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第9話
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とうとう尾神樹里との永遠の別れの日がやってきた。
配信アーカイブが残っているのは今日が最後。時計の針が頂点を指して日付が変わると同時にすべての配信の記録が消去されてしまう。
幸運なことに今日のアルバイトは休みだ。
いつもより早くに起床した鮫島は自室に閉じこもって朝からずっと動画を見続けていた。ここまで長時間自室に閉じこもるのはニート時代以来だ。
気が付くと日が変わるまで残り十数分となっていた。
時間的に配信は見終わらない。しかし途中で終わるとしても最後の一分一秒まで彼女の声を聞いていたい。
チャンネルに並ぶ動画を見まわし、何かを感じた動画を再生した。
それはゲーム配信でも誰かとのコラボ配信でもない。ただ尾神樹里がただひたすらコメントを拾い続ける雑談配信だった。
「コメントとかSNSとかでよく聞かれるの。配信中にうっかり本名を言ってしまわないの? とか、逆にリアルで尾神樹里って名乗ったりしないの? って。なんて言うんだろう。仕事モードのスイッチが入るっていうのかな? 配信中の私は尾神樹里という入れ物の中に入る感じがするの……これ言ったら運営に怒られるんじゃない?」
これはずいぶん前の配信だ。
彼女が言う通り、この後で所属事務所に怒られたのかもしれない。どうやらバーチャルアイドルの業界では声優を公開しないという暗黙の了解があるようだ。それどころか「中に誰もいませんよ」というスタンスを貫いている。
この配信を最後に中の人の存在をほのめかす雑談はなかったと思う。
「ほら、先週実況したゲームでラスボスが言っていたでしょう。「長く自分を偽ると浸食される」って」
配信の順番までは覚えていないが、彼女が言っているゲームとは何のことかすぐに理解できた。キレ芸や下ネタを使いながらも頑なにお嬢様キャラを貫いていた彼女がゴリッゴリなミリタリー系のゲームを実況していた。ミリタリー物でありながら銃声が聞こえない静かなゲームだったが、彼女は敵に発見されるたびに叫んでいた。図太い雄叫びを上げながらライフルを乱射し、ゲームオーバーになって何度も机を叩いていた。
「誤解されるかもしれないけど、私は自分を偽っているの。配信中の私は尾神樹里という人物になりきっているの。私を尾神樹里に合わせているって言うのかな?」
自分を偽る。
単純に演技だと思っていたがそのようなテクニックがあったなんて。
「はい、じゃあ次はフカちゃんからのコメント。就職先が決まったよ、だって。おめでとう。フルートの初見演奏配信で二万も投げ銭してくれた人でしょ? ニートだったのにさ」
なにか言葉の最後にトゲがある。
それでも当時の鮫島は自分の事を覚えていてくれたことに感激したものだ。もちろんその気持ちは今でも変わらない。
「「樹里ちゃんに投げ銭するために就職しました。今週のバイト代です」じゃねぇよ! あんたバカじゃないの!? もう『バカニート』に改名しろよ」
あの時は本気で改名を考えたものだ。
いまではハルトマン軍曹に『フカニート』と呼ばれているが、この時に『バカニート』と改名しておけば彼に腹立つこともなかっただろう。
「フカちゃんには他に大事な人ができるかもしれないよ? 他にやりたい事ができるかもしれないよ? 今は私がいるけど、出会いがあるってことは別れもあるんだから、これからのために貯金もしておかなきゃ」
それは彼女との次の約束だった。
鮫島は必至で貯金をしてフルートを購入することができた。これも尾神樹里関係の趣味だが、彼女と同じ趣味を持ちたいという希望を果たすことができた。
「だけど約束通り就職してくれて嬉しいよ。じゃあ次のコメン――」
そこで突然動画が止まった。
画面にはロード中のマークがくるくる回っている。
ネット回線には何も異常はない。
ふと時計を見ると日付が変わり、すでに時刻は零時二十六分。
配信画面からチャンネルへと戻ってみた。そこはただ「このチャンネルには動画がありません」という表示があるだけだった。色とりどりなサムネイルが並んでいたあの光景は見る影も残っていなかった。
スマホで尾神樹里のSNSを確認してみた。
そこには彼女のアカウントが残っていた。過去の投稿もすべて残っている。しかし名前の隣に【活動終了】と記されていた。
「なんでなんだよぉ!」
そう嘆くのはグロ中尉だった。
しかしここはバーカウンターではない。
ただの楽器店のレジカウンターだ。
「せめて動画だけは残してくれたっていいじゃないか!」
「袋はいりますか?」
「……いらない」
バルブオイルにスライドグリスにブラスソープ。
レジカウンターに並べられた商品にテープを貼っていく。
「フカちゃんもそう思うだろう? なぁ!?」
「僕もそう思うけどさ」
尾神樹里の配信チャンネルは動画が削除されたがアカウントは残っている。しかしSNSは名前の後ろに【活動終了】と追記されただけで過去の投稿はそのままだ。それならば過去の動画も残してくれてもいいじゃないか。
契約解除によって彼女のイラストが商用利用できなくなったらしいが、それならば動画から広告などをはがして収益が入らないようにすれば問題ないはずだ。
しかし彼女が所属していた事務所にも事情があるのだろう。
「だろぉ!? 動画を残してくれてもいいじゃないか!」
「グロ中尉、他のお客様が見ているから」
店内で泣き叫ぶ彼には困ったものだ。
ここは楽器店だ。泣き叫ぶのは居酒屋でやってほしい。奢ってくれるのであれば鮫島もついていって相手になる。
「合計で2,830円になります」
「……はい」
「ちょうどですね。毎度ありがとうございます」
「だいたい事務所もさぁ!」
会計も終わったというのに彼はまだ管《くだ》を巻くつもりのようだ。
これでは他のお客様がレジに来られないではないか。せめて隣の注文用のカウンターで泣いてほしい。
「トランペットを吹いて悲しみを爆発させてきたら? 今なら防音室が空いているよ」
「じゃあ一時間だけ貸してくれ」
「それだけで足りる?」
「じゃあ二時間」
「毎度ありがとうございます」
グロ中尉から二時間分のレンタル料を受け取ると彼を防音室へと見送った。
そのやり取りを隣で店長がニヤニヤと見ていた。
「どうしたんですか?」
「いやぁ~、別に~?」
何かを言いたげな様子だ。
だけど鮫島は何も悪いことはしていない。
グロ中尉に防音室を提案したことで2,200円は売り上げた。防音室は使用されていない時も空調をかけっぱなしだから使わなくても経費は掛かっている。面積で考えると空調代もテナント料も微々たるもの。レンタル代はほぼ丸ごと利益になるのだ。
「それにしても今日は鮫島くんの友達がよく来店するね。何人目だっけ?」
「さっきので七人目ですね」
店長が言う友達とはロミオウィンドオーケストラの団員たちの事だ。
彼らがこの店に来店する理由なんて考えるまでもない。
先日、というより今日の零時に尾神樹里の動画が全て削除された。団員たちはグループチャットで慰めあっていたが、やはり直接仲間とあって言葉を交わしたかったのだろう。そして楽団長である鮫島の元にやってきたというわけだ。
確かに彼の仕事は客と雑談することも含まれている。雑談から売り上げに繋がることもあればニーズを把握することもできるからだ。
しかしこう何人も団員が来てしまっては店長に何を言われるかわからない。
だから全員をグロ中尉のように防音室へ送り込んでいた。
店は防音室のレンタル料で儲かる。
団員たちは楽器を吹くことでストレス発散になるし演奏会の練習にもなる。
鮫島は店長から怒られることもない。
損をするどころか誰にとってもメリットしかない話だった。
「……鮫島くんの友達ってみんなあんな感じなの?」
「あんな感じというと?」
「程度の差はあるけどみんな号泣していたじゃん」
「そうですね。店内では勘弁してほしいです」
「言っておくけど一番ひどかったのは鮫島くんだよ」
「店長、その話だけは勘弁してください……」
例の事件は通称、鮫島事件と呼ばれている。
いつかは過去の話となると思っていたが、未だに同僚たちからはからかわれている。そして特に店長が嬉々としてイジってくる。
その話をどのように止めようか考えていると、幸運にも新しい客が入店してきた。
「いらっしゃいませ~」
そしてその人物の顔はよく知っていた。
「……店長、また僕が指名みたいです」
次にやってきた団員はタシロンだった。
もちろん愚痴を聞いたのちに防音室へと送り込んだ。
書類整理や発注などの仕事を抱えていたがシフト中には終わりそうにない。
今日は残業確定だった。
配信アーカイブが残っているのは今日が最後。時計の針が頂点を指して日付が変わると同時にすべての配信の記録が消去されてしまう。
幸運なことに今日のアルバイトは休みだ。
いつもより早くに起床した鮫島は自室に閉じこもって朝からずっと動画を見続けていた。ここまで長時間自室に閉じこもるのはニート時代以来だ。
気が付くと日が変わるまで残り十数分となっていた。
時間的に配信は見終わらない。しかし途中で終わるとしても最後の一分一秒まで彼女の声を聞いていたい。
チャンネルに並ぶ動画を見まわし、何かを感じた動画を再生した。
それはゲーム配信でも誰かとのコラボ配信でもない。ただ尾神樹里がただひたすらコメントを拾い続ける雑談配信だった。
「コメントとかSNSとかでよく聞かれるの。配信中にうっかり本名を言ってしまわないの? とか、逆にリアルで尾神樹里って名乗ったりしないの? って。なんて言うんだろう。仕事モードのスイッチが入るっていうのかな? 配信中の私は尾神樹里という入れ物の中に入る感じがするの……これ言ったら運営に怒られるんじゃない?」
これはずいぶん前の配信だ。
彼女が言う通り、この後で所属事務所に怒られたのかもしれない。どうやらバーチャルアイドルの業界では声優を公開しないという暗黙の了解があるようだ。それどころか「中に誰もいませんよ」というスタンスを貫いている。
この配信を最後に中の人の存在をほのめかす雑談はなかったと思う。
「ほら、先週実況したゲームでラスボスが言っていたでしょう。「長く自分を偽ると浸食される」って」
配信の順番までは覚えていないが、彼女が言っているゲームとは何のことかすぐに理解できた。キレ芸や下ネタを使いながらも頑なにお嬢様キャラを貫いていた彼女がゴリッゴリなミリタリー系のゲームを実況していた。ミリタリー物でありながら銃声が聞こえない静かなゲームだったが、彼女は敵に発見されるたびに叫んでいた。図太い雄叫びを上げながらライフルを乱射し、ゲームオーバーになって何度も机を叩いていた。
「誤解されるかもしれないけど、私は自分を偽っているの。配信中の私は尾神樹里という人物になりきっているの。私を尾神樹里に合わせているって言うのかな?」
自分を偽る。
単純に演技だと思っていたがそのようなテクニックがあったなんて。
「はい、じゃあ次はフカちゃんからのコメント。就職先が決まったよ、だって。おめでとう。フルートの初見演奏配信で二万も投げ銭してくれた人でしょ? ニートだったのにさ」
なにか言葉の最後にトゲがある。
それでも当時の鮫島は自分の事を覚えていてくれたことに感激したものだ。もちろんその気持ちは今でも変わらない。
「「樹里ちゃんに投げ銭するために就職しました。今週のバイト代です」じゃねぇよ! あんたバカじゃないの!? もう『バカニート』に改名しろよ」
あの時は本気で改名を考えたものだ。
いまではハルトマン軍曹に『フカニート』と呼ばれているが、この時に『バカニート』と改名しておけば彼に腹立つこともなかっただろう。
「フカちゃんには他に大事な人ができるかもしれないよ? 他にやりたい事ができるかもしれないよ? 今は私がいるけど、出会いがあるってことは別れもあるんだから、これからのために貯金もしておかなきゃ」
それは彼女との次の約束だった。
鮫島は必至で貯金をしてフルートを購入することができた。これも尾神樹里関係の趣味だが、彼女と同じ趣味を持ちたいという希望を果たすことができた。
「だけど約束通り就職してくれて嬉しいよ。じゃあ次のコメン――」
そこで突然動画が止まった。
画面にはロード中のマークがくるくる回っている。
ネット回線には何も異常はない。
ふと時計を見ると日付が変わり、すでに時刻は零時二十六分。
配信画面からチャンネルへと戻ってみた。そこはただ「このチャンネルには動画がありません」という表示があるだけだった。色とりどりなサムネイルが並んでいたあの光景は見る影も残っていなかった。
スマホで尾神樹里のSNSを確認してみた。
そこには彼女のアカウントが残っていた。過去の投稿もすべて残っている。しかし名前の隣に【活動終了】と記されていた。
「なんでなんだよぉ!」
そう嘆くのはグロ中尉だった。
しかしここはバーカウンターではない。
ただの楽器店のレジカウンターだ。
「せめて動画だけは残してくれたっていいじゃないか!」
「袋はいりますか?」
「……いらない」
バルブオイルにスライドグリスにブラスソープ。
レジカウンターに並べられた商品にテープを貼っていく。
「フカちゃんもそう思うだろう? なぁ!?」
「僕もそう思うけどさ」
尾神樹里の配信チャンネルは動画が削除されたがアカウントは残っている。しかしSNSは名前の後ろに【活動終了】と追記されただけで過去の投稿はそのままだ。それならば過去の動画も残してくれてもいいじゃないか。
契約解除によって彼女のイラストが商用利用できなくなったらしいが、それならば動画から広告などをはがして収益が入らないようにすれば問題ないはずだ。
しかし彼女が所属していた事務所にも事情があるのだろう。
「だろぉ!? 動画を残してくれてもいいじゃないか!」
「グロ中尉、他のお客様が見ているから」
店内で泣き叫ぶ彼には困ったものだ。
ここは楽器店だ。泣き叫ぶのは居酒屋でやってほしい。奢ってくれるのであれば鮫島もついていって相手になる。
「合計で2,830円になります」
「……はい」
「ちょうどですね。毎度ありがとうございます」
「だいたい事務所もさぁ!」
会計も終わったというのに彼はまだ管《くだ》を巻くつもりのようだ。
これでは他のお客様がレジに来られないではないか。せめて隣の注文用のカウンターで泣いてほしい。
「トランペットを吹いて悲しみを爆発させてきたら? 今なら防音室が空いているよ」
「じゃあ一時間だけ貸してくれ」
「それだけで足りる?」
「じゃあ二時間」
「毎度ありがとうございます」
グロ中尉から二時間分のレンタル料を受け取ると彼を防音室へと見送った。
そのやり取りを隣で店長がニヤニヤと見ていた。
「どうしたんですか?」
「いやぁ~、別に~?」
何かを言いたげな様子だ。
だけど鮫島は何も悪いことはしていない。
グロ中尉に防音室を提案したことで2,200円は売り上げた。防音室は使用されていない時も空調をかけっぱなしだから使わなくても経費は掛かっている。面積で考えると空調代もテナント料も微々たるもの。レンタル代はほぼ丸ごと利益になるのだ。
「それにしても今日は鮫島くんの友達がよく来店するね。何人目だっけ?」
「さっきので七人目ですね」
店長が言う友達とはロミオウィンドオーケストラの団員たちの事だ。
彼らがこの店に来店する理由なんて考えるまでもない。
先日、というより今日の零時に尾神樹里の動画が全て削除された。団員たちはグループチャットで慰めあっていたが、やはり直接仲間とあって言葉を交わしたかったのだろう。そして楽団長である鮫島の元にやってきたというわけだ。
確かに彼の仕事は客と雑談することも含まれている。雑談から売り上げに繋がることもあればニーズを把握することもできるからだ。
しかしこう何人も団員が来てしまっては店長に何を言われるかわからない。
だから全員をグロ中尉のように防音室へ送り込んでいた。
店は防音室のレンタル料で儲かる。
団員たちは楽器を吹くことでストレス発散になるし演奏会の練習にもなる。
鮫島は店長から怒られることもない。
損をするどころか誰にとってもメリットしかない話だった。
「……鮫島くんの友達ってみんなあんな感じなの?」
「あんな感じというと?」
「程度の差はあるけどみんな号泣していたじゃん」
「そうですね。店内では勘弁してほしいです」
「言っておくけど一番ひどかったのは鮫島くんだよ」
「店長、その話だけは勘弁してください……」
例の事件は通称、鮫島事件と呼ばれている。
いつかは過去の話となると思っていたが、未だに同僚たちからはからかわれている。そして特に店長が嬉々としてイジってくる。
その話をどのように止めようか考えていると、幸運にも新しい客が入店してきた。
「いらっしゃいませ~」
そしてその人物の顔はよく知っていた。
「……店長、また僕が指名みたいです」
次にやってきた団員はタシロンだった。
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