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気になる人々のその後のはなし。
蝶々姫は夢を見る。
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〈ミカエレ×瑠璃〉
ミカエレ・ジーンスワーク辺境伯爵継嗣は、その強い眼差しに魂を射抜かれた。瞳孔と白眼の境いがはっきりした黒い瞳の持ち主は、強い意志をもって女辺境伯爵たる叔母の前に立っていた。
少女は封印の要たる惑わしの森に、天から降ってきたのだと言ったのは、美しい魔女だった。
「彼女が許してくれるなら、彼女を妻に迎えたい」
真っ直ぐな黒い瞳に恋に落ちた。ミカエレは言葉も通じない少女の足元に跪いて、愛を請うたのだった。
それから一年と半年。その間、瑠璃と一緒に落ちてきた弟の玻璃が王太子に輿入れすることが決まったり、ジーンスワークが敵国に襲撃されたりと、色々な出来事があった。
中でも瑠璃が属国シェランディアの男に求婚されたり、特異体質が発覚して誘拐の危険度が上がったことは、ミカエレにとっても由々しき問題だった。惑わしの森の封印石に襲撃者が迫った時など、彼女の眼前で戦闘が行われたと言う。心配など、いくらしてもしたりない。
「ルリ、わたしの蝶々姫。本当に王都に残るのかい?」
ミカエレは瑠璃の弟の玻璃と王太子の婚儀のために王都を訪れていたが、領地に帰る日が迫っている。元々瑠璃は領主の随行員として王都にやって来て、ジーンスワークの新しい産業を王都で広める役割を担っている。領主が参勤の義務を終える一年半後まで、王都にあるのが望ましい。
「お仕事ですもの」
なんでもないように言われて、ミカエレはちょっと黄昏れた。
「ではわたしも、帰りたくない」
「まぁ、ミケさま。そんなことでは立派なご領主さまになれませんよ」
瑠璃は年上の大らかさで微笑えまれて、ミカエレは胸の奥が重くなった。
初めて会った日のことを思う。
落ちてきたばかりで言葉もおぼつかない少女の目の前で、領主である叔母に瑠璃との婚姻を請うた。叔母は面白げに笑って「まずは、射止めよ」と言った。既にシュトレーゼン伯爵家に養女に入っているので、身分に問題はないということだった。
自分が婚姻可能年齢に達するまで一年ある。彼女が年頃になるまでも、あと二~三年あるだろう。幼い彼女を驚かさないよう、年上の余裕を持って接しなければ。そう思っていたのに。
「ハナヤギルリ、十九歳です」
シュザネット公用語を練習中の彼女の口から、信じられない言葉が飛び出した。
「発音は完璧です。でも数の数え方が間違っていませんか?」
語学の教師として駆り出された、家令のロベルトが丁寧に指摘した。瑠璃はしばらく考えてから、指を折りつつ数を数え(完璧な発音だった)、「間違っていません」と主張した。
「わたしは十九歳です」
「ぼくは十五歳です。もうすぐ十六歳になります」
隣に座る弟が、辿々しく言った。
弟まで見た目の年齢よりも年上だという。ロベルトは信じられないと言うように空を仰いだ。
ミカエレは焦った。瑠璃の年齢はそろそろ嫁き遅れと言われる年齢で、彼女が焦って、他の大人の男の庇護の申し入れを受けてしまうかもしれないからだ。未だ婚姻可能年齢に達していないミカエレは、誰かにルーリィを奪われるかも知れなかった。
幸いなことに、瑠璃は誰にもなびかなかった。
瑠璃は半年ほどで言葉を覚え、領主に話し相手としてニホン国の習慣や文化を伝えた。ミカエレは叔母の近くに侍り、その興味深い話しを沢山聞いた。
シュザネットにはない多くの知識は、ジーンスワークの未来に必要だった。四年後に叔母から家督を譲られることになっているミカエレは、隣に立つ人は瑠璃しか居ないと考えた。
色々御託は並べたが、結局は一目惚れである。ルーリィの黒い瞳に射抜かれて恋に落ちたミカエレは、継嗣である自分の周囲を納得させるために、どうでもいい理由を並べ立てた。
やがて周囲はミカエレの執着と愛の深さを知り、瑠璃のつれなさに苦笑し始めるのである。
「はーちゃんにはね、まだ逃げ場が必要なのよ」
玻璃は異世界の知識と己が体質で、国の大事を救った。公にされていないが、謂わば救国の勇者である。婚姻に際して奇跡のように、王族からは反対の声が上がらなかった。
それでも、口さがないものはいるのだ。
今は祭りにも似た祝賀の高揚の名残の中にある。それが去ったとき、市井から男子の身で嫁いだことが不利になることがあるだろう。
「そうですね、あと、一~二年はそばにいてあげたいの」
だからご領主さまと一緒に一年半後に帰領する。瑠璃は言った。
そう言われて駄々を捏ねるのは、大人気ない。ミカエレにとっても玻璃は弟分だし、瑠璃にとっても玻璃は唯一の血縁だ。寂しい気持ちは瑠璃にもある。意地っ張りな彼女は認めないだろうが。
「⋯⋯わかったよ。そのかわり、陛下への帰領の挨拶のときに、婚約を伝えていくよ」
「え?」
ミカエレは瑠璃の手を取った。手のひらに唇を落とし、ついでにちろりと舐めた。
「ミミミ、ミケさま⁈」
焦った様子が珍しい。
ミカエレは嬉しくなった。以前の瑠璃なら、手のひらに口付けなど許してくれなかっただろう。
彼女が変わったのは、ジーンスワークで惑わしの森の魔女に呼び出されてからだ。抱擁も軽いものなら受け入れてもらえるようになったし、こうして手のひらの口付けも受けてくれる。
「ルリはこんなに魅力的なんだ。証もなく離れているなんて、心配で仕方がない。婚姻は一年半後、それまでは婚約。これ以上は譲れない」
嫌なら、今すぐ既成事実を作って婚姻する。
言外に滲ませて、うっとりと微笑むと瑠璃の肩がふるりと震えた。
「⋯⋯あのね、今、葛藤中なのよ」
困惑した声音はとても珍しい。
「郷に入っては郷に従えとは言うけれど、わたしの根底に根付いた倫理観とやらが、引き止めるの。はーちゃんくらい、性別も身分も飛び越えちゃうと、倫理なんて些細な問題なのかもしれないけど」
難しいことをブツブツ言っている。自分に入り込んでいるのでそぅっと抱擁してみたが、逃げる様子はない。
玻璃が言うには、瑠璃は身内以外の男を信用していないのだと言う。原因は数多の付き纏い被害に遭ったためだ。ニホンは魔法のない国で、武器の所持も法で規制されているとか。それで秩序が保たれる平和な国であるのだが、犯罪者がいないわけではない。
罪の意識のない犯罪者は厄介だ。好きだから知りたい、そばにいたい、それが行きすぎて被害者が望まぬ行為に至ろうとする輩も多い。その被害者が瑠璃だと言う。
今でさえこんなに小柄な瑠璃が、年端もいかないころから晒されていた危険。
本人は苛烈で鉄火な性格だから、大したことはないというが、辛かったからこそ、自衛の手段を模索したのだろう。ちょっと抜けた弟を守らねばならない重圧もあったろう。
自分は強いと自己暗示をかける、健気な姿に胸が打たれる。ミカエレには瑠璃の姿が、臆病な針鼠に見える。
その瑠璃が、大人しく自分の腕に納まっている。
「ハリーはレオン殿下が幸せにしてくれる。ルリのことはわたしが幸せにしたい。⋯⋯駄目か?」
「駄目とか、駄目じゃないとかでなくて」
玻璃とするように抱き合いながら視線を合わせてくる。ミカエレは玻璃よりもずっと背が高いので、上向きに見上げている。黒い瞳がミカエレを射る。
「ミケさまの年齢って、ニホンではまだ未成年で、学生で、親の庇護下にあるのよね。お付き合いならともかく、結婚となると未熟な青年を玩ぶ悪女みたいに言われるか、ふしだらな女みたいに見られる場合があるのよ」
瑠璃の見た目なら、むしろミカエレの少女愛疑惑が立ちそうなのだが、彼女に自分が童顔な認識はあまりない。
「では、わたしが嫌とか、他に思う男がいるとかでなく?」
「⋯⋯⋯⋯ミケさまのことは、多分、⋯⋯」
「聞こえない」
「⋯⋯すき」
なるほど、苛烈で鉄火だ。白い面貌を薄紅に染めても、聞こえぬほど小さな声で囁いても、瑠璃は視線を逸らさない。
ミカエレは歓喜のあまり強く抱きしめそうになったが、理性を総動員して我慢する。せっかく応えてくれたのに、逃げられては堪らない。聞きたいことを、すべて聞いてからだ。
「ニホンでの成人年齢は?」
「二十歳よ」
「ではちょうどいい。今婚約して、ルリがジーンスワークに帰ってくる頃には二十歳になる」
なんの問題もない。
「⋯⋯お願いがあるの。魔女さまは大丈夫って言ってくださったけど、わたしが子どもを授からなかったら⋯⋯⋯⋯」
まだ、問題はあったようだ。
「妾はいらない。ルリ以外はいらない」
「でも、次代は必要だわ」
色恋に惑わされることなく、領のことを考える。その理性的なところも領主夫人にはふさわしい。瑠璃以外に、あの面倒くさい北の領民が馭せるとも思わない。怯えて震えて、岩城から一歩も出ない娘では困る。
ミカエレは瑠璃以外に子どもを産ませるつもりもない。それに、次代の心配なんてしていない。
「叔母上はまだ三十二歳だ。わたしが育つまで後継者問題が面倒で婚姻していないだけで、秘密の恋人がいらっしゃる。爵位をわたしに寄越したら、すぐにも婚姻するのではないか?」
「⋯⋯⋯⋯ええっ⁈」
「三十を過ぎての婚姻はあまりないが⋯⋯」
「そこじゃなくて。ニホンではよくあることですし、四十過ぎての初産も増えています。そうじゃなくて、ご領主さまに秘密の恋人⁈」
「四十歳で初産⁈」
育って来た環境が違いすぎて、驚く点に差異があるふたりであった。
「でもそっか⋯⋯。わたしが産めなくてもご領主さまがお産みくださるかもしれないんだわ」
茫然と呟いた瑠璃の瞳から、ほろほろと涙がこぼれた。
「産めなくても⋯⋯いいのね」
ミカエレは気付いた。一年半もの間、瑠璃が自分の求婚をなかったことにした一番の理由を。
「知ってる、ルリ? 世の中にはね、子種のない男もいるんだ。女性ばかりが子ができない原因じゃないよ」
医療が発達した日本なら、その考えは受け入れられつつある。この国で、この世界で、女だけに責任を押し付けないと言うミカエレに、瑠璃は涙が止まらなかった。
惑わしの森の魔女の館で散々泣いたつもりだったのに、やっぱり瑠璃は不安だった。百五十三センチの身長は、この国では子どもと同じだ。ミカエレの長身に釣り合う花嫁が、いつか彼の子どもを産むのを、そばで見たくないと思っていた。
「ルリ、可愛いルリ。わたしの蝶々姫。ひらひらと飛んで行かないで」
後から後から流れる涙を唇でそっと拭いながら、ミカエレは囁いた。小さな体が腕の中に納まって震えている。感動で胸がいっぱいになった。
「わたしの花嫁になって。子どもはいたら嬉しいけど、種無しだったらごめんね。愛してるよ、ルリ」
瑠璃がそっとミカエレの腕を抜け出した。名残惜しく手を伸ばしたが、彼女は一歩下がってそれを躱した。
泣き濡れてなお美しい面に、艶やかな微笑みを浮かべて、瑠璃はミカエレに真っ直ぐ向いた。
「不束者ですが、よろしくお願いいたします」
両手を腹の上で重ね、腰を四十五度に折る。ゆったりと美しい最敬礼は、日本の最高位の立居礼だ。
顔を上げた瑠璃はぽかんとするミカエレに、ふふっと笑って見せた。悪戯を成功させた妖精みたいな表情だった。
「ニホンで婚姻の申し込みに是と答える、定例の文言です」
喜びは、じわりと。
「本当に?」
「嘘にしますか?」
「しない!」
間髪入れずに拒否をして、ミカエレは、もう一度瑠璃を抱きしめた。そして口付けを落とそうとして⋯⋯。
「ご婚約、おめでとう存じます。王太子妃さまにご報告でございますわね。さぁさぁルーリィさま、登城のお支度をなさいましょうね」
⋯⋯付添人がいた。
家宰のロックウェルが仕込んだ、ジーンスワーク王都邸の優秀な侍女である付添人が、ズカズカとふたりのあいだに割り込んだ。
「坊っちゃまもご一緒なさいますなら、お着替えしていらしてくださいませ」
付添人の行動は正しい。未婚の娘を守るのが彼女の役目だ。未だふたりの間の口約束に過ぎない、飯事並の婚約である。正式に発表されるまでは、瑠璃を大切に守らなければならない。
優秀な人材は領の宝だ。職務を全うする侍女を追い出すわけにもいかず、ミカエレは憮然とした表情をした。
「素敵ね、ミケさま。あなたの領民はこんなにもお仕事熱心よ。いつか、わたしたちに娘が産まれたら、不届き者から守ってくれるわ」
ミカエレは柔らかく笑って未来を語る瑠璃を見て、完全に受け入れてもらえたことを感じた。付添人が誇らしげに頷いている。
蝶々姫が見る夢は、現となる。
ミカエレ・ジーンスワーク辺境伯爵継嗣は、その強い眼差しに魂を射抜かれた。瞳孔と白眼の境いがはっきりした黒い瞳の持ち主は、強い意志をもって女辺境伯爵たる叔母の前に立っていた。
少女は封印の要たる惑わしの森に、天から降ってきたのだと言ったのは、美しい魔女だった。
「彼女が許してくれるなら、彼女を妻に迎えたい」
真っ直ぐな黒い瞳に恋に落ちた。ミカエレは言葉も通じない少女の足元に跪いて、愛を請うたのだった。
それから一年と半年。その間、瑠璃と一緒に落ちてきた弟の玻璃が王太子に輿入れすることが決まったり、ジーンスワークが敵国に襲撃されたりと、色々な出来事があった。
中でも瑠璃が属国シェランディアの男に求婚されたり、特異体質が発覚して誘拐の危険度が上がったことは、ミカエレにとっても由々しき問題だった。惑わしの森の封印石に襲撃者が迫った時など、彼女の眼前で戦闘が行われたと言う。心配など、いくらしてもしたりない。
「ルリ、わたしの蝶々姫。本当に王都に残るのかい?」
ミカエレは瑠璃の弟の玻璃と王太子の婚儀のために王都を訪れていたが、領地に帰る日が迫っている。元々瑠璃は領主の随行員として王都にやって来て、ジーンスワークの新しい産業を王都で広める役割を担っている。領主が参勤の義務を終える一年半後まで、王都にあるのが望ましい。
「お仕事ですもの」
なんでもないように言われて、ミカエレはちょっと黄昏れた。
「ではわたしも、帰りたくない」
「まぁ、ミケさま。そんなことでは立派なご領主さまになれませんよ」
瑠璃は年上の大らかさで微笑えまれて、ミカエレは胸の奥が重くなった。
初めて会った日のことを思う。
落ちてきたばかりで言葉もおぼつかない少女の目の前で、領主である叔母に瑠璃との婚姻を請うた。叔母は面白げに笑って「まずは、射止めよ」と言った。既にシュトレーゼン伯爵家に養女に入っているので、身分に問題はないということだった。
自分が婚姻可能年齢に達するまで一年ある。彼女が年頃になるまでも、あと二~三年あるだろう。幼い彼女を驚かさないよう、年上の余裕を持って接しなければ。そう思っていたのに。
「ハナヤギルリ、十九歳です」
シュザネット公用語を練習中の彼女の口から、信じられない言葉が飛び出した。
「発音は完璧です。でも数の数え方が間違っていませんか?」
語学の教師として駆り出された、家令のロベルトが丁寧に指摘した。瑠璃はしばらく考えてから、指を折りつつ数を数え(完璧な発音だった)、「間違っていません」と主張した。
「わたしは十九歳です」
「ぼくは十五歳です。もうすぐ十六歳になります」
隣に座る弟が、辿々しく言った。
弟まで見た目の年齢よりも年上だという。ロベルトは信じられないと言うように空を仰いだ。
ミカエレは焦った。瑠璃の年齢はそろそろ嫁き遅れと言われる年齢で、彼女が焦って、他の大人の男の庇護の申し入れを受けてしまうかもしれないからだ。未だ婚姻可能年齢に達していないミカエレは、誰かにルーリィを奪われるかも知れなかった。
幸いなことに、瑠璃は誰にもなびかなかった。
瑠璃は半年ほどで言葉を覚え、領主に話し相手としてニホン国の習慣や文化を伝えた。ミカエレは叔母の近くに侍り、その興味深い話しを沢山聞いた。
シュザネットにはない多くの知識は、ジーンスワークの未来に必要だった。四年後に叔母から家督を譲られることになっているミカエレは、隣に立つ人は瑠璃しか居ないと考えた。
色々御託は並べたが、結局は一目惚れである。ルーリィの黒い瞳に射抜かれて恋に落ちたミカエレは、継嗣である自分の周囲を納得させるために、どうでもいい理由を並べ立てた。
やがて周囲はミカエレの執着と愛の深さを知り、瑠璃のつれなさに苦笑し始めるのである。
「はーちゃんにはね、まだ逃げ場が必要なのよ」
玻璃は異世界の知識と己が体質で、国の大事を救った。公にされていないが、謂わば救国の勇者である。婚姻に際して奇跡のように、王族からは反対の声が上がらなかった。
それでも、口さがないものはいるのだ。
今は祭りにも似た祝賀の高揚の名残の中にある。それが去ったとき、市井から男子の身で嫁いだことが不利になることがあるだろう。
「そうですね、あと、一~二年はそばにいてあげたいの」
だからご領主さまと一緒に一年半後に帰領する。瑠璃は言った。
そう言われて駄々を捏ねるのは、大人気ない。ミカエレにとっても玻璃は弟分だし、瑠璃にとっても玻璃は唯一の血縁だ。寂しい気持ちは瑠璃にもある。意地っ張りな彼女は認めないだろうが。
「⋯⋯わかったよ。そのかわり、陛下への帰領の挨拶のときに、婚約を伝えていくよ」
「え?」
ミカエレは瑠璃の手を取った。手のひらに唇を落とし、ついでにちろりと舐めた。
「ミミミ、ミケさま⁈」
焦った様子が珍しい。
ミカエレは嬉しくなった。以前の瑠璃なら、手のひらに口付けなど許してくれなかっただろう。
彼女が変わったのは、ジーンスワークで惑わしの森の魔女に呼び出されてからだ。抱擁も軽いものなら受け入れてもらえるようになったし、こうして手のひらの口付けも受けてくれる。
「ルリはこんなに魅力的なんだ。証もなく離れているなんて、心配で仕方がない。婚姻は一年半後、それまでは婚約。これ以上は譲れない」
嫌なら、今すぐ既成事実を作って婚姻する。
言外に滲ませて、うっとりと微笑むと瑠璃の肩がふるりと震えた。
「⋯⋯あのね、今、葛藤中なのよ」
困惑した声音はとても珍しい。
「郷に入っては郷に従えとは言うけれど、わたしの根底に根付いた倫理観とやらが、引き止めるの。はーちゃんくらい、性別も身分も飛び越えちゃうと、倫理なんて些細な問題なのかもしれないけど」
難しいことをブツブツ言っている。自分に入り込んでいるのでそぅっと抱擁してみたが、逃げる様子はない。
玻璃が言うには、瑠璃は身内以外の男を信用していないのだと言う。原因は数多の付き纏い被害に遭ったためだ。ニホンは魔法のない国で、武器の所持も法で規制されているとか。それで秩序が保たれる平和な国であるのだが、犯罪者がいないわけではない。
罪の意識のない犯罪者は厄介だ。好きだから知りたい、そばにいたい、それが行きすぎて被害者が望まぬ行為に至ろうとする輩も多い。その被害者が瑠璃だと言う。
今でさえこんなに小柄な瑠璃が、年端もいかないころから晒されていた危険。
本人は苛烈で鉄火な性格だから、大したことはないというが、辛かったからこそ、自衛の手段を模索したのだろう。ちょっと抜けた弟を守らねばならない重圧もあったろう。
自分は強いと自己暗示をかける、健気な姿に胸が打たれる。ミカエレには瑠璃の姿が、臆病な針鼠に見える。
その瑠璃が、大人しく自分の腕に納まっている。
「ハリーはレオン殿下が幸せにしてくれる。ルリのことはわたしが幸せにしたい。⋯⋯駄目か?」
「駄目とか、駄目じゃないとかでなくて」
玻璃とするように抱き合いながら視線を合わせてくる。ミカエレは玻璃よりもずっと背が高いので、上向きに見上げている。黒い瞳がミカエレを射る。
「ミケさまの年齢って、ニホンではまだ未成年で、学生で、親の庇護下にあるのよね。お付き合いならともかく、結婚となると未熟な青年を玩ぶ悪女みたいに言われるか、ふしだらな女みたいに見られる場合があるのよ」
瑠璃の見た目なら、むしろミカエレの少女愛疑惑が立ちそうなのだが、彼女に自分が童顔な認識はあまりない。
「では、わたしが嫌とか、他に思う男がいるとかでなく?」
「⋯⋯⋯⋯ミケさまのことは、多分、⋯⋯」
「聞こえない」
「⋯⋯すき」
なるほど、苛烈で鉄火だ。白い面貌を薄紅に染めても、聞こえぬほど小さな声で囁いても、瑠璃は視線を逸らさない。
ミカエレは歓喜のあまり強く抱きしめそうになったが、理性を総動員して我慢する。せっかく応えてくれたのに、逃げられては堪らない。聞きたいことを、すべて聞いてからだ。
「ニホンでの成人年齢は?」
「二十歳よ」
「ではちょうどいい。今婚約して、ルリがジーンスワークに帰ってくる頃には二十歳になる」
なんの問題もない。
「⋯⋯お願いがあるの。魔女さまは大丈夫って言ってくださったけど、わたしが子どもを授からなかったら⋯⋯⋯⋯」
まだ、問題はあったようだ。
「妾はいらない。ルリ以外はいらない」
「でも、次代は必要だわ」
色恋に惑わされることなく、領のことを考える。その理性的なところも領主夫人にはふさわしい。瑠璃以外に、あの面倒くさい北の領民が馭せるとも思わない。怯えて震えて、岩城から一歩も出ない娘では困る。
ミカエレは瑠璃以外に子どもを産ませるつもりもない。それに、次代の心配なんてしていない。
「叔母上はまだ三十二歳だ。わたしが育つまで後継者問題が面倒で婚姻していないだけで、秘密の恋人がいらっしゃる。爵位をわたしに寄越したら、すぐにも婚姻するのではないか?」
「⋯⋯⋯⋯ええっ⁈」
「三十を過ぎての婚姻はあまりないが⋯⋯」
「そこじゃなくて。ニホンではよくあることですし、四十過ぎての初産も増えています。そうじゃなくて、ご領主さまに秘密の恋人⁈」
「四十歳で初産⁈」
育って来た環境が違いすぎて、驚く点に差異があるふたりであった。
「でもそっか⋯⋯。わたしが産めなくてもご領主さまがお産みくださるかもしれないんだわ」
茫然と呟いた瑠璃の瞳から、ほろほろと涙がこぼれた。
「産めなくても⋯⋯いいのね」
ミカエレは気付いた。一年半もの間、瑠璃が自分の求婚をなかったことにした一番の理由を。
「知ってる、ルリ? 世の中にはね、子種のない男もいるんだ。女性ばかりが子ができない原因じゃないよ」
医療が発達した日本なら、その考えは受け入れられつつある。この国で、この世界で、女だけに責任を押し付けないと言うミカエレに、瑠璃は涙が止まらなかった。
惑わしの森の魔女の館で散々泣いたつもりだったのに、やっぱり瑠璃は不安だった。百五十三センチの身長は、この国では子どもと同じだ。ミカエレの長身に釣り合う花嫁が、いつか彼の子どもを産むのを、そばで見たくないと思っていた。
「ルリ、可愛いルリ。わたしの蝶々姫。ひらひらと飛んで行かないで」
後から後から流れる涙を唇でそっと拭いながら、ミカエレは囁いた。小さな体が腕の中に納まって震えている。感動で胸がいっぱいになった。
「わたしの花嫁になって。子どもはいたら嬉しいけど、種無しだったらごめんね。愛してるよ、ルリ」
瑠璃がそっとミカエレの腕を抜け出した。名残惜しく手を伸ばしたが、彼女は一歩下がってそれを躱した。
泣き濡れてなお美しい面に、艶やかな微笑みを浮かべて、瑠璃はミカエレに真っ直ぐ向いた。
「不束者ですが、よろしくお願いいたします」
両手を腹の上で重ね、腰を四十五度に折る。ゆったりと美しい最敬礼は、日本の最高位の立居礼だ。
顔を上げた瑠璃はぽかんとするミカエレに、ふふっと笑って見せた。悪戯を成功させた妖精みたいな表情だった。
「ニホンで婚姻の申し込みに是と答える、定例の文言です」
喜びは、じわりと。
「本当に?」
「嘘にしますか?」
「しない!」
間髪入れずに拒否をして、ミカエレは、もう一度瑠璃を抱きしめた。そして口付けを落とそうとして⋯⋯。
「ご婚約、おめでとう存じます。王太子妃さまにご報告でございますわね。さぁさぁルーリィさま、登城のお支度をなさいましょうね」
⋯⋯付添人がいた。
家宰のロックウェルが仕込んだ、ジーンスワーク王都邸の優秀な侍女である付添人が、ズカズカとふたりのあいだに割り込んだ。
「坊っちゃまもご一緒なさいますなら、お着替えしていらしてくださいませ」
付添人の行動は正しい。未婚の娘を守るのが彼女の役目だ。未だふたりの間の口約束に過ぎない、飯事並の婚約である。正式に発表されるまでは、瑠璃を大切に守らなければならない。
優秀な人材は領の宝だ。職務を全うする侍女を追い出すわけにもいかず、ミカエレは憮然とした表情をした。
「素敵ね、ミケさま。あなたの領民はこんなにもお仕事熱心よ。いつか、わたしたちに娘が産まれたら、不届き者から守ってくれるわ」
ミカエレは柔らかく笑って未来を語る瑠璃を見て、完全に受け入れてもらえたことを感じた。付添人が誇らしげに頷いている。
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