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承前 夏の人事 ~御三卿家老を巡る人事・岡部一徳の後任の清水家老として側用人の本多忠籌は北町奉行の初鹿野河内守信興を推挙す 1~
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こうして御三卿、清水家の家老を勤める岡部一徳を西之丸の留守居へと左遷させるころから、清水家老に欠員が生じるため、これを補充しなければならなかった。
御三卿家老は西之丸の留守居と同じく閑職とは言え、厳密な意味での定員が存在し、そこが西之丸の留守居との違い、或いは同じく閑職の旗奉行や槍奉行との違いとも言えた。
そして岡部一徳の後任の清水家老には前例に倣えば、小納戸頭取を以ってしてこれに充てるべきであろう。或いは柘植正寔のように公事方勘定奉行を充てることも選択肢の一つであった。
いや、勘定奉行は現在、松平定信肝煎りの政策とも呼ぶべき、蔵宿、つまりは札差からの借金に苦しむ旗本や御家人の救済策である棄捐令の作成に携わり、且つ大詰めの段階を迎えているので、公事・勝手共に手が離せない状況に置かれており、閑職である御三卿家老への転出などとてもではないが呑める人事ではなかった。とりわけ定信はそうであろう。
だとするならばやはり小納戸頭取に絞られることになるか。
将軍・家斉の御前にて列座する皆もそうと察してか、その中の一人である奥詰の津田信久が家斉に対して、
「されば小納戸頭取衆の一人、森川甲斐を充てましては如何で御座りましょうや…」
控え目ながらもそう提案した。
信久が口にした「森川甲斐」とは森川甲斐守俊顕であり、家斉がまだ、家治の将軍家御養君、つまりは養子として、それも次期将軍として西之丸に暮らしていた頃より小納戸頭取として次期将軍であった家斉に近侍していた。
いや、森川俊顕は家斉が次期将軍として西之丸にて暮らすより前、家治の実子であった家基が次期将軍として西之丸にて暮らしていた安永6(1777)年6月に小納戸頭取に取立てられ、小納戸頭取として家基に近侍していた。
つまりは俊顕は西之丸の小納戸として家基・家斉の二代に亘って仕えたわけだ。
その後…、それから僅か2年後の安永8(1779)年に家基が薨去したために、新たに御三卿の一つ、一橋家よりその当主である治済が息・豊千代が亡き家基に代わる次期将軍として西之丸に迎えられ、そこで森川俊顕は引き続き西之丸にて新たな次期将軍となった豊千代こと家斉に小納戸頭取として仕えたのであった。
そして天明6(1786)年、将軍・家治の薨去に伴い、家斉は新将軍として西之丸からここ本丸へと引き移り、俊顕もそれに随い、そして今では将軍となった家斉に今度は本丸の小納戸頭取として仕えていた。
その森川俊顕は西之丸の小納戸頭取時代と今の本丸のそれとを合算すれば一番の古株であり、それゆえ信久は俊顕の名を挙げたのであった。
それに対して他の者も唯一人、側用人の本多忠籌を除いては信久の提案を至当と認めて頷いた。
そんな中、忠籌だけが、「暫く」と異議の声を上げたかと思うと、
「されば森川甲斐は齢65なれば、家老職が勤まるであろうかの…」
忠籌は年齢面から森川俊顕の起用に難色を示したのであった。
確かに、その点は信久も気になるところではあった。御三卿家老が如何に閑職とは申せ、旗奉行や槍奉行などのように完全に閑職とは言い切れず、ましてや清水家はこれから長年の膿を出さねばならぬ折であり、閑職どころか実務的な色彩の濃いポストと言えなくもなかった。
そのような御三卿家老である清水家老に65の森川俊顕を据えるのは成程、些か不安であり、そのことは言い出しっぺの信久も感じていたところであった。
そこで信久は「次善の策」として小野飛騨守則武の名を挙げた。
小野則武は8年前の天明元(1781)年6月に小姓から小納戸頭取に取立てられ、本丸小納戸頭取としては一番の古株である。
それゆえ信久は「次善の策」もとい、年功序列の観点から、小野則武の名を挙げ、それに対して他の者たちも頷いたのであった。
だがこの信久の提案に対しても、やはり忠籌が唯一人、「暫くと異議を唱えたのであった。
「僭越ながら…」
忠籌はそう切り出すと、
「小野飛騨は殊の外、畏れ多くも上様がご寵愛が篤く…」
そう異議を唱えた理由を口にした。
確かに忠籌の言う通りであった。
小野則武は家治の御世に小納戸頭取に取立てられたが、引き続き家斉にも小納戸頭取として仕え、2年前の天明7(1787)年4月に執り行われた家斉の将軍宣下という最も大事な「イベント」において、家斉の装束を整えたのが外ならぬ則武であり、則武のその実に行き届いた差配に家斉はいたく感じ入り、爾来、則武を寵愛していた。その寵愛ぶりたるや、家斉がまだ次期将軍として西之丸にて暮らしていた頃よりその家斉に仕えていた森川俊顕に対するそれ以上のものがあった。
そしてそのことは周知の事実であり、家斉も今の忠籌の言葉を裏付けるかのように自然に頷いてみせたことからもそうと察せられる。
則武を御三卿家老、清水家老に推挙した信久にしても勿論そのことは把握しており、それゆえ信久は則武を推挙しながらも、家斉の寵愛が異動の「ネック」になるやも知れぬことに気づいていた。
そこで信久は「三善の策」とばかり、平塚伊賀守爲善の名を挙げた。
平塚爲善もまた、小野則武と同じく家治の御世である天明5(1785)年11月に小納戸からその頭取へと取立てられ、則武に次いで古株であった。
その上、爲善は則武程には家斉の寵愛を受けてはいなかったので、
「されば平塚伊賀なれば小野飛騨に較べ…」
畏れ多くも上様のご寵愛を受けてはおり申さず…、と信久は思わずそう言いそうになって慌てて口を噤んだ。如何に事実とは申せ、このような老中や若年寄も列座する満座にてそれを口にしては爲善の面子を潰すことになるからだ。
一方、忠籌もそうと察して底意地の悪いことに、
「平塚伊賀が小野飛騨に較べ、何と申すのだ?」
忠籌は口元を歪めて信久にその先を促した。
これにはさしもの信久も一瞬言葉に詰まった様子を覗かせたが、それも束の間、
「平塚伊賀は小野飛騨に較べ年嵩なれば、より御三卿殿が家老に相応しいかと…」
信久は忠籌のその底意地の悪い追及をサラリとかわしてみせた。
確かに信久の言う通り、爲善は御齢55と、51の則武よりも4歳年上であった。
「巧くかわしたの…」
忠籌はそう思いつつ、白けた表情を浮かべた。
すると今度は御側御用取次の小笠原信喜が忠籌に代わって「異議申立て」を行った。
「あっいや、暫く…」
信喜もまたそう切り出したかと思うと、
「されば平塚伊賀守が娘御は畏れ多くも上様が御側室殿にあらせらる御萬の方殿なれば…」
将軍・家斉の側室の実父に当たる小納戸頭取の爲善を如何に慣例とは申せ、御三卿家老に棚上げするなど、
「以ての外…」
というわけで、信久も勿論それに気づいており、そのことがまた異動への「ネック」になるであろうことも察しがついていた。
家斉はまだ17歳、まだあどけなさの残る、裏を返せば些か頼りない将軍ではあるものの、それでも一人前に女は知っていた。
ともあれ平塚爲善は小野則武に次ぐ古株の小納戸頭取であり、その小納戸頭取から御三卿家老へと異動を果たすのがこの時代に確立された、
「人事のパターン」
である以上、信久としては則武に次いで爲善の名を挙げないわけにはゆかなかった。
こうして信久は三度、忠籌に己の提案を否定されたことから、最後に亀井駿河守清容の名を挙げた。
亀井清容もまた、森川俊顕と同じく、西之丸にて家基・家斉と二代に亘って仕えた口であった。
但し、清容は俊顕とは違い、西之丸小納戸頭取として家基・家斉に仕えたわけではなく、あくまで一介の小納戸として仕えたのだ。
それが去年の天明8(1788)年4月に将軍となった家斉にその小納戸としてのこれまでの働きぶりが認められ、晴れて小納戸頭取へと昇進を果たしたのであり、そこが俊顕との違い、それも最大の違いと断言出来た。
それと言うのも俊顕の場合、家斉が家治・家基父子への義理立て、つまりは遠慮から家基の「置き土産」とも言うべき森川俊顕を引き続き小納戸頭取として起用したのに対して、亀井清容の場合は家斉が自ら、清容を気に入り小納戸頭取に取立てたからであった。
これで年齢の問題がなければ家斉としても俊顕を御三卿家老である清水家老へと異動させることに即座に、それも諸手を挙げて賛成したに違いない。家斉としてももう十分に家治・家基父子に対して、
「義理を果たした…」
その思いが強く、そろそろ「前世紀の遺物」とも言うべき俊顕の存在が家斉には目障りに感じられたからだ。
そしてこの亀井清容の清水家老への起用についてもやはりと言うべきか、忠籌によって否定された。将軍・家斉からの寵愛を盾にして否定したのであった。
こうして残る小納戸頭取は大久保日向守忠得と岩本石見守正倫の二人であるが、しかしこの二人は頭取格であり、つまりは家斉から将来を嘱望されていたので、それを御三卿家老に追いやるなど以ての外であった。
するとそれまで黙っていた御側御用取次の加納久周が、「弾正大弼」と割って入った。将軍・家斉の御前であるので、久周も直属の上司に当たる忠籌に対して、その官職名でもって呼び捨てにした。
その久周は信久の提案に対して繰り返し否定する忠籌に堪りかねた様子であり、
「先程より津田山城が提案に否定を繰り返されるが、さればそこもとには意中の人物でも?」
久周は実際、否定を繰り返す忠籌に対してそう詰問した。
一方、忠籌は久周の詰問に対しても平然としたもので、それどころか久周のその詰問を待っていたかの様子を覗かせ、
「されば北の町奉行の初鹿野河内を充てては…」
実際、忠籌はそう即答してみせた。
御三卿家老は西之丸の留守居と同じく閑職とは言え、厳密な意味での定員が存在し、そこが西之丸の留守居との違い、或いは同じく閑職の旗奉行や槍奉行との違いとも言えた。
そして岡部一徳の後任の清水家老には前例に倣えば、小納戸頭取を以ってしてこれに充てるべきであろう。或いは柘植正寔のように公事方勘定奉行を充てることも選択肢の一つであった。
いや、勘定奉行は現在、松平定信肝煎りの政策とも呼ぶべき、蔵宿、つまりは札差からの借金に苦しむ旗本や御家人の救済策である棄捐令の作成に携わり、且つ大詰めの段階を迎えているので、公事・勝手共に手が離せない状況に置かれており、閑職である御三卿家老への転出などとてもではないが呑める人事ではなかった。とりわけ定信はそうであろう。
だとするならばやはり小納戸頭取に絞られることになるか。
将軍・家斉の御前にて列座する皆もそうと察してか、その中の一人である奥詰の津田信久が家斉に対して、
「されば小納戸頭取衆の一人、森川甲斐を充てましては如何で御座りましょうや…」
控え目ながらもそう提案した。
信久が口にした「森川甲斐」とは森川甲斐守俊顕であり、家斉がまだ、家治の将軍家御養君、つまりは養子として、それも次期将軍として西之丸に暮らしていた頃より小納戸頭取として次期将軍であった家斉に近侍していた。
いや、森川俊顕は家斉が次期将軍として西之丸にて暮らすより前、家治の実子であった家基が次期将軍として西之丸にて暮らしていた安永6(1777)年6月に小納戸頭取に取立てられ、小納戸頭取として家基に近侍していた。
つまりは俊顕は西之丸の小納戸として家基・家斉の二代に亘って仕えたわけだ。
その後…、それから僅か2年後の安永8(1779)年に家基が薨去したために、新たに御三卿の一つ、一橋家よりその当主である治済が息・豊千代が亡き家基に代わる次期将軍として西之丸に迎えられ、そこで森川俊顕は引き続き西之丸にて新たな次期将軍となった豊千代こと家斉に小納戸頭取として仕えたのであった。
そして天明6(1786)年、将軍・家治の薨去に伴い、家斉は新将軍として西之丸からここ本丸へと引き移り、俊顕もそれに随い、そして今では将軍となった家斉に今度は本丸の小納戸頭取として仕えていた。
その森川俊顕は西之丸の小納戸頭取時代と今の本丸のそれとを合算すれば一番の古株であり、それゆえ信久は俊顕の名を挙げたのであった。
それに対して他の者も唯一人、側用人の本多忠籌を除いては信久の提案を至当と認めて頷いた。
そんな中、忠籌だけが、「暫く」と異議の声を上げたかと思うと、
「されば森川甲斐は齢65なれば、家老職が勤まるであろうかの…」
忠籌は年齢面から森川俊顕の起用に難色を示したのであった。
確かに、その点は信久も気になるところではあった。御三卿家老が如何に閑職とは申せ、旗奉行や槍奉行などのように完全に閑職とは言い切れず、ましてや清水家はこれから長年の膿を出さねばならぬ折であり、閑職どころか実務的な色彩の濃いポストと言えなくもなかった。
そのような御三卿家老である清水家老に65の森川俊顕を据えるのは成程、些か不安であり、そのことは言い出しっぺの信久も感じていたところであった。
そこで信久は「次善の策」として小野飛騨守則武の名を挙げた。
小野則武は8年前の天明元(1781)年6月に小姓から小納戸頭取に取立てられ、本丸小納戸頭取としては一番の古株である。
それゆえ信久は「次善の策」もとい、年功序列の観点から、小野則武の名を挙げ、それに対して他の者たちも頷いたのであった。
だがこの信久の提案に対しても、やはり忠籌が唯一人、「暫くと異議を唱えたのであった。
「僭越ながら…」
忠籌はそう切り出すと、
「小野飛騨は殊の外、畏れ多くも上様がご寵愛が篤く…」
そう異議を唱えた理由を口にした。
確かに忠籌の言う通りであった。
小野則武は家治の御世に小納戸頭取に取立てられたが、引き続き家斉にも小納戸頭取として仕え、2年前の天明7(1787)年4月に執り行われた家斉の将軍宣下という最も大事な「イベント」において、家斉の装束を整えたのが外ならぬ則武であり、則武のその実に行き届いた差配に家斉はいたく感じ入り、爾来、則武を寵愛していた。その寵愛ぶりたるや、家斉がまだ次期将軍として西之丸にて暮らしていた頃よりその家斉に仕えていた森川俊顕に対するそれ以上のものがあった。
そしてそのことは周知の事実であり、家斉も今の忠籌の言葉を裏付けるかのように自然に頷いてみせたことからもそうと察せられる。
則武を御三卿家老、清水家老に推挙した信久にしても勿論そのことは把握しており、それゆえ信久は則武を推挙しながらも、家斉の寵愛が異動の「ネック」になるやも知れぬことに気づいていた。
そこで信久は「三善の策」とばかり、平塚伊賀守爲善の名を挙げた。
平塚爲善もまた、小野則武と同じく家治の御世である天明5(1785)年11月に小納戸からその頭取へと取立てられ、則武に次いで古株であった。
その上、爲善は則武程には家斉の寵愛を受けてはいなかったので、
「されば平塚伊賀なれば小野飛騨に較べ…」
畏れ多くも上様のご寵愛を受けてはおり申さず…、と信久は思わずそう言いそうになって慌てて口を噤んだ。如何に事実とは申せ、このような老中や若年寄も列座する満座にてそれを口にしては爲善の面子を潰すことになるからだ。
一方、忠籌もそうと察して底意地の悪いことに、
「平塚伊賀が小野飛騨に較べ、何と申すのだ?」
忠籌は口元を歪めて信久にその先を促した。
これにはさしもの信久も一瞬言葉に詰まった様子を覗かせたが、それも束の間、
「平塚伊賀は小野飛騨に較べ年嵩なれば、より御三卿殿が家老に相応しいかと…」
信久は忠籌のその底意地の悪い追及をサラリとかわしてみせた。
確かに信久の言う通り、爲善は御齢55と、51の則武よりも4歳年上であった。
「巧くかわしたの…」
忠籌はそう思いつつ、白けた表情を浮かべた。
すると今度は御側御用取次の小笠原信喜が忠籌に代わって「異議申立て」を行った。
「あっいや、暫く…」
信喜もまたそう切り出したかと思うと、
「されば平塚伊賀守が娘御は畏れ多くも上様が御側室殿にあらせらる御萬の方殿なれば…」
将軍・家斉の側室の実父に当たる小納戸頭取の爲善を如何に慣例とは申せ、御三卿家老に棚上げするなど、
「以ての外…」
というわけで、信久も勿論それに気づいており、そのことがまた異動への「ネック」になるであろうことも察しがついていた。
家斉はまだ17歳、まだあどけなさの残る、裏を返せば些か頼りない将軍ではあるものの、それでも一人前に女は知っていた。
ともあれ平塚爲善は小野則武に次ぐ古株の小納戸頭取であり、その小納戸頭取から御三卿家老へと異動を果たすのがこの時代に確立された、
「人事のパターン」
である以上、信久としては則武に次いで爲善の名を挙げないわけにはゆかなかった。
こうして信久は三度、忠籌に己の提案を否定されたことから、最後に亀井駿河守清容の名を挙げた。
亀井清容もまた、森川俊顕と同じく、西之丸にて家基・家斉と二代に亘って仕えた口であった。
但し、清容は俊顕とは違い、西之丸小納戸頭取として家基・家斉に仕えたわけではなく、あくまで一介の小納戸として仕えたのだ。
それが去年の天明8(1788)年4月に将軍となった家斉にその小納戸としてのこれまでの働きぶりが認められ、晴れて小納戸頭取へと昇進を果たしたのであり、そこが俊顕との違い、それも最大の違いと断言出来た。
それと言うのも俊顕の場合、家斉が家治・家基父子への義理立て、つまりは遠慮から家基の「置き土産」とも言うべき森川俊顕を引き続き小納戸頭取として起用したのに対して、亀井清容の場合は家斉が自ら、清容を気に入り小納戸頭取に取立てたからであった。
これで年齢の問題がなければ家斉としても俊顕を御三卿家老である清水家老へと異動させることに即座に、それも諸手を挙げて賛成したに違いない。家斉としてももう十分に家治・家基父子に対して、
「義理を果たした…」
その思いが強く、そろそろ「前世紀の遺物」とも言うべき俊顕の存在が家斉には目障りに感じられたからだ。
そしてこの亀井清容の清水家老への起用についてもやはりと言うべきか、忠籌によって否定された。将軍・家斉からの寵愛を盾にして否定したのであった。
こうして残る小納戸頭取は大久保日向守忠得と岩本石見守正倫の二人であるが、しかしこの二人は頭取格であり、つまりは家斉から将来を嘱望されていたので、それを御三卿家老に追いやるなど以ての外であった。
するとそれまで黙っていた御側御用取次の加納久周が、「弾正大弼」と割って入った。将軍・家斉の御前であるので、久周も直属の上司に当たる忠籌に対して、その官職名でもって呼び捨てにした。
その久周は信久の提案に対して繰り返し否定する忠籌に堪りかねた様子であり、
「先程より津田山城が提案に否定を繰り返されるが、さればそこもとには意中の人物でも?」
久周は実際、否定を繰り返す忠籌に対してそう詰問した。
一方、忠籌は久周の詰問に対しても平然としたもので、それどころか久周のその詰問を待っていたかの様子を覗かせ、
「されば北の町奉行の初鹿野河内を充てては…」
実際、忠籌はそう即答してみせた。
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