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大詰め ~一橋治済、最期の晩餐。1~
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その頃、一橋邸の奥座敷においては、主の治済が用人の岩本喜内正信を相手に、酒を呷っていた。
治済としては本来、酒の勢いで本音を口にしたいところであったが、しかし、邸の周囲が大番組によってびっしりと取り囲まれている現状、そうもゆくまい。
いや、邸内のそれも奥座敷での話し声が邸外の大番組の番士らの耳にまで届くとも思えなかったが、それでも用心に越したことはない。
それでもいい加減、治済は大番組の番士らに見張られる生活に嫌気がさしていた。我慢の限界に近付きつつあると言っても良いだろう。
だが、治済の一存ではどうにもならないのもまた事実であった。何しろ彼ら大番組の番士らは将軍・家治の命によりここ一橋邸にて、治済の監視の任に当たっていたからだ。
そうであれば治済が如何に御三卿とは申せ、彼ら大番組の番士らに、「散れ」と命じるわけにはいかなかった。
「一刻も早う、清水重好が下手人として挙げられるのを望むばかりよ…」
治済は心底、そう願った。それと言うのも、今、こうして治済が大番組の番士らの監視下に置かれているのはひとえに、奥医師の池原長仙院良誠斬殺事件、さらには次期将軍であった大納言・家基殺害事件の下手人と疑われているからだ。
いや、疑われているのは治済だけではない。清水重好にしてもそうであり、将軍・家治は己…、この一橋治済と清水重好のどちらかが下手人と考え、そこで事件が解決するまでの間、治済が住まう一橋邸、及び重好が住まう清水邸、この両邸を大番組の監視下に置いたのであった。証拠隠滅防止のためである。
それゆえ治済は窮屈な思いをしていたわけだが、
「それももう間もなく終わりを迎えようぞ…」
治済は盃に並々と注がれた酒を口に運びながら、内心、そう思い、そしてほくそ笑んだものである。
間もなく、家治は死ぬ。そうなれば家基に代わって次期将軍に内定している我が子・豊千代が新将軍である。
豊千代は未だ、この一橋邸にて母…、治済の愛妾である富と共に暮らしており、次期将軍の居城とも言うべき西之丸への移徙…、お引っ越しを目前に控えていた。
それが家基殺害事件、更にその延長線上に起こったものと、そう将軍・家治が考える奥医師の池原長仙院良誠斬殺事件の下手人が判明するまで…、一橋治済か、或いは清水重好のどちらが黒幕であるのか、それが判明するまでは、豊千代の西之丸への移徙、即ち、次期将軍就任が遅れる可能性もあり得た。
だが、肝心要とも言うべき将軍・家治が死んでしまえばもう、治済のものである。未だ西之丸への移徙…、正式に次期将軍に就任したわけではないものの、それでも豊千代の次期将軍就任内定は周知の事実であり、これは例え、御三家は勿論のこと、老中ら幕閣も認めるところであり、そうであれば将軍・家治さえ死ねば豊千代は堂々とそれも次期将軍ではなく新将軍として江戸城本丸に迎えられるのである。
そうなれば豊千代の実父たる己…、この一橋治済は征夷大将軍の実父ということになり、家基殺害事件、更にその延長線上にある池原長仙院斬殺事件の真相などどうとでも操作することができる。
つまりは清水重好こそ下手人とでっち上げることも可能というわけだ。
治済はそこまで考えると、つい自然と頬が緩んでしまった。
するとそこへ番頭の小宮山利助昌則が姿を見せた。今、酌をさせている岩本喜内と並ぶ治済にとっての寵臣の一人である。
「申し上げまする。只今、目付の末吉善左衛門殿がご到着…」
小宮山利助の思わぬ告白に治済も流石に戸惑いを隠せなかった。
「なに?善左衛門が参ったと?」
治済は戸惑い気味にそう問い返した。
「御意…、されば大番組も引き揚げましたる由にて…」
「何だとっ!?」
治済はその報せには目を剥くと同時に思わず立ち上がったものである。
「大番組の連中が我が邸より立ち去ったと申すか?」
治済は頭を垂れる小宮山利助を見下ろしつつ、やはり問い返した。正確には大番組は邸外にて見張っていたに過ぎないのだが、治済の意識としては邸の中にて見張られているも同然であったのだろう。
ともあれ小宮山利助は、「御意」と答えた。
「それにしても何ゆえに大番組は引き揚げたのだ…」
治済は落ち着きを取り戻すや再び、腰をおろすなりそう呟いた。
「さればそれにつきましては末吉殿よりお聞きあそばされましては如何でござりましょうや…」
「なに?末吉が何か存じておると申すか?」
「されば末吉殿が大番組の組頭に対して何やら指図を与えましたるやいなや、組頭は血相を変えまして、組下の番士らを従えまして引き揚げましたる段、この目で確と…」
「確かめたと申すのだな?」
治済は先回りしてそう尋ね、それに対して小宮山利助も「御意」と応じた。
成程、小宮山利助は一橋家の番頭として一橋邸の警備の最高責任者の地位にあった。
御三卿には警備の最高責任者として御番頭、通称、番頭が置かれ、その地位は従五位下の諸大夫役である家老、従六位の布衣役である御側御用人、通称、側用人に次ぐものであり、側用人と同じく従六位の布衣役であった。
この御三卿の邸にて警備を担う最高責任者である番頭は通常、二人おり、それはこの一橋邸においてもその例外ではなく、小宮山利助とそれに鈴木治左衛門直裕の二人が番頭を務めていた。
但し、実際には小宮山利助一人が邸の警備の最高責任者たる番頭を務めているも同然であった。
それと言うのももう一人の番頭である鈴木治左衛門は御用人、通称、用人との兼帯であったからだ。
鈴木治左衛門は事務処理に長けており、細々とした事務処理を一人でこなし、一橋家の家政を大いに助けた。
そこで治済もそんな鈴木治左衛門の忠勤ぶりに報いるべく、番頭との兼帯としたのである。
御三卿の御用人、通称、用人は番頭と同じく従六位の布衣役ではあるものの、席次で言えば番頭の下に位置し、「実入り」という点でもやはり番頭の下に位置していた。
即ち、用人の役高が400石であるのに対して番頭のそれは500石と100石も多いのだ。たかが100石、されと100石である。
ことに鈴木治左衛門の場合、その家禄は蔵米100俵と月俸10口に過ぎない。所謂、100俵10人扶持というやつである。
そのような鈴木治左衛門にとって用人としての役高だけでも400石と、家禄の約4倍もの「お手当て」が保証されていたところ…、役高と家禄との差額である300石近くの足高が支給されていたところ、それが番頭へと昇進を果たしたことで家禄の5倍もの「お手当て」が保証、即ち、400石近くの足高が支給されるようになったのである。一気に100石もの給料アップであり、鈴木治左衛門が大いに喜んだのは言うまでもなく、鈴木治左衛門は今まで以上に忠勤に励んだものである。
尤も、治済が鈴木治左衛門に求めていたのはその事務処理能力であり、鈴木治左衛門もそのことは良く心得ており、それゆえ番頭としての仕事は専ら小宮山利助に任せ、鈴木治左衛門自身はこれまで通り、用人として、つまりは事務屋として忠勤に励んだというわけだ。
ともあれこのような事情から一橋邸の警備の最高責任者は小宮山利助が一人で担っており、小宮山利助は邸内より可能な限り、邸外にて一橋邸を見張る大番組の動向に注意を払っていたのだ。
するとそこへ目付の末吉善左衛門が姿を見せ、その末吉善左衛門は大番組頭を掴まえては何やら囁き、それに対して組頭は血相を変えて他の組頭にもその内容を伝えたのであろう、やはり血相を変えた様子で、それからすぐに組頭は配下の番士らを従えて、一橋邸を…、邸外をあとにしたとのことであり、小宮山利助はそれをそのまま治済に伝えたのであった。
「左様か…」
治済は自分でも顔面が紅潮するのが分かった。それと言うのも、
「家治は死んだか、さもなくば重篤に相違あるまい…」
そう確信したからだ。末吉善左衛門の「囁き」によって組頭が血相を変えたというのがその何よりの確たる証拠、とまでは言えないにしても、それでも傍証にはなるだろう。
そして組頭が配下の番士ら士卒を従えてこの一橋邸より引き揚げたというのもやはり、家治が死んだか、さもなくば重篤である傍証になるだろう。即ち、江戸城の警備を優先するためであろう。
治済はそこまで読み切ると、末吉善左衛門をここに連れて来るよう小宮山利助に命じたのであった。
「ここへ、でござりまするか?」
小宮山利助は流石に驚いた様子を見せた。何しろここには…、治済の前には酒肴が並べられていたからだ。
如何にこの邸の主が治済であるとは言え、酒肴が並べられている部屋へと目付の末吉善左衛門を案内するのはあまり相応しいとは言えず、その意味で小宮山利助が驚いたのも当然であった。
だが治済はそんな小宮山利助の反応をよそに、岩本喜内に対しては末吉善左衛門の酒肴をも用意するよう命じたのであった。
こうなっては小宮山利助としても拒否は出来ず、若干の躊躇を覚えつつも、玄関にて待たせてある末吉善左衛門を連れて来るべく腰を上げ、一方、岩本喜内も治済に命じられた通り、末吉善左衛門の酒肴を用意すべくやはり腰を上げた。尤も、岩本喜内の場合、小宮山利助と違って治済の意図が分かっていただけに…、つまりは岩本喜内にしても治済と同様、将軍・家治の死、或いは重篤であるに違いないとそう確信したために、小宮山利助のように躊躇を覚えることなく意気揚々、腰を上げたものである。
さて、それから末吉善左衛門が小宮山利助の案内により、治済が待つこの奥座敷へと姿を見せたのと、岩本喜内が末吉善左衛門の酒肴を運んで来たのはほぼ同時であった。
末吉善左衛門は一応、作法に則り、障子を背にした下座にて、上座にて鎮座する治済と向かい合うなり平伏しようとして、それを治済が制した。
「堅苦しい挨拶は一切、無用ぞ…」
治済はそう告げると、末吉善左衛門に対して手招きし、岩本喜内もそんな主・治済の意思を後押しするかのように、末吉善左衛門の酒肴を主・治済の前に並ぶ酒肴と重ねるように置き、それで末吉善左衛門も最早、遠慮は無用とそうと悟るや、治済の前へと…、己のために岩本喜内が用意してくれた酒肴の前に座り、治済と向かい合った。
それから治済はいったん岩本喜内と小宮山利助の二人を退がらせ、末吉善左衛門の二人きりになったところでまずは治済が自ら、末吉善左衛門に酌をしてやった。
「畏れ入り奉りまする…」
末吉善左衛門は流石に恐縮した様子であり、治済はそんな末吉善左衛門の様子がおかしく感じられ、
「されば左様に堅くならずとも良いではないか…、ここは…、この邸はそなたにとっても言うなればもう一つの実家のようなものだからの…」
治済は末吉善左衛門の緊張を解き解すかのようにそう告げた。
ここ一橋邸が末吉善左衛門にとっての「もう一つの実家」とは他でもない、ここ一橋邸にて仕えていたことがあるからであり、のみならず、一時は廃嫡の危機に晒されたこともある治済のその危機を救ったこともあったのだ。
そのような事情から治済は末吉善左衛門に対してこの一橋邸は末吉善左衛門にとっての「もう一つの実家」と形容してみせたのであり、それは末吉善左衛門にとっては最大限の賛辞と言えた。
「畏れ入り奉りまする…」
末吉善左衛門はいったん盃を置き、治済に対して深々と頭を垂れてみせることで治済のその「賛辞」に対して謝意を表明してみせた。
治済はそんな末吉善左衛門に対して頷いてみせると、いよいよ本題に入った。
「されば…、目付であるそなたが斯様なる刻限にわざわざ参ったは…、その上、大番組まで引き揚げさせたとは…、上様がいよいよ…、であろう?」
治済は顔を上げた末吉善左衛門に対してそうぶつけ、それに対して末吉善左衛門も、「御意」と答えたのであった。
治済としては本来、酒の勢いで本音を口にしたいところであったが、しかし、邸の周囲が大番組によってびっしりと取り囲まれている現状、そうもゆくまい。
いや、邸内のそれも奥座敷での話し声が邸外の大番組の番士らの耳にまで届くとも思えなかったが、それでも用心に越したことはない。
それでもいい加減、治済は大番組の番士らに見張られる生活に嫌気がさしていた。我慢の限界に近付きつつあると言っても良いだろう。
だが、治済の一存ではどうにもならないのもまた事実であった。何しろ彼ら大番組の番士らは将軍・家治の命によりここ一橋邸にて、治済の監視の任に当たっていたからだ。
そうであれば治済が如何に御三卿とは申せ、彼ら大番組の番士らに、「散れ」と命じるわけにはいかなかった。
「一刻も早う、清水重好が下手人として挙げられるのを望むばかりよ…」
治済は心底、そう願った。それと言うのも、今、こうして治済が大番組の番士らの監視下に置かれているのはひとえに、奥医師の池原長仙院良誠斬殺事件、さらには次期将軍であった大納言・家基殺害事件の下手人と疑われているからだ。
いや、疑われているのは治済だけではない。清水重好にしてもそうであり、将軍・家治は己…、この一橋治済と清水重好のどちらかが下手人と考え、そこで事件が解決するまでの間、治済が住まう一橋邸、及び重好が住まう清水邸、この両邸を大番組の監視下に置いたのであった。証拠隠滅防止のためである。
それゆえ治済は窮屈な思いをしていたわけだが、
「それももう間もなく終わりを迎えようぞ…」
治済は盃に並々と注がれた酒を口に運びながら、内心、そう思い、そしてほくそ笑んだものである。
間もなく、家治は死ぬ。そうなれば家基に代わって次期将軍に内定している我が子・豊千代が新将軍である。
豊千代は未だ、この一橋邸にて母…、治済の愛妾である富と共に暮らしており、次期将軍の居城とも言うべき西之丸への移徙…、お引っ越しを目前に控えていた。
それが家基殺害事件、更にその延長線上に起こったものと、そう将軍・家治が考える奥医師の池原長仙院良誠斬殺事件の下手人が判明するまで…、一橋治済か、或いは清水重好のどちらが黒幕であるのか、それが判明するまでは、豊千代の西之丸への移徙、即ち、次期将軍就任が遅れる可能性もあり得た。
だが、肝心要とも言うべき将軍・家治が死んでしまえばもう、治済のものである。未だ西之丸への移徙…、正式に次期将軍に就任したわけではないものの、それでも豊千代の次期将軍就任内定は周知の事実であり、これは例え、御三家は勿論のこと、老中ら幕閣も認めるところであり、そうであれば将軍・家治さえ死ねば豊千代は堂々とそれも次期将軍ではなく新将軍として江戸城本丸に迎えられるのである。
そうなれば豊千代の実父たる己…、この一橋治済は征夷大将軍の実父ということになり、家基殺害事件、更にその延長線上にある池原長仙院斬殺事件の真相などどうとでも操作することができる。
つまりは清水重好こそ下手人とでっち上げることも可能というわけだ。
治済はそこまで考えると、つい自然と頬が緩んでしまった。
するとそこへ番頭の小宮山利助昌則が姿を見せた。今、酌をさせている岩本喜内と並ぶ治済にとっての寵臣の一人である。
「申し上げまする。只今、目付の末吉善左衛門殿がご到着…」
小宮山利助の思わぬ告白に治済も流石に戸惑いを隠せなかった。
「なに?善左衛門が参ったと?」
治済は戸惑い気味にそう問い返した。
「御意…、されば大番組も引き揚げましたる由にて…」
「何だとっ!?」
治済はその報せには目を剥くと同時に思わず立ち上がったものである。
「大番組の連中が我が邸より立ち去ったと申すか?」
治済は頭を垂れる小宮山利助を見下ろしつつ、やはり問い返した。正確には大番組は邸外にて見張っていたに過ぎないのだが、治済の意識としては邸の中にて見張られているも同然であったのだろう。
ともあれ小宮山利助は、「御意」と答えた。
「それにしても何ゆえに大番組は引き揚げたのだ…」
治済は落ち着きを取り戻すや再び、腰をおろすなりそう呟いた。
「さればそれにつきましては末吉殿よりお聞きあそばされましては如何でござりましょうや…」
「なに?末吉が何か存じておると申すか?」
「されば末吉殿が大番組の組頭に対して何やら指図を与えましたるやいなや、組頭は血相を変えまして、組下の番士らを従えまして引き揚げましたる段、この目で確と…」
「確かめたと申すのだな?」
治済は先回りしてそう尋ね、それに対して小宮山利助も「御意」と応じた。
成程、小宮山利助は一橋家の番頭として一橋邸の警備の最高責任者の地位にあった。
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この御三卿の邸にて警備を担う最高責任者である番頭は通常、二人おり、それはこの一橋邸においてもその例外ではなく、小宮山利助とそれに鈴木治左衛門直裕の二人が番頭を務めていた。
但し、実際には小宮山利助一人が邸の警備の最高責任者たる番頭を務めているも同然であった。
それと言うのももう一人の番頭である鈴木治左衛門は御用人、通称、用人との兼帯であったからだ。
鈴木治左衛門は事務処理に長けており、細々とした事務処理を一人でこなし、一橋家の家政を大いに助けた。
そこで治済もそんな鈴木治左衛門の忠勤ぶりに報いるべく、番頭との兼帯としたのである。
御三卿の御用人、通称、用人は番頭と同じく従六位の布衣役ではあるものの、席次で言えば番頭の下に位置し、「実入り」という点でもやはり番頭の下に位置していた。
即ち、用人の役高が400石であるのに対して番頭のそれは500石と100石も多いのだ。たかが100石、されと100石である。
ことに鈴木治左衛門の場合、その家禄は蔵米100俵と月俸10口に過ぎない。所謂、100俵10人扶持というやつである。
そのような鈴木治左衛門にとって用人としての役高だけでも400石と、家禄の約4倍もの「お手当て」が保証されていたところ…、役高と家禄との差額である300石近くの足高が支給されていたところ、それが番頭へと昇進を果たしたことで家禄の5倍もの「お手当て」が保証、即ち、400石近くの足高が支給されるようになったのである。一気に100石もの給料アップであり、鈴木治左衛門が大いに喜んだのは言うまでもなく、鈴木治左衛門は今まで以上に忠勤に励んだものである。
尤も、治済が鈴木治左衛門に求めていたのはその事務処理能力であり、鈴木治左衛門もそのことは良く心得ており、それゆえ番頭としての仕事は専ら小宮山利助に任せ、鈴木治左衛門自身はこれまで通り、用人として、つまりは事務屋として忠勤に励んだというわけだ。
ともあれこのような事情から一橋邸の警備の最高責任者は小宮山利助が一人で担っており、小宮山利助は邸内より可能な限り、邸外にて一橋邸を見張る大番組の動向に注意を払っていたのだ。
するとそこへ目付の末吉善左衛門が姿を見せ、その末吉善左衛門は大番組頭を掴まえては何やら囁き、それに対して組頭は血相を変えて他の組頭にもその内容を伝えたのであろう、やはり血相を変えた様子で、それからすぐに組頭は配下の番士らを従えて、一橋邸を…、邸外をあとにしたとのことであり、小宮山利助はそれをそのまま治済に伝えたのであった。
「左様か…」
治済は自分でも顔面が紅潮するのが分かった。それと言うのも、
「家治は死んだか、さもなくば重篤に相違あるまい…」
そう確信したからだ。末吉善左衛門の「囁き」によって組頭が血相を変えたというのがその何よりの確たる証拠、とまでは言えないにしても、それでも傍証にはなるだろう。
そして組頭が配下の番士ら士卒を従えてこの一橋邸より引き揚げたというのもやはり、家治が死んだか、さもなくば重篤である傍証になるだろう。即ち、江戸城の警備を優先するためであろう。
治済はそこまで読み切ると、末吉善左衛門をここに連れて来るよう小宮山利助に命じたのであった。
「ここへ、でござりまするか?」
小宮山利助は流石に驚いた様子を見せた。何しろここには…、治済の前には酒肴が並べられていたからだ。
如何にこの邸の主が治済であるとは言え、酒肴が並べられている部屋へと目付の末吉善左衛門を案内するのはあまり相応しいとは言えず、その意味で小宮山利助が驚いたのも当然であった。
だが治済はそんな小宮山利助の反応をよそに、岩本喜内に対しては末吉善左衛門の酒肴をも用意するよう命じたのであった。
こうなっては小宮山利助としても拒否は出来ず、若干の躊躇を覚えつつも、玄関にて待たせてある末吉善左衛門を連れて来るべく腰を上げ、一方、岩本喜内も治済に命じられた通り、末吉善左衛門の酒肴を用意すべくやはり腰を上げた。尤も、岩本喜内の場合、小宮山利助と違って治済の意図が分かっていただけに…、つまりは岩本喜内にしても治済と同様、将軍・家治の死、或いは重篤であるに違いないとそう確信したために、小宮山利助のように躊躇を覚えることなく意気揚々、腰を上げたものである。
さて、それから末吉善左衛門が小宮山利助の案内により、治済が待つこの奥座敷へと姿を見せたのと、岩本喜内が末吉善左衛門の酒肴を運んで来たのはほぼ同時であった。
末吉善左衛門は一応、作法に則り、障子を背にした下座にて、上座にて鎮座する治済と向かい合うなり平伏しようとして、それを治済が制した。
「堅苦しい挨拶は一切、無用ぞ…」
治済はそう告げると、末吉善左衛門に対して手招きし、岩本喜内もそんな主・治済の意思を後押しするかのように、末吉善左衛門の酒肴を主・治済の前に並ぶ酒肴と重ねるように置き、それで末吉善左衛門も最早、遠慮は無用とそうと悟るや、治済の前へと…、己のために岩本喜内が用意してくれた酒肴の前に座り、治済と向かい合った。
それから治済はいったん岩本喜内と小宮山利助の二人を退がらせ、末吉善左衛門の二人きりになったところでまずは治済が自ら、末吉善左衛門に酌をしてやった。
「畏れ入り奉りまする…」
末吉善左衛門は流石に恐縮した様子であり、治済はそんな末吉善左衛門の様子がおかしく感じられ、
「されば左様に堅くならずとも良いではないか…、ここは…、この邸はそなたにとっても言うなればもう一つの実家のようなものだからの…」
治済は末吉善左衛門の緊張を解き解すかのようにそう告げた。
ここ一橋邸が末吉善左衛門にとっての「もう一つの実家」とは他でもない、ここ一橋邸にて仕えていたことがあるからであり、のみならず、一時は廃嫡の危機に晒されたこともある治済のその危機を救ったこともあったのだ。
そのような事情から治済は末吉善左衛門に対してこの一橋邸は末吉善左衛門にとっての「もう一つの実家」と形容してみせたのであり、それは末吉善左衛門にとっては最大限の賛辞と言えた。
「畏れ入り奉りまする…」
末吉善左衛門はいったん盃を置き、治済に対して深々と頭を垂れてみせることで治済のその「賛辞」に対して謝意を表明してみせた。
治済はそんな末吉善左衛門に対して頷いてみせると、いよいよ本題に入った。
「されば…、目付であるそなたが斯様なる刻限にわざわざ参ったは…、その上、大番組まで引き揚げさせたとは…、上様がいよいよ…、であろう?」
治済は顔を上げた末吉善左衛門に対してそうぶつけ、それに対して末吉善左衛門も、「御意」と答えたのであった。
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naosi
歴史・時代
大日本帝国海軍のほぼすべての戦力を出撃させ、挑んだレイテ沖海戦、それは日本最後の空母機動部隊を囮にアメリカ軍の輸送部隊を攻撃するというものだった。この海戦で主力艦艇のほぼすべてを失った。これにより、日本軍首脳部は本土決戦へと移っていく。日本艦隊を敗北させたアメリカ軍は本土攻撃の中継地点の為に硫黄島を攻略を開始した。しかし、アメリカ海兵隊が上陸を始めた時、支援と輸送船を護衛していたアメリカ第五艦隊が攻撃を受けった。それをしたのは、アメリカ軍が沈めたはずの艦艇ばかりの日本の連合艦隊だった。
この作品は個人的に日本がアメリカ軍に負けなかったらどうなっていたか、はたまた、別の世界から来た日本が敗北寸前の日本を救うと言う架空の戦記です。
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