シンフォニエッタ

外鯨征市

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 日曜日の休日練習。音楽室には合奏隊形に並べられた椅子に部員たちが楽器をもって整然と座っていた。一年生たちは初めての合奏ということで楽器を持つ姿がいつもよりぎこちない。
「フルート、クラ、アルトサックス。それとチューバ。『ド』を出して」
 指定された楽器が藤岡の指揮に合わせて一斉に吹奏する。
 奏でられる不協和音。
「ドレミファで音名をいうとこんなことになる。なぜなら楽器によって基準となる音が違うから。先輩から「その楽器は何管」とか言われたと思うけどそれぞれ楽器によって管調が違う。だからドレミファで同じ音を出すときはそれぞれの楽器の音名で言わなければならない。フルート、シ♭。クラ、ド。アルサク、ソ。チューバ、ド。出して」
 再び藤岡は指揮棒を振る。
 それに合わせて再び楽器を鳴らす。
 次はピタリと音が合わさった。
「これじゃ面倒だから吹奏楽やオーケストラではドイツ語で指示する。それじゃあ同じ楽器で『B♭ベー』を出して」
 吹奏楽部員なら最も得意な音だろう。チューニングでいつも使っている音だ。
 オーケストラであればアーの音でチューニングする。弦楽器はAの音を使ったほうが都合がいいのだ。しかしコントラバスを一、二本しか使わない吹奏楽では楽器の編成上、B♭の音のほうがチューニングをしやすい。
「このようにドイツ音名で説明したほうが都合がいい。そこまで難しいことじゃないから来週中に覚えておくこと。先輩はきちんと教えておくように。それじゃあ時間もいいところだから今日の部活はここまで」

 終わりのミーティングも終わり、部員たちは楽器を片付けるとちらほらと帰り始めた。楠本は蓮見に帰るように促して自主練習の準備を始めた。彼女も自主練習をしたいというのであれば止めはしないし練習に付き合うが、先輩が残っているというのに後輩が先に帰るというのは心理的にも難しいだろうと思って毎回促しているのだ。ここの吹奏楽部は先輩より後に帰らないといけないというルールがあるブラック企業ではないのだ。
 さて、自主練習を始めよう。そう思ってチューバを太ももの上に乗せると蒲生がホルンを抱えてやってきた。
「楠本、今日も残るの?」
「チューバなんてここじゃないと吹けないからね」
 楠本はここ最近、蓮見に教えるばかりで自分自身の練習をあまりできていなかった。その遅れを取り返すためにも残って練習したかったのだ。
 それだけではない。チューバは一般家庭にあるような代物ではない。気軽に自宅に持って帰ることができるような代物でもなければ、そもそも自宅で練習するには音量が大きすぎる。学校でしか触れることのできないものなのだ。中学三年となり残りの吹奏楽部生活も終わりが見えてきたいま、楠本は少しでも長くチューバを吹いていたかった。
「それじゃあウチも残るわ」
「蒲生さん」
「最近一緒に練習できてないからね。課題曲のマーチのところとか練習しよ?」
 ホルンパートも新入生の面倒を見ることで忙しく、チューバと掛け合いの練習ができていなかったのだ。それは楠本も心配していたこと。それぞれのパートのリーダーとして考えることは一緒なのだ。
「ヒューヒュー! お二人さん! 熱いねぇ!」
 そのやり取りを見ていた藤岡は音楽室の鍵を指揮者の譜面台に置くと、二人をからかいながら職員室へと去っていった。
「……やっぱ帰る」
「………………」
 せっかく部員が自主的に残って合同パート練習をしようという話になっていたのに、顧問はいったい何をやってくれたのだろう。

「おう楠本、部活か?」
 自主練習が終わって鍵を職員室に返却し、職員や訪問者用の正面玄関から出てきた楠本を呼び止めたのは菱川浩輔だった。彼は帯で縛った空手道着を肩に背負っている。去年のクラスメイトだ。
「そうだよ。居残り練習」
「俺も部活だ。県大会が近いからな」
 二人は顔なじみだった。浩輔も小学生時代に空手を習っていた。道場は違ったがそれでも練習試合や大会などで何度も顔を合わせていた。
三年に進級しクラスが別になってからは滅多に会わなかったが、それでも浩輔は楠本のことを気にかけていた。浩輔には二つ違いの姉がいる。彼女は元吹奏楽部員でチューバを吹いていた。楠本にチューバを教えた師匠なのだ。彼女が弟である浩輔に楠本の様子を聞くため、自然と彼の事を気にかけているのだ。
「姉ちゃんが聞いてくるんだよ。楠本は元気かって」
「まぁ元気だよ」
「そうか。部活は楽しいか?」
「………………」
 楠本はその質問に答えることができなかった。
 チューバは楽しい。顧問だって面白いし後輩もできた。蒲生ともよくやっている。しかし問題は小柳たちのことだった。
「答えないということは何かあるんだな?」
「……まぁちょっとね」
「色恋沙汰か?」
「そんないいものじゃないよ」
「そうか。それじゃあ姉ちゃんに話しておこうか?」
「そこまでしなくていいよ。それに先輩は忙しいだろうし」
 菱川の姉は日向市内の普通科高校に通っている。その高校は市内唯一の進学校。学習内容は難しいし宿題の量も多い。中学三年生で高校受験を控えている楠本は当然そのことを知っていた。勉強で忙しい先輩に余計な心配をさせたら申し訳ない。
「何かあったら俺に言えよ」
「分かった。ありがとう」
 分かれを告げると楠本は靴を履き、昇降口から出て行った。それを菱川浩輔は見送ると部室へと戻っていった。

「中学三年生という時期は二度と戻ってこない。特に運動部は最後の大会に向けて追い込みをかけているだろう。学生時代の部活動の経験はいつか自分を助けてくれる。受験勉強も大事だが、部活もきちんと頑張ること。以上」
 起立、礼。
 三年五組の担任、葛城の演説が終わり、日直が号令をかける。
 葛城は体育教師。自身の担当科目は高校受験に必要ではないものだが、生徒を想う気持ちは変わらないものだった。
「部活終わったら勉強もするんだぞ」
 クラスメイトが帰り支度を整えるなか、楠本は鞄を手に取り一目散に部活を目指す。終礼が終わったらすぐに部活が始められるよう、いつも事前に荷物をまとめているのだ。
 今日も音楽室に一番乗りだ。そう思っていた彼が教室を出ようとした時だった。
「楠本は残れ。話がある」
 放課後のざわめきのなか、突然の指名に楠本は驚いた。何かやらかしたのだろうか、それとも進路の事だろうか。彼には見当もつかなかった。

「先生、話ってなんですか?」
 ほかに誰もいない空き教室。いつもの学級とは違い静寂に包まれている。
「楠本、部活は楽しいか?」
 豪快な口調で葛城は問う。
 楠本は言葉を濁しただけだった。
「……そうか」
 なかなか口を開かない楠本を見かねて、葛城は手を頭の後ろで組み、背もたれに体を預けて自身のことを語り始めた。
「俺は中学で空手を始めて高校大学と続けた。一時期は空手で食っていきたいとも思っていた。でもプロの柔道家になれるのはほんの一握り。道場に通うという手もあったが、プライベートじゃなくて仕事として関わりたくてな。それで中学教師になったんだ。空手部の顧問をしたくて仕事を選んだようなものだ」
 終礼での葛城のスピーチは彼の経験によるものだった。彼が進路に迷ったとき、道しるべを示してくれたのは、部活動の経験だったのだ。
 葛城は机の上で腕を組む。中学生向けに設計された机と椅子は小さく、柔道で鍛え上げられた葛城の身体は窮屈そうだった。
「何も高校でも吹奏楽を続けろって言ってるわけじゃない。中学でそれっきりだったとしても、今の経験がいつか役に立つ時が来るはずだ。だけど今の状況を良しとしているわけじゃない。部活で何か問題があるんだろう? このままでは将来思い出したくもない苦しい記憶になってしまう」
「どこで知ったんですか?」
「菱川から聞いた。おとなしいヤツだが報告するべきことはきちんと言うヤツでな」
 血気盛んな空手部の中でも、菱川浩輔は唯一おとなしく、大人のような風格に満ちた部員だった。しかし弱腰ではない。弱者には手を差し伸べる強さも兼ね備えている。先日の楠本の会話で吹奏楽部内の問題に気づいた彼は、それを見逃すことはできなかった。彼にできる唯一の方法は空手部の顧問でもあり楠本の担任でもある葛城に報告することだった。
「それでどうなんだ?」
 楠本は悩んだ。
 あの事を言っていいものかどうか。
 確かに部活でいじめを受けている。気のせいではない。実害も被っている。
 しかし楠本も部員の一人だ。ここで事実を話せば部活内部の問題に教師が介入することになる。しかしそれでさらにいじめが悪化するかもしれない。合奏に悪影響が出るかもしれない。演奏活動に支障が出るのはどうしても避けたかった。
「仲間を売るのが心苦しいのか?」
「………………」
「楠本は仲間と思っていても、向こうはそう思っていないぞ」
「そうですかね……」
「当たり前だ。仲間と思っていたらそんなことはしない」
 葛城はすべてを知っているわけではなかったが、だいたいの見当はついていた。その問題は教師として最も見逃せないもの。職員会議でも毎回議題にのぼり、場合によっては教育委員会まで出てくる問題だということを。
 休日の部活では楠本がいつも一人で弁当を食べていることを知っていた。それは葛城が彼の担任となる前から知っていたことだ。吹奏楽部には楠本以外の男子がいることも知っていた。そこから楠本が部活内部で仲間外れにされていることは容易に想像できたのだ。
「吹奏楽ってチームプレイだろ? 仲間を大切にするのは他の部活よりも大事になってくるはずだ。それなのに楠本にこんなことをしているんだろう? はたから見ても仲間と思っているようには見えないな」
 葛城は音楽経験がないが、それでも主張は的を得たものだった。楽器の音というものは奏者の感情が露わに出てくる。疲れていたらその音も疲れた音色に。喧嘩をしていたらその音もギスギスした音となってしまう。ハーモニーが崩れてしまうのだ。
「誰に何をされているんだ? 自分の口で言ってみろ」
 葛城は中学教師としていじめを許せなかった。それが自分の担当していない部活内部の話だとしても見逃すことはできなかった。
「同じクラスの萩本とはどうなんだ? 教室でもあまり話さないよな?」
「彼とは……あんまり……」
「接点がないんだな」
「いえ、全くないというわけではないんですが」
「どんな話をしているんだ?」
「会話というか、いろいろ言われてます。一方的に」
「いろいろと言うと?」
「例えば「ノーサウンド」とか「お前がいないほうが良い演奏ができる」とか。ほかの男子部員からも同じようなことを言われています」
「「ノーサウンド」、か。どういう意味だ?」
「音が聴こえない。だからいなくても問題ない。という意味らしいです」
「入学式の演奏を聴いていたが、先生にはちゃんと聞こえていたぞ」
 コンクールや定期演奏会の映像をチェックしても自分の音は聞こえている。それでも彼らは聞こえないと主張している。そういったことを楠本は説明する。
「それに「お前がいないほうが良い演奏ができる」か。空手部では団体戦にでているが、うちの部員でそんなことを言うヤツがいたらすぐにメンバーから外す。というかそもそもメンバーにしない。それと言っちゃ悪いが吹奏楽部ってあんまり人数多くないだろ? それでよくそんなこと言えるよな」
 吹奏楽部は慢性的な人手不足だ。後継者となる部員が足りずに担当者が卒業してしまった楽器も複数存在する。辛うじて演奏はできるが十分な編成ではない。それにも関わらず小柳、荻野といった男子部員は楠本を辞めさせようとしている。本当に楠本が退部したらどうなるのか、彼らは理解していないのではないだろうか。
「それじゃあ萩本に暴力を振るわれたりとかはあるか?」
 楠本は一瞬躊躇したが、それでも事実を口にした。彼がするべきことは部員をかばうことではない。大人に助けを求めることだということは理解していた。もうすでに自分自身で解決できるような問題ではなくなっていたのだ。
「あります。萩本だけじゃなくて他の男子部員からも。殴られたり蹴られたりとか。あとはハンマーとかワイヤーを持ち出してきたこともあります」
「ハンマー? どうしてそんなものがあるんだ?」
「チューブラーベルのハンマーです」
「チューブラー?」
「N●Kのど自慢のアレです」
「あの鐘か」
 合格ならば十一回、失格なら二回、不合格ならば一回鳴らされる、国民的音楽番組の代名詞ともいえるあの鐘だ。ひとつひとつの鐘がチューブ状になっているからチューブラーベル。単にチャイムとも呼ばれている。
 三十年ほど昔、吹奏楽部が大所帯だった時代に大活躍した楽器だ。今となっては音楽準備室の片隅にひっそりと安置され、数年に一度、他校から貸し出しの依頼があったときにだけ引っ張りだされるぐらい。
「鐘を打つハンマーとはいえ一応楽器だろ? 吹奏楽部として許せないだろ」
「普通だったらなおさらそんなことはしないと思うんですけどね」
 楽器というものは精密機器だ。楽器によっては少しの衝撃で正しい音が出なくなってしまう。
そもそも吹奏楽部員にとって楽器は相棒であり商売道具。そういったものを大切に扱うのは吹奏楽部に限らずどこの部活でも真っ先に教えられるだろう。まともな吹奏楽部であれば楽器をそのように扱えば緊急ミーティング。強豪校であれば問答無用で強制退部だろう。そのようなことが赤岩中学校では平然と行われていた。
「それじゃあワイヤーは?」
「楽器の中を洗うときに使うブラシです。宮崎に行って買ってきました」
「自分が買ってきた道具で暴力を振るわれたんじゃ腹立つよな。藤岡先生は知っているのか?」
「いいえ。知らないと思います。連中、先生がいないときを狙って手を出してくるので」
「このことは藤岡先生に話していいな?」
「それは……内密にはできないですか?」
「難しいな。関係者に報告するのは教育者の義務だ。時期も時期だし推薦入試の選抜にも関わるからな」
 楠本は戸惑った。
 吹奏楽を始めたきっかけは藤岡だった。いじめを受けながらも吹奏楽を続けてこられたのも藤岡のおかげだった。
 葛城の立場上、藤岡にはこの件を報告しなければならない。しかし藤岡に話が伝わってしまうと迷惑が掛かってしまう。恩を仇で返すようなものだ。楠本はそれだけは何としても避けたかった。
「誰かをかばおうとしていないか?」
「………………」
「荻野たちにひどいことをされているんだろう。かばう筋合いはないんじゃないか?」
 楠本は小柳や萩本をかばおうとはこれっぽっちも考えていなかった。しかし教師が何らかのアクションを起こせば彼らは逆恨みするだろう。そうなれば楠本が被害を受けるのは明らかだ。それに吹奏楽部というものはチームプレイ。当事者のみならず関係のない同級生や後輩にも迷惑がかかってしまう。このいじめは小柳、荻野が起こした問題であり被害者は楠本。そして身近にそういうことがあるということで部内にはギスギスとした雰囲気が漂っている。この問題に直接関わっていない彼女たちも被害者なのだ。
小柳と荻野は吹奏楽部の部長と副部長という立場であるにも関わらず、率先して部内の空気を悪くしている。彼らの行動で部活がどのような状況になっているのかを楠本は気づいていた。
部内の空気を悪くするようなマネをすれば小柳たちのレベルに成り下がってしまう。もちろん加害者と被害者という違いはある。楠本が救われるために周囲の協力は必要だ。しかし楠本は合奏に支障をきたすようなことを何としても避けたかった。
「そりゃあ逆恨みが怖いもんな」
「連中をかばおうなんてちっとも考えていません。ただ……」
「ほかの部員に迷惑がかかるってか?」
「……はい」
「例えばの話だが……同級生でも後輩でもいい。彼女たちがいじめられていて、助けを求めてくるとする。そういう時、楠本は迷惑には思うか? 思わないだろう? 助けを求めたのが楠本だって同じだ。だれも迷惑なんて思わない。それに迷惑なのは萩本たちのほうだろう。身近なところでそんな問題を起こしているんだから」
「別に他の部員に助けてほしいというわけじゃないんです」
「いじめの矛先を向けられてほしくないからか?」
「それもあります」
「いじめは加害者、被害者、傍観者に分かれると言われるが、この傍観者も共犯だとする意見もある。だけど先生はその考えには賛同できない。いじめ問題でもっとも尊重しないといけないのは被害者の意思だ。助けてほしいって考えているやつもいれば、楠本みたいに被害者を増やしたくないから関わらないでくれって考えのやつもいる。そういう意見も聞かずに周りの人間は止めに入れというのは意見の押し付けでしかないからな。だから俺は楠本の意思を尊重する。連中に対してアクションを起こしてほしくないんだったら無理にはしない。だけど放置していたらいつまでもこのままだぞ」
「……怖いんです」
「怖いというのは?」
「助けを求めたときに回りが迷惑に思わないのは分かるんです。ですけど今の状況を変えようとして、より悪化するのが怖いんです」
 いじめは加害者、被害者、傍観者で構成される。傍観者は自身が被害者にならないよう下手に動くことはできない。今の部内は小柳、荻野、柴田という加害者組と被害者の楠本で均衡がとれている。楠本は自身が被害を受けることで傍観者に矛先が向かない今の状況を心のどこかで均衡がとれていると感じていた。この問題に手を入れるということは、このつり合いを崩してしまう危険性もあるのだ。
「まぁ今の状況が変わるんだ。そりゃ怖いよな」
「それに合奏ができなくなるのはみんな困りますから」
「昔テレビで吹奏楽の強豪校の特集を観たことがあるが、いざこざがあるとハーモニーがおかしくなるんだろ?」
「そういうこともありますね」
 昔は九州大会の常連校だった。黄金時代には全国大会に二回連続出場しそのうち一回は金賞を獲得した。しかしここ最近の赤岩中学校はコンクール成績が低迷している。二十年前は突然地区大会で銅賞しか獲れなくなった。これは『赤岩中吹部の暗黒時代』と呼ばれて伝説となっている。それから数年後には銀賞をなんとか獲れるレベルにまで回復したが、楠本の世代になって再び銅賞が続いている。暗黒時代の再来だ。
 人間関係でハーモニーが崩れるというのは強豪校であればあり得る話。通常は音と音が融合して鳴っていない音が聴こえてくるのだが、ハーモニーの調和がとれていないとそれが聴こえない。音楽準備室には『神の声が聴こえる』というスローガンが張られているが、楠本はその声を聴いたことがない。
「先生は音楽の経験はないが、楠本にはそういったしがらみもあるんだろう。だけどこれだけは言っておく。教師が間に入ったとしても、他の部員が怒られることはない。悪いのは荻野たちだ。他の部員が被害を受けないように十分に配慮する」
「でも藤岡先生にも迷惑が……」
「いいか。吹奏楽部でいじめがあったからといって、藤岡先生が悪いという話にはならない。そもそもいじめなんて教師に見えない場所でされるものだ。それに教師がそれを調べようとしたら、あの手この手で偽装しようとするのが連中のやり方だからな」
「………………」
「いきなり加害者連中を呼び出したりはしない。積極的にアクションをとるわけじゃなくて、まずは気を配るようにするだけだ。他の教師に情報提供したりな。楠本が逆恨みされないように配慮するから」
「……それなら……でも家にはまだ連絡しないでください」
「大丈夫なのか?」
「はい、祖母のことなので蜂の巣をつついたような騒ぎになるので。でも限界を感じたら自分で伝えます」
「分かった。家には流血事件でも起きないかぎり連絡は入れないから安心してくれ。だけど限界が来る前に言うんだぞ。知り合いがよく言っていることなんだが、限界なんて意外と目の前に迫っているものだからな」

 楠本は葛城との面談が終わると教室に寄って荷物をとり、音楽室へとやってきた。
「楠本、今日はどうしたの?」
「ちょっと進路の面談でね」
 蒲生だった。
 彼女はグランドピアノの屋根にプリントを広げている。今年のコンクールの課題曲と自由曲の楽譜だ。おそらく新入生に配るもの。部員数が多い吹奏楽部では楽譜係ライブラリアンという専門の担当がいるが、人数で悩まされているこの楽団では書記である蒲生が兼任している。
「そっちのクラスってもう進路面談始まってるの?」
「まぁ希望者だけね」
「ふ~ん、あ、これ蓮見さんのぶん」
 蒲生はチューバの楽譜を押し付けると、音楽室の後ろで練習している他の金管楽器や打楽器へと楽譜を配りに行った。それが終わると今度は二つ隣の被服室で練習している木管楽器のところへ行くだろう。
楠本は黒板に貼られている『遅刻』のカードの下に名前と理由を書く。「面談」とだけ。となりの『欠席』のカードの下には蓮見の名前がある。どうやら家庭の事情で部活には参加できないようだ。
 時計はまもなく十六時半を指す。部活終了時刻は十八時十五分だが、終わりのミーティングがあるから練習終了時刻は十八時ちょうど。ロングトーンと各種基礎練習。急げば四〇分で終わるから曲練習に費やせるのは五十分といったところだろう。
 楠本は面談で減った時間を取り戻したかった。黒板に記入することを書き込むとチューバを取り出すために急いで隣の楽器庫である音楽準備室へと入っていた。
 そこには小柳と荻野がいた。
 彼らは合同練習をしていたというわけではない。誰一人として楽器を手にしていなかった。
 楠本は気にすることなく、入り口のそばに立ててあるチューバのケースに手を掛けた。他の部員が練習していようがいまいが、楠本は自分の練習をするだけだった。直属の後輩である蓮見以外の部員を目にかけている暇はない。
「おい楠本、おまえ悪いことしたんだってな」
 小柳の侮辱により、狭い音楽準備室に男子生徒の下品な笑い声が響く。彼らはつい先ほど自分たちが問題に挙げられていたとは夢にも思っていないようだ。
 楠本は彼らに言い返すことなく、ケースの金具を外してチューバを取り出した。
「お前ひとりのせいで部活の評判が下がるんだ。迷惑かける前に辞めちまえよ」
 問題を起こしているのは誰だと思っているんだ。楠本は一瞬頭をよぎった反論をぐっとこらえる。相手にするだけ無駄だ。それはこれまでの経験で身に染みているだろう。
 部長である小柳はしたり顔。部長として正しいことを言ってやったとでも言いたげだ。荻野も心なしか得意げな表情をしていた。
 教師が彼らに処分を下すのは楠本の意思にかかっている。彼がゴーサインを出せば彼らには生徒指導が入るだろう。しかし連帯責任で一定期間の部活動停止になる可能性もある。それは楠本がチューバを吹ける時間が減ってしまうということを意味していた。吹奏楽コンクールまで日数が少ない。部活引退までの時間も少ない。チューバに触れる時間が減ってしまうのは何としても避けたかった。
 彼らに時間を割くのは勿体ない。そんな暇があればロングトーンの一つでもやったほうが有意義だ。楠本は低音パートの棚から基礎練習の楽譜が納められた青いファイルとオレンジ色のスケッチブックを取り出すと、チューバを抱えていつもの練習場に向かった。
 音楽準備室に残されたのは小柳と荻野。彼らに練習に戻る気配はなかった。
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