盗みから始まる異類婚姻譚

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53. 光明

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 リュカが目を覚ますと、独房内は一層暗くなっていた。泣き疲れていつの間にか寝入ってしまったのだと気づいたが、寝転がったままぼんやりと暗闇を見つめる。独房内に窓はないが、夜になると一寸先すら見えない程の濃い闇に包まれる。申し訳程度に渡された布きれ同然の服に染みついたステラの血が乾いて、肌に張り付いて不愉快極まりない。だがもうどうでも良かった。何もする気にならない。
 耳に届いたかすかな物音も、リュカはさして気に留めなかった。ネズミか何かだと思ったのだ。だが明らかにそれよりも何か大きなものの気配を感じて、慌てて体を起こした。後ずさり、壁に背中をつけて身構える。息を殺して、五感を研ぎ澄ませる。バトーか琥珀がいよいよ自分を殺しに来たのかと思ったのだ。

「リュカ」

 耳馴染みのある声に、リュカは大きく息を呑んだ。いよいよ自分の耳がおかしくなったのかと思った。何もない濃い闇にほわりとかすかな火が灯り、声の主の姿が現れる。
 黒みがかった長い赤髪に、強い意志を宿した赤い瞳。頭から生えた一対の黒い角。
 いよいよ幻覚まで見えるようになったのかと思った。心の中で彼に助けを求めるばかりに、虚像を生み出してしまったのか、と。
 恐る恐る手を頬に伸ばす。触れる。温かい。幻じゃなくて、本物なのか。

「す、おぅ…?」

 温もりを感じた瞬間、感情の奔流が押し寄せてきた。どうにか名前を絞り出せたかと思うと、目元が燃えるように熱くなった。何も見えなくなる。散々泣いて出して尽くしたと思っていたのに、涙があふれて止まらない。
 強く抱き締められ、全身が心地良い熱に包まれる。枷のせいでままならない手で必死に蘇芳の着物を握りしめる。

「来るのが遅くなって、悪ィ」

 耳元で囁かれる声に答えたくても、嗚咽で声が出てこない。代わりに頭を振って応えた。
 まさか、助けに来てくれるとは夢にも思っていなかった。だって自分は仮初めの伴侶なのだ。何の役にも立っていない。だけど蘇芳とセキシの傍は居心地が良くて、二人を失いたくなくて、琥珀の裏切りを知らせようと何とかここから逃げ出さなきゃと思っていた。
 蘇芳に手間をかけさせたことに対して罪悪感を覚えるも、来てくれたことに対する嬉しさの方が大きかった。

「リュカ…、お前血生臭え。どこやられた」

 大きな手が体をまさぐる。リュカはまた頭を横に振った。どこも怪我してないんだな?と念押しの確認には、何度も頷く。必死に身振りで否定する少年に、蘇芳も返り血だと気づいたようだった。

「はー…、心臓に悪ィな、クソ…」
「ご、め…っ」
「いい。お前が無事なら」

 後頭部を撫でられ、頬擦りを受ける。どこか甘く優しい声に安心する。張り詰めた状況から解放されて、感情が次々とあふれて止まらない。
 帰るぞ、と声をかけれ、しきりに頷く。そこで、蘇芳はリュカの首枷から壁に向かって鎖が伸びていることに気がついた。蘇芳は壁から鎖を引きちぎろうとしたが、彼の怪力を以ってしてもびくともしなかった。

「…あのクソ野郎…ッ!」

 盛大に舌打ちをする赤鬼は、少年を床の上に横たわらせた。鎖を火の玉のような灯りで照らし、手に金砕棒を出現させる。

「リュカ、ちょい嫌な衝撃が伝わるかもしんねえが、我慢な」

 そう言うなり、蘇芳は金砕棒を振り下ろした。硬い鉄の塊が石床と共に鎖を砕く。リュカは首に伝わる衝撃よりも音に驚いた。反射的に肩をすくめる。首の枷はまだついているが、鎖がなくなっただけでも、だいぶ肩が軽くなったような気がしていた。

「今の音と振動で、すぐに侵入がバレる。奴が来る前にとっととずらかるぞ」

 武器を持った反対の手で、赤鬼は少年を抱き上げた。光量の小さくなった火の玉を傍に、独房から壁沿いに慎重に進んでいく。皆寝静まっているのか、廊下はひっそりと静まり返っている。

「…蘇芳っ、あのさ…!」
「後にしろ。今は脱出が最優先だ」

 ようやく落ち着きを取り戻し始めていたリュカは、縋るように彼に話しかけた。ここにいるのはバトーだけではない。同族の裏切者である、琥珀もいる。それを早く伝えなければと思った。
 だが赤鬼は決して警戒の姿勢を緩めない。肌が粟立つ程に、彼の纏う雰囲気も殺気に満ちている。これ以上の発言は足手まといになると判断し、少年は慌てて口を噤んだ。
 確かに蘇芳の言う通り、二人安全にここを出るのが何よりも急務だ。それに今、琥珀の裏切りを伝えたところで、子細を伝える時間などない。赤鬼の心を乱すだけで、何のメリットもない。
 リュカは蘇芳にしっかりとしがみついた。邪魔にならないよう、息さえ殺した。
 開けた回廊に出た。月明かりがやけに明るく見える。

「…妙だな。静かすぎる」

 呟きを耳にした瞬間、首に激痛が走って、リュカはたまらず悲鳴を上げた。突如苦しみ始めた彼に、蘇芳は驚きに目を剥く。少年の身に何が起こっているのか分からなかった。
 その場にしゃがみこみ、体を丸めて苦痛に呻くリュカの体をまさぐる。首枷に触れた途端に指先から流れて来る刺激を受け、赤鬼は理解した。首枷に電流が流れている。その頑強すぎる肉体があだとなって、電流を全く感じずに発覚が遅れた。
 下衆なことをしやがる、と蘇芳は歯を食いしばった。外してやりたくても、鎖と同じ性質の金属なら手では壊せない。かと言って装着箇所が首なだけに、金砕棒を振るうわけにもいかない。一歩間違えれば命に関わるのだ。里に戻り、術を用いて壊す以外に方法はない。
 断続的な悲鳴が止むと、リュカの体が弛緩する。拷問と等しき惨い仕打ちを受け、ぐったりとしている。口からは弱々しい声が漏れ、意識が混濁していた。

「オイオイ、盗みはご法度だろォ?血みどろ羅刹」

 闇の中からバトーが姿を現した。これ見よがしに手の中の何かを弄っている。リュカの首枷に関係しているのは明らかだった。

「…そもそも、俺からリュカを盗んだのはテメェだろうが」
「ケケッ。まァな」

 余裕綽々とばかりに佇むバトーに、蘇芳は憤怒を募らせていく。

「ソレ寄こせ。どうせソレでリュカの首枷に電気流してんだろ」
「ご名答~。けど、アンタ意外とバカだな。切り札を早々手放す訳ねェだろ」

 蘇芳はリュカの体を壁にそっと寄りかからせた。立ち上がり、金砕棒を手に出現させる。

「なら、力づくで奪うまでだ」
「オイオイ、正気かァ?ンな狭いところでそんなデカブツ振り回して見ろ。建物が崩れる轟音を聞いて、俺の部下がどっと押し寄せるぜ?」
「構いやしねえよ。全部蹴散らしてやる」
「ヘェ?アンタは良くても、リュカはどうだ?いくら血みどろ羅刹とは言え、リュカを無傷で守り切れンのか?」

 號斑の頭目の言葉に、赤鬼は少年を一瞥した。弱々しい光が宿った瞳と視線が交差する。冷や汗を浮かべた顔面蒼白の彼は、俺なら平気と喘ぐように掠れた声で呟いた。どこからどう見ても大丈夫ではない。言葉を紡ぐのでさえ、しんどそうだ。
 バトーの言う部下がどのくらいの人数なのかわからない。自分一人であれば敵の軍勢を退けることなど容易だろう。だが、リュカを庇いながら回廊の両側から攻め込まれたら、バトーの言う通り無傷で守れるかどうかは分からない。
 金砕棒をブラフに、隙をついて懐に飛びこむのが最善か。だが、ゆらりと突っ立っているようでバトーに隙は見られない。どうにか機会を作れないものか、と赤鬼は思った。

「テメェの望みは、戦争で俺と殺し合いをすることだろ。リュカは関係ねえ。解放しろ」
「そうだが、それだけじゃねェ。俺はアンタに勝って、戦争にも勝ちてェんだよ。鬼一族に代わる戦争屋として、名を馳せてェ」
「そうそう。その為にはリュカちゃんが必要なんだよねえ。蘇芳を牽制するのに」

 背後から突如として聞こえてきた声に、蘇芳は素早く振り返った。同じ鬼一族の、黒鳶の実子である琥珀の姿があった。まさかの人物の登場に、蘇芳は大きく目を見開いた。

「琥珀…ッ?テメェ…バトーと通じてたのか」

 琥珀は問いに答えず、ただにっこりと笑った。

「なるほど、合点がいったぜ。赤足族とバトーの奴隷を里に引き入れたのは、お前だったんだな。奴隷が何も知らねえのを利用して、拷問させ、頃合いを見てリュカに引き合わせた」
「そう。全てはそこの人間ちゃんを手中に収めるため」

 黄鬼はゆっくりと赤鬼に近づいていく。内通者の正体を知り、蘇芳は明らかに激昂していた。まだ距離のあった琥珀の胸倉を掴み、引き寄せる。
 少しずつ調子を取り戻し始めたリュカは、バトーが妙な動きをしているのに気がついた。蘇芳に危険が迫っている気がして、彼の名前を呼んだ。そのつもりだったが、音を成さずに空気だけが口から出た。

「何でだ…ッ!?親父はお前の実の父親だろ!何で裏切るようなマネ…!」

 だるく重い体をどうにか倒し、リュカは床の上を這う。動け、動け、自分の足。
 迫りくる嫌な予感に、頭の中で警鐘が鳴る。蘇芳、気づいて。お願いだから、気づいてくれ。
 だが、リュカの祈りは届かず、刃が蘇芳の体を貫いた。蘇芳は一瞬目を瞠り、己の胸から飛び出た刃に視線を落として、顔を歪めた。背後から赤鬼を刺したバトーと琥珀は、愉悦の笑みを浮かべている。

「駄目だろ。羅刹ともあろう奴が簡単に敵に背を向けちゃァよォ」
「…ク、ソッ…!」

 リュカは、耳元で硝子が割れるような音を耳にしていた。
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