを描き終わっているかな?」
曽我が、職員室の白い壁に掛けられている時計へ視線を走らせた。
連中とは、先ほど曽我が口にした問題児四人組のことだ。私語や居眠りなど授業態度が悪く、出席日数はぎりぎりで、定期試験の点数も芳しくない。
成績表に及第点を与えるために、曽我が四人組へ、行事に参加をして貢献しろと命じたのだ。
彼らに与えた行事内容は、明日の卒業式に向けて、卒業生を祝う黒板アートだった。
二年の各クラスから数名選出して、三年の教室の黒板にお祝いメッセージを書くという、この高校が代々伝えている行事だ。
曽我のクラスでは四人組のほかに、お目付け役としてクラス委員長も含め、三年一組の黒板に、放課後を使って仕上げることになっていた。
神園は、ふと心配そうに口を開く。
「やる気も画力も関係なく彼らを選んだけれど、その、うまくお祝いのメッセージや絵を描けたかしら……」
「まあ、安藤が真面目だから、うまくまとめて丁寧に仕上げてくれると思いますよ。クラス委員長だからって、四人組に付き合わせて可哀想だったかな」
楽天的な曽我の言葉に、神園は少し眉をひそめる。
その表情に気がついた曽我は、苦笑いを浮かべた。
「どれ、仕上がりを見にいこうか。それにいい加減、連中を追いださなきゃな。あまり遅くなっても問題になるし、我々が最後になるから、戸締りもしなきゃならないし」
そう言いながら、曽我は立ちあがった。
その言葉を聞いて、机の上に開いたファイルや書類を集めだした神園を、そっと曽我は見下ろす。
彼女の様子を眺めながら、曽我は、さりげなく言葉を続けた。
「神園先生。いつもよりは早いし、どうかな? このあとどこかへ食べにいきませんか?」
曽我の視線は、斜め上から神園の胸もとへ向けられていた。
清楚な印象を与える白いブラウスのVネックは、正面よりも上から見るに限ると、曽我は心の中で考える。
教師になって一年と若いが、成熟している女性が持つ丸みのあるラインだ。しっかりとブラウスのボタンを留めて包み隠しているが、豊かな胸もとの谷間は、悪戯にペンでも差し入れたくなる衝動を起こさせる。
五、六歳下の女子高生には、まだまだ手に入れられない代物だろう。
舐めるように視線をずらせると、長めの紺色のフレアースカートの下で、行儀よく膝頭をそろえた形のよい脚がうかがえた。
曽我の思惑など少しも気づいていないであろう神園は、ちょっと小首をかしげて、考えるそぶりをみせる。
「――食べにいくのは、でも、生徒に見られるのも……。曽我先生って、女子生徒におモテじゃないですか。よけいな噂をたてられたり、生徒に嫉妬されたりするのも……」
「いくら生徒にモテたところで、ぼくはそんなに嬉しくないなあ。教え子は対象外ですよ。高校生に手は出しませんし、そんなことでクビになりたくないですからね」
軽快に笑い飛ばした曽我は、爽やかな笑みを浮かべたまま言葉を続けた。
「神園先生は、心配し過ぎなんですよ。もっと気楽に堂々と」
「そうですね……」
この煮え切らない態度が原因で、この一年、曽我はうまく神園を食事に誘いだせていなかった。
ほかの職員は、もういない。早朝からいる用務員も、この時間は帰ってしまっている。時間も早めときている。
今日こそはと、曽我は有無を言わさず声を張りあげた。
「はい、決定! 近くに美味しいお店を知っているんですよ。そうと決まれば、早く生徒を帰さなきゃな」
そして、神園が口を開く前に、曽我はダッシュで職員室を飛びだした。
目指すは、この職員棟の向かいに建っている学生棟の一階にある、三年一組の教室だ。
神園日和は、机の上でプリントの束をそろえるように立てながら、少し感慨深くつぶやいた。彼女は、自身が通っていた母校で念願の教師になり、ようやく一年が経とうとしている。
顔立ちは地味で化粧っけがなく、肩口できっちりと切りそろえられた栗色の髪は、やや野暮ったいイメージがある。だが、地味とは慎ましさでもあり、聖職である高校教師として、他教職員や保護者に受けがよかった。
新任らしく覚えることや慣れないことばかりに気が向いてしまっており、元気で溌剌とした活きのいい生徒たちに向かって、まだまだ教師らしい振る舞いができているとは言えない。
低めのおっとり声で現代国語の授業を行っているが、それでも、いまのところ生徒から馬鹿にされることもなく、どうにか二年一組の副担任を終えようとしていた。
「そうですねぇ。でもまあ、ぼくらは二年の受け持ちなんで、明日も、それほど大変でもないですがね。やっぱり主役は、卒業学年の三年生と、その担任だ」
神園の言葉に、この高校では六年目となる曽我允史が、先輩らしく余裕の態度を見せた。神園へ、にっこりとした爽やかな笑みを向ける。
二十代後半の独身男性教師であり、すっきりと顔立ちが整っている曽我は、女子生徒に人気がある。アイロンのかかったYシャツに濃い色合いのベスト、グレーのスラックスという服装を好む、世界史が担当の教師だ。
そして、二年一組の担任である。
「神園先生は今年一年目でしたが、どんな感じでした? まあ、我々のクラスは四人ほど羽目を外す問題児がいて、少々てこずったかもしれませんが」
「そうですね……。緊張して、無我夢中の一年で」
うつむき加減になりながら、小さな声で神園は応える。神園のぼそぼそとした話し方は、少しも若々しさが感じられないなと、いつも曽我は心の中で思っていた。
そんな感情を顔にださず、曽我は、快活な笑い声をあげる。
「神園先生も、来年は担任を任されるかもしれないから、もっと自信を持って堂々としてもらわなきゃ」
「ええ、頑張ります」
ふたりは、受け持ちの生徒の成績表を作成するため、もう誰もいない職員室で、書類と情報を擦り合わせていた。
三学期の成績通知表は学年の総まとめであり、来年は進路を決定する最終学年となるため、評価する側も慎重になる。
そのような作業もあったが、もうひとつ、彼らには用事があった。
「そろそろ連中は、お祝い黒板アートを描き終わっているかな?」
曽我が、職員室の白い壁に掛けられている時計へ視線を走らせた。
連中とは、先ほど曽我が口にした問題児四人組のことだ。私語や居眠りなど授業態度が悪く、出席日数はぎりぎりで、定期試験の点数も芳しくない。
成績表に及第点を与えるために、曽我が四人組へ、行事に参加をして貢献しろと命じたのだ。
彼らに与えた行事内容は、明日の卒業式に向けて、卒業生を祝う黒板アートだった。
二年の各クラスから数名選出して、三年の教室の黒板にお祝いメッセージを書くという、この高校が代々伝えている行事だ。
曽我のクラスでは四人組のほかに、お目付け役としてクラス委員長も含め、三年一組の黒板に、放課後を使って仕上げることになっていた。
神園は、ふと心配そうに口を開く。
「やる気も画力も関係なく彼らを選んだけれど、その、うまくお祝いのメッセージや絵を描けたかしら……」
「まあ、安藤が真面目だから、うまくまとめて丁寧に仕上げてくれると思いますよ。クラス委員長だからって、四人組に付き合わせて可哀想だったかな」
楽天的な曽我の言葉に、神園は少し眉をひそめる。
その表情に気がついた曽我は、苦笑いを浮かべた。
「どれ、仕上がりを見にいこうか。それにいい加減、連中を追いださなきゃな。あまり遅くなっても問題になるし、我々が最後になるから、戸締りもしなきゃならないし」
そう言いながら、曽我は立ちあがった。
その言葉を聞いて、机の上に開いたファイルや書類を集めだした神園を、そっと曽我は見下ろす。
彼女の様子を眺めながら、曽我は、さりげなく言葉を続けた。
「神園先生。いつもよりは早いし、どうかな? このあとどこかへ食べにいきませんか?」
曽我の視線は、斜め上から神園の胸もとへ向けられていた。
清楚な印象を与える白いブラウスのVネックは、正面よりも上から見るに限ると、曽我は心の中で考える。
教師になって一年と若いが、成熟している女性が持つ丸みのあるラインだ。しっかりとブラウスのボタンを留めて包み隠しているが、豊かな胸もとの谷間は、悪戯にペンでも差し入れたくなる衝動を起こさせる。
五、六歳下の女子高生には、まだまだ手に入れられない代物だろう。
舐めるように視線をずらせると、長めの紺色のフレアースカートの下で、行儀よく膝頭をそろえた形のよい脚がうかがえた。
曽我の思惑など少しも気づいていないであろう神園は、ちょっと小首をかしげて、考えるそぶりをみせる。
「――食べにいくのは、でも、生徒に見られるのも……。曽我先生って、女子生徒におモテじゃないですか。よけいな噂をたてられたり、生徒に嫉妬されたりするのも……」
「いくら生徒にモテたところで、ぼくはそんなに嬉しくないなあ。教え子は対象外ですよ。高校生に手は出しませんし、そんなことでクビになりたくないですからね」
軽快に笑い飛ばした曽我は、爽やかな笑みを浮かべたまま言葉を続けた。
「神園先生は、心配し過ぎなんですよ。もっと気楽に堂々と」
「そうですね……」
この煮え切らない態度が原因で、この一年、曽我はうまく神園を食事に誘いだせていなかった。
ほかの職員は、もういない。早朝からいる用務員も、この時間は帰ってしまっている。時間も早めときている。
今日こそはと、曽我は有無を言わさず声を張りあげた。
「はい、決定! 近くに美味しいお店を知っているんですよ。そうと決まれば、早く生徒を帰さなきゃな」
そして、神園が口を開く前に、曽我はダッシュで職員室を飛びだした。
目指すは、この職員棟の向かいに建っている学生棟の一階にある、三年一組の教室だ。
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