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捜査の主導権

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「永野っ!おいっ、しっかりしろっ!」

 心臓を軍刀で刺し貫かれ、その場に崩れ落ちた永野に対して俺は大声で呼びかけた。が、永野は何の反応も示さなかった。俺は一瞬、軍刀を引き抜こうかとも思ったが、抜き傷でさらに体を傷付けては大変と思い止まった。

 一方、永野を軍刀で刺した男もまたその場に崩れ落ちた。一仕事終えた安堵のためであろうか。ともあれ、犯人の男は志貴と相良事務官によって取り押さえられた。と言っても、犯人は崩れ落ちているので、志貴と相良事務官は難なく制圧できた。

 俺は今、携帯を所持しておらず、そこで犯人の男を相良事務官と共に取り押さえていた志貴に対して、「志貴っ」と声をかけると、スマホを貸してくれるよう頼んだ。

「ああ。背広の内ポケットにある…」

 志貴はそう言ったので、俺はそれを貸してくれるものだと解釈すると、志貴の背広の内ポケットをまさぐり、スマホを取り出すと、志貴の「アシスト」によりまずは119番に通報した。無駄かも知れないが一応、である。

「場所は板橋区徳丸の、ええっと…」

 俺は詳しい地番までは把握しておらず、すると志貴が小声で俺に地番を教えてくれたので、俺はその地番をスマホの向こう側の受理台の女性に向かって告げた。もしかしたら既に逆探知で把握してくれていたかも知れない。

 ともあれ俺は事態をつっかえつっかえではあったが、何とか告げると、救急車の派遣を要請した。

 それから俺はさらに110番にも通報することにした。志貴に言われたわけではなかったものの、それでも俺自身が常識的にそう判断したからだ。

『はい、110番警視庁です。事件ですか。事故ですか…』


【午前7時29分】
「はい、110番警視庁です。事件ですか。事故ですか」

『事件です…、人が刺されました…』

「相手は今、凶器を持っていますか?」

『刺さったまんまです…、相手…、犯人はもう取り押さえてあります…。救急車も呼びました…』

「場所を教えて下さい」

『板橋区徳丸4丁目、19の×…』

「電話番号を教えて下さい」

『そこまでは分かりませんよっ!』

「今から警察官が現場へ向かいます」


【午前7時32分】
 俺が110番通報を終えると、「吉良…」と志貴から声をかけられた。

「ああ。分かってる…」

 俺は志貴にスマホを返そうと、その背広の内ポケットにスマホを入れようとしたが、志貴から、「いや、そうじゃない…」と言われた。

「何だ?どうした?返さなくて良いのか?」

「吉良に頼みがある」

「何だ?」

「部長に連絡を取ってくれ…」

 相良事務官と共に、永野を刺した男を取り押さえていた志貴は声を低くしてそう俺にそう頼んだ。

「押田部長に?」

 俺もつられて小声で聞き返した。

「そうだ。俺はこの通り、手が塞がってる。だから…」

「俺が押田部長に電話して、お前の耳…、どっちが良い?」

 俺の飲み込みの良さに志貴はホッとした様子で、「左耳だ」と答えた。

「分かった。で、どう操作すれば良いんだ?」

 俺の飲み込みの悪さに志貴はガックリときたが、それでもスマホの操作をレクチャーしてくれた。

 そうして俺が押田部長のスマホに連絡を入れると、志貴のリクエスト通り、その左耳に当てた。

「志貴です」

「押田だ。どうした?」

「今しがた、永野が刺されました。容体は一応、今のところ意識不明。被疑者の身柄は俺と相良さんとで確保してあります」

「そうか…、それじゃあ緊急逮捕状と、それに刺されたと言ったが、凶器は…」

「刺さったまんまです。一応、吉良が救急に連絡して今はその救急車待ちです」

「それなら鑑定処分許可状も必要だな…、場所は板橋区徳丸4の19の×で良いな?」

「そうです」

「分かった。すぐに判事を脅す。ああ、明記する罪状は殺人未遂で良いな?」

「今のところは…」

「分かった」

「ああ。それと…、永野邸の門前で刺されたんですが、門には防犯カメラが…」

「どこの警備会社だ?」

 志貴は門に貼ってあったステッカーへと目をやり、「テミス警備保障です」と答えた。

「それじゃあ、捜索差押許可状も必要だな…」

「お願いします」

「分かった…」

 押田の方から連絡が切れた。

「終わった…」

「ああ…」

 俺は今度こそ、志貴にスマホを返した。

「ところでさっきの…、緊急逮捕状は何となく分かるけど、それに捜索差押許可状も…、恐らくはテミス警備保障の本社にもここの防犯カメラの映像がリアルタイムで、それも録画されてるから、それを押収しようって言うんだろ?」

「その通りだ」

「それで…、鑑定処分許可状ってのは…」

「凶器を押収するのに必要な令状だ」

「そうか…」

 俺は再び、永野の元へと近寄り、しかし、こと救命に関しては素人であったので、余計なことはしないに限ると、その右手を握るに留めた。永野の右手はまだ温もりを残していた。


【午前7時32分】
「通信指令本部、砂岡です」

「南村だ」

「情報官が気に留めておられました板橋区徳丸4丁目、19の×で先ほど、事件の通報を受理しました」

「通報内容は」

「人が刺されたと…」

「そうか。良く伝えてくれた」

「恐れ入ります」


【午前7時35分】
「南村です」

「ああ。南村さん、で、受理しましたか?」

「はい。先ほど、通信指令本部長の砂岡より連絡がありまして、人が…、永野が刺されたそうです」

「そうですか。どうも、ありがとうございました」


【午前7時38分】
「南村ですが…」

「これはこれは南村さん、いや、情報官殿…」

「南村で結構ですよ」

「これはこれは、失礼をば…」

「川村社長、例の件ですが…」

「ええ…、お送り頂いたこの顔写真…、吉良なにがしの写真でしたっけ?これをこいつの顔と差し替えれば良いんですね?」

「その通りです。お願いできますか?」

「もう承知しておりますよ」

「いつもすみませんねぇ…、テミス警備保障さんにはお世話になりっぱなしで…」

「いえいえ、手前こそ、オリンピックの警備を受注させてもらったんですから、この程度のことは…」

「そう仰って下さると私も少しは肩の荷が下りるというものでして…、まぁ、ひとつ宜しく…」


【午前7時38分】
「はい、一課長、大宮」

「北村だ」

「部長…、いかがなさいました?」

「今、手空きの係は?」

「7係ですが」

「悪いが7係を今から言う現場に向かわせてくれ」

「はい?」

「言うぞ」

「はっ、はい」

「板橋区徳丸4の19の×…」

「復唱します。板橋区徳丸4の19の×…、ああ、先ほど、同報電話で傍受しましたが、既に被疑者の身柄を確保してあると…」

「私人逮捕だ。身柄が確保されているかどうか、確かではないだろう」

「それは…、そうですが…、ところで何故、部長がご存知なので…」

「一々、説明する必要があるか?」

「滅相もございません…」

「宜しい。それでは7係を向かわせろ」

「かしこまりました…、あの、それは特捜本部開設ということで?」

「所轄には触らせるな、そういう意味だ」

「かしこまりました…」


【午前7時42分】
「理事官席、鍋島」

「一課長、大宮」

「大宮課長…、いかがなさいました?」

「さっきの、板橋区徳丸4の19の×における殺人未遂容疑事案、傍受したな?」

「はい。それが何か…」

「7係を現場に向かわせてくれ」

「既に私人逮捕がされております…、特捜本部開設の必要性は…」

「そうじゃない。所轄には触れさせるなとのご下命だ…」

「ご下命と申しますと?部長の?」

「そうだ」

「分かりました…」


【午前7時45分】
「第五、管理官席、片桐」

「理事官、鍋島」

「理事官、いかがなさいました?」

「板橋区徳丸4の19の×の殺人未遂容疑事案は傍受したな?」

「はい。既に私人逮捕がされておりますが…」

「7係を向かわせてくれ」

「えっ…、ですが既に私人逮捕が完了していると…」

「分かってる。それでも向かわせてくれ」

「それは…、特捜本部開設ですか?」

「いや、所轄には触れさせるな…、そういう意味だ」

「…うちで事件を仕上げる、と?」

「そうだ」

「ちなみにそれはどこからの…」

「北村刑事部長のご下命だ」

「…分かりました。至急、7係を向かわせます…、ああ、ですが、既にレスポンスタイムが過ぎている可能性があります…、所轄に身柄が移送されていた場合は…」

「奪い取って来い」

「…分かりました。はい。失礼いたします…、おい、加納係長っ」

「はい」

「こっちにきてくれっ」

「はい」

「悪いが…」

「徳丸に急行すれば良いんですね?」

「…そうだ。頼む」

「はい」


【午前7時49分】
 救急車が到着してから既に10分が経過していた。その間、永野の蘇生措置を施す救急隊員あり、運転席の無線機を使って受け入れ先の病院を必死に探す救急隊員ありであった。

 まだパトカーは到着していなかった。いや、既にパトカー独特のサイレン音が近くなった。

 やがてパトカーが救急車のすぐ傍で停車し、そしてパトカーから二人の警官が降りて来た。その二人の警官は俺たち…、救急隊員によって蘇生措置を施されている永野と、それに付き添う俺たちには目もくれず、志貴と相良事務官の元へと一直線に近付いた。犯人と思しき男を取り押さえているためであろう。警察にとって大事なのは被害者ではなく加害者ということらしかった。

「通報者は…」

 警官の一人が志貴と相良事務官の交互を見やりつつ尋ねた。するとそうと察した志貴は相変わらず、永野を刺した男を相良事務官と共に制圧しながら、

「通報者は俺たちではありません。あいつです…」

 志貴は相変わらず救急隊員の蘇生措置に付き添っている俺の方へと顎をしゃくってみせた。

 すると二人の警官は今度こそ、俺に興味を覚えたらしく、近付いて来た。

「あんたが通報者か」

 二人のうち年配の制服警官がそう尋ねた。随分と乱暴な口調であった。

「あんた呼ばわりするとは、頭が少し足りていないんじゃないか?」

 俺はただ単純に乱暴な口調で声をかけられたので、つい、ガキみたいにムキになってやり返したに過ぎなかっただけだが、そんな俺に対して志貴は内心、「もっとやれ…」と俺に声援を送っていたらしいのだが、その時の俺は勿論、そんなこととは露知らず、であった。

 一方、年配の制服警官は俺の挑発にあっさりと乗せられた。

「てめぇ…、誰にもの言ってんだ」

「頭の足りない制服警官だよ」

 その瞬間、俺はその年配の制服警官に胸倉を掴まれ、これにはさすがに後輩の若い制服警官が、「まずいですよ」と年配の、恐らくは先輩の制服警官を止めようとした。

 だが先輩の制服警官は俺の胸倉を離そうとはせず、「なめんじゃねぇぞ。おいっ」とこれまたガキみたいなドスを利かせる始末であり、俺は恐れるよりも笑いの方が込み上げてきた。いや、実際に笑いが口をついて出てしまい、それがまた、先輩の制服警官をいよいよもって激高させる元となった。

「てめぇ、この野郎…」

「さっきから罵声ばかりだな…、だからそんな年になっても制服脱げないんじゃないか?」

 俺がそう揶揄すると、その刹那、制服警官のごつい右拳が俺の左頬にめり込んでいた。俺は口中に鉄分を味わうこととなった。

「いってぇなぁ…」

 俺が顔を顰めている間も相変わらず、その先輩の制服警官は俺の胸倉を離そうとはしなかった。

「まずいですってっ」

 後輩の、理性的な制服警官は今や、顔面蒼白だ。それはそうだろう。先輩の制服警官のとばっちりを喰うことになるかも知れなかったからだ。

「やめんかっ!」

 志貴が怒鳴った。志貴としては俺と制服警官との口論が長引けば長引くほど、それだけ応援の特捜検事による緊急逮捕状と鑑定処分許可状、それぞれの令状請求に必要となる時間を稼ぐことができ、さらには晴れて裁判所より発付されたそれら令状を応援の特捜検事がここまで持参する時間まで稼げるというもので、その場合、有無を言わさずに特捜部で永野を刺した男の身柄を確保できるというものであった。

 そうであればこそ、志貴は俺と制服警官との口論を内心で囃し立てていたのだが、しかし、まさかこの俺が殴られるとは想定していなかったらしく、さすがに一喝せずにはいられなかった。

 するとそこでようやくその先輩の制服警官は俺の胸倉から手を離した。それもご丁寧にも俺を地面に叩きつけるかのように離してくれたので、その甲斐あって俺はしたたかに地面に腰を打ちつけたものである。

 一方、そうして俺を地面に叩きつけた制服警官は今度は志貴と相良事務官の元へと歩み寄った。どうやら俺を殴っただけでは飽き足らないようであった。

「てめぇは…」

 制服警官は志貴を見下ろしながらそう尋ねた。

「私は東京地方検察庁特別捜査部に所属する検事の志貴、志貴孝謙と申します。で、これは事務官の相良です」

 志貴の自己紹介に先輩の制服警官は驚き、思わず、それも条件反射的に志貴と相良事務官のバッジへと目がいった。するとそこには確かにそれぞれ、秋霜烈日と五山桐紋…、検察官バッジと事務官バッジを現認したのであった。

 それでも先輩の制服警官は慎重な性格らしく、「バッジだけじゃあ…」と志貴と相良事務官がそれぞれ検事と事務官であることを中々、認めようとしなかった。

 志貴はそんな先輩の制服警官に、「確かに…」とまずはその慎重さ、いや疑り深さを認めてやると、

「俺の背広の内ポケット…、左の内ポケットに身分証がありますから、それを見て下さい。相良にしても同じです」

 そう答えたのであった。本来ならば自ら身分証を取り出して見せるべきところ、永野を刺した男を取り押さえている身としてはそうもいかない。当たり前だが、両手が塞がっているからだ。

 そこで先輩の制服警官は後輩の制服警官と共にそれぞれ、志貴と相良事務官の左の内ポケットをまさぐり、中から身分証を取り出すと、その身分証に目を凝らして確認し、それでようやく志貴と相良事務官が紛うことなき本物の特捜検事とその事務官であることを認めたのであった。

「しっ、失礼いたしましたっ!」

 二人の警官はそれぞれ身分証を左手に持ち、挙手の礼をした。

「で、あなた方は…」

 志貴は二人の制服警官に身元を明かすよう促した。いや、命じた。検事が名乗ったからには礼儀の点から言っても名乗るのが筋であったが、しかし、後輩の制服警官はともかく、先輩の制服警官は俺を殴ってしまった手前、中々、身元を明かそうとはしなかった。そこで志貴は、

「照会をかければ簡単に判明しますよ…、その時に判明したら今、俺の目の前で繰り広げられた特別公務員暴行陵虐の容疑事案で遠慮なく捜査、摘発しますから覚悟しておいて下さい」

 そう殺し文句を吐いた。志貴のこの殺し文句の効果は絶大で、

「しっ、失礼いたしましたっ!本職は相田俊夫巡査でありますっ!」

 俺を殴った先輩警官は挙手の礼のままそう自己紹介し、後輩警官にしても同様に、挙手の礼のまま、

「本職も同じく、根岸和文巡査でありますっ!」

 そう自己紹介したのであった。

「そう…、相田巡査に根岸巡査ね…、相田巡査の特別公務員暴行陵虐の容疑事案はひとまず置いておいて…、詳しい説明は省きますが、この男が刺したのは永野都議です」

 志貴は相良事務官と共に取り押さえている男を見下ろしながらそう答えた。

「えっ、ここを地盤としている永野一臣都議ですか?」

 相田巡査が素早く反応した。地元に密着する巡査としては極めて自然な反応と言えた。もっとも、それならわざわざ志貴に教えられずとも、いち早く、蘇生措置を施されている永野の顔を見ればその時点で永野だと相田巡査には、そして根岸巡査にしても判断がついただろうが、実際にはこうして志貴に教えられて初めて被害者の身元に気付く始末であり、やはり警察は被害者よりも加害者の方を大事にする組織のようであった。

「ええ。そしてこれから永野都議を連行するところでした…」

「連行するところは…、地検に?」

 相田巡査がまたしても質問し、それをいつの間にか根岸巡査が記録していた。どうやら質問役は先輩の相田巡査、筆記役は後輩の根岸巡査という役回りらしい。

 ともあれ志貴は、「ええ」と答えると、「逮捕状が出ておりましたので…」と付け加え、相田巡査は元より、筆記役の根岸巡査も思わずノートから顔を上げたほどであった。

「逮捕状と言うと…、それはつまりは永野都議に対する逮捕状という意味ですか?」

 相田巡査は恐る恐る尋ねた。これもまた無理からぬことであった。

「そうです」

「それは…、収賄ですか?」

 都議が逮捕となればまず、普通はサンズイ…、収賄を思い浮かべるものだろう。だが実際には違う。

「詐欺です」

「詐欺?」

「ええ。詳しいことは申し上げられませんが、詐欺容疑で永野先生に逮捕状が出ておりまして、それで地検で逮捕状を執行すべく、永野先生には任意で地検までご足労願おうと…、それで門を出たところで…」

「そうですか…、で、あの男が目撃者と?」

 相田巡査はバツが悪そうに尋ねた。

「ええ。ちなみに私の友人です」

「えっ…、検事殿のご友人であらせられますか?」

 単なるごくつぶしのニートの俺がご友人に昇格した。検事という身分の偉大さを俺は改めて思い知った。

「そうだ」

「それは…、ご友人がたまたま通り掛かったと?」

 実際には任意同行の前の崖の上での告白よろしく、永野邸の応接間での永野の告白にこの俺まで同席していたわけだが、志貴としてはそこまで説明するのは面倒だったので、「ああ…」と適当に答えた。

「左様でございましたか…」

 相田巡査はそれから正に、

「脱兎のごとく…」

 俺の元へと駆け寄ると、呆れたことに土下座したのであった。これには蘇生措置を施していた救急隊員も横目でその様をチラリと見て、内心、呆れ果てたものである。俺はそれ以上に呆れ果てた。

「まさか、検事のご友人とは露知らず、まことにもって申し訳ございませんでしたぁ…」

 俺は別に警察庁刑事局長の弟でもなければ、ましてや水戸の隠居でもない。無論、銀行の本店次長でもないので、他人に土下座をさせるような悪趣味を持ち合わせてはいなかった。

 俺はこの手の見え透いた真似には心底、うんざりさせられる。まだ、先ほどの乱暴な態度の方が清清しい。

「そんな真似、止めてください。俺を強要罪で捕まえるつもりですか…」

 俺はうんざりした面持ちでそう言い、相田巡査の頭を上げさせた。土下座をさせて許されるのはせいぜい、ドラマの中だけであり、現実に土下座させようものなら、強要罪で逮捕される危険性があった。まして土下座させた相手が警官ともなれば尚更であろう。無論、俺が土下座を強要したわけではないが、しかし、相手は警察である、俺が土下座を強要したと話をすり替えることぐらい朝飯前であろう。

 ともあれ相田巡査はそれが俺に許された証だと早合点したようで、嬉々として頭を上げ、そして腰を上げた。

 一方、志貴はその時、近くに留まっていた根岸巡査に対して、

 「これは…、この殺人未遂容疑事案は特捜部が着手しております永野都議逮捕、その延長線上で行われたものと考えておりますので、殺人未遂事件についても地検特捜部が指揮を執ります」

 根岸巡査にそう宣言したのであった。これには根岸巡査も驚き、「相田さんっ」と腰を上げたばかりの相田巡査に声をかけ、呼び寄せた。

 相田巡査は根岸巡査の元へと駆け寄ると、「何だ?」と尋ねたので、根岸巡査はそんな相田巡査に対して今の、この永野都議に対する殺人未遂容疑事案を特捜部主導で捜査するとの志貴の意向を伝えたのであった。

「それでは…、検事はこの殺人未遂事案と永野先生の詐欺事案がつながっていると?」

 相田巡査はそう尋ねた。単なる腕力馬鹿というわけでもなさそうだった。志貴は、「はい」と即答した。

「その根拠は…」

「ズバリ、口封じの可能性があります」

「口封じというと?」

「永野都議が詐欺で得た金が中央政界に流れている可能性があります」

 志貴のその言葉に相田巡査と根岸巡査はそれこそ、目玉が飛び出るのではないかと心配になるほど驚きの表情を浮かべた。

「それは…、本当ですか?」

 相田巡査は声を震わせながら尋ねたので志貴は頷いた。

 それから所轄警察署である高島平警察署の刑事組織犯罪対策課の強行犯捜査係の刑事と、さらに鑑識係の刑事たちが到着した。覆面パトカーから降りて来た刑事組織犯罪対策課の強行犯捜査係の刑事、いわゆる所轄刑事は志貴と相良事務官に対して男の身柄を引き渡すよう求めた。

 だが志貴は言下にそれを断った。

「身柄はうちで預かります」

 志貴のその言い回しに、「あんたは一体…」と所轄刑事はうなった。

「東京地検特捜部、検事の志貴と、それに事務官の相良です…」

 志貴は所轄刑事にもそう自己紹介を繰り返した。それに対して所轄刑事は相田巡査と根岸巡査の方を見た。

「本当か…」

 所轄刑事は相田巡査と根岸巡査に対して目でもってそう問いかけており、相田巡査にしろ根岸巡査にしろその目の意味するところを察すると、「本当です」と二人は声を揃えて答えた。

「ですからうちで…」

「うちって…、特捜部で身柄を預かると?」

「そうです」

 志貴がそう答えたと途端、「ふざけるなっ!」と所轄刑事から怒鳴られた。

「刑事部ならいざ知らず、特捜部は殺人を扱わんだろうがっ!大体、逮捕はうちの領分だっ!検察には口を差し挟ませんぞっ!」

「うちで逮捕しようとしていた永野都議を刺した男ですっ!こちらで引き取りますっ!」

 志貴も負けじと言い返し、そこへさらに鑑識係の刑事までが言い返し、と言った具合に口論が拡大していった。

 すると今度はそこへまた、別の覆面パトカーの車列が近付き、さらに覆面パトカーの路上駐車が増えた。

 志貴たちはいったん口論を止めると、その新たに停車した覆面パトカーの車列へと目を転じた。覆面パトカーの車列からもやはり背広姿の男たち、それも刑事たちが降りて来た。但し、所轄刑事とは違い、その背広には赤バッジが光り輝いていた。それはS1S、

「search 1 select」

 選ばれし捜査一課を表す赤バッジであった。

「一課が何の用ですか?」

 それまで志貴と口論していた所轄刑事が今度は近付いて来た捜査一課の一群に噛み付いた。

「こいつの身柄はこっちで預かる」

 一課の一群の長でも一番の長らしい男は自己紹介もせずに傲然とそう答え、所轄刑事たちを激怒させた。

「ふざけんなっ!被疑者のガラは既に押さえてあるんだっ!特捜本部開設案件でもねぇだろうがっ!偉そうにしゃばんじゃねぇよっ!」

「ふざけてなどいない。これは刑事部長案件だ。あとは一課が引き受けるから、お前たちは引き上げろ」

「ふざけんなっ!桜田門が何だって言うんだっ!」

 所轄刑事は警視庁本部など怖くはないらしい。その向こう見ずさは志貴は嫌いではなかった。

 そこへ今度は二台の覆面パトカーが到着した。但し、降りて来たのは刑事ではない、検事であった。

「あっ、大川…」

 志貴は覆面パトカーから降りて来た大川検事に気が付くと、その苗字を口にした。

 大川は事務官らしき男とパトカーから降りて来た。もう一台の覆面パトカーからは3人の男たちが降りて来た。その3人の男たちの中には何と、押田部長の姿もあった。志貴は押田部長の姿にも気付くと、

「部長…」

 とうなり声を上げたもので、それは相良事務官にしても同じであった。

 一方、所轄刑事は志貴と相良事務官の今の呟き声が耳に入ったらしく、さすがに驚いた様子であった。

「部長って…、特捜部長か?」

 所轄刑事が志貴に尋ねたので、志貴は「ああ…」と答えた。するとそれまで所轄刑事と口論していた一課の刑事が
「特捜部長?」と聞き返し、その顔には戸惑いの表情が浮かんでいた。

「ああ。こちら…、男を取り押さえているのは特捜部の志貴検事と相良事務官だ…」

 所轄刑事はそれまで口論していた相手である一課の刑事にそう二人をそう紹介した。これにはさしもの一課の刑事たちも皆、驚いた様子であった。

 だがそれでも一課の刑事たちはすぐに態勢を立て直した。押田特捜部長は一課の刑事たちと所轄刑事たち、この両者の元へと近付くなり、「特捜部長の押田です」と自己紹介した。するとそれまで所轄刑事と口論していた一課の刑事は押田部長に対して自己紹介を返すこともなしに、

「特捜部長殿が直々にお出張りになるとは何の御用で?」

 そう揶揄するかのように押田部長に一発かましてみせた。特捜部恐るるに足らず…、その一課の刑事からは全身からそんな態度を漂わせていた。それは腐臭に近いものであった。

 それに対して押田部長は一課の刑事のそんな陳腐な挑発には乗らずに、軽くいなしてみせた。

「なに、大した用事じゃありませんよ。俺の部下が仕留めた獲物を持ち帰るだけの話ですよ…」

 押田部長がそう答えると一課の刑事は大仰に失笑してみせた。

「これはこれは面白いことを仰る…、特捜部は殺しは扱わないはずですよ。殺しは一課が専門ですから、まぁ、特捜部さんは高みの見物でもしていて下さいよ…」

 一課の刑事のいなしに対して押田部長は笑顔で頭を振った。

「それがそうもいかないんですよ…」

「なに?」

「この通り、逮捕状が出ておりましてね…」

 押田部長は背広の内ポケットから綺麗に四つ折された逮捕状を広げてみせると、それを永野を刺し、志貴と相良事務官とによって取り押さえられている男ではなく、一課の刑事たちとそれに所轄刑事たちのそれぞれの前に掲げて見せたのであった。
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