天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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末吉善左衛門は己が偽証を将軍・家治に信じてもらえたと早合点する

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おそれながら…」

 それまでだまっていた意知おきともが口を開いた。

如何いかがいたした?」

 家治がおだやかな口調で問うた。

「さればこの意知おきともよりも末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんに対しまして尋ね申したきこれありそうろう…」

 意知おきともは自分にも目付めつけ末吉すえよし善左衛門ぜんざえもん訊問じんもんさせて欲しいと、そう将軍・家治に願ったのであった。

 それに対して家治は、「許す」と即答そくとうした。意知おきともはそれに対して深々ふかぶか叩頭こうとうした後、体を善左衛門ぜんざえもんの方へと向けると、「されば…」と切り出した。

末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんに尋ねるが、そなたはとも番か?」

 意知おきとものその問いに誰もが首をかしげたものである。何を今さら…、誰もがそう思ったからだ。いや、家治は意知おきともの今の問いの意味するところに気付いており、そして誰よりも当人とうにんとも言うべき問われた善左衛門ぜんざえもんにしてもそうであった。

 それでも善左衛門ぜんざえもんは内心の動揺どうようかくしつつ、

「今は評定所ひょうじょうしょ番にて…」

 そう答えた。するとかんの良い御側おそば御用ごよう取次とりつぎ横田よこた準松のりとしやその見習いの本郷ほんごう泰行やすゆきなどは意知おきとも真意しんいに気付いたらしく、はじかれたような顔をしてみせた。

 一方、同じく御側おそば御用ごよう取次とりつぎ稲葉いなば正明まさあきらは表情を変えずにいた。稲葉いなば正明まさあきらとて、御側おそば御用ごよう取次とりつぎを勤めるぐらいであるので、決してかんは悪くない方であったが、それでも表情を変えないあたり、意知おきとも真意しんいに気がつきながらも、あえて気づかないフリをしていると考えられた。

「さればその当時…、おそれ多くも大納言だいなごん様がお最期さいごのご放鷹ほうよう時の、つまりは安永8(1779)年時点では如何いかが?」

 意知おきとも善左衛門ぜんざえもんに対してさらにんでそう問いかけるや、周囲もようやくに意知おきとも真意しんいに気付いたらしく、ざわめきが起こった。

家基いえもと様がたかりの時には末吉すえよしの野郎はまだ、とも番じゃなかった、ってこと?」

 益五郎ますごろうがズバリ核心かくしんいた。

 意知おきともはそんな益五郎ますごろうをチラリと一瞥いちべつした後、「左様さよう…」と切り出した。

評定所ひょうじょうしょ番ともうさば定員は二名にて、目付めつけ内での序列じょれつでは下から二番目…、目付めつけ内での序列じょれつさい下位かいぐち番の上に過ぎず…、さればとも番は評定所ひょうじょうしょ番の上にて…」

 意知おきともはそれから益五郎ますごろうにも理解できるよう、目付めつけ内の序列じょれつについて説明した。

 すなわち、ここ本丸ほんまるにてつかえる十人の目付めつけ通称つうしょう

十人じゅうにん目付めつけ

 その中でも日記にっき掛が筆頭であり、以下、服忌ぶっき掛・勘定かんじょうしょ見廻みまわり掛・はま見廻みまわり掛・上水じょうすい方・みち方掛・勝手かって掛・まちかた掛、そしてさらに座敷ざしき番・とも番・評定所ひょうじょうしょ番、そしてぐち番と続く。

 今は目付めつけの中でも日記にっき掛と服忌ぶっき掛を兼務けんむする村上むらかみ三十郎さんじゅうろう正清まさきよが筆頭であり、勘定かんじょうしょ見廻みまわり掛の井上いのうえ図書頭ずしょのかみ正在まさありがそれにぎ、以下、はま見廻みまわり掛の大久保おおくぼ喜右衛門きえもん忠昌ただまさ上水じょうすい方・みち方掛と勝手かって掛を兼務けんむする山川やまかわ下総守しもうさのかみ貞幹さだもとまちかた掛の蜷川にながわ相模守さがみのかみ親文ちかぶん、そして座敷ざしき番のほり帯刀たてわき秀隆ひでたか、問題のとも番の安藤あんどう郷右衛門ごうえもん惟徳これのり、同じく問題の評定所ひょうじょうしょ番の末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんとそれに柳生やぎゅう主膳正しゅぜんのかみ久通ひさみち、そしてぐち番の跡部あとべ兵部ひょうぶ良久よしひさの順である。

 そしてこの序列じょれつ年功ねんこう序列じょれつが原則であり、無論むろん、中には例外もないではないが、しかしこと、安永8(1779)年から今年、天明元(1781)年の今日、4月2日にいたるまでの間に限って言えば例外はなかった。

 つまり今、天明元(1781)年の4月2日現在、評定所ひょうじょうしょ番である末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんが2年前の安永8(1779)年時点で評定所ひょうじょうしょ番よりも上位のとも番であるはずがないのだ。

「されば二年前のそなたは今の評定所ひょうじょうしょ番か、さもなくばぐち番のはずにて、とも番であるはずがないと思うのだが…」

 意知おきともよりそう問われた善左衛門ぜんざえもん流石さすがに答えにきゅうしたかと思われたが、それも一瞬いっしゅんに過ぎなかった。

「されば二年前のそれがしは如何いかにもぐち番にて…」

 家基いえもと最期さいごたかりを行った安永8(1779)年の時点ではとも番でなかったことを善左衛門ぜんざえもんがあっさりと認めたことから、周囲のざわめきはいよいよ大きなものとなった。

 それはそうだろう。何しろ目付めつけの中でたかりについての意見を述べることが出来るのはとも番を兼務けんむする目付めつけに限られていたからだ。

 そして善左衛門ぜんざえもんはその当時、そして今もってそうだが、そのとも番ではないと言う。これで善左衛門ぜんざえもんたかりについての意見を述べる理由も権限もないことが裏付けられてしまった。

 いや、疑惑はさらふくらむ。それは他でもない、正明まさあきらは何ゆえにとも番でもない善左衛門ぜんざえもんに対して、たかりについての意見を求めたのかという点だ。

 だが善左衛門ぜんざえもんはちゃんと「逃げ道」を用意していた。それはすなわち、正明まさあきらや、正存まさよしにとっての「逃げ道」でもあった。

「さればその当時…、安永8(1779)年の2月4日に相役あいやく大久保おおくぼ喜右衛門きえもん美濃みの伊勢いせ両国の河堤かてい修築しゅうちく監督かんとくのため同地に赴任ふにんいたし…」

「あんたの同僚の大久保おおくぼ喜右衛門きえもんって人が出張でこの江戸にいなかったってこと?」

 益五郎ますごろうくだいたものいでもってそう口をはさみ、善左衛門ぜんざえもんいやな顔をさせたものの、しかし事実その通りであったので、「左様さよう」と答え、その上でさらに続けた。

「されば大久保おおくぼ喜右衛門きえもんはその当時、上水じょうすい方・みち方掛と勝手かって掛を兼務けんむしておりましたるゆえ、されば当時、まちかた掛の山川やまかわ下総守しもうさのかみ大久保おおくぼ喜右衛門きえもんに代わりまして上水じょうすい方・みち方掛を兼務けんむすることに…、なれど山川やまかわ下総守しもうさのかみはこの時点で今申し上げましたる通り、すでまちかた掛をも兼務けんむしておりますれば、その上、上水じょうすい方・みち方掛と勝手かって掛まで兼務けんむせしことは到底とうてい不可能と申すものにて…」

 確かに善左衛門ぜんざえもんの言う通りであった。目付めつけ兼務けんむする仕事の中でも特に上水じょうすい方・みち方掛と勝手かって掛、そしてまちかた掛はまさしく、

激務げきむ…」

 と言えた。それでもかろうじて上水じょうすい方・みち方掛と勝手かって掛は何とか兼務けんむが可能であり、実際、大久保おおくぼ喜右衛門きえもん兼務けんむしていたわけだが、しかし、その上、まちかた掛まで兼務けんむすることは到底とうてい、不可能であった。

「されば、山川やまかわ下総守しもうさのかみには大久保おおくぼ喜右衛門きえもんの代わりとして、上水じょうすい方・みち方掛に専念せんねんさせ申すべく、これまで山川やまかわ下総守しもうさのかみ兼務けんむせしまちかた掛につきましては、当時、座敷ざしき番を兼務けんむいたしておりました丸毛まるも一學いちがく…、いえ、和泉守いずみのかみ政良まさたかがこれを兼務けんむいたすことに…」

「下からじゅんりに兼務けんむする掛やら番やらをくりげたってこと?」

 やはり益五郎ますごろうくだけた口調で、しかし、事実をいていたので、善左衛門ぜんざえもんもやはり、「左様さよう」とこれを認めた。

「それじゃあ当時のあんたはぐち番だっけか?それなら一番、しただったから、それより一段上の、今、あんたが兼務けんむしている評定所ひょうじょうしょ番だっけか?そいつを兼務けんむしたってこと?」

 益五郎ますごろうのあけすけな問いかけに失笑しっしょうらす者もおり、流石さすが善左衛門ぜんざえもん愉快ゆかいにさせたが、しかしここは御前ごぜん…、将軍・家治の前であるので、善左衛門ぜんざえもんとしては声をあらげるわけにもゆかなかった。

 いや、益五郎ますごろうはその点に限って言えばかんちがいをしていたので、それを思うと善左衛門ぜんざえもんも少しくは、

溜飲りゅういんが下がる…」

 そのような思いがみ上げてきたので、腹立たしさはすみへと追いやられた。

 ともあれ善左衛門ぜんざえもんは内心、ニヤリと笑みを浮かべながら、「いいや」と答えた。

「違うってか?」

 益五郎ますごろうが目を丸くしたことから、善左衛門ぜんざえもんはいよいよ愉快ゆかいになった。

 いや、目を丸くしたのは益五郎ますごろうだけではない。他の者も同様どうようで、意知おきとももその中の一人であった。

「えっ、でも、それじゃあ…」

 益五郎ますごろうは子供のように善左衛門ぜんざえもんにその先をせっついた。

「さればまちかた掛を兼務けんむせしこととなり申した丸毛まるも和泉守いずみのかみ…、の者が兼務けんむいたしており申した座敷ざしき番につきましてはとも番を兼務けんむ致しておりましたる蜷川にながわ相模守さがみのかみ親文ちかぶんがこれを兼務けんむせしこととなり申し、さればその次には評定所ひょうじょうしょ番がとも番を…、蜷川にながわ相模守さがみのかみ兼務けんむいたしており申したとも番を二人の評定所ひょうじょうしょ番のいずれかが兼務けんむせしことに…、なれど評定所ひょうじょうしょ番はこれまた激務げきむにて、ゆえに定員が唯一ゆいいつ二名にて、そこで…」

目付めつけ兼務けんむする掛やら番やらの中で一番ひまぐち番のあんたが評定所ひょうじょうしょ番を飛び越えて、とも番を兼務けんむしたってこと?」

 益五郎ますごろうがやはり平易へいいな口調でそうまとめてみせた。善左衛門ぜんざえもん最早もはや、腹も立たずに「左様さよう」と答えると、

「さればおそれ多くも上様におかせられましてはこの上、それがしめの言葉を…、今の主張をおうたがいになられるのでござりますれば、何卒なにとぞ、日記掛の目付めつけにお確かめになられたく…、日記掛の目付めつけは幸いにも、当時も今も、村上むらかみ三十郎さんじゅうろうにて…」

 どうやら己がとも番を兼務けんむするようになった経緯けいい目付めつけ作成の日記にも記録されているということらしい。

 だが家治はそれを確かめるような真似まねには及ばなかった。それと言うのもこと、その点に関しては…、ぐち番であった善左衛門ぜんざえもんとも番を兼務けんむするようになったその点についてだけは、善左衛門ぜんざえもんの主張通りであろうと、善左衛門ぜんざえもんのその態度から容易よういにそうと察せられたからだ。

「いや、うたごうて悪かったのう…」

 家治は機嫌きげんの良い声で善左衛門ぜんざえもんに語りかけた。善左衛門ぜんざえもんは家治のその機嫌きげんの良い声ですっかり己の証言を、

「上様に信じてもらえた…」

 そう信じ込んだものであった。いや、それも無理からぬことではあった。何しろ善左衛門ぜんざえもんはまだ、将軍・家治との間で心の底からの信頼関係をきずけてはおらず、そうであれば家治のその機嫌きげんの良い声を聞いただけで、そう思ってしまうのも無理からぬことであった。

 いや、家治にしても善左衛門ぜんざえもんがそのように…、己が機嫌きげんが良いと、ひいては善左衛門ぜんざえもんのその証言を信用したように見せかけるべく、あえて機嫌きげんの良い声を出したのであった。つまりは善左衛門ぜんざえもん油断ゆだんさせるためである。

 だがそんな善左衛門ぜんざえもんとは正反対に、将軍・家治との間で心の底からの信頼関係をきずいている意知おきともには家治が心底、機嫌きげんが良いわけでないことぐらい、すぐに気付いたものである。

 そしてそれは御側おそば御用ごよう取次とりつぎにしてもそうで、横田よこた準松のりとしは元より、稲葉いなば正明まさあきらまでが意知おきともと同じように、

「上様は決して心底しんそこ機嫌きげんが良いわけでない…」

 そのことに気付き、二人共、顔をこわらせたものであった。
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