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大奥篇 ~倫子、萬壽姫、千穂、そして種姫~ 2
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ともあれこうして、西之丸の大奥入りを果たした千穂と、彼女に仕える奥女中たちは大いに自由を満喫した。
それと言うのも本丸の大奥にいた頃には男子役人である廣敷役人、その中でも警備・監察を担う廣敷番之頭の目が常に光っており、千穂も奥女中たちも非常に窮屈な思いをしたものであった。
千穂は将軍・家治から「お部屋様」にはして貰えなかった代わりに、高価な着物や化粧道具などをそれこそ、
「買い漁った…」
それが許され、また、千穂のみならず、千穂附の奥女中たちにもそれが…、それこそ「濫費」が許されたのであった。
尤も、実際に千穂や奥女中たちが買い物をするわけではなかった。実際に着物や化粧道具などを購入するのは大奥の男子役人である廣敷用達であった。
具体的には年寄が表使に対して「買い物リスト」を渡すのであった。この表使とは所謂、「大奥の外交係」であり、大奥の男子役人である廣敷役人との折衝に当たるのがこの表使であった。
そして表使が廣敷役人、それも事務処理系の最高責任者である廣敷用人へとその「買い物リスト」を渡し、さらにこの廣敷用人から配下の廣敷用達へと「買い物リスト」が渡り、廣敷用達が市中にて買い物をし、大奥へと届けるのであった。
この事務処理系の廣敷用人とその配下の、廣敷用達を始めとする連中は大奥の濫費について、内心では眉を顰めつつも、実際に小うるさいことを言うことはなかった。
それと言うのも廣敷用人や、或いは配下の廣敷用達は大奥で使う、と言うよりは専ら千穂とその一派とも言うべき奥女中が使う高価な着物や化粧道具を扱う業者より、
「口利き手数料…」
それを得ていたからだ。要は賄賂である。大奥の買い物は年寄、表使、廣敷用人、廣敷用達というルートで「買い物リスト」が、つまりは買い物して欲しい品が伝えられるわけだが、実際には、例えば着物が欲しければ、
「どこそこの呉服問屋が良い…」
といった具合に廣敷用達が直属の上司に当たる廣敷用人に対して「アドバイス」をし、それがまた表使に伝わり、さらに表使から年寄へと伝わり、年寄もそれなれば、ということでその業者に決めることが日常茶飯であった。
無論そのためには、廣敷用達も業者より得た口利き手数料の一部を直属の上司である廣敷用人や、さらに表使、年寄へと、
「満遍なく…」
流す必要があり、畢竟、廣敷用達が業者に求める口利き手数料は莫大なものとなる。
ともあれそのような事情から、千穂や奥女中たちが濫費を…、買い物を望めば望む程に、口利き手数料がその懐に入る仕組みであり、そうであれば、廣敷用達は元より、その直属の上司に当たる廣敷用人にしても内心では千穂や奥女中たちの濫費に眉を顰めつつも、実際には小うるさいことを言わないのも当然と言えば当然であった。
だがその手の口利き手数料とは無縁の男たち…、廣敷役人がおり、廣敷番之頭がそれであった。
廣敷用人が事務処理系の最高責任者であれば、廣敷番之頭は警備・監察の最高責任者であり、彼ら廣敷番之頭は大奥の警備・監察の最高責任者として、千穂の濫費につき、千穂に附属する年寄の玉澤などに度々、小言を言った。
流石に廣敷番之頭も、将軍・家治の側妾である千穂当人に小言を言うことはなかったものの、それでも千穂に仕える年寄の玉澤などに対して、
「きちんと主の贅沢を誡め、制御致すのがその方どもの役目であろうが」
そう難詰して、彼女ら奥女中は元より、千穂からも大層、煙たがられていた。とりわけ玉澤などは大激怒したものである。
この頃の玉澤は次期将軍・家基の生母である千穂に仕える年寄ということで、大層羽振りが良かった。
家基の乳母を務めた、御台所の倫子附の年寄の初崎や、或いは将軍・家治附の松島や高岳といった年寄連中も勿論、羽振りが良かったが、そこへ玉澤がさしずめ、
「新興勢力…」
として台頭してきたのだ。そしてその「台頭」ぶりたるや、目を見張るものがあり、流石に松島や高岳には一歩、及ばないものの、それでもいずれは松島や高岳をも凌ぐようになるであろうと、それがさしずめ、
「衆目の一致するところ…」
正しくそれであり、ゆえにその玉澤に取り入ろうとする輩が、
「後を絶たず…」
そのような状況が現出し、それは老中や若年寄といった幕閣もその例外ではなかった。
実際、老中首座であった松平武元や、それに同じく老中の松平輝高や松平康福がそうであり、明和4(1767)年頃のことであったが、彼らは玉澤を通じて、
「近頃、お千穂の方様におかせられましては、狂言にいたく御執心にて…」
それとなく伝えられるや、武元と輝高、そして康福は相計って、己が娘や女中らと共に、江戸でも人気の狂言師を大奥へとあがらせて、千穂やそれに玉澤を始めとする千穂に仕える奥女中たちの前で狂言を演じさせたのであった。大名家の息女もまた、その大名家に仕える女中と共に大奥へとあがることができたのであった。
ちなみにその中には康福の娘にして既に田沼意知の妻女となっていた義も含まれていた。
それと言うのも実際に狂言師を見繕ったのは当時…、明和4(1767)年頃には御側御用人であった田沼意次その人であり、そもそも玉澤より老中の松平武元らに対して、
「千穂が狂言に夢中…」
そう伝えられたのも、意次を介してであり、だが意次とは違って名門の武元や、それに同じく名門の輝高にしろ康福にしろ世事に疎く、それゆえ千穂が狂言に夢中と伝えられても、どうすれば良いものかピンとこず、そこで意次が、
「大奥に狂言師を招いて、千穂や玉澤たち奥女中の前で狂言を演じさせれば良い…」
そうアドバイスをした賜物であった。尤も、世事に疎い武元たちにすれば、意次からそうアドバイスをされたところで、さて具体的には如何にして狂言師を連れて来れば良いものか、それに一口に狂言師と言われても、具体的には誰を連れて来れば良いものかと、全くもって分からず、そこで意次が万事、取り仕切り、江戸でも人気の狂言師を武元や輝高、そして康福らに託して、その息女と女中たちと共に江戸城本丸は大奥へとあがらせた次第であり、意次は武元たちに対して、
「花を持たせた…」
格好であり、しかし、それではいくらなんでも意次に申し訳ないと、そう思った康福が既に意次の息・意知の許へと嫁していた義にも声をかけ、一緒に大奥へとあがらせたというわけだ。
ともあれ、玉澤は事程左様に権勢高く、自身も、
「老中と同格…」
そのような意識が芽生えており、にもかかわらずそのような玉澤に対して、廣敷番之頭は遠慮するところが全くなかった。
尤も、玉澤にしても彼ら廣敷番之頭の気持ちも分からなくはなかった。
それと言うのも廣敷番之頭は正式名称、
「御台様廣敷番之頭」
であり、そうであれば、
「御台様こと、御台所に仕えて、大奥の警備・監察を担う最高責任者である…」
廣敷番之頭にはその意識があった。少なくとも、将軍・家治の御台所の倫子が本丸大奥にて鎮座していた時分の廣敷番之頭の意識はそうであり、ゆえに御台所の倫子ならばいざ知らず、或いは倫子の実娘の萬壽姫ならばいざ知らず、側室の千穂が己に仕える奥女中と共に、大奥の風儀を乱す行為には許し難いものがあったのであろう。
一方、玉澤も己に遠慮するところのない廣敷番之頭に対して腹を立てながらも、その気持ちは理解出来なくもないというわけで、最初は懐柔に務めようとしたものの、
「けんもほろろ…」
廣敷番之頭にあしらわれる始末であった。この時、廣敷番之頭は9人も存在していたものの、9人とも、である。
爾来、玉澤はこの廣敷番之頭を憎むようになり、玉澤より話を聞いた千穂も大いに憎んだ。ある意味、玉澤以上に憎んだと言っても良いだろう。何しろ、千穂は玉澤より彼ら廣敷番之頭が、
「御台所の意向を受けて…」
そんな枕詞を附するのを忘れなかったからだ。無論、千穂を大いに刺激するためであったが、結果は玉澤の思惑通りであり、いや、それ以上と言えた。
千穂は玉澤が期待した通り、将軍・家治に対して今の廣敷番之頭を一人残らず更迭した上で、
「御台様ではのうて、この私めの…、千穂の言うがままに従う者を廣敷番之頭に取り立てて欲しい…」
そうあけすけに頼んだもので、これにはさしもの将軍・家治も心底、呆れ果てると同時に、
「左様なこと、出来るわけもなかろう…」
千穂の願いを、つまりは玉澤の願いを言下に斬って捨てたのであった。
こうなると千穂としても、そしてそれは玉澤にしても廣敷番之頭を更迭…、クビにしてもらうことは諦めて、一刻も早く、家基と共に西之丸に引き移りたいと願うようになった。
それと言うのも、西之丸の大奥にも廣敷番之頭が配されており、しかし本丸の大奥のそれと比べると、その定員たるや3分の1に過ぎなかった。
即ち、西之丸の大奥の警備・監察を担う最高責任者たる廣敷番之頭の定員は3人であり、実際、明和6(1769)年の12月9日に西之丸のそれも中奥入りを果たした家基にに千穂が玉澤たち奥女中と共に西之丸の大奥入りを果たした際の廣敷番之頭たるや、
「戸田荘左衛門格誠」
「渡辺源二郎博」
「中村久兵衛信興」
この3名に過ぎなかった。本丸大奥にて9人もの廣敷番之頭、もっと言うならば口うるさい、むさ苦しい男どもの目が光っていた頃よりはずっと快適に違いないと、千穂にしろ、玉澤たち奥女中にしろ皆、そう思ったものである。
とりわけ千穂を満足させたのは彼らが西之丸の大奥にて仕える廣敷番之頭だということだ。
つまりは千穂に仕える廣敷番之頭であり、最早、御台所に仕える廣敷番之頭ではない、ということだ。
そうであれば最早、西之丸にて、即ち、千穂に仕えるという意識があるに違いない廣敷番之頭が…、西之丸の大奥の警備・監察を担う最高責任者たる廣敷番之頭が千穂の行動、いや、乱行に口うるさく言うこともないだろうと、千穂は元より、千穂に仕える年寄の玉澤を始めとする奥女中の誰もがそう思ったものである。
いや、西之丸にも本丸の留守居に相当するそれが…西之丸の大奥を取り締まるべき留守居が置かれているものの、しかし、西之丸の留守居は本丸のそれに比べて、格が落ちる。
西之丸の留守居も本丸の留守居と同じく従五位下に相当する諸大夫役でこそあるものの、しかし、幕府内の序列という観点からすれば、西之丸の留守居は本丸の留守居と比べて、それこそ、
「天と地…」
それ程の開きがあった。無論、本丸の留守居が「天」であり、一方、西之丸の留守居は「地」であった。
即ち、本丸の留守居は幕府の武官五番方の最上位に位置する大番頭のちょうど真上に位置し、役高も支配も大番頭と同じく、5千石高の老中支配であった。
大番頭は基本的には旗本役ではあるものの、1万石から2万石クラスの小大名も混じっており、翻って、留守居は旗本役であり、大名は就けないポストであるので、つまり、幕府内の序列という観点からすれば、
「旗本である留守居の方が大番頭を務める1万石から2万石クラスの大名よりも偉い…」
という逆転現象が起こる。いや、これはあくまで極論であり、それで実際に留守居を勤める旗本が大番頭を勤める1万石から2万石クラスの小大名に対して横柄な態度を取ることはあり得ないものの、しかし、あくまで理論上ではそうであった。
そしてその「理論」を裏付けるかのように本丸の留守居ともなると、大名と同じく下屋敷を与えられ、その上、嫡男のみならず、次男まで将軍への御目見得が許されており、留守居は大名並の格式を与えられていたのだ。
それに比して西之丸の留守居たるや、そのような格式は与えられてはいなかった。
大体、西之丸の留守居は幕府内の序列においては大番頭は元より、遠国奉行よりも下に位置するのだ。
また役高にしても西之丸の留守居のそれは本丸の留守居のそれの半分以下の2千石、支配にしても若年寄支配と、西之丸の留守居は本丸の留守居よりも大分格が落ちる。
いや、それ以上に西之丸の留守居は本丸のそれと比べて、
「次があるポスト…」
でもあったのだ。どういうことかと言うと、本丸の留守居が完全に閑職、平たく言えば、
「老衰場」
それであるのに対して、西之丸の留守居は必ずしも、本丸の留守居のように、
「老衰場」
そうとは言い切れない側面があったからだ。
無論、西之丸の留守居の中にも明らかに、
「次がない…」
そのような高齢者、それも後期高齢者が含まれることもあったが、しかし、本丸の留守居のように皆、「次がない…」後期高齢者というわけではなかった。
西之丸の留守居の中には遠国奉行や、或いは作事・普請・小普請の所謂、下三奉行や、若しくは勘定奉行や江戸町奉行に、
「王手をかける…」
そのような、言わば「バリバリ…」の旗本も含まれており、そうであれば彼ら、「次がある…」旗本にしてみれば、
「極力、大奥とは衝突を起こしたくない…」
そう考えるのが自然であった。
そしてそう考える者は大抵、「事なかれ主義」に陥る者であり、この時の…、明和6(1769)年12月の時点での西之丸の留守居もその例外ではなかった。
「松平玄蕃頭忠陸」
「萩原主水正雅忠」
「笹本靱負佐忠省」
「永井筑前守直令」
「古郡駿河守年庸」
以上の5人が千穂たちが西之丸の大奥入りを果たした際の留守居、西之丸の留守居であった。
いや、彼ら5人は笹本忠省を除いて皆、60歳以上であった。ことに古郡年庸はこの時…、明和6(1769)年12月の時点で86歳と完全に、
「後期高齢者」
であり、他の3人にしても松平忠陸と萩原雅忠が共に68歳、永井直令は62歳、そして一番若い笹本忠省ですら58歳と、
「後期高齢者」
でこそないものの、今から更に遠国奉行、或いは作事奉行を始めとする下三奉行、若しくは江戸町奉行や勘定奉行といった実務官僚へと出世するには厳しい年頃であり、精々、旗奉行に昇進するのが、
「定番のコース」
それであった。
旗奉行とはその名からも察せられる通り、幕府が保管している旗指物…、軍旗や馬印、旗幟を管理する役目であり、しかし戦時ならばいざ知らず、今のように平時においては完全に閑職であり、事実、留守居と並ぶ閑職として知られていた。
しかも、留守居とは違い、旗奉行は従五位下に相当する諸大夫役ではなく、従六位相当の布衣役であった。幕府内の序列においては旗奉行の下に位置する筈の西之丸の留守居が本丸《ほんまる》の留守居と同じく従五位下に相当すると言うのに、である。
それでも「実入り」という観点では西之丸の留守居と変わらずで、即ち、役高が2千石で何より、幕府内の序列という観点では西之丸の留守居よりも上であるのは当然として、遠国奉行や更に作事奉行や普請奉行、小普請奉行の所謂、下三奉行よりも上であった。
それゆえこれ以上、実務的な官僚へと昇進を果たすことが年齢面から難しい60代以上の西之丸の留守居にとってこの旗奉行というのは正に格好の「老衰場」、いや、出世の終着駅と言えた。
だが裏を返せば、「怖いものなし」とも言えた。これ以上、年齢から言って、実務的な官僚へと昇進を果たすことが無理ならばと、
「西之丸の大奥を取り締まる留守居としてその職責を全うしてやる…」
そう考えてもおかしくはない、ということであり、実際、86歳と最高齢の古郡年庸がそう考え、そんな古郡年庸に、なぜか二回りも下の、62歳の永井直令が賛同し、古郡年庸と永井直令は千穂や、千穂に仕える年寄の玉澤を始めとする奥女中たちが案の定と言うべきか、西之丸の大奥においても「濫費」を始めるや、古郡年庸と永井直令はそれを…、「濫費」を誡めるべく、何と千穂当人に対して誡めようとする、
「鼻息の荒さ…」
それを見せつけた。
だがそんな、
「鼻息が荒い…」
古郡年庸と永井直令の二人を他の留守居が窘めたのであった。
まだ60代前の、つまりは実務的な官僚へと更なる昇進が見込める御齢58の笹本忠省が「自己保身」から二人のその、
「匹夫の勇…」
それを誡めたのは理解できるにしても、そんな笹本忠省よりも年上の、それどころか永井直令よりも年上の、御齢68同士の松平忠陸と萩原雅忠までが笹本忠省を後押ししたのだ。
尤もこれにも事情があった。それと言うのも、松平忠陸にしろ萩原雅忠にしろ、倅がそれぞれ幕府の要職にいたのだ。
即ち、松平忠陸の息、縫殿頭忠香は小普請奉行、萩原雅忠の息、大學雅宴は本丸の小納戸をそれぞれ務めていた。
松平忠香にしろ萩原雅宴にしろ、家督相続前であるにもかかわらず、であり、とりわけ松平忠香が家督相続前であるにもかかわらず、小普請奉行に就いたのは極めて異例と言えた。
何しろ小普請奉行と言えば下三奉行であり、そうである以上、幕府内の序列で言えば遠国奉行よりも上であった。
いや、遠国奉行でさえ、家督相続前の者が就くなど前例のないことであった。
それが遠国奉行よりも格上の下三奉行の小普請奉行ともなれば尚更であろう。
それだけ忠香が優秀だったからであり、そうであれば忠陸としても父として、
「倅の出世の足を引っ張りたくない…」
そう思うのは当然であり、それゆえ、
「倅の出世の足を…」
引っ張ることにもなりかねない、千穂たちの「濫費」を誡めるなど、その忠陸には出来よう筈もなかった。
そして同じことは萩原雅忠にも言えた。
即ち、萩原雅忠の息、大學は本丸にて小納戸を務めており、しかし、忠香の場合とは違い、家督相続前での小納戸就任はそれ程、珍しいことではなかった。
尤もそれは、
「同じく家督相続前で小普請奉行に就いた松平忠香の場合と比べて…」
つまりは比較の問題に過ぎず、旗本全体から見た場合、家督相続前での小納戸就任はやはり珍しいと言えるかも知れない。
何しろ小納戸と言えば、従五位下に相当する諸大夫役の小普請奉行には及ばないものの、それでも従六位相当の布衣役であり、この布衣役は家督相続済みの者でもそうそうなれる「ポスト」ではなかった。
にもかかわらず、萩原雅宴が未だ家督を継いでいないにもかかわらず、その布衣役である小納戸に就けたのも、松平忠香と同じくやはり雅宴当人の実力が認められたから…、とそう言えれば実に格好良いのだが、現実は違い、雅宴当人の実力が評価されたから…、と言うよりは、
「父である萩原雅忠のお蔭…」
それが大であった。
それと言うのも萩原雅忠にしてもまた、小納戸のみならず小姓をも勤めたことがあったのだ。西之丸の留守居に就く前、それも遥か昔のことであるが、それでもそのことが評価されて、雅宴が小納戸に取り立てられることとなったのであった。
小納戸にしろ小姓にしろ中奥…、将軍の「プライベートエリア」である中奥に仕える役人、それも将軍に近侍する「ポスト」であった。
そうであればその小納戸や小姓に取り立てられる者と言えば、父も小納戸、或いは小姓を勤めていたことがあるケースが多かった。採用基準と言っても過言ではないやも知れぬ。
何しろ、将軍の立場に立てば、見知らぬ者が側に仕えてくれるよりも、
「勝手知ったる者の倅に仕えて貰いたい…」
そう考えるのが自然であり、そして将軍のその考えはそのまま人事に反映され、小納戸や小姓に取り立てられる者は父も同じく小納戸や小姓を勤めていたことがあるケースが多く、それが家督相続前の者ともなると、父が小納戸や小姓を勤めていたケースが殆どと言っても良いだろう。
そこが主に実力が評価される表向の人事との違いであり、つまりは小普請奉行を始めとする表向の人事との違いであった。
さらに萩原雅忠の場合、息・雅宴の嫡男、雅忠からすれば嫡孫に当たる式部茂雅は未だ17歳と、御役にこそ就いてはいなかったものの、それでも6年前の宝暦13(1763)年の9月には家基が山王社に詣でるべく、騎馬にて向かった際、そのお供を、所謂、
「少人騎馬…」
それを務めたことがあった程で、つまりは萩原雅忠は三代に渡って将軍家の御側近くに仕えているというわけで、そうであれば萩原雅忠にしてもまた、将軍家との「縁」を壊すことにもなりかねない、千穂たちに対してその「濫費」を誡めるなど出来よう筈もなかったのであった。
ともあれこうして5人の留守居のうち、丁度過半数に当たる3人が千穂たちのその「濫費」について、
「黙認すべし…」
その態度を貫いたために、古郡年庸も永井直令も千穂たちのその「濫費」を誡めることを諦めたのであった。
仮に、千穂たちの「濫費」を、それも千穂当人に対して誡めたとしても、あとの3人…、松平忠陸と萩原雅忠、そして笹本忠省の3人が反対の意思表示を、つまりは、
「千穂たちの濫費については将軍・家治自身が許したことでもあり、それを黙認すべし…」
そう意思表示をしてのける危険性が十二分に考えられ、そしてそうなれば莫迦を見るのはそれこそ、
「莫迦正直に…」
千穂たちの「濫費」につき、千穂当人に対して誡めた古郡年庸と永井直令の2人ということになり、最悪、千穂の不興を買ったが為に、
「御役御免の上、差し控え、小普請入り…」
それを命ぜられる「リスク」が十分にあり得、そのことは古郡年庸にしろ、永井直令にしろ承知していたので、そうであれば古郡年庸も永井直令もそのような「リスク」を冒してまで、西之丸の大奥の濫費について千穂当人に対して誡めようなどとは更々思わなかった。
古郡年庸も永井直令も生憎とそこまでの正義漢ではなかったからだ。
それと言うのも古郡年庸は家禄が1072石の古郡家の、永井直令は家禄が千石の永井家のそれぞれ当主であり、そうであれば役高が2千石の西之丸の留守居でいられる限りは、古郡年庸は928石の、永井直令は千石もの、それぞれ足高が保証されており、それが千穂に対してその「濫費」を誡めたが為に、その西之丸の留守居を、
「御役御免…」
クビになろうものなら、西之丸の留守居としてそれまで保証されていた足高についてももう、保証されない、要は貰えないことになる。
古郡年庸も永井直令もそれを恐れて、千穂の「濫費」を誡めることを諦めたわけであったが、それにしても足高が貰えなくなることを恐れるとは、これでは千穂とそれこそ、
「同じ穴の狢…」
そう捉えられても致し方あるまい。
ともあれ、こうして千穂の「濫費」を誡める者は誰一人として存在せず、千穂の「濫費」にいよいよ拍車がかかった。
それと言うのも本丸の大奥にいた頃には男子役人である廣敷役人、その中でも警備・監察を担う廣敷番之頭の目が常に光っており、千穂も奥女中たちも非常に窮屈な思いをしたものであった。
千穂は将軍・家治から「お部屋様」にはして貰えなかった代わりに、高価な着物や化粧道具などをそれこそ、
「買い漁った…」
それが許され、また、千穂のみならず、千穂附の奥女中たちにもそれが…、それこそ「濫費」が許されたのであった。
尤も、実際に千穂や奥女中たちが買い物をするわけではなかった。実際に着物や化粧道具などを購入するのは大奥の男子役人である廣敷用達であった。
具体的には年寄が表使に対して「買い物リスト」を渡すのであった。この表使とは所謂、「大奥の外交係」であり、大奥の男子役人である廣敷役人との折衝に当たるのがこの表使であった。
そして表使が廣敷役人、それも事務処理系の最高責任者である廣敷用人へとその「買い物リスト」を渡し、さらにこの廣敷用人から配下の廣敷用達へと「買い物リスト」が渡り、廣敷用達が市中にて買い物をし、大奥へと届けるのであった。
この事務処理系の廣敷用人とその配下の、廣敷用達を始めとする連中は大奥の濫費について、内心では眉を顰めつつも、実際に小うるさいことを言うことはなかった。
それと言うのも廣敷用人や、或いは配下の廣敷用達は大奥で使う、と言うよりは専ら千穂とその一派とも言うべき奥女中が使う高価な着物や化粧道具を扱う業者より、
「口利き手数料…」
それを得ていたからだ。要は賄賂である。大奥の買い物は年寄、表使、廣敷用人、廣敷用達というルートで「買い物リスト」が、つまりは買い物して欲しい品が伝えられるわけだが、実際には、例えば着物が欲しければ、
「どこそこの呉服問屋が良い…」
といった具合に廣敷用達が直属の上司に当たる廣敷用人に対して「アドバイス」をし、それがまた表使に伝わり、さらに表使から年寄へと伝わり、年寄もそれなれば、ということでその業者に決めることが日常茶飯であった。
無論そのためには、廣敷用達も業者より得た口利き手数料の一部を直属の上司である廣敷用人や、さらに表使、年寄へと、
「満遍なく…」
流す必要があり、畢竟、廣敷用達が業者に求める口利き手数料は莫大なものとなる。
ともあれそのような事情から、千穂や奥女中たちが濫費を…、買い物を望めば望む程に、口利き手数料がその懐に入る仕組みであり、そうであれば、廣敷用達は元より、その直属の上司に当たる廣敷用人にしても内心では千穂や奥女中たちの濫費に眉を顰めつつも、実際には小うるさいことを言わないのも当然と言えば当然であった。
だがその手の口利き手数料とは無縁の男たち…、廣敷役人がおり、廣敷番之頭がそれであった。
廣敷用人が事務処理系の最高責任者であれば、廣敷番之頭は警備・監察の最高責任者であり、彼ら廣敷番之頭は大奥の警備・監察の最高責任者として、千穂の濫費につき、千穂に附属する年寄の玉澤などに度々、小言を言った。
流石に廣敷番之頭も、将軍・家治の側妾である千穂当人に小言を言うことはなかったものの、それでも千穂に仕える年寄の玉澤などに対して、
「きちんと主の贅沢を誡め、制御致すのがその方どもの役目であろうが」
そう難詰して、彼女ら奥女中は元より、千穂からも大層、煙たがられていた。とりわけ玉澤などは大激怒したものである。
この頃の玉澤は次期将軍・家基の生母である千穂に仕える年寄ということで、大層羽振りが良かった。
家基の乳母を務めた、御台所の倫子附の年寄の初崎や、或いは将軍・家治附の松島や高岳といった年寄連中も勿論、羽振りが良かったが、そこへ玉澤がさしずめ、
「新興勢力…」
として台頭してきたのだ。そしてその「台頭」ぶりたるや、目を見張るものがあり、流石に松島や高岳には一歩、及ばないものの、それでもいずれは松島や高岳をも凌ぐようになるであろうと、それがさしずめ、
「衆目の一致するところ…」
正しくそれであり、ゆえにその玉澤に取り入ろうとする輩が、
「後を絶たず…」
そのような状況が現出し、それは老中や若年寄といった幕閣もその例外ではなかった。
実際、老中首座であった松平武元や、それに同じく老中の松平輝高や松平康福がそうであり、明和4(1767)年頃のことであったが、彼らは玉澤を通じて、
「近頃、お千穂の方様におかせられましては、狂言にいたく御執心にて…」
それとなく伝えられるや、武元と輝高、そして康福は相計って、己が娘や女中らと共に、江戸でも人気の狂言師を大奥へとあがらせて、千穂やそれに玉澤を始めとする千穂に仕える奥女中たちの前で狂言を演じさせたのであった。大名家の息女もまた、その大名家に仕える女中と共に大奥へとあがることができたのであった。
ちなみにその中には康福の娘にして既に田沼意知の妻女となっていた義も含まれていた。
それと言うのも実際に狂言師を見繕ったのは当時…、明和4(1767)年頃には御側御用人であった田沼意次その人であり、そもそも玉澤より老中の松平武元らに対して、
「千穂が狂言に夢中…」
そう伝えられたのも、意次を介してであり、だが意次とは違って名門の武元や、それに同じく名門の輝高にしろ康福にしろ世事に疎く、それゆえ千穂が狂言に夢中と伝えられても、どうすれば良いものかピンとこず、そこで意次が、
「大奥に狂言師を招いて、千穂や玉澤たち奥女中の前で狂言を演じさせれば良い…」
そうアドバイスをした賜物であった。尤も、世事に疎い武元たちにすれば、意次からそうアドバイスをされたところで、さて具体的には如何にして狂言師を連れて来れば良いものか、それに一口に狂言師と言われても、具体的には誰を連れて来れば良いものかと、全くもって分からず、そこで意次が万事、取り仕切り、江戸でも人気の狂言師を武元や輝高、そして康福らに託して、その息女と女中たちと共に江戸城本丸は大奥へとあがらせた次第であり、意次は武元たちに対して、
「花を持たせた…」
格好であり、しかし、それではいくらなんでも意次に申し訳ないと、そう思った康福が既に意次の息・意知の許へと嫁していた義にも声をかけ、一緒に大奥へとあがらせたというわけだ。
ともあれ、玉澤は事程左様に権勢高く、自身も、
「老中と同格…」
そのような意識が芽生えており、にもかかわらずそのような玉澤に対して、廣敷番之頭は遠慮するところが全くなかった。
尤も、玉澤にしても彼ら廣敷番之頭の気持ちも分からなくはなかった。
それと言うのも廣敷番之頭は正式名称、
「御台様廣敷番之頭」
であり、そうであれば、
「御台様こと、御台所に仕えて、大奥の警備・監察を担う最高責任者である…」
廣敷番之頭にはその意識があった。少なくとも、将軍・家治の御台所の倫子が本丸大奥にて鎮座していた時分の廣敷番之頭の意識はそうであり、ゆえに御台所の倫子ならばいざ知らず、或いは倫子の実娘の萬壽姫ならばいざ知らず、側室の千穂が己に仕える奥女中と共に、大奥の風儀を乱す行為には許し難いものがあったのであろう。
一方、玉澤も己に遠慮するところのない廣敷番之頭に対して腹を立てながらも、その気持ちは理解出来なくもないというわけで、最初は懐柔に務めようとしたものの、
「けんもほろろ…」
廣敷番之頭にあしらわれる始末であった。この時、廣敷番之頭は9人も存在していたものの、9人とも、である。
爾来、玉澤はこの廣敷番之頭を憎むようになり、玉澤より話を聞いた千穂も大いに憎んだ。ある意味、玉澤以上に憎んだと言っても良いだろう。何しろ、千穂は玉澤より彼ら廣敷番之頭が、
「御台所の意向を受けて…」
そんな枕詞を附するのを忘れなかったからだ。無論、千穂を大いに刺激するためであったが、結果は玉澤の思惑通りであり、いや、それ以上と言えた。
千穂は玉澤が期待した通り、将軍・家治に対して今の廣敷番之頭を一人残らず更迭した上で、
「御台様ではのうて、この私めの…、千穂の言うがままに従う者を廣敷番之頭に取り立てて欲しい…」
そうあけすけに頼んだもので、これにはさしもの将軍・家治も心底、呆れ果てると同時に、
「左様なこと、出来るわけもなかろう…」
千穂の願いを、つまりは玉澤の願いを言下に斬って捨てたのであった。
こうなると千穂としても、そしてそれは玉澤にしても廣敷番之頭を更迭…、クビにしてもらうことは諦めて、一刻も早く、家基と共に西之丸に引き移りたいと願うようになった。
それと言うのも、西之丸の大奥にも廣敷番之頭が配されており、しかし本丸の大奥のそれと比べると、その定員たるや3分の1に過ぎなかった。
即ち、西之丸の大奥の警備・監察を担う最高責任者たる廣敷番之頭の定員は3人であり、実際、明和6(1769)年の12月9日に西之丸のそれも中奥入りを果たした家基にに千穂が玉澤たち奥女中と共に西之丸の大奥入りを果たした際の廣敷番之頭たるや、
「戸田荘左衛門格誠」
「渡辺源二郎博」
「中村久兵衛信興」
この3名に過ぎなかった。本丸大奥にて9人もの廣敷番之頭、もっと言うならば口うるさい、むさ苦しい男どもの目が光っていた頃よりはずっと快適に違いないと、千穂にしろ、玉澤たち奥女中にしろ皆、そう思ったものである。
とりわけ千穂を満足させたのは彼らが西之丸の大奥にて仕える廣敷番之頭だということだ。
つまりは千穂に仕える廣敷番之頭であり、最早、御台所に仕える廣敷番之頭ではない、ということだ。
そうであれば最早、西之丸にて、即ち、千穂に仕えるという意識があるに違いない廣敷番之頭が…、西之丸の大奥の警備・監察を担う最高責任者たる廣敷番之頭が千穂の行動、いや、乱行に口うるさく言うこともないだろうと、千穂は元より、千穂に仕える年寄の玉澤を始めとする奥女中の誰もがそう思ったものである。
いや、西之丸にも本丸の留守居に相当するそれが…西之丸の大奥を取り締まるべき留守居が置かれているものの、しかし、西之丸の留守居は本丸のそれに比べて、格が落ちる。
西之丸の留守居も本丸の留守居と同じく従五位下に相当する諸大夫役でこそあるものの、しかし、幕府内の序列という観点からすれば、西之丸の留守居は本丸の留守居と比べて、それこそ、
「天と地…」
それ程の開きがあった。無論、本丸の留守居が「天」であり、一方、西之丸の留守居は「地」であった。
即ち、本丸の留守居は幕府の武官五番方の最上位に位置する大番頭のちょうど真上に位置し、役高も支配も大番頭と同じく、5千石高の老中支配であった。
大番頭は基本的には旗本役ではあるものの、1万石から2万石クラスの小大名も混じっており、翻って、留守居は旗本役であり、大名は就けないポストであるので、つまり、幕府内の序列という観点からすれば、
「旗本である留守居の方が大番頭を務める1万石から2万石クラスの大名よりも偉い…」
という逆転現象が起こる。いや、これはあくまで極論であり、それで実際に留守居を勤める旗本が大番頭を勤める1万石から2万石クラスの小大名に対して横柄な態度を取ることはあり得ないものの、しかし、あくまで理論上ではそうであった。
そしてその「理論」を裏付けるかのように本丸の留守居ともなると、大名と同じく下屋敷を与えられ、その上、嫡男のみならず、次男まで将軍への御目見得が許されており、留守居は大名並の格式を与えられていたのだ。
それに比して西之丸の留守居たるや、そのような格式は与えられてはいなかった。
大体、西之丸の留守居は幕府内の序列においては大番頭は元より、遠国奉行よりも下に位置するのだ。
また役高にしても西之丸の留守居のそれは本丸の留守居のそれの半分以下の2千石、支配にしても若年寄支配と、西之丸の留守居は本丸の留守居よりも大分格が落ちる。
いや、それ以上に西之丸の留守居は本丸のそれと比べて、
「次があるポスト…」
でもあったのだ。どういうことかと言うと、本丸の留守居が完全に閑職、平たく言えば、
「老衰場」
それであるのに対して、西之丸の留守居は必ずしも、本丸の留守居のように、
「老衰場」
そうとは言い切れない側面があったからだ。
無論、西之丸の留守居の中にも明らかに、
「次がない…」
そのような高齢者、それも後期高齢者が含まれることもあったが、しかし、本丸の留守居のように皆、「次がない…」後期高齢者というわけではなかった。
西之丸の留守居の中には遠国奉行や、或いは作事・普請・小普請の所謂、下三奉行や、若しくは勘定奉行や江戸町奉行に、
「王手をかける…」
そのような、言わば「バリバリ…」の旗本も含まれており、そうであれば彼ら、「次がある…」旗本にしてみれば、
「極力、大奥とは衝突を起こしたくない…」
そう考えるのが自然であった。
そしてそう考える者は大抵、「事なかれ主義」に陥る者であり、この時の…、明和6(1769)年12月の時点での西之丸の留守居もその例外ではなかった。
「松平玄蕃頭忠陸」
「萩原主水正雅忠」
「笹本靱負佐忠省」
「永井筑前守直令」
「古郡駿河守年庸」
以上の5人が千穂たちが西之丸の大奥入りを果たした際の留守居、西之丸の留守居であった。
いや、彼ら5人は笹本忠省を除いて皆、60歳以上であった。ことに古郡年庸はこの時…、明和6(1769)年12月の時点で86歳と完全に、
「後期高齢者」
であり、他の3人にしても松平忠陸と萩原雅忠が共に68歳、永井直令は62歳、そして一番若い笹本忠省ですら58歳と、
「後期高齢者」
でこそないものの、今から更に遠国奉行、或いは作事奉行を始めとする下三奉行、若しくは江戸町奉行や勘定奉行といった実務官僚へと出世するには厳しい年頃であり、精々、旗奉行に昇進するのが、
「定番のコース」
それであった。
旗奉行とはその名からも察せられる通り、幕府が保管している旗指物…、軍旗や馬印、旗幟を管理する役目であり、しかし戦時ならばいざ知らず、今のように平時においては完全に閑職であり、事実、留守居と並ぶ閑職として知られていた。
しかも、留守居とは違い、旗奉行は従五位下に相当する諸大夫役ではなく、従六位相当の布衣役であった。幕府内の序列においては旗奉行の下に位置する筈の西之丸の留守居が本丸《ほんまる》の留守居と同じく従五位下に相当すると言うのに、である。
それでも「実入り」という観点では西之丸の留守居と変わらずで、即ち、役高が2千石で何より、幕府内の序列という観点では西之丸の留守居よりも上であるのは当然として、遠国奉行や更に作事奉行や普請奉行、小普請奉行の所謂、下三奉行よりも上であった。
それゆえこれ以上、実務的な官僚へと昇進を果たすことが年齢面から難しい60代以上の西之丸の留守居にとってこの旗奉行というのは正に格好の「老衰場」、いや、出世の終着駅と言えた。
だが裏を返せば、「怖いものなし」とも言えた。これ以上、年齢から言って、実務的な官僚へと昇進を果たすことが無理ならばと、
「西之丸の大奥を取り締まる留守居としてその職責を全うしてやる…」
そう考えてもおかしくはない、ということであり、実際、86歳と最高齢の古郡年庸がそう考え、そんな古郡年庸に、なぜか二回りも下の、62歳の永井直令が賛同し、古郡年庸と永井直令は千穂や、千穂に仕える年寄の玉澤を始めとする奥女中たちが案の定と言うべきか、西之丸の大奥においても「濫費」を始めるや、古郡年庸と永井直令はそれを…、「濫費」を誡めるべく、何と千穂当人に対して誡めようとする、
「鼻息の荒さ…」
それを見せつけた。
だがそんな、
「鼻息が荒い…」
古郡年庸と永井直令の二人を他の留守居が窘めたのであった。
まだ60代前の、つまりは実務的な官僚へと更なる昇進が見込める御齢58の笹本忠省が「自己保身」から二人のその、
「匹夫の勇…」
それを誡めたのは理解できるにしても、そんな笹本忠省よりも年上の、それどころか永井直令よりも年上の、御齢68同士の松平忠陸と萩原雅忠までが笹本忠省を後押ししたのだ。
尤もこれにも事情があった。それと言うのも、松平忠陸にしろ萩原雅忠にしろ、倅がそれぞれ幕府の要職にいたのだ。
即ち、松平忠陸の息、縫殿頭忠香は小普請奉行、萩原雅忠の息、大學雅宴は本丸の小納戸をそれぞれ務めていた。
松平忠香にしろ萩原雅宴にしろ、家督相続前であるにもかかわらず、であり、とりわけ松平忠香が家督相続前であるにもかかわらず、小普請奉行に就いたのは極めて異例と言えた。
何しろ小普請奉行と言えば下三奉行であり、そうである以上、幕府内の序列で言えば遠国奉行よりも上であった。
いや、遠国奉行でさえ、家督相続前の者が就くなど前例のないことであった。
それが遠国奉行よりも格上の下三奉行の小普請奉行ともなれば尚更であろう。
それだけ忠香が優秀だったからであり、そうであれば忠陸としても父として、
「倅の出世の足を引っ張りたくない…」
そう思うのは当然であり、それゆえ、
「倅の出世の足を…」
引っ張ることにもなりかねない、千穂たちの「濫費」を誡めるなど、その忠陸には出来よう筈もなかった。
そして同じことは萩原雅忠にも言えた。
即ち、萩原雅忠の息、大學は本丸にて小納戸を務めており、しかし、忠香の場合とは違い、家督相続前での小納戸就任はそれ程、珍しいことではなかった。
尤もそれは、
「同じく家督相続前で小普請奉行に就いた松平忠香の場合と比べて…」
つまりは比較の問題に過ぎず、旗本全体から見た場合、家督相続前での小納戸就任はやはり珍しいと言えるかも知れない。
何しろ小納戸と言えば、従五位下に相当する諸大夫役の小普請奉行には及ばないものの、それでも従六位相当の布衣役であり、この布衣役は家督相続済みの者でもそうそうなれる「ポスト」ではなかった。
にもかかわらず、萩原雅宴が未だ家督を継いでいないにもかかわらず、その布衣役である小納戸に就けたのも、松平忠香と同じくやはり雅宴当人の実力が認められたから…、とそう言えれば実に格好良いのだが、現実は違い、雅宴当人の実力が評価されたから…、と言うよりは、
「父である萩原雅忠のお蔭…」
それが大であった。
それと言うのも萩原雅忠にしてもまた、小納戸のみならず小姓をも勤めたことがあったのだ。西之丸の留守居に就く前、それも遥か昔のことであるが、それでもそのことが評価されて、雅宴が小納戸に取り立てられることとなったのであった。
小納戸にしろ小姓にしろ中奥…、将軍の「プライベートエリア」である中奥に仕える役人、それも将軍に近侍する「ポスト」であった。
そうであればその小納戸や小姓に取り立てられる者と言えば、父も小納戸、或いは小姓を勤めていたことがあるケースが多かった。採用基準と言っても過言ではないやも知れぬ。
何しろ、将軍の立場に立てば、見知らぬ者が側に仕えてくれるよりも、
「勝手知ったる者の倅に仕えて貰いたい…」
そう考えるのが自然であり、そして将軍のその考えはそのまま人事に反映され、小納戸や小姓に取り立てられる者は父も同じく小納戸や小姓を勤めていたことがあるケースが多く、それが家督相続前の者ともなると、父が小納戸や小姓を勤めていたケースが殆どと言っても良いだろう。
そこが主に実力が評価される表向の人事との違いであり、つまりは小普請奉行を始めとする表向の人事との違いであった。
さらに萩原雅忠の場合、息・雅宴の嫡男、雅忠からすれば嫡孫に当たる式部茂雅は未だ17歳と、御役にこそ就いてはいなかったものの、それでも6年前の宝暦13(1763)年の9月には家基が山王社に詣でるべく、騎馬にて向かった際、そのお供を、所謂、
「少人騎馬…」
それを務めたことがあった程で、つまりは萩原雅忠は三代に渡って将軍家の御側近くに仕えているというわけで、そうであれば萩原雅忠にしてもまた、将軍家との「縁」を壊すことにもなりかねない、千穂たちに対してその「濫費」を誡めるなど出来よう筈もなかったのであった。
ともあれこうして5人の留守居のうち、丁度過半数に当たる3人が千穂たちのその「濫費」について、
「黙認すべし…」
その態度を貫いたために、古郡年庸も永井直令も千穂たちのその「濫費」を誡めることを諦めたのであった。
仮に、千穂たちの「濫費」を、それも千穂当人に対して誡めたとしても、あとの3人…、松平忠陸と萩原雅忠、そして笹本忠省の3人が反対の意思表示を、つまりは、
「千穂たちの濫費については将軍・家治自身が許したことでもあり、それを黙認すべし…」
そう意思表示をしてのける危険性が十二分に考えられ、そしてそうなれば莫迦を見るのはそれこそ、
「莫迦正直に…」
千穂たちの「濫費」につき、千穂当人に対して誡めた古郡年庸と永井直令の2人ということになり、最悪、千穂の不興を買ったが為に、
「御役御免の上、差し控え、小普請入り…」
それを命ぜられる「リスク」が十分にあり得、そのことは古郡年庸にしろ、永井直令にしろ承知していたので、そうであれば古郡年庸も永井直令もそのような「リスク」を冒してまで、西之丸の大奥の濫費について千穂当人に対して誡めようなどとは更々思わなかった。
古郡年庸も永井直令も生憎とそこまでの正義漢ではなかったからだ。
それと言うのも古郡年庸は家禄が1072石の古郡家の、永井直令は家禄が千石の永井家のそれぞれ当主であり、そうであれば役高が2千石の西之丸の留守居でいられる限りは、古郡年庸は928石の、永井直令は千石もの、それぞれ足高が保証されており、それが千穂に対してその「濫費」を誡めたが為に、その西之丸の留守居を、
「御役御免…」
クビになろうものなら、西之丸の留守居としてそれまで保証されていた足高についてももう、保証されない、要は貰えないことになる。
古郡年庸も永井直令もそれを恐れて、千穂の「濫費」を誡めることを諦めたわけであったが、それにしても足高が貰えなくなることを恐れるとは、これでは千穂とそれこそ、
「同じ穴の狢…」
そう捉えられても致し方あるまい。
ともあれ、こうして千穂の「濫費」を誡める者は誰一人として存在せず、千穂の「濫費」にいよいよ拍車がかかった。
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