天明奇聞 ~たとえば意知が死ななかったら~

ご隠居

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松平定邦は田沼意知の「仮の御奏者番」、仮奏者番としての働きぶりを心底から誉めそやし、意知に居心地の悪い思いをさせる。

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「いや…、大和守やまとのかみ殿どの斯様かようあらためてせっすると、中々なかなか男振おとこぶりだの…」

 定邦さだくに意知おきともをまじまじとつつ、そうめそやした。

 それがけっして阿諛あゆでもなければ、厭味いやみでもないことは定邦さだくに人柄ひとがらからしてもあきらかであり、それだけに意知おきともなんとも居心地いごこちわるかった。

 意知おきとも罵詈雑言ばりぞうごんびせかけられることにはれていたものの、斯様かようめられることにはれていなかった。

 それが意知おきともとは、それはちち意次おきつぐにしてもそうだろうが、真逆まぎゃくとも言うべき、

由緒正ゆいしょただしき…」

 家柄いえがらほこ定邦さだくにからめられるともなれば尚更なおさらであった。定邦さだくにような、

由緒正ゆいしょただしき…」

 家柄いえがらほこもの大抵たいてい意次おきつぐ意知おきとも父子おやこ忌嫌いみきらうのがつねであったからだ。

 仮令たとえ彼等かれら意次おきつぐ意知おきともめることがあったとしても、そこには阿諛あゆや、あるいは厭味いやみひびきがあった。

 だが定邦さだくににはそれが微塵みじんもない。心底しんそこから意知おきともめていたのだ。

 斯様かようなことは滅多めったにない、いや、ありないと断言だんげん出来できた。

 それゆえ意知おきともめられたうれしさよりも、居心地いごこちわるさのほうつよかった。

 それでも意知おきとも一応いちおう、「おそたてまつりまする…」とやはり叩頭こうとうしておうじた。

 すると定邦さだくにはそんな意知おきとも胸中きょうちゅうなど「おかまいなし」とばかり、さら意知おきともめそやした。

「されば、大和守やまとのかみ殿どの芙蓉之間ふようのまにて老職ろうしょく出迎でむかえる大役たいやくを…、かり|奏者番《そうじゃばん」をおおかったとのこと…」

 たしかに定邦さだくにの言うとおりであった。

 定邦さだくにがまだ国許くにもとである白河しらかわにいた時分じぶん先月せんげつ、5月の2日、

老中ろうじゅうひるまわりにおいて芙蓉之間ふようのまめ、奏者番そうじゃばんとも老中ろうじゅう出迎でむかえるよう…」

 意知おきともはそうおおけられ、それから今月こんげつ、6月の4日まで平日へいじつはほぼ、毎日登城まいにちとじょうしては本来ほんらい殿中でんちゅうせきである雁間がんのまではなしに、奏者番そうじゃばんやその筆頭ひっとう寺社じしゃ奉行ぶぎょうあるいは留守居るすい大目付おおめつけ町奉行まちぶぎょう勘定かんじょう奉行ぶぎょうなどの殿中でんちゅうせきである芙蓉之間ふようのまめては老中ろうじゅうひるまわりにそなえた。

 老中ろうじゅうひる表向おもてむきかく部屋へや見廻みまわる、所謂いわゆる、「まわり」のコースじょうにはこの芙蓉之間ふようのまふくまれていた。

 ただし、昼前ひるまえになると、留守居るすい以下いか芙蓉之間ふようのまから中之間なかのまへと移動いどうし、そこで老中ろうじゅうの「まわり」にそなえることとなる。

 中之間なかのまも「まわり」のコースじょうにあり、留守居るすい以下いか本来ほんらい殿中でんちゅうせきである芙蓉之間ふようのまではなしに、この中之間なかのまにて「まわり」におとずれた老中ろうじゅう出迎でむかえることになる。

 それゆえ昼前ひるまえになると、芙蓉之間ふようのまには奏者番そうじゃばんだけとなり、意知おきとももそこにとどまり、奏者番そうじゃばんともに「まわり」におとずれた老中ろうじゅう出迎でむかえた。

 これが5月3日から6月4日までの一月ひとつきあいだ平日へいじつはほぼ毎日まいにち、それがつづいた。

 そのために、意知おきとも本来ほんらい雁間詰がんのまづめしゅう所謂いわゆる、「半役人はんやくにん」として平日へいじつほかつめしゅう、「半役人はんやくにん」との交代こうたい登城とじょうし、その殿中でんちゅうせきである雁間がんのまめればいところ、つまりは毎日登城まいにちとじょうする必要ひつようはないものの、この一月ひとつきかぎっては平日へいじつはほぼ毎日登城まいにちとじょうし、芙蓉之間ふようのま詰続つめつづけた。

 これを所謂いわゆるかり奏者番そうじゃばん仮奏者番かりそうじゃばんと言う。

「されば、大和守やまとのかみ殿どの御尊父ごそんぷ主殿頭様とのものかみさま当然とうぜんのこととして、ほか老職ろうしょく御歴々おれきれきあらためて、大和守やまとのかみ殿どの挨拶あいさつけられ、その男振おとこぶりたりにしては、おおいに感心かんしんしたと、もっぱらの評判ひょうばんでござるよ…、いや、城使しろづかいより…、そこな日下部武右衛門くさかべぶえもんや、あるいは安田やすだ七郎大夫しちろうだゆうより、そのむね聞及ききおよんでな…」

 定邦さだくに帝鑑間詰ていかんのまづめ大名だいみょう、それゆえ平日登城へいじつとじょうゆるされず、その場合ばあい平日登城へいじつとじょうゆるされている溜間詰たまりのまづめ諸侯しょこうや、あるいは雁間詰がんのまづめしゅうとの「格差かくさ」となる。

 そこでこの「格差かくさ」の埋合うめあわせというわけでもないが、平日登城へいじつとじょうゆるされていない大廊下おおろうかづめ大広間おおひろまづめ、それに定邦さだくによう帝鑑間詰ていかんのまづめ柳間詰やなぎのまづめ、そして菊間詰きくのまづめといった諸侯しょこうはその家臣かしんである江戸留守居えどるすい所謂いわゆる、「城使しろづかい」を御城えどじょうへと登城とじょうさせることがゆるされていた。

 江戸留守居えどるすい所謂いわゆる、「城使しろづかい」は主君しゅくん成代なりかわり、御城えどじょうへと登営とえいおよぶと、表向おもてむき蘇鉄之間そてつのまめては、そこで「情報収集じょうほうしゅうしゅう」につとめる。

 そこには意知おきともの「かり奏者番そうじゃばん」としての評判ひょうばんふくまれていたということだ。

 そして定邦さだくにの言うとおり、つまりは日下部くさかべ武右衛門ぶえもんや、あるいは安田やすだ七郎大夫しちろうだゆう主君しゅくん定邦さだくにため収集しゅうしゅうしてきたとおり、意知おきともの「かり奏者番そうじゃばん」としての評判ひょうばん素晴すばらしいものであった。

 だがそれでも意知おきとも一応いちおう謙遜けんそんしてみせた。

「されば御老中方ごろうじゅうがたへの出迎でむかえをめいぜられましたるは、この意知おきとも一人ひとりあらずして…」

 意知おきともひる芙蓉之間ふようのまへと「まわり」におとずれた老中ろうじゅう出迎でむかえるようにとおおけられるより、すなわち、「かり奏者番そうじゃばん」をおおけられるよりもまえ、4月の晦日みそかにはやはり老中ろうじゅう、それも首座しゅざである松平まつだいら右近将監うこんのしょうげん武元たけちかそく主計頭かずえのかみ武寛たけひろ同様どうようおおけられた。

 この「かり奏者番そうじゃばん」とは一種いっしゅの「御披露目おひろめ」であった。

 老中ろうじゅう嫡子ちゃくし、それも雁間詰がんのまづめゆるされた成人嫡子せいじんちゃくしなかで、

「これは…」

 とおもわれるもの一月程ひとつきほど大抵たいていは5月から6月、しくは6月から7月にかけて、芙蓉之間ふようのまづめめいずるのである。

 任命権者にんめいけんしゃ無論むろん老中ろうじゅうである。老中ろうじゅう全員ぜんいん談合だんごうにより、

ひるまわりにおとずれた老中ろうじゅう出迎でむかえるべし…」

 その名目めいもくにて、老中ろうじゅう嫡子ちゃくし芙蓉之間ふようのまづめが、つまりは「かり奏者番そうじゃばん」がめいじられるわけだが、その「こころ」は、

芙蓉之間ふようのま殿中でんちゅうせきとする諸役人しょやくにん御披露目おひろめをする…」

 そこにあった。

 芙蓉之間ふようのま殿中でんちゅうせきとする諸役人しょやくにんと言えば、奏者番そうじゃばんやその筆頭ひっとう寺社じしゃ奉行ぶぎょう頂点ちょうてんに、留守居るすい大目付おおめつけ町奉行まちぶぎょう勘定かんじょう奉行ぶぎょうといった、

錚々そうそうたる…」

 面子メンバーそろっており、そこへ「これは…」とおもわれる老中ろうじゅう成人嫡子せいじんちゃくしわばほうむことで、彼等かれら御披露目おひろめをする。

 と同時どうじに、

老中ろうじゅうつとめるちちおなじく、将来しょうらい幕政ばくせいになうだけの器量きりょうがあるか…」

 それを「品定しなさだめ」もしてもらう。

 もっとも、この「品定しなさだめ」にかんしてはおも当番とうばん奏者番そうじゃばんになうことになる。

 奏者番そうじゃばんあるいはその筆頭ひっとう寺社じしゃ奉行ぶぎょう全員ぜんいん毎日まいにち登城とじょうするわけではなく、当番とうばんもの一人ひとり登城とじょうしては殿中でんちゅうせきである芙蓉之間ふようのまめる。

 この当番とうばんだが、奏者番そうじゃばんわばヒラ奏者番そうじゃばん場合ばあいもあれば、その筆頭ひっとう寺社じしゃ奉行ぶぎょう場合ばあいもある。

 ただし、寺社じしゃ奉行ぶぎょう式日しきじつ立合たちあいには評定所ひょうじょうしょ出席しゅっせきせねばならず、また月番つきばん寺社じしゃ奉行ぶぎょうにはさらに、内寄合うちよりあいという名目めいもくにて月番つきばん寺社じしゃ奉行ぶぎょう役宅やくたくねた私邸してい、つまりは上屋敷かみやしきつどうこともあり、それゆえ寺社じしゃ奉行ぶぎょうなかでも月番つきばんものはそのつきかぎって当番とうばんそのものが免除めんじょされ、また式日しきじつ立合たちあいにおいても寺社じしゃ奉行ぶぎょうはやはり当番とうばんから免除めんじょされる。

 ちなみに当番とうばんには西之丸にしのまる当番とうばんもあり、やはり奏者番そうじゃばんか、その筆頭ひっとう寺社じしゃ奉行ぶぎょう西之丸にしのまるへと登城とじょうし、西之丸にしのまる芙蓉之間ふようのまめる。

 それゆえ平日へいじつには奏者番そうじゃばんあるいはその筆頭ひっとう寺社じしゃ奉行ぶぎょうが2人、御城えどじょうへと登城とじょうしては各々おのおの本丸ほんまる西之丸にしのまるへと登営とえいおよぶ。

 さて、「かり奏者番そうじゃばん」はこの当番とうばん、言うなれば本丸当番ほんまるとうばん奏者番そうじゃばんあるいはその筆頭ひっとう寺社じしゃ奉行ぶぎょうが「採点さいてん」をする。

 将来しょうらい奏者番そうじゃばんとしてつとまるかどうか、それが「採点さいてん」されるのだ。

 それゆえ、この「かり奏者番そうじゃばん」にえらばれると、奏者番そうじゃばん見習みならいとして、先任せんにん奏者番そうじゃばんや、あるいはその筆頭ひっとう寺社じしゃ奉行ぶぎょうから、

奏者番同様そうじゃばんどうよう…」

 仕込しこまれることになる。ようは「シゴキ」をけることになる。それは、

いまときめく…」

 意次おきつぐそく意知おきともとてわらない。

 それどころか老中ろうじゅう筆頭ひっとう首座しゅざ武元たけちかそく武寛たけひろとておなじであった。

 じつを言えば、今年ことしは、それも4月の晦日みそかよりは武寛たけひろがこの「かり奏者番そうじゃばん」をつとめるはずであった。

 だが直後ちょくご武寛たけひろやまいたおれ、そこで武寛たけひろの「ピンチヒッター」として意知おきとも召喚しょうかんされた次第しだいである。

 それは意知おきともすでに、「かり奏者番そうじゃばん」の経験者けいけんしゃでり、つ、奏者番そうじゃばんからの評判ひょうばんかったからだ。

 意知おきとも最初さいしょに「かり奏者番そうじゃばん」をおおかったのはいまから3年前ねんまえの明和7(1770)年5月11日であった。

 その当時とうじ意知おきともちち意次おきつぐ老中ろうじゅう格式かくしき側用人そばようにん、その官位かんい老中ろうじゅうおなじく従四位下じゅしいのげ侍従じじゅうであったが、しかしまだ正式せいしき老中ろうじゅうではなく、本来ほんらいならばそのそく意知おきともが「かり奏者番そうじゃばん」ににんじられるはずはなかった。

 だがそのころより、意知おきとものその、「男振おとこぶり」については、

つとに…」

 られており、その当時とうじよりすで老中ろうじゅう首座しゅざにある松平まつだいら武元たけちかの、

強力きょうりょくなる…」

 推挙すいきょにより、老中ろうじゅう格式かくしきとはもうせ、いま側用人そばようにんそくぎぬにもかかわらず、「かり奏者番そうじゃばん」ににんじられたのであった。

 こととき意知おきともの「採点さいてん」にたったのが、当時とうじいまヒラ奏者番そうじゃばんである小出こいで伊勢守いせのかみ英常ふさつね西尾にしお主水正もんどのかみ忠需ただみつあるいはまた、すでにその筆頭ひっとう寺社じしゃ奉行ぶぎょうにあり、いまいた牧野まきの越中守えっちゅうのかみ貞長さだなが土岐とき美濃守みののかみ定経さだつね、それからヒラ奏者番そうじゃばんとしてわった松平まつだいら丹波守たんばのかみ光和みつまさ大岡おおおか兵庫頭ひょうごのかみ忠喜ただよし、そしてヒラ奏者番そうじゃばんとして歿ぼっした遠藤えんどう備前守びぜんのかみ胤将たねのぶ松平まつだいら伊豆守いずのかみ信禮のぶいやといった面々めんめんであった。

 意知おきともはその全員ぜんいんからたか評判ひょうばんた。

 とりわけ西尾にしお主水もんどのかみ忠需ただみつ大岡おおおか兵庫頭ひょうごのかみ忠喜ただよしの2人は意知おきとものことをたか評価ひょうかした。

 もっとも、この2人の場合ばあい田沼家たぬまけ所縁ゆかりがあることから、その評価ひょうか額面通がくめんどおりには、

かならずしも…」

 受取うけとれないところがあった。

 すなわち、大岡忠喜おおおかただよし意次おきつぐ養女ようじょめとっており、西尾にしお忠需ただみついたってはそのそく山城守やましろのかみ忠移ただゆき意次おきつぐ三女さんじょ、つまりはじつむすめ千賀ちかめとっていたのだ。

 それも意知おきともが「かり奏者番そうじゃばん」ににんじられるよりわず一月前ひとつきまえのことにぎず、千賀ちか意知おきともにとってはじついもうとであるので、その千賀ちか西尾にしお忠需ただみつそく忠移ただゆきもとへとしたことから、意知おきとも忠移ただゆきとは義兄弟ぎきょうだいとなった。

 そのよう忠移ただゆきちちである西尾にしお忠需ただみつ意知おきともたか評価ひょうかするのは当然とうぜんであり、それゆえ、この西尾にしお忠需ただみつとそれに大岡おおおか忠喜ただよしの「評価ひょうか」だけならば、つまりはこの2人だけが意知おきともたか評価ひょうかしたとしても、それは公正フェア評価ひょうか採点さいてんとは見做みなされないであろう。

 だが実際じっさいにはこの2人のほかにも、田沼家たぬまけとは所縁ゆかりのない当番とうばん奏者番そうじゃばんたちも意知おきともたか評価ひょうか採点さいてんしたことから、老中ろうじゅう意知おきともを、

充分じゅうぶん奏者番そうじゃばんつとまるだけの人材じんざい…」

 もっと言えば幕閣ばっかく相応ふさわしい人材じんざいとしてみとめた。

 ことに、奏者番そうじゃばん筆頭ひっとう寺社じしゃ奉行ぶぎょう土岐とき定経さだつね意知おきとものことをたか評価ひょうかしたもので、

明日あすにでも奏者番そうじゃばん取立とりたててやってしい…」

 それほどまでに意知おきとも評価ひょうかしたものである。

 結果けっか土岐とき定経さだつねのその評価ひょうか採点さいてんまり、その翌年よくねん、つまりは2年前ねんまえの明和8(1771)年6月にも意知おきともふたたび、「かり奏者番そうじゃばん」ににんじられた。

 ともあれ、いまやまいから快復かいふくした松平まつだいら武寛たけひろが「かり奏者番そうじゃばん」をつとめていた。

「されば…、主計殿かずえどのはこの意知おきともよりもはるかにすぐれし器量きりょう持主もちぬしなれば…」

 意知おきともはそう「主計殿かずえどの」こと、武元たけちか嫡子ちゃくしである主計頭かずえのかみ武寛たけひろ持上もちあげてみせた。

 定邦さだくにもそれはぐにかったので、苦笑くしょうさそわれつつ、

左様さよう謙遜けんそんするにはおよばず…、まぁ、相手あいて老中ろうじゅう首座しゅざそくともなれば、大和守やまとのかみ殿どの謙遜けんそんせしも無理むりもないがの…」

 そうおうじて、意知おきともにそのあたまかせたものである。

「いや…、主計頭かずえのかみ殿どの大和守やまとのかみ殿どの貴殿きでんよりはおくれをるやもれぬが、なれどけっして愚鈍ぐどんあらずして、やはり大和守やまとのかみ同様どうよう充分じゅうぶん奏者番そうじゃばんつとまろうとの、これまたもっぱらの評判ひょうばんにて…」

 定邦さだくにはそう付加つけくわえると、

すくなくとも、秋元あきもと松平まつだいら…、輝高てるたか愚息ぐそくよりは数千倍すうせんばいいや数万倍すうまんばい、マシともうすものにて…」

 まるでとどめでもすかのごとく、そうだんじた。

 定邦さだくにくちにした、「秋元あきもと松平まつだいら…、輝高てるたか愚息ぐそく」とは、秋元あきもと但馬守たじまのかみ涼朝すみともそく攝津守せっつのかみ永朝つねともおよび、松平まつだいら右京太夫うきょうだゆう輝高てるたかそく下野守しもつけのかみ輝行てるちかのことである。

 秋元涼朝あきもとすみともは明和2(1765)年12月から明和4(1767)年6月までのあいだ西之丸にしのまる老中ろうじゅうしょくにあり、そのかんそく、それも養嗣子ようしし攝津守せっつのかみ永朝つねともがやはり「かり奏者番そうじゃばん」をつとめたのだが、当番とうばん奏者番そうじゃばんによるその「採点さいてん」はあまかんばしいものではなかった。

 それ以前いぜんに、秋元永朝あきもとつねともが「かり奏者番そうじゃばん」ににんじられたこと自体じたい疑問視ぎもんしするきがおおく、「採点さいてん」をにな奏者番そうじゃばんあいだではとくにそうであった。

 そもそも「かり奏者番そうじゃばん」は老中ろうじゅうそくならば、

だれでも…」

 というわけではなく、そのそくなかから、「これは…」とおもわれるもの老中ろうじゅう合議ごうぎによりえらばれるのだ。

 意知おきとも場合ばあい老中ろうじゅう首座しゅざ松平まつだいら武元たけちか強力きょうりょく推挙すいきょにより「かり奏者番そうじゃばん」にえらばれたのにたいして、秋元永朝あきもとつねともはと言うと、西之丸にしのまる老中ろうじゅうつとめる養父ようふ秋元涼朝あきもとすけとも松平まつだいら武元たけちかとそれに当時とうじ御側御用取次おそばごようとりつぎであった意次おきつぐ泣付なきついたことにくわえて、永朝つねとも岳父がくふにして溜間詰たまりのまづめ井伊いい直幸なおひでにもうごいてもらった「賜物たまもの」であった。

 秋元永朝あきもとつねとも井伊いい直幸なおひで息女そくじょ八重やえめとっており、そこで永朝つねともおのれを「かり奏者番そうじゃばん」ににんじてもらうべく、養父ようふにして西之丸にしのまる老中ろうじゅう涼朝すみとも武元たけもと意次おきつぐ泣付なきつかせるかたわら、自身じしん岳父がくふ井伊いい直幸なおひで泣付なきつくことで、どうにか「かり奏者番そうじゃばん」ににんじられることに成功せいこうしたのだ。

 だが、秋元永朝あきもとつねともはその「機会チャンス」をかすことは出来できず、養父ようふ涼朝すみともしょくし、致仕ちし隠居いんきょして家督かとくいで5年がった今以いまもって、奏者番そうじゃばんにんじられてはいなかった。

 一方いっぽう松平まつだいら輝高てるたかそくである輝行てるちかはその秋元永朝あきもとつねともよりもさらに、

をかけた…」

 おろものであった。

 やはり本来ほんらいならば到底とうてい、「かり奏者番そうじゃばん」ににんじられる器量きりょうではないのだが、それでもちちにして老中ろうじゅう本丸ほんまる老中ろうじゅう輝高てるたか首座しゅざ武元たけちか泣付なきついたことから、武元たけちかじょうける格好かっこうで、老中ろうじゅう合議ごうぎ主導リードし、輝行てるちかを「かり奏者番そうじゃばん」ににんじてやったのだ。それが宝暦13(1763)年の5月の晦日みそかのことであった。

 だが結果けっかはやはりかんばしいものではなかった。いや、そのよう生易なまやさしいものではない、惨憺さんたんたるものであった。

 たとえば「採点さいてん」をになった当番とうばん奏者番そうじゃばん一人ひとり、それも筆頭ひっとう寺社じしゃ奉行ぶぎょうであった松平まつだいら和泉守いずみのかみ乗佑のりすけなど、

二度にどとあの莫迦バカかり奏者番そうじゃばんにんじてくれるなっ」

 周囲しゅういにそうてたほどであり、それはほかの「採点担当さいてんたんとう」の当番とうばん奏者番そうじゃばん総意そういでもあった。

 それがたたってか、去年きょねんの安永元(1772)年までの9年間ねんかん輝行てるちかが「かり奏者番そうじゃばん」ににんじられることはなかった。

 じつを言えば明和7(1770)年、明和8(1771)年につづいて、去年きょねんの安永元(1772)年も本来ほんらいならば意知おきともが「かり奏者番そうじゃばん」ににんじられるはずであった。

 だがそこへ松平まつだいら輝高てるたかが「った」をかけたのであった。

意次おきつぐせがれ意知おきともすでに、2年つづけてかり奏者番そうじゃばんえらばれている。このうえさらつづけて今年ことしかり奏者番そうじゃばんえらばれるなど不公平ふこうへいだっ」

 そうさわてたのだ。それはまるで、

聞分ききわけのない…」

 駄々だだそのものであり、武元たけちかなど一喝いっかつ大喝だいかつおよぼうとしたところ、そうとさっした意次おきつぐがそれをせいする格好かっこうで、

「されば貴殿きでんそく輝行殿てるちかどのかり奏者番そうじゃばんをおゆずもうす…」

 そう取成とりなして事無ことなきをた。

 だが結果けっかはやはり惨憺さんたんたるものであり、しかも一週間いっしゅうかんたないという有様ありさまであった。

 輝行てるちか前回ぜんかい、宝暦13(1763)年のおりには周囲しゅういたすけもりながら、なんとか一月ひとつきじゃくあいだ、「かり奏者番そうじゃばんつとめることが出来できた。

 これは輝行てるちかがそのときはまだ、16歳という少年しょうねんであったこともあり、周囲しゅうい輝行てるちかたすけた。

 が、それから9年もった安永元(1772)年、輝行てるちかすでに25、たすけるものだれもおらず、結果けっか、「かり奏者番そうじゃばん」として一週間いっしゅうかんいや、6日間しかもたなかった。

 当番とうばん奏者番そうじゃばんなかでも、井伊いい兵部少輔ひょうぶのしょうゆう直朗なおあきらなど、

「このおれ当番とうばんときはあの莫迦バカ芙蓉之間ふようのまめさせないでくれ。目障めざわりだ…」

 そもそも「採点さいてん」すら拒否きょひする有様ありさまであり、これでは一週間いっしゅうかんももたないのも当然とうぜんであった。

「いや、これならはじめから意知おきともかり奏者番そうじゃばんであればかったのだ…」

 そんな評判ひょうばんつことしきりであり、いま意知おきともまえにいる定邦さだくにもその評判ひょうばんなら城使しろづかいこと江戸留守居えどるすい日下部くさかべ武右衛門ぶえもんならびに安田やすだ七郎大夫しちろうだゆう両名りょうめいより御城えどじょうにてつたわる評判ひょうばんとしてつたいており、把握はあくしていた。

「いや、大和守やまとのかみ殿どの、まだ部屋へやずみではあられるが、奏者番そうじゃばんになられるちかいとのもっぱらの評判ひょうばんでござるよ…、いや、それどころか筆頭ひっとう寺社じしゃ奉行ぶぎょうあるいは若年寄わかどしよりになられるも…」

 定邦さだくに意知おきともさらにそう持上もちあげたので、

愈々いよいよ…」

 意知おきとも居心地いごこちわるくさせた。

 これが厭味いやみや、あるいはねたみの裏返うらがえであれば、意知おきとも冷笑れいしょうして受流うけながすことが出来できた。

 だが定邦さだくに心底しんそこから意知おきとものことを評価ひょうかしており、意知おきとももそれはかっていたので、それゆえ居心地いごこちわるかったのだ。

 他者たしゃからの誹謗ひぼう中傷ちゅうしょう冷罵れいば受流うけながすことにはけていた意知おきともめられた場合ばあい対応たいおうにはけていなかったのだ。

 これでそだちの定邦さだくにであれば素直すなおよろこびもしようが、生憎あいにく意知おきともはそこまでそだちがくなかった。
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