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生き様で主をあかしする

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 私たちが教会員になった年が終わり、新しい年が始まった。

 そして、一年の始まりは教会から。日本の教会全部ではないが、一月一日に元日礼拝を挙行する教会は多い。今でこそコンビニやスーパーなど営業していたりするが、昔はみな休みだったし、初詣の意味合いもある。年の始めに神様に祈りを捧げるのだから、行く場所は違えど、歴とした初詣だろう。
 私は、家を継いでいる弟の正貴にも、
「朝初詣に行って、昼から行くわ」
と言っておいた。

 実は私は、私たち夫婦がクリスマスに受洗したことを私の親兄弟には話していなかった。ウチの両親は不惑もすぎた娘の決断に水を差すような親ではないと思うが、それでも、一応家の宗教と呼ばれるものはあったりするから、あまり良い顔はしないだろうと思ったからだ。

 それでも、食前感謝の祈りとか言葉の端々に出るみことばとか、感謝という台詞で、何かが違うと親も気づいたらしい。
「なんか変な宗教にはまっとるんやねぇやろね」
と、心配気に母に言われて、ちゃんとした教会で受洗したと話した。
「まぁ、篤志さんも一緒なんやし、仏壇は正貴が継ぐから、お母さんは何も言わんけどな」
と言いつつ、母は複雑な表情だった。
 それに対して私は、
「何も変な宗教じゃないし、本当に長年の重荷が取り去られた……」
と、救いのあかしを力説しようとしたが、篤志にそれをやんわりと制された。不満げな私に、篤志は帰りの車の中で、
「いきなりまくし立ててもたぶん却って受け入れてもらえなくて、心配されるだけだ。
それより、これからの俺たちの生きざまを見てもらおう」
と言った。確かに、先輩はその生き様で大胆にあかしして、そのおかげで私達は救われたんだけれど、ふつう先に逝くのは親だ。手を拱いている内に伝わらないまま終わってしまうなんてことにもなりかねない。すると篤志は、
「大丈夫、祈り続けていれば、きっと話す機会はいくらでも神様がくださるさ」
と言って、一旦車を路肩に止めて、私の肉親の救いの導きを祈ってから車を発進させた。

 
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