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3章 追憶
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3章 追憶
『容疑者の女は黒沢(くろさわ)紗良(二十七歳会社員)。昨夜新宿駅東口のアルタ前で、交際中の男性の高松(たかまつ)紀夫(のりお)(三十歳無職)の顔面を金づちで何度も殴打していた所を現行犯逮捕しました。交際中のトラブルが原因ではないかと推測されますが、女は黙秘を続けているようです』
紗良が起こした事件の翌日の夕方、僕と黒田は喫茶シャーロックに来ていた。
「ブレンドコーヒー二つ」
僕の隣のカウンターに座っている黒田がハルカに注文する。
テレビ画面には紗良の高校時代の卒業アルバムの写真が拡大されて映し出されている。テレビに映っている紗良の顔写真は無表情で人を避けて生きてきたような、将来に何の期待もしていないというような高校生というレッテルが貼られそうな気がした。
『クラスではいつも一人で教室の隅っこにいましたよ』
テレビが紗良の学生時代の同級生へのインタビューに切り替わった。
『大人しくて何考えているか分からないんだけど、一度キレている姿を見たことがありましたね』
暗い音楽と共に流れてくるテンプレートのような加害者の印象を象る言葉に僕は辟易した。紗良は確かに時々癇癪を起こすことはあったが、暴力を振るったことなど一度もなかった。
昨夜、アルタ前での紗良の暴行は黒田が制止した。黒田が紗良から金づちを奪い取り、羽交い絞めにしていた所に警察官が駆け付けた。黒田は警察に引き渡すのを拒み、紗良を手放さないように抵抗したが、五人もの警察官に力づくで紗良を引き剥がされた。やめろ、と大声で叫ぶ黒田の声が虚しく響いた。
「新宿東口に設置されている監視カメラには破壊者と思わしき人物は映ってなかったわ」
ハルカがコーヒー豆を挽きながら、淡々としゃべる。
「おそらく監視カメラの設置場所を把握して、その死角を利用してるはずよ。別方面から映像が入手できないか当たってみる」
「ああ、頼む」
別方面とは何だろうかと気になったが、破壊者という存在が僕の頭の中でざわつく。
「あの」
僕は恐る恐る声を出す。
「紗良が起こした事件には、本当に破壊者が絡んでいるんですか?」
昨夜の事件の後、僕は紗良との関係について黒田に話した。黒田は破壊者からのメールの内容を再度確認してなるほどな、と呟いた。黒田の目は獲物を狩る猟師のようになっていた。
「十中八九そうね。昨日あなたに届いたメール。そして加害者と被害者の特徴から破壊者の仕業だと推測される」
「被害者と加害者の特徴? どういうことですか?」
黒田が目を伏せる。何かを考え込んでいるような、思い返しているような様子だ。
「破壊者のターゲットになる人物にはある傾向があるのよ。まあそれは追々話すわ」
何かが引っ掛かるが、ハルカも言いづらそうに言葉を紡いでいたので、僕はそれ以上追及しなかった。
ブレンドコーヒーが出てきたので、一口啜る。隣の黒田もブラックのままカップに口をつけた。
「ハルカ、例の映像入手にはどのくらい時間がかかる?」
「少し時間が必要ね。でも一週間以内にはなんとかしてみせるわ」
「そうか、ならその間は別の依頼を引き受ける」
「それじゃあ」
ハルカは一枚の写真をカウンターの上に置いた。
「この男を見つけて取り押さえて欲しいの。未成年の女子の売春を斡旋していて、新宿を根城にしていることは分かっているわ」
黒田と共に僕は写真を凝視する。写真の画質は大分ぼけていてはっきりとは見えないが、オールバックの髪型に黒のサングラスをかけたガラの悪そうな男だ。いかにも犯罪に加担していそうな。
「警察が逮捕できてないってことは何か訳ありなんだな?」
「ご想像におまかせするわ」
警察と口にする時の黒田の声がいつもと違っていた。少しためらっているような口調。
「まあ、それはいいや。よし、白野。一緒に探すぞ」
「ええっ僕もですか?」
黒田の提案にぎょっとした。なぜ僕が犯罪者と対峙しなければならないのか。
「黒田。一般人の白野君を巻き込まないで」
「大丈夫だ。こいつに危害は加わらないようにする」
そういう問題じゃなくて、とハルカは続ける。黒田は屁理屈を並べてハルカを説得しようとする。ハルカはそれに対して反論を述べる。
もうどうにでもなれ。僕は黒田からの協力を拒む気も失せてきた。
「分かりましたよ。僕もやりますよ」
紗良の件で動揺しているのを紛らわせたかったのもあったが、僕も役に立ちたいという気持ちも少し芽生えていた。
「よし。じゃあさっそく行くぞ、二郎(じろう)」
ハルカが頭を押さえながら溜息をつく。黒田が僕のことを下の名前で呼んだことに対して馴れ馴れしさを感じたが、少しくすぐったかった。
「気をつけてね白野君。何かあったらいつでも連絡して」
黒田に根負けしたハルカから電話番号が書かれたメモ用紙を受け取る。ハルカの表情は心配の色を隠せていなかった。
二階からケプリルが降りてきて、カウンターにジャンプして飛び乗ると僕と黒田の前を横切り、カウンターの奥へ再びジャンプする。コーヒー豆の匂いを嗅いでおり、以前も嗅いでいたブルーマウンテンの豆だった。ケプリルの好きな香りなのだろうか。
カウンターの奥は綺麗に整理されており、コーヒー豆の袋が整然と並んでいる。手動のコーヒーミルは年季が入っているように見えるが、そのレトロな感じがこの店の内装に合っているように思えた。ケプリルはカウンターの奥に座ると、天井を見上げた。クルクルと回るシーリングファンを見つめているようだ。照明のついたシーリングファンの照明が程よい照度で僕達を照らす。
黒田と共に席を立ち、喫茶シャーロックを出る。自動ドアではない手動の扉が少し重く感じた。
紗良に出会ったのは三年程前だった。僕の大学時代の友人の猿渡(さるわたり)という男がセッティングした三対三の合コンの場で、無表情でつまらなさそうにしていたのが紗良だった。
合コンに使用した居酒屋は女性の好みそうなイタリアン風の店で、店内に立て掛けられている手書きのメニュー表がとてもおしゃれに見えた。メニュー表にはいちおしのワイン等が書かれており、イタリアンだけあってワインが売りの店のようだった。天井にぶら下がっている小さなシャンデリアもこじゃれていた。店内はカップルや女性が多く、女性慣れした猿渡がいかにも選んだと思われる店だった。僕達が入った個室は六人が座る席にしては広く、一人一人の間隔がある程度空いていることに僕は少しホッとした。ぎゅうぎゅうの狭い席での距離の近い合コンはごめんだったからだ。
僕は初めての合コンで終始緊張し、盛り上がる会話の中にあまり入っていけなかった。合コンの最中に紗良と何度か目があった。化粧っけのない平坦な顔。顔立ちは悪くなさそうに見えるが、男を、というより人を寄せ付けないような雰囲気が顔にも表れていた。
「ちょっとトイレ行ってきます」
「おうおう。早く戻れよ」
陽気な猿渡は男性受けしそうな小柄で愛嬌のある可愛らしい女性との会話を弾ませていた。僕はトイレで用を足し、合コンなんて来るんじゃなかったかなと後悔の念を抱いた。すぐには戻りたくなかったので、個室トイレの中でスマートフォンでネットサーフィンをした後にトイレから出た。そこには紗良が立っていた。
「大丈夫?」
ボソボソッとした声だった。だが、僕を心配してくれているようで、少し意外だった。
「ああ、全然大丈夫です」
そっか、と素気ない言葉を返すと、続いて驚きの言葉が飛び出してきた。
「ねえ、二人で抜け出さない?」
「え?」
突然の申し出に僕は固まった。女の子からこんな風に誘われたのは初めてだったからだ。そして合コンの場でふてくされているような態度の女性からそんな言葉が出てくるとは思ってもみなかった。
紗良と居酒屋を出たあと、公園を見つけてブランコに座った。完全に日が沈んだ夏の夜の公園はどこか風情があった。遊具はブランコしかない小さな公園だった。
「この世を生き抜くことで一番大切なことって何だと思う?」
ブランコを揺らしながら、紗良から出てきた言葉は唐突だった。
「うーん、考えたことないな。何だろう」
「そう言うと思った」
紗良と目が合う。闇を孕んでいそうな大きな黒い瞳。その闇の中を覗きたくなるような不思議な魅力があった。合コンの場での目つきとは異質なものに見え、ほんの少し雰囲気が優しくなっているような気がした。
「でも私も似たようなもんか。時間が経てば経つほど分からなくなる。頭の中がぐちゃぐちゃして」
紗良が左手で髪をかき上げた。耳からぶら下がったエメラルドのピアスが夏の夜に光を放った。
「子供の頃って楽しかった?」
長い静寂の後、紗良が口を開いた。
「・・・楽しい記憶はあまりないな」
子供の頃に受けた仕打ちが頭の中でフラッシュバックした。何度も何度も殴られて、ナイフを首元に近づけられた映像が再生される。
「そっか」
ゲコゲコと鳴き続けるカエルの声に重ねて紗良の声が聞こえた。
「私も同じ」
紗良がブランコを強く漕ぐ。
「何にも楽しいことなんてなかった。味方も一人もいなかった。だから他人は信じられない」
人を簡単に信用するという人よりも、他人は信じられないと言い放った紗良に好感を持った。僕も同じだからかもしれない。紗良は味方が一人もいなかったと言ったが、僕は子供の頃に助けてくれたお兄さんの存在を思い出した。小柄で弱弱しそうな優しいお兄さん。でもあの人は・・・。
「他人を信じられる日っていつか来るのかな?」
「多分来ないよ」
ブランコに揺られながら紗良がこっちを見て少し微笑んだ。
「僕もそんな気がする」
あははっ声を出して紗良が笑った。他人を信じられないという希望のひとかけらも残っていない言葉を笑ってのける紗良を見て、僕は親しみを覚えた。紗良の着ているグレーのワンポイントのTシャツが汗で滲んでいた。日が落ちたとはいえ、七月の夜は暑かった。僕もYシャツの下に来ているシャツが汗で濡れているのに気付いた。
「二軒目行かない?」
自分の発した声に自分で驚いた。なぜだか自然と誘えた。
「いいよ。奢ってくれる?」
紗良も少し驚いた表情を見せたが、すぐに返事をしてくれた。僕達はブランコから立ち上がり、公園の土を踏みしめて歩いた。
その後も紗良と時々会うようになり、僕達はそのままの流れで付き合うことになった。
* * *
病院は独特の匂いがする。広い待合室は様々な年代の人達がいて、受付の人が忙しそうにしている。
私の隣に座る慧君は文庫本を読んでいた。「一九八四年」というタイトルの本のようで、有名な本らしかったが私は知らなかった。そもそも本等が読めないから今日ここに来ているんだった。
今日は私が学習障害(LD)かどうか診断するために仙台市にある総合病院を訪れた。皆に相談した所、慧君が付き添ってくれることになった。
母には病院に行くことは言わなかった。普段私をほったらかしにする分、生活費となるお金をテーブルの上に置いていくので、今回の病院代はその中から捻出した。
母のことを考えたら、リビングのテーブルの上にあった写真についての記憶が呼び起こされた。生まれたままの姿をしている幼い頃の私の写真。
気持ち悪い。
菅原のねっとりとした視線。それはそういう意味を含んでいたのかと想像してしまう。これまで直接的な被害は受けてはいないが、これから先は何をされるのか分からない。不安と恐怖が全身を駆け巡る。あの写真を見つけてから菅原と顔を合わせたが、以前と変わらない様子だったのも怖かった。
「あの、慧君」
「ん? どうした?」
慧君が文庫本を閉じてこっちを見る。茶色がかった瞳はよく見るとキラキラと輝きを放っているように見え、クールな慧君の印象を反転させるような目だ。その目をずっと見ていたいと思った。
「私」
『谷村冬子さん。三番の診察室へお入り下さい』
写真のことについて相談しようと声を発したのと同時に、診察のアナウンスが鳴った。
「俺も一緒に付いてっていいか?」
相談するのを遮られたアナウンスに少しがっかりしていたけれど、私は慧君の申し出のおかげでそのがっかりした気持ちが吹き飛んでいった。
「うん、ありがとう」
慧君と病院の診察室に入ると、前髪が後退しておでこが広いのが目立つお医者さんがローラー付きの椅子をくるりと回して振り返った。細い長方形のフレームレスの眼鏡から知的さが伝わってくる。
「こんにちは」
愛想の良さそうな顔で挨拶をされ、私と慧君も挨拶を返す。
診察室を見回すと資料はラックの上にきっちりと整理されており、先生の座る机にはパソコンのモニターが二台とキーボードとマウスがあるだけだった。そして、綺麗な診察室には似つかないポスターが壁に貼ってあった。ポスターの写真は私も知っている人気アイドルが笑顔でピースをしているものだった。このポスターはこの先生の趣味なのだろうか。知的で真面目そうな先生の印象からは、アイドル好きな要素は見当たらない。
「どうぞ、掛けてください」
先生に促されるがままに私達は椅子に座り、診察が始まった。
読み書きが極端にできないのに困っているのを話すと、先生から様々な質問が飛んでくる。いつ頃から読み書きが極端にできないのに気付いたか、「は」を「わ」と読めずに「は」と読んでしまうことはないか、これまで勉強はどのようにしてきたか、親御さんは何と言っているか等の質問に私は答える。
「なるほど、分かりました」
質問が済むと、作文に使う原稿用紙を渡された。
「これから私の言った言葉を書いてみてください」
先生の言われた言葉を聞き取り、私は懸命に原稿用紙に聞き取った内容を書き込む。できるだけ綺麗に書こうと思うのだが、いつものようにぐにゃぐにゃとした字になってしまい、原稿用紙のマス目からはみ出してしまう。
書き終わると先生に原稿用紙を見せ、今度は渡された本を読み上げるテストを実施した。
「先生」
テストが終わり、本を先生に返すと慧君が声を上げた。
「これは個性なんですよね。谷村の」
先生は頷いて、返事をする。
「はい、谷村さんは学習障害(LD)だと思われますが、これ自体は病気ではなく、生まれ持った脳の特性です。決して努力不足ではないですし、恥ずべきものでもありません」
「私、母からは努力が足りないとずっと言われてきました」
初めて母から言われた言葉を他人に話せた。この場に慧君がいてくれたからかもしれない。
「決して怠けているとか、努力が足りない等ではありません。自分を責めないでくださいね」
隣に座っている慧君が頷く。今まで背負っていた重い荷物をようやく降ろせたような感覚が私の心を癒やしてくれた。
次のバスが来るまであと十五分程ある。私と慧君は病院を出ると、片側二車線の大通りに面した最寄りのバス亭まで歩いた。道路の掲げてある制限速度は六十㎞/hのはずだが、びゅんびゅん走る車は私にはとても速く見え、制限速度をオーバーしているような気がした。
「あの、慧君」
慧君がこちらを振り向く。
「今日、付き添ってくれてありがとう。すごく心強かった」
伝えられた。自分の想いを。
「いや」
慧君の瞳が少し揺れるのが見えた。
「俺が来たかったから来ただけだよ」
慧君の顔は加藤君に対して助けたわけじゃないと言った時と同じ顔をしていた。何だかおかしくて私はつい笑ってしまった。
「笑う所か?」
慧君が頭を掻きながら照れくさそうに笑う。そして、言葉を続ける。
「でも」
「今日病院に来て、谷村が少しでも楽になったなら良かった」
春の風が吹いて、道路に植えてある大きな木の葉っぱが揺れている。風がとても心地よく感じた。
バスが到着し、整理券を取って乗り込む。バスは非常に空いていてガラガラだった。土曜日だというのにスーツを着たサラリーマンの男性一人と、お婆さんが一人、一人の子供を連れた三人家族しか乗車している人がいなかった。
二人掛けの席まで慧君が歩くと、慧君は手で先に座ってというジェスチャーをした。私に窓際の席を譲ってくれているようだ。
「ありがとう」
私が窓際の席でいいのか、という申し訳なさもあったが、慧君の厚意を無下にしたくなかった。
私が座り、続いて慧君が座る。二人掛けのバスの席は二人がちょうど座れるぐらいのスペースなので、距離がとても近い。下を向くと慧君の右腕から血管が浮き出ているのが見える。私の心拍数が少し上がっていく。
「谷村って何人家族?」
慧君が子供連れの三人家族を見ながら聞いてきた。たくましいお父さんが線の細い優しそうなお母さんが抱っこしている赤ちゃんの頭を撫でていた。
「私はお母さんと二人だよ。慧君は?」
お母さん。その言葉を発すると私の中で嫌な感情が流れていく。
「そっか。俺はじいちゃんと二人暮らしだ」
慧君はご両親がいなかったのか。子供連れの三人家族を見る慧君の目が少し切なそうに見えたのが腑に落ちた。
「慧君のおじいさんってどんな人?」
「そうだな。頑固じじいって感じかな」
頑固じじいと言葉の吐き出し方が大切な人のことを話すような話し方のような気がした。慧君とおじいさんは信頼し合える関係なのではないかと思った。
「寝坊するとすごい顔で怒るし、魚の食べ方にはうるさいし」
「寝坊は慧君が悪いんじゃない?」
自然と言葉が出た。笑って話せた。慧君も笑っている。
「でも慧君、最近遅刻しなくなったね」
今までずっとホームルールに遅刻していた慧君だったが、ここ最近は遅刻せずに登校している。
「まあ、これ以上目をつけられるのもまずいと思ってね」
慧君は確かに先生達に目を付けられている。一年生の頃から先生に反抗的な態度を取っていたりしていたこともあり、先生達の間でも、生徒達の間でも慧君の悪評が流れている。
「谷村のお母さんは? どんな人?」
お母さん。
私を産んだだけの人。男好きで、酒好きで、だらしなくて、私のことを邪魔だと思っている人。
「・・・お母さんは」
言葉が上手く出てこない。さっきまではスムーズに言葉が出ていたのに。
「・・・いい人だよ」
慧君は私の吐いた嘘を見透かしているような目をしていた。そっか、とだけ慧君が相槌を打ち、私達の間に沈黙が流れた。長く重苦しい沈黙。
バスが停留所に止まり、スーツを着た男性が駆け足で降りていく。とても急いでいるようで、大事な仕事に遅れそうなのかなと思った。
バスが発車する。次の停留所で私達は降りる。窓の外を眺めると見慣れた街並みが見える。上を見上げると空はとても晴れ渡っており、雲一つない晴天だった。私の心とは裏腹に。
* * *
黒田と一緒に新宿歌舞伎町に来ていた。土曜日の夜の新宿歌舞伎町は何とも言えないデンジャラスな雰囲気だ。客引きの若い男性が通行人に声を掛けている姿が少し怖い。派手なネオンが嫌でも視界に入り、僕にはその光が禍々しく見える。
「本当にここに例のターゲットがいるんですか?」
「ああ、ハルカの情報だとここの客引きが例の男とつながってる」
例のターゲット、例の男とは未成年の女子の売春を斡旋しているしている男のことだ。ハルカから黒田に送られてきたメールの情報によると男の名前は曽根崎(そねざき)哲郎(てつろう)というらしい。
「二郎。あの客引きに付いていってみてくれ」
「ええっ。僕がですか?」
「俺よりも一般人っぽい人間の方が相手に警戒心を抱かれにくいからな。大丈夫だ。常に見張ってるから、いざという時は助けにいく」
そもそもなぜ僕が黒田の仕事を手伝わなきゃいけないのかという根本的な疑問もあったが、少しだけワクワクしている自分もいることに気付く。普段の僕の日常は平坦で刺激が少なくて、ただ毎日が流れていっているだけだからかもしれない。でも、それにしたってこんな裏社会の人間を取り押さえるなんていう任務は僕には分不相応すぎる。
「いいか。客引きに声を掛けられたら、仕事を紹介してもらえないか尋ねるんだ。それで事務所に連れて行ってもらえれば、後は俺が何とかする」
「それって僕に危険が及ぶ可能性もありますよね?」
「大丈夫だ。俺が常についてる」
黒田の言葉を信じていいのだろうか。でもここまで来た以上、今さら引き返すのも何だか後味が悪そうだ。黒田にはカツアゲ男から助けてもらった恩もある。
「胸ポケットにスマホを入れて俺の携帯と通話状態にしておけ」
言われた通り黒田の番号に発信し、スマートフォンを胸ポケットにしまう。
深く深く深呼吸する。心臓の鼓動が速くなっているのを鎮めようとするが、なかなか静まらない。
「二郎。こんなことを頼んでおいてなんだけど」
黒田が神妙な顔つきをしている。
「自分を大切にしろ」
黒田の言葉が僕の脳に響いてくる。その言葉はどこか懐かしい音がした。
「分かりました。じゃあ行ってきます」
覚悟を決めて一歩を踏み出す。髪色が明るいヤンチャそうな客引きの青年の方向へと歩く。ネオンサインが照らす道は多くの人が行き来している。土曜日の夜だからなのか、皆浮かれているような雰囲気を醸し出している。
「お兄さん、どうですか? 可愛い子ご案内できますよ」
目標の客引きに話しかけられた。金色の髪で眉を剃っており、はっきりとした顔立ちの若い男だった。冬なのに肌はこんがりと焼けており、その肌からも活発な印象を抱く。
「え、えーとですね」
僕はこういう場面に慣れていないので、おどおどしてしまう。客引きの男が僕をじっと見ている。曽根崎哲郎という男のいる事務所まで行くための行動を取らなければならない。
「すみません、僕もこういう仕事、客引きじゃなくてもいいんですけど、風俗系の仕事を探してるんですが、紹介してもらうことってできますか? 最近仕事クビになっちゃって職探ししてるんですけど、なかなか見つからなくて」
客引きの男の営業スマイルが崩れた。男は真顔になり、僕を舐め回すように見てから返事をした。
「お兄さん、この業界厳しいけど本当にやりたいの?」
男の口調が変わった。さっきまでのお客さん向けの営業のトーンではなく、少し低く重たい声だ。
「あ、はい。どんなことでもやるつもりです」
「そう。今人手も足りないし、上に掛け合ってみる」
「もしもし、徳川(とくがわ)です。曽根崎さん、今この仕事したいって奴を見つけて。あ、いや女の子じゃなくて男なんですけどね」
曽根崎。
徳川という若い客引きの男が電話で話している相手は今回のターゲットの男のようだ。上手くいった。上手く事が運びすぎて怖いぐらいだ。
女の子という言葉で、紗良が昔こういう業界に身を置いていたことを思い返した。現在拘留中の紗良は大丈夫だろうか。紗良はメンタルがとても不安定なので、何日も拘留されたらまともな状態を保てない気がする。そもそもなぜ紗良はあんなことをしたのか。本当に破壊者の仕業なのか。被害者の男は意識不明の重体という情報しか分かっていない。
「ええ、はい。分かりました。これから行きます」
スマートフォンでの通話が終わると徳川は僕の方に向き直る。
「仕事、紹介するからお兄さん今から事務所来れる?」
「あ、はい。ありがとうございます」
徳川の後ろについて行き、歌舞伎町を歩く。ちらりと後ろを振り返ると黒田の姿が少し見えた。親指を立てるジェスチャーを僕に向けてしていた。グッジョブと言われた気がして少し嬉しくなった。
歌舞伎町を歩くのは初めてだが、本当に客引きが多く、ヤンチャそうな若い男女を良く見かけ、治安は悪そうだ。無料案内所の前を過ぎ、派手すぎるぐらい派手なネオンの光が僕の目に入ってくる。ガールズバーにキャバクラにホストクラブ。僕には縁のない店舗がずらりと並んでいる。店から出てきた人の中には酔っぱらってテンションが高く、大声で叫んでいるような人もいてビクッとしてしまう。
無言でしばらく歩いて、人通りの少ない所まで辿り着いた。
「ここが事務所だ」
築年数が浅そうなおしゃれな外観のマンションを指さす。こういう業界の事務所は古ぼけだ雑居ビルの中にあるのだと思っていたので意外だった。こんなマンションに裏社会の危ない人間が住んでいるという実感が湧かなかった。
「綺麗なマンションですね」
「ん? ああ。うちのボスの趣味みたいなもんだ。妙に外見や外聞を気にするんだ」
ぼやけた写真で見た曽根崎哲郎はガラが悪そうなイメージしかなく、外聞を気にしている人間のする格好ではなさそうに見えた。
徳川がマンションの玄関に入り、オートロックを開ける。僕は徳川が押す番号を盗み見て、こっそりとスマートフォンを取り出し、LINEで黒田に部屋番号を伝える。
エントランスに入ると綺麗に咲くサザンカが目に留まった。美しいピンク色をしていて、近くで見ると葉柄にわずかに毛が生えている。サザンカはツバキと似ているが僕にはその見分け方が分かる。紗良に教えてもらったからだ。
エントランスはとても開放的で広く、サザンカの他には絵画が飾られているだけで、そのスペースがもったいないぐらいだった。綺麗な夕日の絵画。僕は美術に造詣がないので、有名な絵なのか、作者は誰なのか等は全く分からない。ただ、その絵の夕日はどこか寂しさを感じさせるようなものだった。
「七階が事務所だ」
徳川がエレベータのボタンを押し、エレベータが降りてくるのを待つ。
「徳川さんはいつからこの仕事を?」
「五~六年前からだな。これから会う曽根崎さんって人にこの仕事を紹介してもらった。くれぐれも失礼のないようにな」
「あ、はい」
エレベータで七階に行くと、徳川は七〇七号室のチャイムを鳴らした。
ガチャリと音がして男が出てきた。徳川と同じくらい、二十代と思われる若い男だった。
「よお」
徳川が親しそうに男に声を掛ける。
「曽根崎さんが奥で待ってるぞ」
「了解」
「そいつが例のこの業界で働きたいって男か」
男にじっと見られ、僕は全身が固まる。吊り上がった目は威嚇しているような気がしてならない。
徳川が玄関に入り、僕もそれに続く。
「失礼します」
玄関はきちんと整理されており、靴が綺麗に並んでいる。黒の革靴が三足と茶の革靴が二足あった。どの靴も普段の手入れが行き届いているようで、色が剥げている所がなくピカピカだった。
靴を脱ぎ、用意されていたスリッパを履いて、リビングを通りすぎ、その奥の部屋を目指して歩く。リビングでは三人が麻雀卓を囲んでいて、先程出てきた男も麻雀をやっていたのだと推察される。リビングはとても広かった。その広いリビングには木のテーブルに椅子、それと緑色の布のソファーとテレビがあるだけで、物が少なくスペースを持て余しているようだった。
男が床に置いてある麻雀卓へと戻り、徳川が奥のドアをコンコンと二回ノックする。
「曽根崎さん。連れてきました」
少しの沈黙の後、声が聞こえてきた。入っていいぞという声。曽根崎という男の声は思ったよりも圧が強くないように感じた。
徳川がドアを開ける。ドアの向こうの部屋は社長室のような風格があり、部屋の中央には黒革のソファにテーブル、左右には大きな本棚があり、奥にデスクがあった。ソファに座っていた男が立ち上がり、右手を挙げながら微笑む。
「よお、徳ちゃんお疲れ様」
曽根崎の印象は写真で見たものと異なっていた。写真ではオールバックだった髪型がすっきりとした短髪で、さわやかな中年男性という感じだ。ニコニコとした表情を崩さない。
「お疲れ様です。曽根崎さん、彼が例の・・・」
「この業界で働きたいって子だね。こんばんは」
曽根崎のハスキーボイスが僕の鼓膜を刺激する。
「こ、こんばんは。よろしくお願いします」
曽根崎は終始笑顔だが、その笑顔がなんだか少し怖く感じた。
「徳ちゃんはもう外していいよ」
「はい、失礼します」
徳川が礼儀正しくお辞儀をしてから部屋を出ていく。曽根崎と一体一になり、緊張感が漂う。
「えっと、お兄さん名前は何ていうのかな?」
「あ、白野といいます」
名乗った後にしまったと思った。偽名を使っておけば良かった。
「あ、座って座って」
曽根崎が僕をソファに誘導する。
「すみません」
ソファに腰を掛けるとテーブルに一枚の書類が置かれていた。内容の一部が少し見えた。僕の心臓が高鳴る。
壊すことは楽しいよ。
書類の文章はほんの一部しか見えなかったが、破壊者からの僕に届いた文面と同じ内容が見えた。曽根崎は破壊者と関係があるのか?
「白野君はどうしてこの業界で働きたいのかな?」
曽根崎はテーブルの上の書類を手に取って、デスクのクリアファイルにしまった。目を細めて微笑みながら投げかけられる質問を上手く脳が処理できない。曽根崎と破壊者とのつながりについて考えを巡らせてしまう。胸ポケットに入ったスマートフォンは通話状態になっているが、ソファで対面している状況ではスマートフォンを取り出す訳にはいかず、さっき見た書類の内容について黒田へ報告ができない。
「え、えっと」
この業界で働きたい理由。何とでっちあげようか。
「前の職場の給料が凄く低くて、とにかく稼ぎたくて」
苦し紛れに出てきた僕の言葉を聞き、曽根崎がうなずく。
「なるほどね。お金が欲しいんだ?」
「あ、はい。結構金欠でして」
「そうかあ。苦労してるんだね」
今の所曽根崎の物腰は柔らかく、口調も優しい感じなのだが、どこか取り繕った感があるような、何か違和感を覚える。
「でもさ」
曽根崎が笑顔のまま話す。ビジネススマイルのお手本のような笑顔。
「今までは堅気の仕事してたんだよね? こんな業界で働くのにためらいを覚えなかった?」
曽根崎の指摘はごもっともだ。実際僕は未成年の売春斡旋などという違法な仕事をする気はないが、今日この場に来ることにはもちろんためらいを覚えた。しかし、黒田への恩と流されやすい性格から、僕は今日ここへ来てしまった。
「でも、堅気といっても今までの職場環境もあまりよくなくて・・・」
「あとさ」
曽根崎の口調がほんの少し変わった。顔は笑顔のままだが、少し棘のあるような口調。
「その胸ポケットに入ったスマホ、どうして通話状態になっているのかな?」
え?
僕の体が硬直する。同時に脳も止まる。
「あ、あのえっと」
体の震えが止まらず、動揺しているのが曽根崎にもはっきりと伝わってしまっている。曽根崎は笑顔を崩していないが、よく見ると目は笑っていなかった。
「あっはははは」
曽根崎が急に笑い出した。デスクの青い照明が怪しく映る。僕の首筋から汗がポトリと一滴落ちる。
「おかしいと思ったんだよね。君のような人がうちで働きたいなんて。今のはカマをかけてみただけなんだけど」
まずい。これは非常にまずい。
相手は裏社会の人間だ。何をされるか分からない。
「で、さ」
曽根崎がソファーから立ち上がる。
「本当の所、うちには何しに来たのかな?」
声の音量はそれほど大きくないのに、ものすごい圧を感じる。
「あ、僕。ほんとに仕事を探しに・・・」
曽根崎の目が険しくなる。
「もういいからさ、そういうの」
胸ポケットからタバコ取り出し、ジッポのライターで点火する。曽根崎が加えるタバコの先端が赤くなり、煙をゆっくりと吐き出す。
「白野君、知ってる?」
曽根崎がタバコを火の付いたまま灰皿の上に置くと、僕の背後に回り込む。後ろから僕の耳に手を掛け、耳元でそっと囁く。
「人間の耳って簡単にちぎれるんだよ」
楽しんでいるような小さな声は僕の全身に寒気を起こさせた。恐怖で足が動かない。どうすればいい。胸ポケットからスマホを取り出して黒田に助けを求めるか。
ガチガチに固まった僕の体と頭。それでも何とか次の行動を考えていると、突然曽根崎の背後から携帯の着信音が鳴った。着信音のメロディは僕でも聞き覚えのあるクラシックの曲で確かワーグナーのワルキューレの騎行という曲だった。
「はい、もしもし」
曽根崎が電話に出る。
「あ、お世話になっております」
曽根崎の声が少し固い声に変わる。電話の相手は曽根崎より立場が上の人間なのだろう。
「先日のショーはテレビで見させていただきました。さすがです」
先日のショー?
「ネズミ?」
曽根崎が部屋の入口の方へゆっくりと足音を立てながら歩く。
「ええ、一匹来てますよ」
曽根崎と目が合う。
「情報ありがとうございます」
「B様」
アルファベットのBと聞こえた。イニシャルで人の名前を呼ぶ人間をフィクション以外で初めて目にした。
「こちらで始末しておきますので。ええ、ご心配なく」
曽根崎がにやりと笑った。
「では、失礼します」
通話を切るスマートフォンの音が聞こえ、曽根崎の方を見ると不敵な笑みを浮かべている。
「さあて、どう料理しようかな?」
曽根崎はデスクの方へ移動し、ポケットから鍵を取り出した。鍵を鍵穴に差し込み、引き出しを開ける音がした。曽根崎が取り出したものを見せて僕の方へ振り向く。
「白野君。今日は何をしに来たの?」
曽根崎が持っているものはピストルだった。銃口はこちらに向けられてはいないが、僕の心臓は破裂しそうなほどにバクバクしてきた。
「あ、僕は・・・」
話そうとしても上手く声が出ない。まさか本物のピストルを目にするなんて。もっとも僕には本物と偽物の区別はつかないが、きっと本物なのだろう。
「どうしたの? そんなに震えて。大丈夫。撃ったりしないよ。君が正直に話してくれればね」
曽根崎の顔が怖い。顔は笑っているのだけど、その笑い顔が僕にとてつもない圧力をかけてくる。どうすればいい?
あまりの恐怖にどうすればいいのか判断もつかなくなったその時だった。玄関のドアがガチャリと開く音が聞こえた。
「おい、お前どうやって・・・」
リビングの方から曽根崎の仲間の声がした。
「ぎゃああああああーーーーーーーー」
その直後にリビングの方から叫び声が響いてきた。
黒田が来たのか。
悲鳴を上げた人間には少し同情するが、僕は黒田が来たのかと思うと少しだけ心が落ち着いた。黒田がいれば、この局面を乗り切れるかもしれないと思ったからだ。
ボキボキッと何かが折れる音が聞こえてから、ドアが開いた。
「お前が曽根崎哲郎だな」
黒田がこちらの部屋に踏み入り、曽根崎に向けて声を発する。黒田は曽根崎が右手で握るピストルを認識したようで、表情が険しくなる。
「ずいぶん乱暴なお客さんだなぁ」
「拳銃を持っている人間に言われたくないな」
僕と曽根崎は一m程の間隔を空けて立っており、ピストルを突き付けられている訳ではないが、曽根崎のぶらりと下した右手にはピストルがしっかりと握られている。この部屋の入口にいる黒田と僕達の距離は少し遠い。
「この子を送り込んだのは君かな?」
曽根崎の仲間四人をボコボコにしたと思われる黒田が来ても、曽根崎は動じる様子はなかった。
「そいつは俺とは無関係だ。銃を捨ててもらおうか」
「この写真、あんたにとってはまずいものだろ」
黒田が曽根崎に見せつけた写真には曽根崎が女子高校生達と一緒に部屋にいる姿が映っていた。
「一体どこでその写真を?」
曽根崎の眉が吊り上がり、ピストルを持つ右手に力が入る。
「銃を捨てなきゃ、俺はこの写真をどう使うか分からないぞ」
「へえ」
曽根崎の顔に余裕が戻り、ピストルを放り投げた。
「これでいい?」
「ずいぶん早く決断したな。賢明な判断だ」
曽根崎の態度に余裕があるのが気になったが、ピストルを捨てたのを見届けると僕の体は少し軽くなった。黒田の方へそっと近づく。
「黒田さん」
僕は黒田に呼びかける。曽根崎のいるこの部屋に破壊者からのメールだと思われる書類があることを伝えなければならない。
「この部屋に破壊者のメールだと思われる書類が・・・」
破壊者という単語を口にした瞬間に黒田の表情筋がピクリと動いた。
「曽根崎」
黒田の声に怒気が含まれている。
「破壊者、知ってるんだな?」
曽根崎が破壊者という言葉に一瞬ビクリとしたが、その後すぐに顔に笑みが戻った。
「破壊者? B様のことか?」
曽根崎が再びデスクの引き出しを開ける。そしてまたピストルを取り出し、銃口を黒田の方へと向ける。
緊張感と静寂に包まれた部屋に時計の針の音だけが響き渡った。
* * *
慧君に続いてバスから降りる。階段を下りてバスが去るのを見届けると、一定の間隔で道路に植えられているヒノキが私の視界に入る。見慣れた風景。私達の地元。向かい側の道路で年端もいかない女の子がお母さんと手をつないで歩いている。まだ小学生にもなっていなそうな女の子。お母さんは手をつなぎながら女の子の頭を撫でる。羨ましい、のだろうか。私には母との温かい記憶などない。
「谷村さ」
私がぼうっと道路の向かい側を眺めていると慧君が声を掛けてきた。
「さっき病院で何か言いかけなかったか?」
私が慧君に言おうとしたこと。家に居座っている菅原という名のお母さんの恋人について。一人で抱え込まずに話してもいい気がした。慧君になら。
「あのね、うちにお母さんの恋人が一緒に住んでるんだけど・・・」
私は慎重に言葉を重ね、菅原がねっとりした視線で私を見てくること、幼い私の裸の写真が菅原のタバコの箱の下に何枚も置かれていたことを慧君に打ち明けた。
慧君が眉間にしわを寄せる。
「谷村」
慧君が心配そうな声を出す。
「辛かったな」
慧君の言葉はいつも魔法のように私の心を動かす。
「ううん」
否定したが、実際とても辛かった。心細かった。でも慧君の言葉はそれを打ち消してくれるようなパワーを持っていた。
「今日俺も一緒に家まで行くよ」
「え?」
「谷村のお母さんに話してみる」
「でも・・・いいの?」
嬉しい反面、慧君に迷惑が掛からないか心配だった。それとお母さんに話して解決できるのかという疑問もあったが、慧君にはお母さんの人間像まで詳しく話していないため、慧君の善意を踏みにじりたくなかった。
「ああ、何とかしてみせる」
「あ、ありがとう」
バス亭から歩いて私の家へ向かう。菅原は用事があって出掛けていて、夜遅くまで帰らないと聞いており、お母さんは今日は仕事が休みだ。
二人で家路を辿り、私がよく立ち寄る小さな公園まで来た。
「慧君」
「ん?」
「ちょっと公園で休憩しない?」
私はまだお母さんの所へ行く覚悟ができてなかった。
「ああ、いいよ。休憩しよう。飲み物買ってくるよ」
慧君は公園の自動販売機まで走り、お茶を買って来てくれた。
ブランコに座りながら、お礼を言って私はペットボトルに口をつける。緊張で乾いていた喉に潤いを与える。
「日が長くなってきたな」
十八時を少し過ぎだが、まだ日は沈んでおらず、ブランコに腰を降ろした私達の正面には夕焼けが見える。淡い橙色の夕日の光が私の目にそっと優しく入ってくる。
綺麗だ。
慧君と二人で見る夕焼け。これから家に帰るのは不安だが、慧君がついているし、なんだが気持ちに少し余裕ができた。
「そうだね。もう五月だもんね」
私が返事をしてから、二人の間にしばらく沈黙が流れる。でもそれは気まずい沈黙ではなくて、心地のいい沈黙だった。私も慧君も言葉数が多いタイプではないから、こうして言葉を交わさずに過ごす時間が生まれる。私はその時間がとても愛おしく思えた。
「慧君は自分の家って好き?」
長い沈黙を破り、私は質問をする。
「自分の家か。どうだろう。嫌いじゃないかもしれない」
慧君は少し考えてから答えた。慧君のいう嫌いじゃないという言葉の響きは家への愛着を思わせるものだった。そっかと私は返事をした。
「私はね」
言葉が私の口からするりとこぼれ落ちる。
「私は自分の家が好きになれないんだ」
「物心ついた頃から自分の家にいても落ち着くとか、好きだなって気持ちにならないんだよね。私っておかしいのかな?」
こんなことを慧君に言っても仕方ないのになぜか慧君に私の今の気持ちをぶつけてしまう。
「おかしくなんかないよ」
慧君は私の目見て、すぐに言葉を返してくれた。
「全然おかしくなんかない」
私を見る慧君の瞳はとても綺麗で、とても真剣で、言葉と同じようにまっすぐだった。
人の感情が千差万別だってことは頭では分かっていた。でも、その気持ちをこうして肯定してくれる人がいるということは初めてで、ずっと探していた私の気持ちの収まりどころが見つかるのかもしれないと思えた。
「周りの皆は家族や家が好きな子ばっかりに見えて、私だけが、私一人だけが違うのかと思う時があるの」
「でも」
私は慧君の目を見て、言葉を続ける。
「慧君の言葉で、そうじゃないんだなって実感できたよ」
「俺は大したことは言ってないが」
「ううん。話聞いてくれて、真摯に答えてくれた」
言ってから少し照れくさくなって、私は慧君から視線を外す。目のやり場をどこにしたらいいのか分からなくて、地面を見つめる。蟻がとてもゆっくりと、でも蟻本人にとってはきっと一生懸命速いスピードで歩いていた。
「慧君、そろそろ家まで行こうか?」
「ああ、行こう」
私と慧君はブランコから立ち上がり、一歩を踏み出した。
玄関のドアの鍵穴に鍵を差し込み、ガチャリと回す。ドアを開けた瞬間に目に飛び込んできたのはリビングのテーブルに腰掛ける母の姿だ。薄暗い部屋に重苦しい空気が漂っている。
母はアルバムをテーブルに広げており、写真をタバコの箱の下に置こうとしていた。
「何、してるの?」
私の裸の写真を菅原のタバコの箱の下に置いている? どうして?
私の声にハッとして、母がこちらを振り向く。若々しい顔立ちをしているが、どこか疲れているようにも見えた。
「あんた、男連れてきたの?」
私の質問に答えずに、慧君を見て発した言葉にがっかりした。
「ねえ、それ、何してるの?」
母が頭を押さえてうなだれる。
「あんたがいけないんでしょ」
母の口調が刺々しくなる。
「あんたが菅原君に色目使うから、あんたに菅原君との距離を取らせるにはこれが一番だと思ったのよ」
何を言っているのか分からなかった。私が菅原に色目を使っている?
「前もタバコの箱の下に私の裸の写真置いたの、お母さんだったの?」
母が開き直ったように笑う。
「だから何? あんたみたいな男好きは嫌な思いをすればいいのよ。私の前の彼氏のことも取ろうとして」
お母さんの前の彼氏は比較的優しくて話しやすい人だったが、私は決して好意など抱いていない。なぜこんな嫌がらせを受けなければならないのか。完全な逆恨みでしかなかった。
「谷村」
慧君が私の腕を掴む。
「出ていこう、一緒に」
たくさんの感情が私の中で動く。
苦しい。嫌だ。逃げたい。嬉しい。
慧君と一緒にいたい。
「あなた、いきなり何よ」
母がヒステリックな声を上げ、顔がみるみる歪んでいく。
「いきなり人の家に来て、娘を連れて出ていくなんて、失礼にも程があるわよ。まあ、あんたにつく男なんてそんなもんか」
「失礼なのはどっち?」
ふつふつと怒りが湧いてくる。
「私に対する態度も慧君に対する態度も失礼すぎるよ。そもそもお母さんが私に嫌がらせしてきたんでしょ。もういい加減にしてよ」
自分の感情が上手く制御できない。こんなことは初めてだった。今まではどんなに嫌なことを言われても、どんなに嫌なことをされても、波風を立てずにその場をやり過ごしてきた。でも今は・・・。
「本当にあんたは」
母が台所に向かいながら、ぶつぶつと独り言のように呟いた。
「本当にあんたは邪魔なだけのお荷物でしかないわ」
大きく開かれた充血した目。両手に握られた包丁。包丁の刃先は私に向けられている。
「やめろ」
慧君の声が響き、母の足が動いた。
* * *
ポツポツと降っていた雨が強くなってきた。髪も体もだいぶ濡れてきたが、俺には傘を買いに行く気力も、雨宿りできる場所を探す気力もなく、その場に立ち尽くしていた。
あの事件から三か月が経過した。全てがどうでも良くなり仕事も辞め、自宅にも帰らず、ネットカフェに泊まり無為な毎日を過ごしている。
激しい雨が俺に降りかかる。全てを洗い流すようなこの雨は二週間前の記録的集中豪雨で大勢の犠牲者が出た災害を思い起こさせる。大切なものを奪われて理不尽な想いをした人がたくさんいることだろう。俺は三か月前の出来事を経験したことで生まれた感情をどこにぶつけていいのか分からなかった。今でもあいつがあんなことをした理由が分からないし、失ったものが大きすぎて俺は空っぽになってしまっていた。
ニャーと後方から猫の鳴き声が聞こえた。振り返ると、傘を差して肩に猫を乗せた長髪の女が立っていた。
「田中慧さん?」
自分の名前を呼ばれ、少しドキリとする。なぜ俺の名前を知っているのだろう。
「こんな所で傘もささずに立っていたら、ずぶ濡れになって風邪をひくわよ」
女が差している傘とは別の真っ黒な傘を差し出した。俺は傘を手にする気にならない。
「三か月前の事件」
女の口から出た単語に脳が、心が反応する。
「あの事件は報道されていない事実が隠されているわ」
「どういうことだ?」
「自分は手を汚さずに事件を引き起こした黒幕がいるのよ」
黒幕。
一瞬この女は何を言っているのだろうと思ったが、俺の体は自然と動き、女から差し出された傘を受け取っていた。雨音がどんどん強くなり、俺の心臓の鼓動も雨につられて速くなっていく。右手で傘を開き、左手を自分の胸に当て、自分の体からエネルギーが生まれていくのを実感した。負のエネルギーを。
* * *
黒田の姿が消えた。消えたように見えた。
その直後、曽根崎が握っていたはずのピストルが床に落ちた。既視感のある光景だった。
ピストルを落とされて焦る曽根崎に蹴りを入れて態勢を崩し、黒田はすばやくピストルを拾い、銃口を曽根崎に突き付けた。曽根崎の顔が真っ青になり、体が震えているように見える。
「形勢逆転だな」
黒田が勝ち誇ったような顔をしている。対して曽根崎は顔から先程までの覇気が失われていく。
「そんな馬鹿な」
曽根崎は信じられないと言わんばかりの表情で足を震わせながら後ずさりをする。
「手を後ろで組め」
黒田の声に恐ろしさを感じた。声量は大きくはなく、怒気も感じられないが、嫌な感じがする。
「これでいいか?」
曽根崎が黒田の指示通りに体の後ろで手を組むと、恐る恐る黒田にお伺いを立てる。まるで、悪いことをした子供が親の顔色を窺っているような、弱弱しい印象を受けた。
「ああ」
黒田が言葉を返した瞬間、黒田のピストルを持った右腕が動いた。右手で持ったピストルで曽根崎の顔を殴りつけ、曽根崎はその衝撃で尻餅をついた。
「B様というのは誰だ?」
黒田が床にへたり込んだ曽根崎に対し、右足で強烈な蹴りを入れる。黒田のキックは曽根崎のみぞおちに入ったようで、曽根崎は悲鳴を上げた。
「お前が吐くまで続けるぞ」
黒田が子供のように笑いながら、何度も何度も繰り返して曽根崎を蹴り続けている。その黒田の無邪気な子供のような姿に僕は恐怖を覚えた。曽根崎もきっと僕と同様、いやそれ以上の感情を覚えているに違いない。
「B様は・・・」
曽根崎がようやく口を開いた。黒田に蹴り続けられた顔面は腫れてあがっており、痛々しくて直視できない。
「ようやく吐く気になったか」
「B様のことは・・・教えない」
曽根崎の様子が変わった。先程までの恐怖に怯えていた表情が無表情になり、目が据わっている。
「何があっても、B様を守るのが我々の役目だ」
「お前・・・」
曽根崎が別人のような口調になり、黒田が目を大きく開いて驚いている。
曽根崎が後ろで組んでいた手をほどいて、デスクの方へ歩き出した。
「動くな、撃つぞ」
黒田の脅しにも全く動じる様子がない。何かに操られているように曽根崎は足を動かし、デスクの引き出しを開け、何かを取り出す。
「まだ銃があったのか」
曽根崎が取り出したものはピストルだった。一体いくつピストルを持っているのだろう。
曽根崎は銃口を黒田や僕の方へ向ける気配はなく、だらりと降ろした右手に銃を握ったまま立ち尽くしていた。
「なあ」
曽根崎が顔から笑みがこぼれる。
「この世界を生き抜く上で一番大事な事は何だと思う?」
曽根崎からの質問は唐突だった。声色が少し高くなっているような気がする。
「急に何だ?」
「いいから答えてくれよ。B様も知りたがっている」
曽根崎がピストルを握ったまま、両手を高々と上げ、天井を見上げた。ここには黒田と僕しかいないのに何か見えない存在を見つめているようにも見える。表情からも行動からも気が触れているようにしか思えなかった。
「この世界を生き抜く上で一番大事な事ね・・・」
黒田は少し考え込んだ後、言葉を発する。
「人を思いやる心・・・」
「を持っている人間だと思わせる能力。そして実際は他者を傷つけることをためらわない心を持っていることだ」
曽根崎の口元が緩み、視線が黒田から外れない。黒田の口から出た言葉はなぜだか僕には本心ではないように思えた。
「ハハハハハッ」
「君は面白いな。そこら辺にいる有象無象とは全然違う。うん。実にいい」
「それで?」
黒田が冷たい口調で返す。
「だから何なんだ。俺はそんなくだらない話をしに来たんじゃないんだよ」
「穏やかじゃないな。いいことを教えてやろう」
「B様も君が言ったことと同じようなことを言っていた」
「そんなことはどうでもいい」
黒田の発した声は曽根崎を突き放す。
「B様とは誰だ?」
曽根崎との距離を詰め、銃口を曽根崎の額に向けている。
「そんなにB様のことが知りたいのか? 君は。でも何があっても教えない」
「それに」
曽根崎が満面の笑みを浮かべる。
「君にはその引き金を引くことはできないだろう?」
黒田の顔がひきつる。
「君は本質的にはとても優しい人間だ・・・。そうだ。そんな君にいいものを見せてあげよう」
曽根崎が歯を見せて笑い、銃口を自分のこめかみに突き付けた。
「なんのつもりだ?」
黒田が動揺しているのが伝わってくる。僕も曽根崎の行動に驚きを隠せなかった。
「どうしてそんなに怖がっているのかな?」
「今すぐ銃を降ろせ」
「それはこちらの台詞だ。君が銃を降ろしてくれないと、私はこの引き金を引くよ」
「私が引き金を引けば、君はB様の情報を知ることはできない。でも君が最も恐れていることはそれじゃないだろう」
人が死ぬこと。
僕の脳裏に浮かんだ黒田が最も恐れていること。
黒田は僕がカツアゲ男に脅されていた時もカツアゲ男が持っていたナイフを奪い取って捨てた。紗良が交際中の恋人を金づちで殴り続けていた時もすぐに止めに入った。
きっと黒田は。
「分かった」
黒田と目が合う。その目は輝きを失い、泥のような色をしていた。
「銃は捨てる」
黒田が足元に丁寧に銃を置く。
「これでそっちも銃を降ろしてくれるんだろう?」
「ハハハッ。そんなわけないだろう」
曽根崎は自分の頭に突き付けていた銃を僕の方へ向けた。
「形勢逆転、かな?」
曽根崎が得意げな表情で黒田の方を見た。僕の視界には曽根崎が持つピストルの銃口が映っている。曽根崎が引き金を引けば、僕は死ぬだろう。自分の命の危機が他人事のように思えた。
カンと音がした。
「形勢逆転って、どっちがだ?」
黒田が曽根崎を羽交い絞めにしている。いつのまにピストルを叩き落として移動したのだろうか。
「そんな・・・馬鹿な・・・」
首を絞められた曽根崎から力のない声が発せられ、曽根崎の顔が苦痛で歪んでいく。
「二郎、銃を回収しろ」
「あ、はい」
黒田に命じられるがまま、僕は落ちているピストルを拾って、黒田達から離れる。
「さあ、知っていることを全て話してもらおうか?」
「ぐ・・・」
黒田は曽根崎を追い詰め、確保した。その直後、携帯が鳴り響いた。
* * *
「帰りのホームルームを始めます」
六月の教室。外は雨がしとしとと降り、じめじめした気候が続いている。今日は金曜日だが、今週は月曜日からずっと雨が続いている。雨の降る音。雨の匂い。傘立てにずらりと並ぶ傘。雨を嫌がる人は多いが、私は雨が嫌いではなかった。雨は歓迎されないことが多いが、雨が全くないと農作物などは育たないはずだし、悪いことだけではないはずだ。
「じゃあ何か報告がある人」
今日の日直の神城くんが教壇の前に立ち、クラスの皆に呼び掛ける。神城君の声には何も反応がなく、どうやら何も報告はないようだ。
「特にないみたいですね。じゃあ、今日も雨なので皆さん気をつけて帰りましょう。では佐々木先生お願いします」
「はい、神城君ありがとう」
佐々木先生が神城君を見て返事をする。神城君は会釈をして私の隣の自分の席へと戻ってきた。
「では、私からは一点報告があります。最近小中学生を狙った不審者が出没しているという情報が寄せられています。皆さんはできるだけ一人ではなく、複数で登下校するようにお願いしますね。それから、知らない人、特に怪しい人にはついて行かないように」
「不審者か、ちょっと怖いね」
隣に座った神城君が呟いた。
「最後にさっき神城君が言ったように、今日も雨なので足元に気をつけて帰るように。ではお疲れ様でした」
「起立」
神城君が腹から声を出す。
「礼」
「ありがとうございました」
ホームルームが終わると、慧君が私と神城君の席の間にやってきた。
「不審者だってな。気をつけないと」
「うん、物騒だね。久しぶりに今日は皆で集まろうか?」
「いつもの喫茶店? いいね」
神城君の提案に私は賛同する。慧君も頷いている。
「加藤も呼んでくるよ」
慧君は加藤君の方へ駆け出していった。その後ろ姿はとても大きく見えた。
梅沢君達が加藤君をいじめなくなり、私達仲間と一緒にいるようになってから、加藤君は笑顔が増えた。今も慧君と笑いながら言葉を交わしている。そのことに私の心が潤う。
「ねえ、私も行っていい?」
私の後ろの席の佐倉さんが身を乗り出して私達の会話に参加してきた。そういえば、佐倉さんは今まで私達の集まりに参加したことがない。佐倉さんは塾等の用事があり、都合が合わなかったからだ。
「もちろんいいよ。修学旅行の同じ班なんだし一緒に行こう」
即座に神城君は了承し、私も同意する。
「やったぁ。喫茶店ってどこ?」
佐倉さんの顔が火照る。神城君を見るときの佐倉さんの目はいつもとどこか違うように感じる。
「よし、行くか」
慧君が加藤君と一緒に戻ってきた。佐倉さんの視界に慧君が入ったからなのか、佐倉さんのさっきまでの目が元に戻った。とても細く小さい目。
ふと、慧君と目が合う。なんだが照れくさくて私はすぐに目をそらしてしまう。
「へぇー。前もここに来たんだ。おしゃれな喫茶店だね」
小さな商店街にある喫茶店のドアを開け、佐倉さんが物珍しげに店内を見渡す。お客さんは誰も入っておらず、いつもの不愛想なマスターと思われる店員さんがカウンターの後ろの椅子に座ってテレビを見ていた。
「いらっしゃいませ」
こちらを振り返りもせずに、店員さんは挨拶をした。私達は四人掛けの席に椅子を持って来て五人で座った。誕生日席に座ったのは慧君だった。
「今日さ」
メニュー表を見ながら佐倉さんの声が響く。
「佐々木先生が不審者の話してたでしょ。B組の周防(すおう)さんがつきまとわれたらしいよ」
周防さんと言えば、生徒会長で成績もトップ。おまけに美人という私達の学校の注目の的となっている人だ。
「あの周防さんが?」
加藤君が興味深そうに聞く。
「うん、この前B組の廊下を歩いてた時聞こえてきてさ」
「僕は知らないけど、うちの学校の有名人なんだね」
「俺も知らない」
四月に転校してきた神城君は知らないのは分かるが、慧君まで周防さんの存在を知らないというのは驚きだ。
「知らないの? あんた本当にうちの生徒?」
佐倉さんが慧君の事を宇宙人を見るかのような目で見ている。
「ああ、興味がないからな」
噂好きの佐倉さんと慧君は対照的だった。だからこの二人は馬が合わないのかも知れない。
「それで」
慧君が言葉を続ける。
「その周防さんはどんな被害を受けたんだ?」
「それが」
佐倉さんが淡々と話す慧君に対して少しむすっとして答える。
「執拗に追い回されて写真を何枚も撮られたらしいよ」
「それって先生には報告してあるのかな?」
神城君の表情がいつもより少し険しく見えた。理不尽なことを許せないタイプなのかもしれない。
「ご注文は?」
店員さんが不機嫌そうに尋ねてきた。話が白熱して注文するのを忘れていた。
「すみません、アイスコーヒー五つで」
神城君が皆に飲み物を確認してから、即座に注文した。注文を聞いても何も言わず、相槌すら打たずに店員さんは去っていった。
「感じわるくない? あの店員」
佐倉さんが愚痴をこぼす。あの店員さんは確かに感じが悪く、今日は私達が注文をせずにしばらく話を続けていたのも相まって、その感じの悪さは最高潮に達していた。
「うん、確かに。あの態度はひどい」
加藤君が相槌を打つ。
「でもまあ、僕達が注文するのが遅かったのもあるしね」
神城君が店員さんをフォローする。
「うーん、そうかもしれないけど、何だかもやもやする」
「それよりも話を戻すけどさ」
神城君が私達の話している内容が店員さんの態度の話に逸れたのを軌道修正する。
「その周防さんって子が受けた被害を聞くと、その不審者を放っておくのは危険だと思うんだ」
佐倉さんがうんうんと頷く。
「そうよね。私も神城君の言う通りだと思う」
さっきまでの喫茶店の店員さんに対する怒りが消えたかのように佐倉さんの態度が変わる。そして神城君を見つめる瞳はいつもより少し輝いているようにも見える。
「それで考えたんだけどさ」
神城君の表情が真剣になる。
「周防さんの被害の先生への報告の確認はもちろんしようと思うんだ。それとは別に僕達で不審者を突き止めない?」
「ええっ?」
皆が驚きの声を上げる。
「でもなんか面白そう」
「面白そうなのはあるけど、でも僕達生徒だけじゃ危なくないかな?」
乗り気の佐倉さんに対して加藤君は少し不安げだ。私も加藤君の気持ちが分かる。何か新しいことをする時には、楽しみよりも不安が大きくなる。
「やろう」
慧君が力強く言い放った。
「慧君がそう言うなら」
私と加藤君の声が重なった。同じタイミングで同じ言葉を発したことに対して皆でクスクスと笑った。不安はもちろんあるが、慧君がいるのならきっと大丈夫だと思えた。あの時だって助けてくれた。私の母から。
「決まりだね」
神城君が微笑み、皆もつられて表情が柔らかくなる。
「じゃあ計画を立てようか。もちろん僕が先生に確認してからなんだけど。まずは聞き込みをしようと思うんだ」
「警察みたいだな」
慧君が少しワクワクしているのが伝わってきた。この間、慧君は警察官を目指していることを聞いたので腑に落ちた。
「佐々木先生は小中学生を狙った不審者が出没してるって言ってたけど、場所については言ってなかったね。どの辺りで聞き込みをする?」
佐々木先生の言っていたことをよく覚えているなと私は加藤君に感心する。
「今度地図を持ってくるから、皆で分担してこの周辺で聞き込みする場所を決めよう。もちろん一人で聞き込みするのは危ないから、二組ぐらいに分かれて聞き込みをしようか」
その後も不審者を突き止めるための計画を話し込んだ。あまりに長居しすぎて、喫茶店の店員さんがジロリとこちらを見てくるのに気付き、今日は解散することになった。
「じゃあまた明日ね」
「ああ」
「気を付けて帰ってね」
皆と別れて、私は慧君と一緒に家路を辿る。慧君の家まで。
母が包丁を構えた時、もう駄目なんじゃないかと思った。握られた包丁の刃先が私に向かって近づいてきた。でもその時、慧君が包丁を握り、叩き落とした。慧君の手のひらは血で滲んでいた。
慧君は叩き落とした包丁を取り、母とは逆方向に放り投げた。
「大丈夫?」
「ああ、全然大丈夫だ」
手から血がポタポタとこぼれ落ち、痛いはずなのに慧君は泣き言一つ言わなかった。
「なんで・・・」
母が死んだような目で慧君の方へ視線を送った。
「なんで邪魔するのよ」
「どいつもこいつも・・・私を馬鹿にしやがって。ふざけんじゃないわよ」
何に向けられているのか分からない怒り。私はもうその怒りの理由を理解しようとも思わなかった。私の視界に映っているモンスターについても。
慧君に手を引かれ、玄関まで向かった。ドアを開けて外に駆けだすと、「待ちなさいよ」という叫び声が聞こえてきたが、私はその声をノイズをカットするフィルタを使って聞こえなかったものとし、濡れたアスファルトを蹴って走った。家に来る前は曇りだったのに、とても強い雨が降っていた。
豪雨の中で慧君と懸命に走った。怪物に追いつかれないように。追いつかれないように必死だった。慧君の家に着いた頃には髪も服も、全身がずぶ濡れになっていた。慧君の家は長い平屋で、とても年季を感じさせる外観だった。
「じいちゃん、タオルある?」
慧君から今までに聞いたことがないような大きな声が発せられた。
どたどたと足音が聞こえ、背が高く目つきの鋭い少し怖そうなおじいさんが現れた。
「なんだぁ、ひどい濡れようだな」
怖い見た目に反して、私達に掛けた声は優しい音がした。慧君と私はバスタオルを一枚ずつ渡される。
「風邪引いちまうよ。風呂入んな」
「谷村、この奥が風呂だから先行っていいぞ」
「え? いいの?」
申し訳ない気持ちが湧いたが、二人の気遣いを無下にするのもどうなのかと思い、お言葉に甘えた。
「すみません、ありがとうございます。お風呂お借りします」
タオルで濡れた髪を拭きながら、慧君が指さした方へと歩くと、洗面所兼脱衣所に辿り着いた。新しくは無さそうだが、しっかりと掃除が行き届いている様子で、洗面台は綺麗で汚れは一切見当たらなかった。濡れて重くなった服を脱ぎ、どこに置けばいいのか迷ったが、脱衣所に洗濯かごのようなかごがあったため、その中に入れた。
お風呂場に入り、蛇口をひねってシャワーのお湯を出す。雨に濡れた後のシャワーはとても心地良く、嫌なことも全部洗い流してくれるような、そんな温もりを持っていた。
お風呂場の鏡に映っている自分の顔を見つめる。目にクマができて、疲れた顔をしている私。私はどうやってあの環境から抜け出そうか、そればかりを考えている。
この家は慧君とおじいさんの二人暮らしだと聞いており、洗い場にはシャンプーとボディーソープぐらいしかなく、リンスやコンディショナー等は置いてなかったが、元々髪の手入れや見た目に気を遣う方ではないため、私はそんなことはどうでもよかった。それよりも、慧君と同じシャンプーを使うということを意識すると、少し心臓の鼓動が速くなっていくのを感じた。左胸に手を当てて、ドクンドクンと波打つ心臓を確認し、私は生きているんだと実感した。
「お嬢ちゃん」
入浴後にバスタオルで丹念に体を拭いて用意されていたパジャマのような服に着替え、ドライヤーで髪を乾かしてから脱衣所を出ると、慧君のおじいさんがいた。
「あいつから事情は聞いてるよ。空き部屋があるからいつまででも使っていいぞ」
慧君のおじいさんは部屋の方向を指差してニッと笑った。
* * *
「曽根崎と破壊者とのつながりは?」
夜の喫茶シャーロックは閑散としていた。僕はホットココアを、黒田はブレンドコーヒーを頼み、ハルカに問いただす。
「今の所まだ分かってないわ。それにしても、まさか曽根崎が破壊者とつながっていたなんて・・・」
現在曽根崎はハルカとつながりのある裏社会の人間に監禁させ、破壊者の情報を吐かせるべく尋問中だ。何とも物騒な話だが、僕はこの類の話に少し慣れたのか、以前ほど動揺しなくなっている自分に気付き、そのことに少し怖くなった。
「本当に知らなかったんだな?」
「何が?」
「曽根崎と破壊者との関係についてだ。知らずに今回の仕事を振ったのか。一流の情報屋のハルカさん」
黒田が嫌味ったらしくハルカに言葉を放つ。破壊者が絡むと黒田は余裕がなくなることが多い気がする。
「曽根崎と破壊者の関係については本当に分かってなかったわ。曽根崎の仕事を振ったのは本当に偶然よ」
ハルカの表情、口調に怪しい所はない。が、僕も黒田同様疑いを全く持っていないと言えば嘘になる。本当にハルカは曽根崎と破壊者について何も知らなかったのだろうか。
「それよりもいい情報があるわ」
ハルカは黒田の目の前のカウンターにDVDを差し出した。
「見つけたかもしれない。破壊者」
「本当か!」
黒田がカウンターをドンと大きく叩いた。
「ええ、先日の黒沢紗良の事件の直前の映像を入手したわ。そこのDVDプレイヤーで再生してみて」
紗良。
紗良との記憶が頭の中で再生される。事件直後は紗良の生い立ちや学生時代の印象、これまでに就いていた仕事等の報道がひっきりなしに行われていたが、今は政治家の収賄事件が起き、その報道に埋もれるように紗良の報道は影を潜めた。
黒田はとても慌ただしくDVDのディスクを手に取り、席を立ってDVDプレイヤーの方へ駆け出す。ディスクを入れ映像が再生される。映っているのは新宿アルタ前の傍にある狭い路地だ。
「どこだ」
「焦らないで。もう少しで出てくるわ」
ハルカの肩の上に乗っていたケプリルがカウンターの上にひょいとジャンプして着地し、黒田の方を見つめた。いつもなら黒田はケプリルを撫でたりするものだが、今はそんな余裕はなく、黒田の視線はテレビに釘付けだ。視界にはケプリルは入っていないだろう。
映像が少し進むと紗良と思われる人物がある男と話している様子が映った。
「こいつか」
男は紗良に何かを見せている。黒のスーツを着ており、きっちりとした身だしなみをしている五十代後半ぐらいに見えた。
「衆議院議員浦川の秘書、別所(べっしょ)よ」
「浦川ってあの不倫騒動を起こした議員の秘書ですか?」
「ええ。政界ではかなりやり手の秘書として評判らしいわ」
「別所・・・。頭文字がBだからB様か。それともBreakerのBか。」
黒田が呟いた言葉を脳で処理し、曽根崎が言っていた言葉を思い出して反芻する。
破壊者? B様のことか?
B様のことは・・・教えない。
B様も君が言ったことと同じようなことを言っていた。
「そうね。その二つの可能性が考えられるわね」
ケプリルが再びハルカの肩の上に飛び乗った。今さらだが、あんな細い体であれだけのジャンプをできる猫という生き物をすごいと思った。
黒田は真剣な顔つきで考え込むような素振りを見せた。
「それよりもこの映像、別所は黒沢紗良に何を見せていると思う?」
ハルカの言葉で黒田が我に返り、一時停止しているテレビ画面に視線を戻す。
「精神をコントロールするための道具・・・。そもそもそんなものがあるのか分からないが」
「でも破壊者は何らか方法でマインドコントロールを行っているのは間違いないわ」
マインドコントロール。
この別所という男が破壊者で紗良をマインドコントロールし、あんな事件を引き起こさせたのか。でも一体どうやって? そもそも僕はマインドコントロールという事象に対して半信半疑な所がある。
「マインドコントロールって」
言おうかどうか迷ったあげく、口が動いた。黒田とハルカが僕の方を向く。
「本当にできるものなんですか?」
人を意のままに操るようなことが本当に可能なのか。
「確かににわかには信じがたいことだよな。でも破壊者は間違いなくそれを行っている」
黒田の口調は力強く、何もない場所に何かを見ているような、そんな目をしていた。
「ハルカ」
「この別所という男、調べられるか?」
黒田の言葉を受け、ハルカが自信に満ち足りた微笑みを見せた。
「私が何のために情報屋を始めたと思ってるの?」
「調べるわ。どんな手段を使っても」
ハルカの黒田へ向けた眼差しは、とても強いものだった。今までのハルカが見せたことがないような、はっきりとした怒りを含んだ表情が僕の網膜に焼き付く。
「頼む」
黒田とハルカ。この二人は同じ方向に向かって走り出している。二人の関係が僕には少し羨ましかった。何だかんだ言いながらも信頼で結ばれているような印象を受けた。信頼という言葉は僕には眩しくて、信じられなくて、うさんくさくて、上っ面だけの言葉のように映っていたが、この二人の間にある信頼はそれとは違うように思えた。
ホットココアを飲み終わり、隣を見ると黒田が左手薬指に付けているシルバーの指輪を見つめていた。以前指輪をはめている黒田に気付き、結婚しているのかと聞いた所、五年前に別れたとだけボソッと呟いた。別れた奥さんに思いを馳せているのだろうか。
「いよいよ決着をつける時がきた」
「ええ、長かったわ」
「お前も頼むぞ、二郎」
黒田に背中を叩かれる。黒田は笑顔を作っていたが、目の奥は笑ってはいなかった。隠し通せない何かが瞳の奥にいる。その何かは突き止められない。いや、突き止めてはいけない気がした。
喫茶シャーロックに流れる音楽が有名なクラシックに切り替わる。
年季の入った木製のスピーカーはこの店の内装に合っており、とてもいい味を出している。アンティークというのだろうか。そのスピーカーから流れてくるベートーヴェンの「運命」はこれから起こる何かを予感させた。
* * *
「黒幕、というのは?」
女の営んでいるという喫茶店に付いて行き、差し出されたタオルで髪の毛を拭くとブラックのホットコーヒーを啜った。もう何日もまともな食事をしていない胃にコーヒーがじんわり染みていく。
「破壊者、という怪物よ」
「破壊者?」
その単語に覚えがあった。それは事件の起こる前に俺達の家のポストに投与されていた手紙だった。ただのイタズラだろうと思って捨てた手紙。
「人を人とも思っていない怪物。でもその正体は全く分からず手掛かりもない」
「どうして手掛かりがないんだ?」
「破壊者は物的証拠を残さないのよ。なぜなら自分では手はくださないから」
自分は手を汚さずに事件を引き起こした、とさっきも女は言っていた。
「自分では手をくださないというのは?」
「マインドコントロール」
女の口から出た単語に身震いがした。
「破壊者は人の心をコントロールすることができる。それで加害者と被害者を作り出すのよ」
加害者と被害者を作り出す?
「それじゃ」
「ご想像の通り、三か月前の事件も同じ手法だと推測される。証拠は一切ないけど」
「あいつは破壊者にマインドコントロールされていたと?」
「ええ、そして・・・」
彼女の最後がフラッシュバックする。血まみれで弱った体で俺に向けて放った一言。
「田中慧さん」
女がカウンター越しにまっすぐと見つめてくる。
「全てを失ってでも、破壊者を見つける覚悟はある?」
もう俺は何もかも失っている。これ以上失うものなどなかった。
「ああ、どんな手を使ってでも破壊者を探し出したい」
そして、破壊者に辿り着いたら・・・。
「あなたの覚悟。本物のようね」
女は一枚のカードを渡してきた。
「破壊者に辿り着きたいなら、今日から私の下で働いてくれないかしら? 全てを捨てて」
受け取ったカードは身分証だった。俺は今までの自分を捨て、この身分証の人間になることに躊躇はなかった。普通なら得体の知らない人間にこんな依頼をされたら断るだろう。でも俺は普通じゃないし、何もかも閉ざされたと思っていた中で、どんなに険しくても道が出来たのなら進むしかないと思えた。
「了解した」
空になったコーヒーカップを女に返す。
「ところで、あんたの名前は?」
女が髪をかき上げ、少し微笑んだ。
「私はハルカ。よろしく」
「黒田」
ハルカと名乗った女に新たな名前を呼ばれたことで実感した。もう俺は田中慧ではないのだと。
『容疑者の女は黒沢(くろさわ)紗良(二十七歳会社員)。昨夜新宿駅東口のアルタ前で、交際中の男性の高松(たかまつ)紀夫(のりお)(三十歳無職)の顔面を金づちで何度も殴打していた所を現行犯逮捕しました。交際中のトラブルが原因ではないかと推測されますが、女は黙秘を続けているようです』
紗良が起こした事件の翌日の夕方、僕と黒田は喫茶シャーロックに来ていた。
「ブレンドコーヒー二つ」
僕の隣のカウンターに座っている黒田がハルカに注文する。
テレビ画面には紗良の高校時代の卒業アルバムの写真が拡大されて映し出されている。テレビに映っている紗良の顔写真は無表情で人を避けて生きてきたような、将来に何の期待もしていないというような高校生というレッテルが貼られそうな気がした。
『クラスではいつも一人で教室の隅っこにいましたよ』
テレビが紗良の学生時代の同級生へのインタビューに切り替わった。
『大人しくて何考えているか分からないんだけど、一度キレている姿を見たことがありましたね』
暗い音楽と共に流れてくるテンプレートのような加害者の印象を象る言葉に僕は辟易した。紗良は確かに時々癇癪を起こすことはあったが、暴力を振るったことなど一度もなかった。
昨夜、アルタ前での紗良の暴行は黒田が制止した。黒田が紗良から金づちを奪い取り、羽交い絞めにしていた所に警察官が駆け付けた。黒田は警察に引き渡すのを拒み、紗良を手放さないように抵抗したが、五人もの警察官に力づくで紗良を引き剥がされた。やめろ、と大声で叫ぶ黒田の声が虚しく響いた。
「新宿東口に設置されている監視カメラには破壊者と思わしき人物は映ってなかったわ」
ハルカがコーヒー豆を挽きながら、淡々としゃべる。
「おそらく監視カメラの設置場所を把握して、その死角を利用してるはずよ。別方面から映像が入手できないか当たってみる」
「ああ、頼む」
別方面とは何だろうかと気になったが、破壊者という存在が僕の頭の中でざわつく。
「あの」
僕は恐る恐る声を出す。
「紗良が起こした事件には、本当に破壊者が絡んでいるんですか?」
昨夜の事件の後、僕は紗良との関係について黒田に話した。黒田は破壊者からのメールの内容を再度確認してなるほどな、と呟いた。黒田の目は獲物を狩る猟師のようになっていた。
「十中八九そうね。昨日あなたに届いたメール。そして加害者と被害者の特徴から破壊者の仕業だと推測される」
「被害者と加害者の特徴? どういうことですか?」
黒田が目を伏せる。何かを考え込んでいるような、思い返しているような様子だ。
「破壊者のターゲットになる人物にはある傾向があるのよ。まあそれは追々話すわ」
何かが引っ掛かるが、ハルカも言いづらそうに言葉を紡いでいたので、僕はそれ以上追及しなかった。
ブレンドコーヒーが出てきたので、一口啜る。隣の黒田もブラックのままカップに口をつけた。
「ハルカ、例の映像入手にはどのくらい時間がかかる?」
「少し時間が必要ね。でも一週間以内にはなんとかしてみせるわ」
「そうか、ならその間は別の依頼を引き受ける」
「それじゃあ」
ハルカは一枚の写真をカウンターの上に置いた。
「この男を見つけて取り押さえて欲しいの。未成年の女子の売春を斡旋していて、新宿を根城にしていることは分かっているわ」
黒田と共に僕は写真を凝視する。写真の画質は大分ぼけていてはっきりとは見えないが、オールバックの髪型に黒のサングラスをかけたガラの悪そうな男だ。いかにも犯罪に加担していそうな。
「警察が逮捕できてないってことは何か訳ありなんだな?」
「ご想像におまかせするわ」
警察と口にする時の黒田の声がいつもと違っていた。少しためらっているような口調。
「まあ、それはいいや。よし、白野。一緒に探すぞ」
「ええっ僕もですか?」
黒田の提案にぎょっとした。なぜ僕が犯罪者と対峙しなければならないのか。
「黒田。一般人の白野君を巻き込まないで」
「大丈夫だ。こいつに危害は加わらないようにする」
そういう問題じゃなくて、とハルカは続ける。黒田は屁理屈を並べてハルカを説得しようとする。ハルカはそれに対して反論を述べる。
もうどうにでもなれ。僕は黒田からの協力を拒む気も失せてきた。
「分かりましたよ。僕もやりますよ」
紗良の件で動揺しているのを紛らわせたかったのもあったが、僕も役に立ちたいという気持ちも少し芽生えていた。
「よし。じゃあさっそく行くぞ、二郎(じろう)」
ハルカが頭を押さえながら溜息をつく。黒田が僕のことを下の名前で呼んだことに対して馴れ馴れしさを感じたが、少しくすぐったかった。
「気をつけてね白野君。何かあったらいつでも連絡して」
黒田に根負けしたハルカから電話番号が書かれたメモ用紙を受け取る。ハルカの表情は心配の色を隠せていなかった。
二階からケプリルが降りてきて、カウンターにジャンプして飛び乗ると僕と黒田の前を横切り、カウンターの奥へ再びジャンプする。コーヒー豆の匂いを嗅いでおり、以前も嗅いでいたブルーマウンテンの豆だった。ケプリルの好きな香りなのだろうか。
カウンターの奥は綺麗に整理されており、コーヒー豆の袋が整然と並んでいる。手動のコーヒーミルは年季が入っているように見えるが、そのレトロな感じがこの店の内装に合っているように思えた。ケプリルはカウンターの奥に座ると、天井を見上げた。クルクルと回るシーリングファンを見つめているようだ。照明のついたシーリングファンの照明が程よい照度で僕達を照らす。
黒田と共に席を立ち、喫茶シャーロックを出る。自動ドアではない手動の扉が少し重く感じた。
紗良に出会ったのは三年程前だった。僕の大学時代の友人の猿渡(さるわたり)という男がセッティングした三対三の合コンの場で、無表情でつまらなさそうにしていたのが紗良だった。
合コンに使用した居酒屋は女性の好みそうなイタリアン風の店で、店内に立て掛けられている手書きのメニュー表がとてもおしゃれに見えた。メニュー表にはいちおしのワイン等が書かれており、イタリアンだけあってワインが売りの店のようだった。天井にぶら下がっている小さなシャンデリアもこじゃれていた。店内はカップルや女性が多く、女性慣れした猿渡がいかにも選んだと思われる店だった。僕達が入った個室は六人が座る席にしては広く、一人一人の間隔がある程度空いていることに僕は少しホッとした。ぎゅうぎゅうの狭い席での距離の近い合コンはごめんだったからだ。
僕は初めての合コンで終始緊張し、盛り上がる会話の中にあまり入っていけなかった。合コンの最中に紗良と何度か目があった。化粧っけのない平坦な顔。顔立ちは悪くなさそうに見えるが、男を、というより人を寄せ付けないような雰囲気が顔にも表れていた。
「ちょっとトイレ行ってきます」
「おうおう。早く戻れよ」
陽気な猿渡は男性受けしそうな小柄で愛嬌のある可愛らしい女性との会話を弾ませていた。僕はトイレで用を足し、合コンなんて来るんじゃなかったかなと後悔の念を抱いた。すぐには戻りたくなかったので、個室トイレの中でスマートフォンでネットサーフィンをした後にトイレから出た。そこには紗良が立っていた。
「大丈夫?」
ボソボソッとした声だった。だが、僕を心配してくれているようで、少し意外だった。
「ああ、全然大丈夫です」
そっか、と素気ない言葉を返すと、続いて驚きの言葉が飛び出してきた。
「ねえ、二人で抜け出さない?」
「え?」
突然の申し出に僕は固まった。女の子からこんな風に誘われたのは初めてだったからだ。そして合コンの場でふてくされているような態度の女性からそんな言葉が出てくるとは思ってもみなかった。
紗良と居酒屋を出たあと、公園を見つけてブランコに座った。完全に日が沈んだ夏の夜の公園はどこか風情があった。遊具はブランコしかない小さな公園だった。
「この世を生き抜くことで一番大切なことって何だと思う?」
ブランコを揺らしながら、紗良から出てきた言葉は唐突だった。
「うーん、考えたことないな。何だろう」
「そう言うと思った」
紗良と目が合う。闇を孕んでいそうな大きな黒い瞳。その闇の中を覗きたくなるような不思議な魅力があった。合コンの場での目つきとは異質なものに見え、ほんの少し雰囲気が優しくなっているような気がした。
「でも私も似たようなもんか。時間が経てば経つほど分からなくなる。頭の中がぐちゃぐちゃして」
紗良が左手で髪をかき上げた。耳からぶら下がったエメラルドのピアスが夏の夜に光を放った。
「子供の頃って楽しかった?」
長い静寂の後、紗良が口を開いた。
「・・・楽しい記憶はあまりないな」
子供の頃に受けた仕打ちが頭の中でフラッシュバックした。何度も何度も殴られて、ナイフを首元に近づけられた映像が再生される。
「そっか」
ゲコゲコと鳴き続けるカエルの声に重ねて紗良の声が聞こえた。
「私も同じ」
紗良がブランコを強く漕ぐ。
「何にも楽しいことなんてなかった。味方も一人もいなかった。だから他人は信じられない」
人を簡単に信用するという人よりも、他人は信じられないと言い放った紗良に好感を持った。僕も同じだからかもしれない。紗良は味方が一人もいなかったと言ったが、僕は子供の頃に助けてくれたお兄さんの存在を思い出した。小柄で弱弱しそうな優しいお兄さん。でもあの人は・・・。
「他人を信じられる日っていつか来るのかな?」
「多分来ないよ」
ブランコに揺られながら紗良がこっちを見て少し微笑んだ。
「僕もそんな気がする」
あははっ声を出して紗良が笑った。他人を信じられないという希望のひとかけらも残っていない言葉を笑ってのける紗良を見て、僕は親しみを覚えた。紗良の着ているグレーのワンポイントのTシャツが汗で滲んでいた。日が落ちたとはいえ、七月の夜は暑かった。僕もYシャツの下に来ているシャツが汗で濡れているのに気付いた。
「二軒目行かない?」
自分の発した声に自分で驚いた。なぜだか自然と誘えた。
「いいよ。奢ってくれる?」
紗良も少し驚いた表情を見せたが、すぐに返事をしてくれた。僕達はブランコから立ち上がり、公園の土を踏みしめて歩いた。
その後も紗良と時々会うようになり、僕達はそのままの流れで付き合うことになった。
* * *
病院は独特の匂いがする。広い待合室は様々な年代の人達がいて、受付の人が忙しそうにしている。
私の隣に座る慧君は文庫本を読んでいた。「一九八四年」というタイトルの本のようで、有名な本らしかったが私は知らなかった。そもそも本等が読めないから今日ここに来ているんだった。
今日は私が学習障害(LD)かどうか診断するために仙台市にある総合病院を訪れた。皆に相談した所、慧君が付き添ってくれることになった。
母には病院に行くことは言わなかった。普段私をほったらかしにする分、生活費となるお金をテーブルの上に置いていくので、今回の病院代はその中から捻出した。
母のことを考えたら、リビングのテーブルの上にあった写真についての記憶が呼び起こされた。生まれたままの姿をしている幼い頃の私の写真。
気持ち悪い。
菅原のねっとりとした視線。それはそういう意味を含んでいたのかと想像してしまう。これまで直接的な被害は受けてはいないが、これから先は何をされるのか分からない。不安と恐怖が全身を駆け巡る。あの写真を見つけてから菅原と顔を合わせたが、以前と変わらない様子だったのも怖かった。
「あの、慧君」
「ん? どうした?」
慧君が文庫本を閉じてこっちを見る。茶色がかった瞳はよく見るとキラキラと輝きを放っているように見え、クールな慧君の印象を反転させるような目だ。その目をずっと見ていたいと思った。
「私」
『谷村冬子さん。三番の診察室へお入り下さい』
写真のことについて相談しようと声を発したのと同時に、診察のアナウンスが鳴った。
「俺も一緒に付いてっていいか?」
相談するのを遮られたアナウンスに少しがっかりしていたけれど、私は慧君の申し出のおかげでそのがっかりした気持ちが吹き飛んでいった。
「うん、ありがとう」
慧君と病院の診察室に入ると、前髪が後退しておでこが広いのが目立つお医者さんがローラー付きの椅子をくるりと回して振り返った。細い長方形のフレームレスの眼鏡から知的さが伝わってくる。
「こんにちは」
愛想の良さそうな顔で挨拶をされ、私と慧君も挨拶を返す。
診察室を見回すと資料はラックの上にきっちりと整理されており、先生の座る机にはパソコンのモニターが二台とキーボードとマウスがあるだけだった。そして、綺麗な診察室には似つかないポスターが壁に貼ってあった。ポスターの写真は私も知っている人気アイドルが笑顔でピースをしているものだった。このポスターはこの先生の趣味なのだろうか。知的で真面目そうな先生の印象からは、アイドル好きな要素は見当たらない。
「どうぞ、掛けてください」
先生に促されるがままに私達は椅子に座り、診察が始まった。
読み書きが極端にできないのに困っているのを話すと、先生から様々な質問が飛んでくる。いつ頃から読み書きが極端にできないのに気付いたか、「は」を「わ」と読めずに「は」と読んでしまうことはないか、これまで勉強はどのようにしてきたか、親御さんは何と言っているか等の質問に私は答える。
「なるほど、分かりました」
質問が済むと、作文に使う原稿用紙を渡された。
「これから私の言った言葉を書いてみてください」
先生の言われた言葉を聞き取り、私は懸命に原稿用紙に聞き取った内容を書き込む。できるだけ綺麗に書こうと思うのだが、いつものようにぐにゃぐにゃとした字になってしまい、原稿用紙のマス目からはみ出してしまう。
書き終わると先生に原稿用紙を見せ、今度は渡された本を読み上げるテストを実施した。
「先生」
テストが終わり、本を先生に返すと慧君が声を上げた。
「これは個性なんですよね。谷村の」
先生は頷いて、返事をする。
「はい、谷村さんは学習障害(LD)だと思われますが、これ自体は病気ではなく、生まれ持った脳の特性です。決して努力不足ではないですし、恥ずべきものでもありません」
「私、母からは努力が足りないとずっと言われてきました」
初めて母から言われた言葉を他人に話せた。この場に慧君がいてくれたからかもしれない。
「決して怠けているとか、努力が足りない等ではありません。自分を責めないでくださいね」
隣に座っている慧君が頷く。今まで背負っていた重い荷物をようやく降ろせたような感覚が私の心を癒やしてくれた。
次のバスが来るまであと十五分程ある。私と慧君は病院を出ると、片側二車線の大通りに面した最寄りのバス亭まで歩いた。道路の掲げてある制限速度は六十㎞/hのはずだが、びゅんびゅん走る車は私にはとても速く見え、制限速度をオーバーしているような気がした。
「あの、慧君」
慧君がこちらを振り向く。
「今日、付き添ってくれてありがとう。すごく心強かった」
伝えられた。自分の想いを。
「いや」
慧君の瞳が少し揺れるのが見えた。
「俺が来たかったから来ただけだよ」
慧君の顔は加藤君に対して助けたわけじゃないと言った時と同じ顔をしていた。何だかおかしくて私はつい笑ってしまった。
「笑う所か?」
慧君が頭を掻きながら照れくさそうに笑う。そして、言葉を続ける。
「でも」
「今日病院に来て、谷村が少しでも楽になったなら良かった」
春の風が吹いて、道路に植えてある大きな木の葉っぱが揺れている。風がとても心地よく感じた。
バスが到着し、整理券を取って乗り込む。バスは非常に空いていてガラガラだった。土曜日だというのにスーツを着たサラリーマンの男性一人と、お婆さんが一人、一人の子供を連れた三人家族しか乗車している人がいなかった。
二人掛けの席まで慧君が歩くと、慧君は手で先に座ってというジェスチャーをした。私に窓際の席を譲ってくれているようだ。
「ありがとう」
私が窓際の席でいいのか、という申し訳なさもあったが、慧君の厚意を無下にしたくなかった。
私が座り、続いて慧君が座る。二人掛けのバスの席は二人がちょうど座れるぐらいのスペースなので、距離がとても近い。下を向くと慧君の右腕から血管が浮き出ているのが見える。私の心拍数が少し上がっていく。
「谷村って何人家族?」
慧君が子供連れの三人家族を見ながら聞いてきた。たくましいお父さんが線の細い優しそうなお母さんが抱っこしている赤ちゃんの頭を撫でていた。
「私はお母さんと二人だよ。慧君は?」
お母さん。その言葉を発すると私の中で嫌な感情が流れていく。
「そっか。俺はじいちゃんと二人暮らしだ」
慧君はご両親がいなかったのか。子供連れの三人家族を見る慧君の目が少し切なそうに見えたのが腑に落ちた。
「慧君のおじいさんってどんな人?」
「そうだな。頑固じじいって感じかな」
頑固じじいと言葉の吐き出し方が大切な人のことを話すような話し方のような気がした。慧君とおじいさんは信頼し合える関係なのではないかと思った。
「寝坊するとすごい顔で怒るし、魚の食べ方にはうるさいし」
「寝坊は慧君が悪いんじゃない?」
自然と言葉が出た。笑って話せた。慧君も笑っている。
「でも慧君、最近遅刻しなくなったね」
今までずっとホームルールに遅刻していた慧君だったが、ここ最近は遅刻せずに登校している。
「まあ、これ以上目をつけられるのもまずいと思ってね」
慧君は確かに先生達に目を付けられている。一年生の頃から先生に反抗的な態度を取っていたりしていたこともあり、先生達の間でも、生徒達の間でも慧君の悪評が流れている。
「谷村のお母さんは? どんな人?」
お母さん。
私を産んだだけの人。男好きで、酒好きで、だらしなくて、私のことを邪魔だと思っている人。
「・・・お母さんは」
言葉が上手く出てこない。さっきまではスムーズに言葉が出ていたのに。
「・・・いい人だよ」
慧君は私の吐いた嘘を見透かしているような目をしていた。そっか、とだけ慧君が相槌を打ち、私達の間に沈黙が流れた。長く重苦しい沈黙。
バスが停留所に止まり、スーツを着た男性が駆け足で降りていく。とても急いでいるようで、大事な仕事に遅れそうなのかなと思った。
バスが発車する。次の停留所で私達は降りる。窓の外を眺めると見慣れた街並みが見える。上を見上げると空はとても晴れ渡っており、雲一つない晴天だった。私の心とは裏腹に。
* * *
黒田と一緒に新宿歌舞伎町に来ていた。土曜日の夜の新宿歌舞伎町は何とも言えないデンジャラスな雰囲気だ。客引きの若い男性が通行人に声を掛けている姿が少し怖い。派手なネオンが嫌でも視界に入り、僕にはその光が禍々しく見える。
「本当にここに例のターゲットがいるんですか?」
「ああ、ハルカの情報だとここの客引きが例の男とつながってる」
例のターゲット、例の男とは未成年の女子の売春を斡旋しているしている男のことだ。ハルカから黒田に送られてきたメールの情報によると男の名前は曽根崎(そねざき)哲郎(てつろう)というらしい。
「二郎。あの客引きに付いていってみてくれ」
「ええっ。僕がですか?」
「俺よりも一般人っぽい人間の方が相手に警戒心を抱かれにくいからな。大丈夫だ。常に見張ってるから、いざという時は助けにいく」
そもそもなぜ僕が黒田の仕事を手伝わなきゃいけないのかという根本的な疑問もあったが、少しだけワクワクしている自分もいることに気付く。普段の僕の日常は平坦で刺激が少なくて、ただ毎日が流れていっているだけだからかもしれない。でも、それにしたってこんな裏社会の人間を取り押さえるなんていう任務は僕には分不相応すぎる。
「いいか。客引きに声を掛けられたら、仕事を紹介してもらえないか尋ねるんだ。それで事務所に連れて行ってもらえれば、後は俺が何とかする」
「それって僕に危険が及ぶ可能性もありますよね?」
「大丈夫だ。俺が常についてる」
黒田の言葉を信じていいのだろうか。でもここまで来た以上、今さら引き返すのも何だか後味が悪そうだ。黒田にはカツアゲ男から助けてもらった恩もある。
「胸ポケットにスマホを入れて俺の携帯と通話状態にしておけ」
言われた通り黒田の番号に発信し、スマートフォンを胸ポケットにしまう。
深く深く深呼吸する。心臓の鼓動が速くなっているのを鎮めようとするが、なかなか静まらない。
「二郎。こんなことを頼んでおいてなんだけど」
黒田が神妙な顔つきをしている。
「自分を大切にしろ」
黒田の言葉が僕の脳に響いてくる。その言葉はどこか懐かしい音がした。
「分かりました。じゃあ行ってきます」
覚悟を決めて一歩を踏み出す。髪色が明るいヤンチャそうな客引きの青年の方向へと歩く。ネオンサインが照らす道は多くの人が行き来している。土曜日の夜だからなのか、皆浮かれているような雰囲気を醸し出している。
「お兄さん、どうですか? 可愛い子ご案内できますよ」
目標の客引きに話しかけられた。金色の髪で眉を剃っており、はっきりとした顔立ちの若い男だった。冬なのに肌はこんがりと焼けており、その肌からも活発な印象を抱く。
「え、えーとですね」
僕はこういう場面に慣れていないので、おどおどしてしまう。客引きの男が僕をじっと見ている。曽根崎哲郎という男のいる事務所まで行くための行動を取らなければならない。
「すみません、僕もこういう仕事、客引きじゃなくてもいいんですけど、風俗系の仕事を探してるんですが、紹介してもらうことってできますか? 最近仕事クビになっちゃって職探ししてるんですけど、なかなか見つからなくて」
客引きの男の営業スマイルが崩れた。男は真顔になり、僕を舐め回すように見てから返事をした。
「お兄さん、この業界厳しいけど本当にやりたいの?」
男の口調が変わった。さっきまでのお客さん向けの営業のトーンではなく、少し低く重たい声だ。
「あ、はい。どんなことでもやるつもりです」
「そう。今人手も足りないし、上に掛け合ってみる」
「もしもし、徳川(とくがわ)です。曽根崎さん、今この仕事したいって奴を見つけて。あ、いや女の子じゃなくて男なんですけどね」
曽根崎。
徳川という若い客引きの男が電話で話している相手は今回のターゲットの男のようだ。上手くいった。上手く事が運びすぎて怖いぐらいだ。
女の子という言葉で、紗良が昔こういう業界に身を置いていたことを思い返した。現在拘留中の紗良は大丈夫だろうか。紗良はメンタルがとても不安定なので、何日も拘留されたらまともな状態を保てない気がする。そもそもなぜ紗良はあんなことをしたのか。本当に破壊者の仕業なのか。被害者の男は意識不明の重体という情報しか分かっていない。
「ええ、はい。分かりました。これから行きます」
スマートフォンでの通話が終わると徳川は僕の方に向き直る。
「仕事、紹介するからお兄さん今から事務所来れる?」
「あ、はい。ありがとうございます」
徳川の後ろについて行き、歌舞伎町を歩く。ちらりと後ろを振り返ると黒田の姿が少し見えた。親指を立てるジェスチャーを僕に向けてしていた。グッジョブと言われた気がして少し嬉しくなった。
歌舞伎町を歩くのは初めてだが、本当に客引きが多く、ヤンチャそうな若い男女を良く見かけ、治安は悪そうだ。無料案内所の前を過ぎ、派手すぎるぐらい派手なネオンの光が僕の目に入ってくる。ガールズバーにキャバクラにホストクラブ。僕には縁のない店舗がずらりと並んでいる。店から出てきた人の中には酔っぱらってテンションが高く、大声で叫んでいるような人もいてビクッとしてしまう。
無言でしばらく歩いて、人通りの少ない所まで辿り着いた。
「ここが事務所だ」
築年数が浅そうなおしゃれな外観のマンションを指さす。こういう業界の事務所は古ぼけだ雑居ビルの中にあるのだと思っていたので意外だった。こんなマンションに裏社会の危ない人間が住んでいるという実感が湧かなかった。
「綺麗なマンションですね」
「ん? ああ。うちのボスの趣味みたいなもんだ。妙に外見や外聞を気にするんだ」
ぼやけた写真で見た曽根崎哲郎はガラが悪そうなイメージしかなく、外聞を気にしている人間のする格好ではなさそうに見えた。
徳川がマンションの玄関に入り、オートロックを開ける。僕は徳川が押す番号を盗み見て、こっそりとスマートフォンを取り出し、LINEで黒田に部屋番号を伝える。
エントランスに入ると綺麗に咲くサザンカが目に留まった。美しいピンク色をしていて、近くで見ると葉柄にわずかに毛が生えている。サザンカはツバキと似ているが僕にはその見分け方が分かる。紗良に教えてもらったからだ。
エントランスはとても開放的で広く、サザンカの他には絵画が飾られているだけで、そのスペースがもったいないぐらいだった。綺麗な夕日の絵画。僕は美術に造詣がないので、有名な絵なのか、作者は誰なのか等は全く分からない。ただ、その絵の夕日はどこか寂しさを感じさせるようなものだった。
「七階が事務所だ」
徳川がエレベータのボタンを押し、エレベータが降りてくるのを待つ。
「徳川さんはいつからこの仕事を?」
「五~六年前からだな。これから会う曽根崎さんって人にこの仕事を紹介してもらった。くれぐれも失礼のないようにな」
「あ、はい」
エレベータで七階に行くと、徳川は七〇七号室のチャイムを鳴らした。
ガチャリと音がして男が出てきた。徳川と同じくらい、二十代と思われる若い男だった。
「よお」
徳川が親しそうに男に声を掛ける。
「曽根崎さんが奥で待ってるぞ」
「了解」
「そいつが例のこの業界で働きたいって男か」
男にじっと見られ、僕は全身が固まる。吊り上がった目は威嚇しているような気がしてならない。
徳川が玄関に入り、僕もそれに続く。
「失礼します」
玄関はきちんと整理されており、靴が綺麗に並んでいる。黒の革靴が三足と茶の革靴が二足あった。どの靴も普段の手入れが行き届いているようで、色が剥げている所がなくピカピカだった。
靴を脱ぎ、用意されていたスリッパを履いて、リビングを通りすぎ、その奥の部屋を目指して歩く。リビングでは三人が麻雀卓を囲んでいて、先程出てきた男も麻雀をやっていたのだと推察される。リビングはとても広かった。その広いリビングには木のテーブルに椅子、それと緑色の布のソファーとテレビがあるだけで、物が少なくスペースを持て余しているようだった。
男が床に置いてある麻雀卓へと戻り、徳川が奥のドアをコンコンと二回ノックする。
「曽根崎さん。連れてきました」
少しの沈黙の後、声が聞こえてきた。入っていいぞという声。曽根崎という男の声は思ったよりも圧が強くないように感じた。
徳川がドアを開ける。ドアの向こうの部屋は社長室のような風格があり、部屋の中央には黒革のソファにテーブル、左右には大きな本棚があり、奥にデスクがあった。ソファに座っていた男が立ち上がり、右手を挙げながら微笑む。
「よお、徳ちゃんお疲れ様」
曽根崎の印象は写真で見たものと異なっていた。写真ではオールバックだった髪型がすっきりとした短髪で、さわやかな中年男性という感じだ。ニコニコとした表情を崩さない。
「お疲れ様です。曽根崎さん、彼が例の・・・」
「この業界で働きたいって子だね。こんばんは」
曽根崎のハスキーボイスが僕の鼓膜を刺激する。
「こ、こんばんは。よろしくお願いします」
曽根崎は終始笑顔だが、その笑顔がなんだか少し怖く感じた。
「徳ちゃんはもう外していいよ」
「はい、失礼します」
徳川が礼儀正しくお辞儀をしてから部屋を出ていく。曽根崎と一体一になり、緊張感が漂う。
「えっと、お兄さん名前は何ていうのかな?」
「あ、白野といいます」
名乗った後にしまったと思った。偽名を使っておけば良かった。
「あ、座って座って」
曽根崎が僕をソファに誘導する。
「すみません」
ソファに腰を掛けるとテーブルに一枚の書類が置かれていた。内容の一部が少し見えた。僕の心臓が高鳴る。
壊すことは楽しいよ。
書類の文章はほんの一部しか見えなかったが、破壊者からの僕に届いた文面と同じ内容が見えた。曽根崎は破壊者と関係があるのか?
「白野君はどうしてこの業界で働きたいのかな?」
曽根崎はテーブルの上の書類を手に取って、デスクのクリアファイルにしまった。目を細めて微笑みながら投げかけられる質問を上手く脳が処理できない。曽根崎と破壊者とのつながりについて考えを巡らせてしまう。胸ポケットに入ったスマートフォンは通話状態になっているが、ソファで対面している状況ではスマートフォンを取り出す訳にはいかず、さっき見た書類の内容について黒田へ報告ができない。
「え、えっと」
この業界で働きたい理由。何とでっちあげようか。
「前の職場の給料が凄く低くて、とにかく稼ぎたくて」
苦し紛れに出てきた僕の言葉を聞き、曽根崎がうなずく。
「なるほどね。お金が欲しいんだ?」
「あ、はい。結構金欠でして」
「そうかあ。苦労してるんだね」
今の所曽根崎の物腰は柔らかく、口調も優しい感じなのだが、どこか取り繕った感があるような、何か違和感を覚える。
「でもさ」
曽根崎が笑顔のまま話す。ビジネススマイルのお手本のような笑顔。
「今までは堅気の仕事してたんだよね? こんな業界で働くのにためらいを覚えなかった?」
曽根崎の指摘はごもっともだ。実際僕は未成年の売春斡旋などという違法な仕事をする気はないが、今日この場に来ることにはもちろんためらいを覚えた。しかし、黒田への恩と流されやすい性格から、僕は今日ここへ来てしまった。
「でも、堅気といっても今までの職場環境もあまりよくなくて・・・」
「あとさ」
曽根崎の口調がほんの少し変わった。顔は笑顔のままだが、少し棘のあるような口調。
「その胸ポケットに入ったスマホ、どうして通話状態になっているのかな?」
え?
僕の体が硬直する。同時に脳も止まる。
「あ、あのえっと」
体の震えが止まらず、動揺しているのが曽根崎にもはっきりと伝わってしまっている。曽根崎は笑顔を崩していないが、よく見ると目は笑っていなかった。
「あっはははは」
曽根崎が急に笑い出した。デスクの青い照明が怪しく映る。僕の首筋から汗がポトリと一滴落ちる。
「おかしいと思ったんだよね。君のような人がうちで働きたいなんて。今のはカマをかけてみただけなんだけど」
まずい。これは非常にまずい。
相手は裏社会の人間だ。何をされるか分からない。
「で、さ」
曽根崎がソファーから立ち上がる。
「本当の所、うちには何しに来たのかな?」
声の音量はそれほど大きくないのに、ものすごい圧を感じる。
「あ、僕。ほんとに仕事を探しに・・・」
曽根崎の目が険しくなる。
「もういいからさ、そういうの」
胸ポケットからタバコ取り出し、ジッポのライターで点火する。曽根崎が加えるタバコの先端が赤くなり、煙をゆっくりと吐き出す。
「白野君、知ってる?」
曽根崎がタバコを火の付いたまま灰皿の上に置くと、僕の背後に回り込む。後ろから僕の耳に手を掛け、耳元でそっと囁く。
「人間の耳って簡単にちぎれるんだよ」
楽しんでいるような小さな声は僕の全身に寒気を起こさせた。恐怖で足が動かない。どうすればいい。胸ポケットからスマホを取り出して黒田に助けを求めるか。
ガチガチに固まった僕の体と頭。それでも何とか次の行動を考えていると、突然曽根崎の背後から携帯の着信音が鳴った。着信音のメロディは僕でも聞き覚えのあるクラシックの曲で確かワーグナーのワルキューレの騎行という曲だった。
「はい、もしもし」
曽根崎が電話に出る。
「あ、お世話になっております」
曽根崎の声が少し固い声に変わる。電話の相手は曽根崎より立場が上の人間なのだろう。
「先日のショーはテレビで見させていただきました。さすがです」
先日のショー?
「ネズミ?」
曽根崎が部屋の入口の方へゆっくりと足音を立てながら歩く。
「ええ、一匹来てますよ」
曽根崎と目が合う。
「情報ありがとうございます」
「B様」
アルファベットのBと聞こえた。イニシャルで人の名前を呼ぶ人間をフィクション以外で初めて目にした。
「こちらで始末しておきますので。ええ、ご心配なく」
曽根崎がにやりと笑った。
「では、失礼します」
通話を切るスマートフォンの音が聞こえ、曽根崎の方を見ると不敵な笑みを浮かべている。
「さあて、どう料理しようかな?」
曽根崎はデスクの方へ移動し、ポケットから鍵を取り出した。鍵を鍵穴に差し込み、引き出しを開ける音がした。曽根崎が取り出したものを見せて僕の方へ振り向く。
「白野君。今日は何をしに来たの?」
曽根崎が持っているものはピストルだった。銃口はこちらに向けられてはいないが、僕の心臓は破裂しそうなほどにバクバクしてきた。
「あ、僕は・・・」
話そうとしても上手く声が出ない。まさか本物のピストルを目にするなんて。もっとも僕には本物と偽物の区別はつかないが、きっと本物なのだろう。
「どうしたの? そんなに震えて。大丈夫。撃ったりしないよ。君が正直に話してくれればね」
曽根崎の顔が怖い。顔は笑っているのだけど、その笑い顔が僕にとてつもない圧力をかけてくる。どうすればいい?
あまりの恐怖にどうすればいいのか判断もつかなくなったその時だった。玄関のドアがガチャリと開く音が聞こえた。
「おい、お前どうやって・・・」
リビングの方から曽根崎の仲間の声がした。
「ぎゃああああああーーーーーーーー」
その直後にリビングの方から叫び声が響いてきた。
黒田が来たのか。
悲鳴を上げた人間には少し同情するが、僕は黒田が来たのかと思うと少しだけ心が落ち着いた。黒田がいれば、この局面を乗り切れるかもしれないと思ったからだ。
ボキボキッと何かが折れる音が聞こえてから、ドアが開いた。
「お前が曽根崎哲郎だな」
黒田がこちらの部屋に踏み入り、曽根崎に向けて声を発する。黒田は曽根崎が右手で握るピストルを認識したようで、表情が険しくなる。
「ずいぶん乱暴なお客さんだなぁ」
「拳銃を持っている人間に言われたくないな」
僕と曽根崎は一m程の間隔を空けて立っており、ピストルを突き付けられている訳ではないが、曽根崎のぶらりと下した右手にはピストルがしっかりと握られている。この部屋の入口にいる黒田と僕達の距離は少し遠い。
「この子を送り込んだのは君かな?」
曽根崎の仲間四人をボコボコにしたと思われる黒田が来ても、曽根崎は動じる様子はなかった。
「そいつは俺とは無関係だ。銃を捨ててもらおうか」
「この写真、あんたにとってはまずいものだろ」
黒田が曽根崎に見せつけた写真には曽根崎が女子高校生達と一緒に部屋にいる姿が映っていた。
「一体どこでその写真を?」
曽根崎の眉が吊り上がり、ピストルを持つ右手に力が入る。
「銃を捨てなきゃ、俺はこの写真をどう使うか分からないぞ」
「へえ」
曽根崎の顔に余裕が戻り、ピストルを放り投げた。
「これでいい?」
「ずいぶん早く決断したな。賢明な判断だ」
曽根崎の態度に余裕があるのが気になったが、ピストルを捨てたのを見届けると僕の体は少し軽くなった。黒田の方へそっと近づく。
「黒田さん」
僕は黒田に呼びかける。曽根崎のいるこの部屋に破壊者からのメールだと思われる書類があることを伝えなければならない。
「この部屋に破壊者のメールだと思われる書類が・・・」
破壊者という単語を口にした瞬間に黒田の表情筋がピクリと動いた。
「曽根崎」
黒田の声に怒気が含まれている。
「破壊者、知ってるんだな?」
曽根崎が破壊者という言葉に一瞬ビクリとしたが、その後すぐに顔に笑みが戻った。
「破壊者? B様のことか?」
曽根崎が再びデスクの引き出しを開ける。そしてまたピストルを取り出し、銃口を黒田の方へと向ける。
緊張感と静寂に包まれた部屋に時計の針の音だけが響き渡った。
* * *
慧君に続いてバスから降りる。階段を下りてバスが去るのを見届けると、一定の間隔で道路に植えられているヒノキが私の視界に入る。見慣れた風景。私達の地元。向かい側の道路で年端もいかない女の子がお母さんと手をつないで歩いている。まだ小学生にもなっていなそうな女の子。お母さんは手をつなぎながら女の子の頭を撫でる。羨ましい、のだろうか。私には母との温かい記憶などない。
「谷村さ」
私がぼうっと道路の向かい側を眺めていると慧君が声を掛けてきた。
「さっき病院で何か言いかけなかったか?」
私が慧君に言おうとしたこと。家に居座っている菅原という名のお母さんの恋人について。一人で抱え込まずに話してもいい気がした。慧君になら。
「あのね、うちにお母さんの恋人が一緒に住んでるんだけど・・・」
私は慎重に言葉を重ね、菅原がねっとりした視線で私を見てくること、幼い私の裸の写真が菅原のタバコの箱の下に何枚も置かれていたことを慧君に打ち明けた。
慧君が眉間にしわを寄せる。
「谷村」
慧君が心配そうな声を出す。
「辛かったな」
慧君の言葉はいつも魔法のように私の心を動かす。
「ううん」
否定したが、実際とても辛かった。心細かった。でも慧君の言葉はそれを打ち消してくれるようなパワーを持っていた。
「今日俺も一緒に家まで行くよ」
「え?」
「谷村のお母さんに話してみる」
「でも・・・いいの?」
嬉しい反面、慧君に迷惑が掛からないか心配だった。それとお母さんに話して解決できるのかという疑問もあったが、慧君にはお母さんの人間像まで詳しく話していないため、慧君の善意を踏みにじりたくなかった。
「ああ、何とかしてみせる」
「あ、ありがとう」
バス亭から歩いて私の家へ向かう。菅原は用事があって出掛けていて、夜遅くまで帰らないと聞いており、お母さんは今日は仕事が休みだ。
二人で家路を辿り、私がよく立ち寄る小さな公園まで来た。
「慧君」
「ん?」
「ちょっと公園で休憩しない?」
私はまだお母さんの所へ行く覚悟ができてなかった。
「ああ、いいよ。休憩しよう。飲み物買ってくるよ」
慧君は公園の自動販売機まで走り、お茶を買って来てくれた。
ブランコに座りながら、お礼を言って私はペットボトルに口をつける。緊張で乾いていた喉に潤いを与える。
「日が長くなってきたな」
十八時を少し過ぎだが、まだ日は沈んでおらず、ブランコに腰を降ろした私達の正面には夕焼けが見える。淡い橙色の夕日の光が私の目にそっと優しく入ってくる。
綺麗だ。
慧君と二人で見る夕焼け。これから家に帰るのは不安だが、慧君がついているし、なんだが気持ちに少し余裕ができた。
「そうだね。もう五月だもんね」
私が返事をしてから、二人の間にしばらく沈黙が流れる。でもそれは気まずい沈黙ではなくて、心地のいい沈黙だった。私も慧君も言葉数が多いタイプではないから、こうして言葉を交わさずに過ごす時間が生まれる。私はその時間がとても愛おしく思えた。
「慧君は自分の家って好き?」
長い沈黙を破り、私は質問をする。
「自分の家か。どうだろう。嫌いじゃないかもしれない」
慧君は少し考えてから答えた。慧君のいう嫌いじゃないという言葉の響きは家への愛着を思わせるものだった。そっかと私は返事をした。
「私はね」
言葉が私の口からするりとこぼれ落ちる。
「私は自分の家が好きになれないんだ」
「物心ついた頃から自分の家にいても落ち着くとか、好きだなって気持ちにならないんだよね。私っておかしいのかな?」
こんなことを慧君に言っても仕方ないのになぜか慧君に私の今の気持ちをぶつけてしまう。
「おかしくなんかないよ」
慧君は私の目見て、すぐに言葉を返してくれた。
「全然おかしくなんかない」
私を見る慧君の瞳はとても綺麗で、とても真剣で、言葉と同じようにまっすぐだった。
人の感情が千差万別だってことは頭では分かっていた。でも、その気持ちをこうして肯定してくれる人がいるということは初めてで、ずっと探していた私の気持ちの収まりどころが見つかるのかもしれないと思えた。
「周りの皆は家族や家が好きな子ばっかりに見えて、私だけが、私一人だけが違うのかと思う時があるの」
「でも」
私は慧君の目を見て、言葉を続ける。
「慧君の言葉で、そうじゃないんだなって実感できたよ」
「俺は大したことは言ってないが」
「ううん。話聞いてくれて、真摯に答えてくれた」
言ってから少し照れくさくなって、私は慧君から視線を外す。目のやり場をどこにしたらいいのか分からなくて、地面を見つめる。蟻がとてもゆっくりと、でも蟻本人にとってはきっと一生懸命速いスピードで歩いていた。
「慧君、そろそろ家まで行こうか?」
「ああ、行こう」
私と慧君はブランコから立ち上がり、一歩を踏み出した。
玄関のドアの鍵穴に鍵を差し込み、ガチャリと回す。ドアを開けた瞬間に目に飛び込んできたのはリビングのテーブルに腰掛ける母の姿だ。薄暗い部屋に重苦しい空気が漂っている。
母はアルバムをテーブルに広げており、写真をタバコの箱の下に置こうとしていた。
「何、してるの?」
私の裸の写真を菅原のタバコの箱の下に置いている? どうして?
私の声にハッとして、母がこちらを振り向く。若々しい顔立ちをしているが、どこか疲れているようにも見えた。
「あんた、男連れてきたの?」
私の質問に答えずに、慧君を見て発した言葉にがっかりした。
「ねえ、それ、何してるの?」
母が頭を押さえてうなだれる。
「あんたがいけないんでしょ」
母の口調が刺々しくなる。
「あんたが菅原君に色目使うから、あんたに菅原君との距離を取らせるにはこれが一番だと思ったのよ」
何を言っているのか分からなかった。私が菅原に色目を使っている?
「前もタバコの箱の下に私の裸の写真置いたの、お母さんだったの?」
母が開き直ったように笑う。
「だから何? あんたみたいな男好きは嫌な思いをすればいいのよ。私の前の彼氏のことも取ろうとして」
お母さんの前の彼氏は比較的優しくて話しやすい人だったが、私は決して好意など抱いていない。なぜこんな嫌がらせを受けなければならないのか。完全な逆恨みでしかなかった。
「谷村」
慧君が私の腕を掴む。
「出ていこう、一緒に」
たくさんの感情が私の中で動く。
苦しい。嫌だ。逃げたい。嬉しい。
慧君と一緒にいたい。
「あなた、いきなり何よ」
母がヒステリックな声を上げ、顔がみるみる歪んでいく。
「いきなり人の家に来て、娘を連れて出ていくなんて、失礼にも程があるわよ。まあ、あんたにつく男なんてそんなもんか」
「失礼なのはどっち?」
ふつふつと怒りが湧いてくる。
「私に対する態度も慧君に対する態度も失礼すぎるよ。そもそもお母さんが私に嫌がらせしてきたんでしょ。もういい加減にしてよ」
自分の感情が上手く制御できない。こんなことは初めてだった。今まではどんなに嫌なことを言われても、どんなに嫌なことをされても、波風を立てずにその場をやり過ごしてきた。でも今は・・・。
「本当にあんたは」
母が台所に向かいながら、ぶつぶつと独り言のように呟いた。
「本当にあんたは邪魔なだけのお荷物でしかないわ」
大きく開かれた充血した目。両手に握られた包丁。包丁の刃先は私に向けられている。
「やめろ」
慧君の声が響き、母の足が動いた。
* * *
ポツポツと降っていた雨が強くなってきた。髪も体もだいぶ濡れてきたが、俺には傘を買いに行く気力も、雨宿りできる場所を探す気力もなく、その場に立ち尽くしていた。
あの事件から三か月が経過した。全てがどうでも良くなり仕事も辞め、自宅にも帰らず、ネットカフェに泊まり無為な毎日を過ごしている。
激しい雨が俺に降りかかる。全てを洗い流すようなこの雨は二週間前の記録的集中豪雨で大勢の犠牲者が出た災害を思い起こさせる。大切なものを奪われて理不尽な想いをした人がたくさんいることだろう。俺は三か月前の出来事を経験したことで生まれた感情をどこにぶつけていいのか分からなかった。今でもあいつがあんなことをした理由が分からないし、失ったものが大きすぎて俺は空っぽになってしまっていた。
ニャーと後方から猫の鳴き声が聞こえた。振り返ると、傘を差して肩に猫を乗せた長髪の女が立っていた。
「田中慧さん?」
自分の名前を呼ばれ、少しドキリとする。なぜ俺の名前を知っているのだろう。
「こんな所で傘もささずに立っていたら、ずぶ濡れになって風邪をひくわよ」
女が差している傘とは別の真っ黒な傘を差し出した。俺は傘を手にする気にならない。
「三か月前の事件」
女の口から出た単語に脳が、心が反応する。
「あの事件は報道されていない事実が隠されているわ」
「どういうことだ?」
「自分は手を汚さずに事件を引き起こした黒幕がいるのよ」
黒幕。
一瞬この女は何を言っているのだろうと思ったが、俺の体は自然と動き、女から差し出された傘を受け取っていた。雨音がどんどん強くなり、俺の心臓の鼓動も雨につられて速くなっていく。右手で傘を開き、左手を自分の胸に当て、自分の体からエネルギーが生まれていくのを実感した。負のエネルギーを。
* * *
黒田の姿が消えた。消えたように見えた。
その直後、曽根崎が握っていたはずのピストルが床に落ちた。既視感のある光景だった。
ピストルを落とされて焦る曽根崎に蹴りを入れて態勢を崩し、黒田はすばやくピストルを拾い、銃口を曽根崎に突き付けた。曽根崎の顔が真っ青になり、体が震えているように見える。
「形勢逆転だな」
黒田が勝ち誇ったような顔をしている。対して曽根崎は顔から先程までの覇気が失われていく。
「そんな馬鹿な」
曽根崎は信じられないと言わんばかりの表情で足を震わせながら後ずさりをする。
「手を後ろで組め」
黒田の声に恐ろしさを感じた。声量は大きくはなく、怒気も感じられないが、嫌な感じがする。
「これでいいか?」
曽根崎が黒田の指示通りに体の後ろで手を組むと、恐る恐る黒田にお伺いを立てる。まるで、悪いことをした子供が親の顔色を窺っているような、弱弱しい印象を受けた。
「ああ」
黒田が言葉を返した瞬間、黒田のピストルを持った右腕が動いた。右手で持ったピストルで曽根崎の顔を殴りつけ、曽根崎はその衝撃で尻餅をついた。
「B様というのは誰だ?」
黒田が床にへたり込んだ曽根崎に対し、右足で強烈な蹴りを入れる。黒田のキックは曽根崎のみぞおちに入ったようで、曽根崎は悲鳴を上げた。
「お前が吐くまで続けるぞ」
黒田が子供のように笑いながら、何度も何度も繰り返して曽根崎を蹴り続けている。その黒田の無邪気な子供のような姿に僕は恐怖を覚えた。曽根崎もきっと僕と同様、いやそれ以上の感情を覚えているに違いない。
「B様は・・・」
曽根崎がようやく口を開いた。黒田に蹴り続けられた顔面は腫れてあがっており、痛々しくて直視できない。
「ようやく吐く気になったか」
「B様のことは・・・教えない」
曽根崎の様子が変わった。先程までの恐怖に怯えていた表情が無表情になり、目が据わっている。
「何があっても、B様を守るのが我々の役目だ」
「お前・・・」
曽根崎が別人のような口調になり、黒田が目を大きく開いて驚いている。
曽根崎が後ろで組んでいた手をほどいて、デスクの方へ歩き出した。
「動くな、撃つぞ」
黒田の脅しにも全く動じる様子がない。何かに操られているように曽根崎は足を動かし、デスクの引き出しを開け、何かを取り出す。
「まだ銃があったのか」
曽根崎が取り出したものはピストルだった。一体いくつピストルを持っているのだろう。
曽根崎は銃口を黒田や僕の方へ向ける気配はなく、だらりと降ろした右手に銃を握ったまま立ち尽くしていた。
「なあ」
曽根崎が顔から笑みがこぼれる。
「この世界を生き抜く上で一番大事な事は何だと思う?」
曽根崎からの質問は唐突だった。声色が少し高くなっているような気がする。
「急に何だ?」
「いいから答えてくれよ。B様も知りたがっている」
曽根崎がピストルを握ったまま、両手を高々と上げ、天井を見上げた。ここには黒田と僕しかいないのに何か見えない存在を見つめているようにも見える。表情からも行動からも気が触れているようにしか思えなかった。
「この世界を生き抜く上で一番大事な事ね・・・」
黒田は少し考え込んだ後、言葉を発する。
「人を思いやる心・・・」
「を持っている人間だと思わせる能力。そして実際は他者を傷つけることをためらわない心を持っていることだ」
曽根崎の口元が緩み、視線が黒田から外れない。黒田の口から出た言葉はなぜだか僕には本心ではないように思えた。
「ハハハハハッ」
「君は面白いな。そこら辺にいる有象無象とは全然違う。うん。実にいい」
「それで?」
黒田が冷たい口調で返す。
「だから何なんだ。俺はそんなくだらない話をしに来たんじゃないんだよ」
「穏やかじゃないな。いいことを教えてやろう」
「B様も君が言ったことと同じようなことを言っていた」
「そんなことはどうでもいい」
黒田の発した声は曽根崎を突き放す。
「B様とは誰だ?」
曽根崎との距離を詰め、銃口を曽根崎の額に向けている。
「そんなにB様のことが知りたいのか? 君は。でも何があっても教えない」
「それに」
曽根崎が満面の笑みを浮かべる。
「君にはその引き金を引くことはできないだろう?」
黒田の顔がひきつる。
「君は本質的にはとても優しい人間だ・・・。そうだ。そんな君にいいものを見せてあげよう」
曽根崎が歯を見せて笑い、銃口を自分のこめかみに突き付けた。
「なんのつもりだ?」
黒田が動揺しているのが伝わってくる。僕も曽根崎の行動に驚きを隠せなかった。
「どうしてそんなに怖がっているのかな?」
「今すぐ銃を降ろせ」
「それはこちらの台詞だ。君が銃を降ろしてくれないと、私はこの引き金を引くよ」
「私が引き金を引けば、君はB様の情報を知ることはできない。でも君が最も恐れていることはそれじゃないだろう」
人が死ぬこと。
僕の脳裏に浮かんだ黒田が最も恐れていること。
黒田は僕がカツアゲ男に脅されていた時もカツアゲ男が持っていたナイフを奪い取って捨てた。紗良が交際中の恋人を金づちで殴り続けていた時もすぐに止めに入った。
きっと黒田は。
「分かった」
黒田と目が合う。その目は輝きを失い、泥のような色をしていた。
「銃は捨てる」
黒田が足元に丁寧に銃を置く。
「これでそっちも銃を降ろしてくれるんだろう?」
「ハハハッ。そんなわけないだろう」
曽根崎は自分の頭に突き付けていた銃を僕の方へ向けた。
「形勢逆転、かな?」
曽根崎が得意げな表情で黒田の方を見た。僕の視界には曽根崎が持つピストルの銃口が映っている。曽根崎が引き金を引けば、僕は死ぬだろう。自分の命の危機が他人事のように思えた。
カンと音がした。
「形勢逆転って、どっちがだ?」
黒田が曽根崎を羽交い絞めにしている。いつのまにピストルを叩き落として移動したのだろうか。
「そんな・・・馬鹿な・・・」
首を絞められた曽根崎から力のない声が発せられ、曽根崎の顔が苦痛で歪んでいく。
「二郎、銃を回収しろ」
「あ、はい」
黒田に命じられるがまま、僕は落ちているピストルを拾って、黒田達から離れる。
「さあ、知っていることを全て話してもらおうか?」
「ぐ・・・」
黒田は曽根崎を追い詰め、確保した。その直後、携帯が鳴り響いた。
* * *
「帰りのホームルームを始めます」
六月の教室。外は雨がしとしとと降り、じめじめした気候が続いている。今日は金曜日だが、今週は月曜日からずっと雨が続いている。雨の降る音。雨の匂い。傘立てにずらりと並ぶ傘。雨を嫌がる人は多いが、私は雨が嫌いではなかった。雨は歓迎されないことが多いが、雨が全くないと農作物などは育たないはずだし、悪いことだけではないはずだ。
「じゃあ何か報告がある人」
今日の日直の神城くんが教壇の前に立ち、クラスの皆に呼び掛ける。神城君の声には何も反応がなく、どうやら何も報告はないようだ。
「特にないみたいですね。じゃあ、今日も雨なので皆さん気をつけて帰りましょう。では佐々木先生お願いします」
「はい、神城君ありがとう」
佐々木先生が神城君を見て返事をする。神城君は会釈をして私の隣の自分の席へと戻ってきた。
「では、私からは一点報告があります。最近小中学生を狙った不審者が出没しているという情報が寄せられています。皆さんはできるだけ一人ではなく、複数で登下校するようにお願いしますね。それから、知らない人、特に怪しい人にはついて行かないように」
「不審者か、ちょっと怖いね」
隣に座った神城君が呟いた。
「最後にさっき神城君が言ったように、今日も雨なので足元に気をつけて帰るように。ではお疲れ様でした」
「起立」
神城君が腹から声を出す。
「礼」
「ありがとうございました」
ホームルームが終わると、慧君が私と神城君の席の間にやってきた。
「不審者だってな。気をつけないと」
「うん、物騒だね。久しぶりに今日は皆で集まろうか?」
「いつもの喫茶店? いいね」
神城君の提案に私は賛同する。慧君も頷いている。
「加藤も呼んでくるよ」
慧君は加藤君の方へ駆け出していった。その後ろ姿はとても大きく見えた。
梅沢君達が加藤君をいじめなくなり、私達仲間と一緒にいるようになってから、加藤君は笑顔が増えた。今も慧君と笑いながら言葉を交わしている。そのことに私の心が潤う。
「ねえ、私も行っていい?」
私の後ろの席の佐倉さんが身を乗り出して私達の会話に参加してきた。そういえば、佐倉さんは今まで私達の集まりに参加したことがない。佐倉さんは塾等の用事があり、都合が合わなかったからだ。
「もちろんいいよ。修学旅行の同じ班なんだし一緒に行こう」
即座に神城君は了承し、私も同意する。
「やったぁ。喫茶店ってどこ?」
佐倉さんの顔が火照る。神城君を見るときの佐倉さんの目はいつもとどこか違うように感じる。
「よし、行くか」
慧君が加藤君と一緒に戻ってきた。佐倉さんの視界に慧君が入ったからなのか、佐倉さんのさっきまでの目が元に戻った。とても細く小さい目。
ふと、慧君と目が合う。なんだが照れくさくて私はすぐに目をそらしてしまう。
「へぇー。前もここに来たんだ。おしゃれな喫茶店だね」
小さな商店街にある喫茶店のドアを開け、佐倉さんが物珍しげに店内を見渡す。お客さんは誰も入っておらず、いつもの不愛想なマスターと思われる店員さんがカウンターの後ろの椅子に座ってテレビを見ていた。
「いらっしゃいませ」
こちらを振り返りもせずに、店員さんは挨拶をした。私達は四人掛けの席に椅子を持って来て五人で座った。誕生日席に座ったのは慧君だった。
「今日さ」
メニュー表を見ながら佐倉さんの声が響く。
「佐々木先生が不審者の話してたでしょ。B組の周防(すおう)さんがつきまとわれたらしいよ」
周防さんと言えば、生徒会長で成績もトップ。おまけに美人という私達の学校の注目の的となっている人だ。
「あの周防さんが?」
加藤君が興味深そうに聞く。
「うん、この前B組の廊下を歩いてた時聞こえてきてさ」
「僕は知らないけど、うちの学校の有名人なんだね」
「俺も知らない」
四月に転校してきた神城君は知らないのは分かるが、慧君まで周防さんの存在を知らないというのは驚きだ。
「知らないの? あんた本当にうちの生徒?」
佐倉さんが慧君の事を宇宙人を見るかのような目で見ている。
「ああ、興味がないからな」
噂好きの佐倉さんと慧君は対照的だった。だからこの二人は馬が合わないのかも知れない。
「それで」
慧君が言葉を続ける。
「その周防さんはどんな被害を受けたんだ?」
「それが」
佐倉さんが淡々と話す慧君に対して少しむすっとして答える。
「執拗に追い回されて写真を何枚も撮られたらしいよ」
「それって先生には報告してあるのかな?」
神城君の表情がいつもより少し険しく見えた。理不尽なことを許せないタイプなのかもしれない。
「ご注文は?」
店員さんが不機嫌そうに尋ねてきた。話が白熱して注文するのを忘れていた。
「すみません、アイスコーヒー五つで」
神城君が皆に飲み物を確認してから、即座に注文した。注文を聞いても何も言わず、相槌すら打たずに店員さんは去っていった。
「感じわるくない? あの店員」
佐倉さんが愚痴をこぼす。あの店員さんは確かに感じが悪く、今日は私達が注文をせずにしばらく話を続けていたのも相まって、その感じの悪さは最高潮に達していた。
「うん、確かに。あの態度はひどい」
加藤君が相槌を打つ。
「でもまあ、僕達が注文するのが遅かったのもあるしね」
神城君が店員さんをフォローする。
「うーん、そうかもしれないけど、何だかもやもやする」
「それよりも話を戻すけどさ」
神城君が私達の話している内容が店員さんの態度の話に逸れたのを軌道修正する。
「その周防さんって子が受けた被害を聞くと、その不審者を放っておくのは危険だと思うんだ」
佐倉さんがうんうんと頷く。
「そうよね。私も神城君の言う通りだと思う」
さっきまでの喫茶店の店員さんに対する怒りが消えたかのように佐倉さんの態度が変わる。そして神城君を見つめる瞳はいつもより少し輝いているようにも見える。
「それで考えたんだけどさ」
神城君の表情が真剣になる。
「周防さんの被害の先生への報告の確認はもちろんしようと思うんだ。それとは別に僕達で不審者を突き止めない?」
「ええっ?」
皆が驚きの声を上げる。
「でもなんか面白そう」
「面白そうなのはあるけど、でも僕達生徒だけじゃ危なくないかな?」
乗り気の佐倉さんに対して加藤君は少し不安げだ。私も加藤君の気持ちが分かる。何か新しいことをする時には、楽しみよりも不安が大きくなる。
「やろう」
慧君が力強く言い放った。
「慧君がそう言うなら」
私と加藤君の声が重なった。同じタイミングで同じ言葉を発したことに対して皆でクスクスと笑った。不安はもちろんあるが、慧君がいるのならきっと大丈夫だと思えた。あの時だって助けてくれた。私の母から。
「決まりだね」
神城君が微笑み、皆もつられて表情が柔らかくなる。
「じゃあ計画を立てようか。もちろん僕が先生に確認してからなんだけど。まずは聞き込みをしようと思うんだ」
「警察みたいだな」
慧君が少しワクワクしているのが伝わってきた。この間、慧君は警察官を目指していることを聞いたので腑に落ちた。
「佐々木先生は小中学生を狙った不審者が出没してるって言ってたけど、場所については言ってなかったね。どの辺りで聞き込みをする?」
佐々木先生の言っていたことをよく覚えているなと私は加藤君に感心する。
「今度地図を持ってくるから、皆で分担してこの周辺で聞き込みする場所を決めよう。もちろん一人で聞き込みするのは危ないから、二組ぐらいに分かれて聞き込みをしようか」
その後も不審者を突き止めるための計画を話し込んだ。あまりに長居しすぎて、喫茶店の店員さんがジロリとこちらを見てくるのに気付き、今日は解散することになった。
「じゃあまた明日ね」
「ああ」
「気を付けて帰ってね」
皆と別れて、私は慧君と一緒に家路を辿る。慧君の家まで。
母が包丁を構えた時、もう駄目なんじゃないかと思った。握られた包丁の刃先が私に向かって近づいてきた。でもその時、慧君が包丁を握り、叩き落とした。慧君の手のひらは血で滲んでいた。
慧君は叩き落とした包丁を取り、母とは逆方向に放り投げた。
「大丈夫?」
「ああ、全然大丈夫だ」
手から血がポタポタとこぼれ落ち、痛いはずなのに慧君は泣き言一つ言わなかった。
「なんで・・・」
母が死んだような目で慧君の方へ視線を送った。
「なんで邪魔するのよ」
「どいつもこいつも・・・私を馬鹿にしやがって。ふざけんじゃないわよ」
何に向けられているのか分からない怒り。私はもうその怒りの理由を理解しようとも思わなかった。私の視界に映っているモンスターについても。
慧君に手を引かれ、玄関まで向かった。ドアを開けて外に駆けだすと、「待ちなさいよ」という叫び声が聞こえてきたが、私はその声をノイズをカットするフィルタを使って聞こえなかったものとし、濡れたアスファルトを蹴って走った。家に来る前は曇りだったのに、とても強い雨が降っていた。
豪雨の中で慧君と懸命に走った。怪物に追いつかれないように。追いつかれないように必死だった。慧君の家に着いた頃には髪も服も、全身がずぶ濡れになっていた。慧君の家は長い平屋で、とても年季を感じさせる外観だった。
「じいちゃん、タオルある?」
慧君から今までに聞いたことがないような大きな声が発せられた。
どたどたと足音が聞こえ、背が高く目つきの鋭い少し怖そうなおじいさんが現れた。
「なんだぁ、ひどい濡れようだな」
怖い見た目に反して、私達に掛けた声は優しい音がした。慧君と私はバスタオルを一枚ずつ渡される。
「風邪引いちまうよ。風呂入んな」
「谷村、この奥が風呂だから先行っていいぞ」
「え? いいの?」
申し訳ない気持ちが湧いたが、二人の気遣いを無下にするのもどうなのかと思い、お言葉に甘えた。
「すみません、ありがとうございます。お風呂お借りします」
タオルで濡れた髪を拭きながら、慧君が指さした方へと歩くと、洗面所兼脱衣所に辿り着いた。新しくは無さそうだが、しっかりと掃除が行き届いている様子で、洗面台は綺麗で汚れは一切見当たらなかった。濡れて重くなった服を脱ぎ、どこに置けばいいのか迷ったが、脱衣所に洗濯かごのようなかごがあったため、その中に入れた。
お風呂場に入り、蛇口をひねってシャワーのお湯を出す。雨に濡れた後のシャワーはとても心地良く、嫌なことも全部洗い流してくれるような、そんな温もりを持っていた。
お風呂場の鏡に映っている自分の顔を見つめる。目にクマができて、疲れた顔をしている私。私はどうやってあの環境から抜け出そうか、そればかりを考えている。
この家は慧君とおじいさんの二人暮らしだと聞いており、洗い場にはシャンプーとボディーソープぐらいしかなく、リンスやコンディショナー等は置いてなかったが、元々髪の手入れや見た目に気を遣う方ではないため、私はそんなことはどうでもよかった。それよりも、慧君と同じシャンプーを使うということを意識すると、少し心臓の鼓動が速くなっていくのを感じた。左胸に手を当てて、ドクンドクンと波打つ心臓を確認し、私は生きているんだと実感した。
「お嬢ちゃん」
入浴後にバスタオルで丹念に体を拭いて用意されていたパジャマのような服に着替え、ドライヤーで髪を乾かしてから脱衣所を出ると、慧君のおじいさんがいた。
「あいつから事情は聞いてるよ。空き部屋があるからいつまででも使っていいぞ」
慧君のおじいさんは部屋の方向を指差してニッと笑った。
* * *
「曽根崎と破壊者とのつながりは?」
夜の喫茶シャーロックは閑散としていた。僕はホットココアを、黒田はブレンドコーヒーを頼み、ハルカに問いただす。
「今の所まだ分かってないわ。それにしても、まさか曽根崎が破壊者とつながっていたなんて・・・」
現在曽根崎はハルカとつながりのある裏社会の人間に監禁させ、破壊者の情報を吐かせるべく尋問中だ。何とも物騒な話だが、僕はこの類の話に少し慣れたのか、以前ほど動揺しなくなっている自分に気付き、そのことに少し怖くなった。
「本当に知らなかったんだな?」
「何が?」
「曽根崎と破壊者との関係についてだ。知らずに今回の仕事を振ったのか。一流の情報屋のハルカさん」
黒田が嫌味ったらしくハルカに言葉を放つ。破壊者が絡むと黒田は余裕がなくなることが多い気がする。
「曽根崎と破壊者の関係については本当に分かってなかったわ。曽根崎の仕事を振ったのは本当に偶然よ」
ハルカの表情、口調に怪しい所はない。が、僕も黒田同様疑いを全く持っていないと言えば嘘になる。本当にハルカは曽根崎と破壊者について何も知らなかったのだろうか。
「それよりもいい情報があるわ」
ハルカは黒田の目の前のカウンターにDVDを差し出した。
「見つけたかもしれない。破壊者」
「本当か!」
黒田がカウンターをドンと大きく叩いた。
「ええ、先日の黒沢紗良の事件の直前の映像を入手したわ。そこのDVDプレイヤーで再生してみて」
紗良。
紗良との記憶が頭の中で再生される。事件直後は紗良の生い立ちや学生時代の印象、これまでに就いていた仕事等の報道がひっきりなしに行われていたが、今は政治家の収賄事件が起き、その報道に埋もれるように紗良の報道は影を潜めた。
黒田はとても慌ただしくDVDのディスクを手に取り、席を立ってDVDプレイヤーの方へ駆け出す。ディスクを入れ映像が再生される。映っているのは新宿アルタ前の傍にある狭い路地だ。
「どこだ」
「焦らないで。もう少しで出てくるわ」
ハルカの肩の上に乗っていたケプリルがカウンターの上にひょいとジャンプして着地し、黒田の方を見つめた。いつもなら黒田はケプリルを撫でたりするものだが、今はそんな余裕はなく、黒田の視線はテレビに釘付けだ。視界にはケプリルは入っていないだろう。
映像が少し進むと紗良と思われる人物がある男と話している様子が映った。
「こいつか」
男は紗良に何かを見せている。黒のスーツを着ており、きっちりとした身だしなみをしている五十代後半ぐらいに見えた。
「衆議院議員浦川の秘書、別所(べっしょ)よ」
「浦川ってあの不倫騒動を起こした議員の秘書ですか?」
「ええ。政界ではかなりやり手の秘書として評判らしいわ」
「別所・・・。頭文字がBだからB様か。それともBreakerのBか。」
黒田が呟いた言葉を脳で処理し、曽根崎が言っていた言葉を思い出して反芻する。
破壊者? B様のことか?
B様のことは・・・教えない。
B様も君が言ったことと同じようなことを言っていた。
「そうね。その二つの可能性が考えられるわね」
ケプリルが再びハルカの肩の上に飛び乗った。今さらだが、あんな細い体であれだけのジャンプをできる猫という生き物をすごいと思った。
黒田は真剣な顔つきで考え込むような素振りを見せた。
「それよりもこの映像、別所は黒沢紗良に何を見せていると思う?」
ハルカの言葉で黒田が我に返り、一時停止しているテレビ画面に視線を戻す。
「精神をコントロールするための道具・・・。そもそもそんなものがあるのか分からないが」
「でも破壊者は何らか方法でマインドコントロールを行っているのは間違いないわ」
マインドコントロール。
この別所という男が破壊者で紗良をマインドコントロールし、あんな事件を引き起こさせたのか。でも一体どうやって? そもそも僕はマインドコントロールという事象に対して半信半疑な所がある。
「マインドコントロールって」
言おうかどうか迷ったあげく、口が動いた。黒田とハルカが僕の方を向く。
「本当にできるものなんですか?」
人を意のままに操るようなことが本当に可能なのか。
「確かににわかには信じがたいことだよな。でも破壊者は間違いなくそれを行っている」
黒田の口調は力強く、何もない場所に何かを見ているような、そんな目をしていた。
「ハルカ」
「この別所という男、調べられるか?」
黒田の言葉を受け、ハルカが自信に満ち足りた微笑みを見せた。
「私が何のために情報屋を始めたと思ってるの?」
「調べるわ。どんな手段を使っても」
ハルカの黒田へ向けた眼差しは、とても強いものだった。今までのハルカが見せたことがないような、はっきりとした怒りを含んだ表情が僕の網膜に焼き付く。
「頼む」
黒田とハルカ。この二人は同じ方向に向かって走り出している。二人の関係が僕には少し羨ましかった。何だかんだ言いながらも信頼で結ばれているような印象を受けた。信頼という言葉は僕には眩しくて、信じられなくて、うさんくさくて、上っ面だけの言葉のように映っていたが、この二人の間にある信頼はそれとは違うように思えた。
ホットココアを飲み終わり、隣を見ると黒田が左手薬指に付けているシルバーの指輪を見つめていた。以前指輪をはめている黒田に気付き、結婚しているのかと聞いた所、五年前に別れたとだけボソッと呟いた。別れた奥さんに思いを馳せているのだろうか。
「いよいよ決着をつける時がきた」
「ええ、長かったわ」
「お前も頼むぞ、二郎」
黒田に背中を叩かれる。黒田は笑顔を作っていたが、目の奥は笑ってはいなかった。隠し通せない何かが瞳の奥にいる。その何かは突き止められない。いや、突き止めてはいけない気がした。
喫茶シャーロックに流れる音楽が有名なクラシックに切り替わる。
年季の入った木製のスピーカーはこの店の内装に合っており、とてもいい味を出している。アンティークというのだろうか。そのスピーカーから流れてくるベートーヴェンの「運命」はこれから起こる何かを予感させた。
* * *
「黒幕、というのは?」
女の営んでいるという喫茶店に付いて行き、差し出されたタオルで髪の毛を拭くとブラックのホットコーヒーを啜った。もう何日もまともな食事をしていない胃にコーヒーがじんわり染みていく。
「破壊者、という怪物よ」
「破壊者?」
その単語に覚えがあった。それは事件の起こる前に俺達の家のポストに投与されていた手紙だった。ただのイタズラだろうと思って捨てた手紙。
「人を人とも思っていない怪物。でもその正体は全く分からず手掛かりもない」
「どうして手掛かりがないんだ?」
「破壊者は物的証拠を残さないのよ。なぜなら自分では手はくださないから」
自分は手を汚さずに事件を引き起こした、とさっきも女は言っていた。
「自分では手をくださないというのは?」
「マインドコントロール」
女の口から出た単語に身震いがした。
「破壊者は人の心をコントロールすることができる。それで加害者と被害者を作り出すのよ」
加害者と被害者を作り出す?
「それじゃ」
「ご想像の通り、三か月前の事件も同じ手法だと推測される。証拠は一切ないけど」
「あいつは破壊者にマインドコントロールされていたと?」
「ええ、そして・・・」
彼女の最後がフラッシュバックする。血まみれで弱った体で俺に向けて放った一言。
「田中慧さん」
女がカウンター越しにまっすぐと見つめてくる。
「全てを失ってでも、破壊者を見つける覚悟はある?」
もう俺は何もかも失っている。これ以上失うものなどなかった。
「ああ、どんな手を使ってでも破壊者を探し出したい」
そして、破壊者に辿り着いたら・・・。
「あなたの覚悟。本物のようね」
女は一枚のカードを渡してきた。
「破壊者に辿り着きたいなら、今日から私の下で働いてくれないかしら? 全てを捨てて」
受け取ったカードは身分証だった。俺は今までの自分を捨て、この身分証の人間になることに躊躇はなかった。普通なら得体の知らない人間にこんな依頼をされたら断るだろう。でも俺は普通じゃないし、何もかも閉ざされたと思っていた中で、どんなに険しくても道が出来たのなら進むしかないと思えた。
「了解した」
空になったコーヒーカップを女に返す。
「ところで、あんたの名前は?」
女が髪をかき上げ、少し微笑んだ。
「私はハルカ。よろしく」
「黒田」
ハルカと名乗った女に新たな名前を呼ばれたことで実感した。もう俺は田中慧ではないのだと。
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