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一橋家老の田沼意致は今後の身の振り方を考える ~家治暗殺前夜~
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だが、このような「窮屈なる思い」も、
「あと少し…」
治済はそう己に言い聞かせて、乗り切ることにした。
いや、乗り切るなどと、そのような大仰なものである筈がなかった。何しろ明日、明後日になれば将軍・家治は元より、千穂や種姫も消えるのだから、そうなれば、
「最早、余が監視どころではあるまいて…」
たちどころに監視が解かれるに相違あるまい…、治済はそう確信すると、心底、
「事前に打ち合わせをしておいて良かった…」
そう思わずにはいられなかった。打ち合わせとは他でもない、将軍・家治や倫子、それに種姫の命を奪うその打ち合わせであった。
治済が自室にてそんな物思いに耽っていると、
「失礼仕りまする…」
用人の岩本喜内の声がそれを…、物思いを打ち破った。
岩本喜内の声は障子越しに…、廊下の外から聞こえたので、治済も「入れ」と応じた。
すると障子が開かれ、廊下に控える岩本喜内が姿を見せた。
だが岩本喜内は障子を開けただけで、部屋の中へと入ろうとはせず、廊下越しから、
「されば畏れ多くも上様に対しまして、家老が話があるとの由…」
治済にそう告げたのであった。
それで治済も、「成程、そうであったか」と、合点がいったものである。
それと言うのも目付の村上三十郎らの「アドバイス」により、暫くの間は、治済と近臣との間では、
「密談厳禁」
であったからだ。それゆえ、近臣の一人である…、それも最側近の岩本喜内も部屋の中へは入らずに、廊下越しから治済に対して、事務連絡に留めたのであった。
一方、家老は近臣ではなかった。成程、序列…、御三卿の陪臣の中での序列という観点からすれば、家老は、
「序列第一位」
であったが、しかし、御三卿…、
「治済との間の実質的な距離の近さ…」
という観点においては、家老は最も遠い場所に位置づけられていた。正しく、
「敬遠」
というヤツであった。
ともあれ、家老は近臣ではないので、つまりは池原良誠斬殺事件や、更には家基や、果ては倫子や萬壽姫の死の真相を把握している近臣ではないので、
「密談厳禁の対象外」
ということで、治済は岩本喜内に対して、家老をここへ召すよう命じた。
すると岩本喜内は主・治済がそう命じるのを見越して、既に背後に家老を控えさせており、治済からのその命が岩本喜内に対して下るやいなや、喜内の背後にて控えて、その命を耳にした家老が喜内の前へと進み出た。
それまでは家老、もとい田沼能登守意致は障子の陰に隠れるようにして控えていたので、治済もそうと気付かずにいた。
それがこうして意致がすぐに姿を見せたので、治済も意致が岩本喜内の背後に、それも障子の陰に隠れていたことを察すると同時に、別の疑問が浮かんだ。
それは姿を見せた家老が意致唯一人ということであった。
御三卿家老は定員が2人であり、実際、ここ一橋邸においてもそれは同じで、意致と、そして水谷勝富の2人が家老を務めていた。
ゆえに、治済は岩本喜内より、家老が話があると聞かされた時にはてっきり、意致と勝富の2人を想像したわけだが、それが案に相違して、姿を見せたのは意致唯一人であったので、
「これは…、何かあるな…」
治済はそう直感したものの、まさかにこの段になって追い返すわけにもゆかず、「入れ」と改めて意致にそう命じた。
すると意致は廊下側にて「ははっ」と応じたかと思うと、部屋の中へと足を踏み入れ、それと同時に岩本喜内が廊下側より障子を閉めた。
そして意致は障子を背にして、上座に鎮座する治済と向かい合うや、そこで改めて治済に対して平伏してみせた。
「面を上げぃ…」
治済が恭しくそう命じると、意致は頭を上げ、治済と向かい合った。
「して、一体、何用ぞ?今時分に…」
治済は今が、宵五つ(午後8時頃)を過ぎた頃であると…、つまりは家老が御三卿の当主たる己の下へと姿を見せるには、
「非常識なる刻限…」
意致にやんわりとだが、そう示唆したのであった。
すると意致もそうと察してか、「されば急ぎ、訊ね申し上げたき儀がござりまして…」と、今時分に治済の下へと姿を見せた理由についてそう答えた。
「ほう…、余に急ぎ、訊ねたき儀とな?」
「御意」
「許す。何なりと、訊ねるが良いぞ…」
治済はまるで己が将軍にでもなったかのように、そう尊大に振舞った。
それに対して意致はと言うと、それは「いつもの光景」なので別段、気にも留めずに本題へと入った
「されば…、単刀直入に訊ね申し上げまするが…、畏れ多くも上様におかせられましては、よもや、奥医の池原雲伯や、まして、畏れ多くも大納言様の死に関与あそばされては、おりませなんだな?」
意致はズバリ、斬り込んだ。すると治済は意致のその問いかけを一笑に付した。
「何を申すのかと思えば…、左様なこと、ある筈もなかろうて…」
治済がそう答えると、意致は「左様でござりましたか…」と実にあっさりと治済のその答えを受け入れ、
「大変、ご無礼仕りました…」
意致は不躾な問いかけを詫びたかと思うと、
「さればこれにて…」
意致は改めて治済に平伏してそう挨拶した後、部屋をあとにした。
その意致の実にあっさりとした態度が治済には実に意外に感じられた。意致はもっと食い下がるものと思っていたからだ。
それが意に反して、意致は実にあっさりと引き下がったことから、それが治済には意外であり、しかし、食い下がられるよりは遥かに良いので、治済は心底、胸を撫で下ろしたものである。
一方、意致も出来ることなら食い下がりたかった。これで相手が治済でなければ、或いは食い下がっていたやも知れぬ。あくまで食い下がって、問い詰めたやも知れぬ。
だが相手が一橋治済ではそうもいかない。第一、治済が己の…、意致の問いかけにまともに答えてくれるとも思えなかったからだ。それは意致の問いかけを一笑に付したことからも明らかであった。
それゆえ意致はこれ以上、食い下がったところで無駄と判断し、あっさりと引き下がったのであった。
それよりも意致としては、
「今後の身の振り方…」
それを考えるのが先決であった。
治済にここまでの問いかけを…、
「池原良誠は元より、家基の殺害にまで関与していることはないだろうな…」
そのような問いかけをぶつけてしまった己には最早、
「将来はない…」
そう考えるべきであった。仮に、治済の疑いが晴れ、治済の息・豊千代が次期将軍として西之丸入りを果たしたところで、豊千代の実父である治済に対してそのような…、ここまで無礼な問いかけを発した己が、豊千代が次期将軍になれたところで、それにあわせて出世できるとも思えなかった。例え己が…、意致が豊千代擁立に汗を流したとしてもだ。
今しがたの治済への無礼極まりない問いかけで、意致の尽力…、豊千代擁立のための尽力、努力も全て、
「水泡に帰した…」
そう考えるべきであった。
いや、治済のことである。己を…、成り上がり者の己…、この意致を当初より、
「使い捨てにするつもりであったに相違あるまいて…」
意致はそう冷静に見通した。
治済は内心では己…、意致のことを、
「どこぞの馬の骨とも分からぬ、盗賊も同然の下賤なる成り上がり者…」
そう見下していたに相違ない。いや、意致のみならず、田沼一族をそのように見下していたに相違ない。
そうであれば、治済は豊千代擁立のために…、豊千代を家基に代わる次期将軍として擁立するために、当初より己を…、この意致を使い捨てにするつもりでいたのだろうと、意致はそう冷静に見通したのであった。
いや、それは何も今さら気付いたわけではない、それ以前より薄々だが、意致はそうと察しており、それが治済に対して、
「池原良誠斬殺事件は元より、家基の死にまで関与していることはないだろうな…」
そんな無礼極まりない問いかけを発したことから、治済としてはこれ幸いとばかり、
「これで遠慮なく、意致を切ることができる…」
そう思ったに違いなかった。
いや、それならそれでも良いと、意致はそう思った。それは決して負け惜しみではなかった。遅かれ早かれ切られる運命にあったからだ。
最悪なのは治済が池原良誠斬殺事件は元より、家基の死にまで関与していた場合である。
その場合には家老として治済に仕えていた己も…、意致も何らかの責を問われる可能性が十二分にあり得たからだ。
何しろ昨日の4月1日に発生した池原良誠斬殺事件は元より、2年前の安永8(1779)年の2月24日、家基が薨去したその日も既に意致は今の相役…、同僚である水谷勝富と共にその職に…、一橋家老の地位にあったからだ。
そうであれば、治済が奥医師の池原良誠のみならず、家基まで手にかけたとあらば、一橋家老として治済に仕える意致や、それに水谷勝富も無事では済むまい。
「家老として…、御三卿のお目付役である家老として、一体何をしておったのだっ!」
そう御三卿家老としての責任を追及されるのは明らかであったからだ。
これを逃れるためには…、いや、仮にそうなった場合、最早、逃れようがないであろうが、それでも少しでも責任追及を弱めることぐらいは出来るやも知れず、そのためにも急ぎ、
「御役御免…」
つまりは辞意表明するのが欠かせなかった。
「あと少し…」
治済はそう己に言い聞かせて、乗り切ることにした。
いや、乗り切るなどと、そのような大仰なものである筈がなかった。何しろ明日、明後日になれば将軍・家治は元より、千穂や種姫も消えるのだから、そうなれば、
「最早、余が監視どころではあるまいて…」
たちどころに監視が解かれるに相違あるまい…、治済はそう確信すると、心底、
「事前に打ち合わせをしておいて良かった…」
そう思わずにはいられなかった。打ち合わせとは他でもない、将軍・家治や倫子、それに種姫の命を奪うその打ち合わせであった。
治済が自室にてそんな物思いに耽っていると、
「失礼仕りまする…」
用人の岩本喜内の声がそれを…、物思いを打ち破った。
岩本喜内の声は障子越しに…、廊下の外から聞こえたので、治済も「入れ」と応じた。
すると障子が開かれ、廊下に控える岩本喜内が姿を見せた。
だが岩本喜内は障子を開けただけで、部屋の中へと入ろうとはせず、廊下越しから、
「されば畏れ多くも上様に対しまして、家老が話があるとの由…」
治済にそう告げたのであった。
それで治済も、「成程、そうであったか」と、合点がいったものである。
それと言うのも目付の村上三十郎らの「アドバイス」により、暫くの間は、治済と近臣との間では、
「密談厳禁」
であったからだ。それゆえ、近臣の一人である…、それも最側近の岩本喜内も部屋の中へは入らずに、廊下越しから治済に対して、事務連絡に留めたのであった。
一方、家老は近臣ではなかった。成程、序列…、御三卿の陪臣の中での序列という観点からすれば、家老は、
「序列第一位」
であったが、しかし、御三卿…、
「治済との間の実質的な距離の近さ…」
という観点においては、家老は最も遠い場所に位置づけられていた。正しく、
「敬遠」
というヤツであった。
ともあれ、家老は近臣ではないので、つまりは池原良誠斬殺事件や、更には家基や、果ては倫子や萬壽姫の死の真相を把握している近臣ではないので、
「密談厳禁の対象外」
ということで、治済は岩本喜内に対して、家老をここへ召すよう命じた。
すると岩本喜内は主・治済がそう命じるのを見越して、既に背後に家老を控えさせており、治済からのその命が岩本喜内に対して下るやいなや、喜内の背後にて控えて、その命を耳にした家老が喜内の前へと進み出た。
それまでは家老、もとい田沼能登守意致は障子の陰に隠れるようにして控えていたので、治済もそうと気付かずにいた。
それがこうして意致がすぐに姿を見せたので、治済も意致が岩本喜内の背後に、それも障子の陰に隠れていたことを察すると同時に、別の疑問が浮かんだ。
それは姿を見せた家老が意致唯一人ということであった。
御三卿家老は定員が2人であり、実際、ここ一橋邸においてもそれは同じで、意致と、そして水谷勝富の2人が家老を務めていた。
ゆえに、治済は岩本喜内より、家老が話があると聞かされた時にはてっきり、意致と勝富の2人を想像したわけだが、それが案に相違して、姿を見せたのは意致唯一人であったので、
「これは…、何かあるな…」
治済はそう直感したものの、まさかにこの段になって追い返すわけにもゆかず、「入れ」と改めて意致にそう命じた。
すると意致は廊下側にて「ははっ」と応じたかと思うと、部屋の中へと足を踏み入れ、それと同時に岩本喜内が廊下側より障子を閉めた。
そして意致は障子を背にして、上座に鎮座する治済と向かい合うや、そこで改めて治済に対して平伏してみせた。
「面を上げぃ…」
治済が恭しくそう命じると、意致は頭を上げ、治済と向かい合った。
「して、一体、何用ぞ?今時分に…」
治済は今が、宵五つ(午後8時頃)を過ぎた頃であると…、つまりは家老が御三卿の当主たる己の下へと姿を見せるには、
「非常識なる刻限…」
意致にやんわりとだが、そう示唆したのであった。
すると意致もそうと察してか、「されば急ぎ、訊ね申し上げたき儀がござりまして…」と、今時分に治済の下へと姿を見せた理由についてそう答えた。
「ほう…、余に急ぎ、訊ねたき儀とな?」
「御意」
「許す。何なりと、訊ねるが良いぞ…」
治済はまるで己が将軍にでもなったかのように、そう尊大に振舞った。
それに対して意致はと言うと、それは「いつもの光景」なので別段、気にも留めずに本題へと入った
「されば…、単刀直入に訊ね申し上げまするが…、畏れ多くも上様におかせられましては、よもや、奥医の池原雲伯や、まして、畏れ多くも大納言様の死に関与あそばされては、おりませなんだな?」
意致はズバリ、斬り込んだ。すると治済は意致のその問いかけを一笑に付した。
「何を申すのかと思えば…、左様なこと、ある筈もなかろうて…」
治済がそう答えると、意致は「左様でござりましたか…」と実にあっさりと治済のその答えを受け入れ、
「大変、ご無礼仕りました…」
意致は不躾な問いかけを詫びたかと思うと、
「さればこれにて…」
意致は改めて治済に平伏してそう挨拶した後、部屋をあとにした。
その意致の実にあっさりとした態度が治済には実に意外に感じられた。意致はもっと食い下がるものと思っていたからだ。
それが意に反して、意致は実にあっさりと引き下がったことから、それが治済には意外であり、しかし、食い下がられるよりは遥かに良いので、治済は心底、胸を撫で下ろしたものである。
一方、意致も出来ることなら食い下がりたかった。これで相手が治済でなければ、或いは食い下がっていたやも知れぬ。あくまで食い下がって、問い詰めたやも知れぬ。
だが相手が一橋治済ではそうもいかない。第一、治済が己の…、意致の問いかけにまともに答えてくれるとも思えなかったからだ。それは意致の問いかけを一笑に付したことからも明らかであった。
それゆえ意致はこれ以上、食い下がったところで無駄と判断し、あっさりと引き下がったのであった。
それよりも意致としては、
「今後の身の振り方…」
それを考えるのが先決であった。
治済にここまでの問いかけを…、
「池原良誠は元より、家基の殺害にまで関与していることはないだろうな…」
そのような問いかけをぶつけてしまった己には最早、
「将来はない…」
そう考えるべきであった。仮に、治済の疑いが晴れ、治済の息・豊千代が次期将軍として西之丸入りを果たしたところで、豊千代の実父である治済に対してそのような…、ここまで無礼な問いかけを発した己が、豊千代が次期将軍になれたところで、それにあわせて出世できるとも思えなかった。例え己が…、意致が豊千代擁立に汗を流したとしてもだ。
今しがたの治済への無礼極まりない問いかけで、意致の尽力…、豊千代擁立のための尽力、努力も全て、
「水泡に帰した…」
そう考えるべきであった。
いや、治済のことである。己を…、成り上がり者の己…、この意致を当初より、
「使い捨てにするつもりであったに相違あるまいて…」
意致はそう冷静に見通した。
治済は内心では己…、意致のことを、
「どこぞの馬の骨とも分からぬ、盗賊も同然の下賤なる成り上がり者…」
そう見下していたに相違ない。いや、意致のみならず、田沼一族をそのように見下していたに相違ない。
そうであれば、治済は豊千代擁立のために…、豊千代を家基に代わる次期将軍として擁立するために、当初より己を…、この意致を使い捨てにするつもりでいたのだろうと、意致はそう冷静に見通したのであった。
いや、それは何も今さら気付いたわけではない、それ以前より薄々だが、意致はそうと察しており、それが治済に対して、
「池原良誠斬殺事件は元より、家基の死にまで関与していることはないだろうな…」
そんな無礼極まりない問いかけを発したことから、治済としてはこれ幸いとばかり、
「これで遠慮なく、意致を切ることができる…」
そう思ったに違いなかった。
いや、それならそれでも良いと、意致はそう思った。それは決して負け惜しみではなかった。遅かれ早かれ切られる運命にあったからだ。
最悪なのは治済が池原良誠斬殺事件は元より、家基の死にまで関与していた場合である。
その場合には家老として治済に仕えていた己も…、意致も何らかの責を問われる可能性が十二分にあり得たからだ。
何しろ昨日の4月1日に発生した池原良誠斬殺事件は元より、2年前の安永8(1779)年の2月24日、家基が薨去したその日も既に意致は今の相役…、同僚である水谷勝富と共にその職に…、一橋家老の地位にあったからだ。
そうであれば、治済が奥医師の池原良誠のみならず、家基まで手にかけたとあらば、一橋家老として治済に仕える意致や、それに水谷勝富も無事では済むまい。
「家老として…、御三卿のお目付役である家老として、一体何をしておったのだっ!」
そう御三卿家老としての責任を追及されるのは明らかであったからだ。
これを逃れるためには…、いや、仮にそうなった場合、最早、逃れようがないであろうが、それでも少しでも責任追及を弱めることぐらいは出来るやも知れず、そのためにも急ぎ、
「御役御免…」
つまりは辞意表明するのが欠かせなかった。
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