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田安館の物頭である金森五郎右衛門可言は郡上一揆の再吟味を主導、結果、本家筋である金森頼錦を改易へと追い込んだ田沼意次を逆恨みしていた。
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半十郎より「六役」へと意知が若年寄へと進むらしいことが打ち明けられるや、真っ先に反応を示したのは物頭の金森五郎右衛門可言であり、金森五郎右衛門は、
「おのれ…、田沼め…」
口惜しそうにそう呟いた。
金森五郎右衛門がそのような怨言に近い、いや、怨言そのものと言って良いであろう、そのような呟きを、それも真っ先に洩らしたのには訳があった。
それと言うのも金森五郎右衛門には田沼意次に恨みがあったからだ。
金森五郎右衛門の意次に対する恨み…、それはズバリ、
「郡上藩一揆…」
その一件である。
宝暦8(1758)年より評定所において開始された郡上藩一揆の再吟味…、再審の結果、金森五郎右衛門にとっては本家筋に当たる郡上藩主の金森兵部少輔頼錦が改易の憂き目に遭ったのだが、この再吟味を主導したのが他ならぬ田沼意次であった。
意次が評定所における再吟味…、再審に加わったのは宝暦8(1758)年の9月3日のことであり、その当時の意次はまだ、大身とは言え、知行五千石の旗本に過ぎない御側御用取次であり、しかし、その直前に五千石が新たに加増され、一万石の大名として再吟味に加わったものであり、且つ、その再吟味を主導し、結果、金森頼錦の改易に繋がったわけで、そのことを金森五郎右衛門は恨んでいたのだ。
いや、評定所における再吟味そのものは至って公平であり、それは時の将軍であった家重も、更には家重の側用人であった大岡出雲守忠光も認めるところであり、ゆえに金森五郎右衛門の意次に対する恨みは正しく、
「逆恨み…」
それに他ならなかった。
だが、家重の側用人であった忠光が意次のその再吟味における采配ぶりを目の当たりにして、
「発明の者…」
意次を思わずそう賞した程で、そのことは当然、時の将軍であった家重の耳にも入り、意次が栄達の階段を駆け上る一つのきっかけともなったのがこの郡上藩一揆の再吟味であり、しかしそれとは正反対に、金森頼錦にとっては改易の憂き目に遭うという、正に、
「転落…」
そのきっかけとなったわけだから、それだけに余計に頼錦は無論のこと、その遠縁に当たる金森五郎右衛門にしても逆恨みは承知の上で意次のことを恨んだものであり、それは20年以上経た今でも変わるところがなく、今でもそれこそ、
「事ある毎に…」
周囲に対して、つまりはこの田安館において意次に対する怨言をぶちまけていたので、それゆえ半十郎らも金森五郎右衛門が真っ先にそのような反応を示したのも、
「むべなるかな…」
そう納得したものである。
さて、金森五郎右衛門は更に、
「大名ですらない愚息を…、それもどこぞの馬の骨とも分からぬ、盗賊も同然の下賤なる意次めが血を引きし愚息をこともあろうに若年寄に据えようとは…」
そう怨言、いや、暴言を続けたかと思うと、
「押田殿もそう思われるであろう?」
押田殿こと、用人の押田吉次郎勝久に同意を求めるかのように水を向けた。
金森五郎右衛門が用人の押田吉次郎に水を向けたのは他でもない、押田吉次郎が清和源氏の流れを汲む名族である押田一族の出であるからだ。
それゆえその押田吉次郎にしても、
「どこぞの馬の骨とも分からぬ、盗賊も同然の下賤なる意次めが血を引きし…」
その意知が若年寄へと進むことは決して面白くないに違いない…、五郎右衛門はそのような打算があって、押田吉次郎に水を向けたのであった。
その点、五郎右衛門の狙いは確かに悪くはなかった。確かに「名族」である、そしてその意識もある押田吉次郎はと言うと、意知が若年寄に進むらしいと聞かされて、決して面白くはなかった。
だが、押田吉次郎は決して、
「名族意識…」
それのみに囚われているような頑迷な男でもなく、その点、五郎右衛門の狙いは外れたと言って良いであろう。
即ち、押田吉次郎は「名族意識」と同時に、それとは正反対と言っても良いであろう、
「打算…」
それも持ち合わせていたからだ。
「おのれ…、田沼め…」
口惜しそうにそう呟いた。
金森五郎右衛門がそのような怨言に近い、いや、怨言そのものと言って良いであろう、そのような呟きを、それも真っ先に洩らしたのには訳があった。
それと言うのも金森五郎右衛門には田沼意次に恨みがあったからだ。
金森五郎右衛門の意次に対する恨み…、それはズバリ、
「郡上藩一揆…」
その一件である。
宝暦8(1758)年より評定所において開始された郡上藩一揆の再吟味…、再審の結果、金森五郎右衛門にとっては本家筋に当たる郡上藩主の金森兵部少輔頼錦が改易の憂き目に遭ったのだが、この再吟味を主導したのが他ならぬ田沼意次であった。
意次が評定所における再吟味…、再審に加わったのは宝暦8(1758)年の9月3日のことであり、その当時の意次はまだ、大身とは言え、知行五千石の旗本に過ぎない御側御用取次であり、しかし、その直前に五千石が新たに加増され、一万石の大名として再吟味に加わったものであり、且つ、その再吟味を主導し、結果、金森頼錦の改易に繋がったわけで、そのことを金森五郎右衛門は恨んでいたのだ。
いや、評定所における再吟味そのものは至って公平であり、それは時の将軍であった家重も、更には家重の側用人であった大岡出雲守忠光も認めるところであり、ゆえに金森五郎右衛門の意次に対する恨みは正しく、
「逆恨み…」
それに他ならなかった。
だが、家重の側用人であった忠光が意次のその再吟味における采配ぶりを目の当たりにして、
「発明の者…」
意次を思わずそう賞した程で、そのことは当然、時の将軍であった家重の耳にも入り、意次が栄達の階段を駆け上る一つのきっかけともなったのがこの郡上藩一揆の再吟味であり、しかしそれとは正反対に、金森頼錦にとっては改易の憂き目に遭うという、正に、
「転落…」
そのきっかけとなったわけだから、それだけに余計に頼錦は無論のこと、その遠縁に当たる金森五郎右衛門にしても逆恨みは承知の上で意次のことを恨んだものであり、それは20年以上経た今でも変わるところがなく、今でもそれこそ、
「事ある毎に…」
周囲に対して、つまりはこの田安館において意次に対する怨言をぶちまけていたので、それゆえ半十郎らも金森五郎右衛門が真っ先にそのような反応を示したのも、
「むべなるかな…」
そう納得したものである。
さて、金森五郎右衛門は更に、
「大名ですらない愚息を…、それもどこぞの馬の骨とも分からぬ、盗賊も同然の下賤なる意次めが血を引きし愚息をこともあろうに若年寄に据えようとは…」
そう怨言、いや、暴言を続けたかと思うと、
「押田殿もそう思われるであろう?」
押田殿こと、用人の押田吉次郎勝久に同意を求めるかのように水を向けた。
金森五郎右衛門が用人の押田吉次郎に水を向けたのは他でもない、押田吉次郎が清和源氏の流れを汲む名族である押田一族の出であるからだ。
それゆえその押田吉次郎にしても、
「どこぞの馬の骨とも分からぬ、盗賊も同然の下賤なる意次めが血を引きし…」
その意知が若年寄へと進むことは決して面白くないに違いない…、五郎右衛門はそのような打算があって、押田吉次郎に水を向けたのであった。
その点、五郎右衛門の狙いは確かに悪くはなかった。確かに「名族」である、そしてその意識もある押田吉次郎はと言うと、意知が若年寄に進むらしいと聞かされて、決して面白くはなかった。
だが、押田吉次郎は決して、
「名族意識…」
それのみに囚われているような頑迷な男でもなく、その点、五郎右衛門の狙いは外れたと言って良いであろう。
即ち、押田吉次郎は「名族意識」と同時に、それとは正反対と言っても良いであろう、
「打算…」
それも持ち合わせていたからだ。
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