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本編

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 俺がマティアス・アードラーと出会ったのは、学園の最高学年になった年だった。




 春の日差しが暖かく降り注ぐ中庭を、婚約者と共に横切ったとき、穏やかな歌声が聞こえてきたのだ。
 傍らに婚約者がいることも忘れ、暫くその歌に聞き入っていた。
 「ヴィンフリート殿下」と婚約者のカサンドラに声をかけられるまで、俺はそこを動けなかった。

 あのときは姿を見ることはできなかったんだったな。

 翌日、俺は一人で中庭に向かった。
 その日も穏やかな春の日差しが中庭に降り注いでいた。
 足音を殺し歩いていけば、やはりあの唄声が聞こえてきた。
 俺は衝動のままに歩を進め、歌声の主の所に向かった。

「~~♫」

 置かれたベンチによりかかりながら座り、膝の上にはハンカチに置かれた小さなサンドイッチと、果物が少し。気持ちよさそうにそよ風に髪をなびかせ目を閉じて歌っていたのが――――マティアスだった。

 最初に目に入ったのは、美しい白い髪。
 それから、滑らかな白い肌に、少しふっくらとした桃色の唇。
 俺と同じ学園の制服を着ているのに、なんだか非現実的な造形で、精霊か天使にでも出会ったかのような感覚に陥った。
 だが、学園にこんな容姿の生徒がいただろうか。むしろ、貴族の中にこのような容姿の者がいたのかすら記憶が曖昧だ。

 どうすることもできずに彼の前に佇んでいたのだが、ふと、彼が目を開き、驚いたような表情を俺に向けた。

「あ」
「え」

 綺麗な宝石のように輝いた赤い瞳だった。
 その瞳が俺を凝視し、数秒後伏せられた。
 彼は足の上においていたハンカチをベンチの上に置くと、ゆっくり立ち上がり俺の前に膝をついた。

「申し訳ございません。王太子殿下。今ここを空けますので――――」
「いや、その必要はない」
「え…?」

 気がつけば俺も彼の前で膝をついていた。
 彼はそんな俺に驚き、あたふたと慌て始める。

「お、王太子殿下が、膝をつくなど……」
「構わない。ここは学園だ。……それより、昼食の途中だったのだろう?」
「え……と、あの、……はい」
「私も同席していいだろうか」
「あ、あの……、えと、はい。それはもちろん、あ、いえ、え……っと」

 狼狽える彼がなんとも可愛く感じた。
 俺が手を差し出せば、条件反射のように俺の手を握り、そうしてからはたっと自分の手を見てまた狼狽える。
 声を出して笑いそうになりながら、ほっそりとして男の手とは思えない華奢な手を壊さないように握り、ゆっくりと立たせベンチに座らせた。
 先ほどと同じように、ハンカチを彼の足の上に戻し、彼を怯えさせない程度の間隔を開けて俺もベンチに腰を下ろした。

「食堂は使わないのかい?」
「あ……。あの、私は食べられないものも多くて……、量もそれほど食べられなくて……」
「ああ……それで。……失礼かもしれないけど、私は君のような学園生を見たことがない。私のことを知っていて、貴族の礼を取るということは平民でもないだろう?……けれど、申し訳ないが、私には君のような子息を持つ貴族が思い出せないんだ」

 正直に言うと、彼は頷き、微笑んだ。
 …その微笑みに、俺の心臓がどくんと脈打つ。

「アードラー男爵家の三男、マティアスと申します。ちょっと病を患ってしまい、籍はあったのですが今まで学園に通うことが叶わなかったのです。……社交にもでておりませんから、殿下がご存じないのは当然です。…それに、男爵家の三男ですから。誰も気にしませんし」

 儚げに微笑む姿に、妙な焦燥を覚えた。

「病は、もういいのか?」
「ええ。もう何もなくなったので、せめて最後の一年くらいはしっかり通おうと思いまして」
「なるほど…」
「あ、家にいる間、家庭教師はつけていただきましたから、それなりに勉学にはついていってますよ?……ただ、剣術とか馬術とか、そういったことはできないのですが…」

 困ったように笑う顔に、思わず頭を撫でようとして……手をとめた。

「剣も馬も、別にいいんじゃないか。絶対必要なものでもあるまい」
「ふふ…。王太子殿下はお優しいですね」
「ヴィルでいい」
「……え?」
「マティアス……お前のことはマティと呼んでもいいだろうか」
「え、あの、えと、私は、いいのですが、…ですが、王太子殿――――」
「ヴィル、だ。マティ」

 強くそう言うと、マティは暫く目を泳がせ、赤く頬をそめて、上目遣いに俺を見てきた。

「………ヴィル、様?」

 ……胸を撃ち抜かれそうなほどの衝撃を覚えつつ、今すぐにでも抱きしめてしまいそうな衝動を抑え込んだ。

「ヴィル、だけでいいよ」
「………ヴィル」

 恥ずかしがりながら俺を呼ぶマティに、堪えに堪えた衝動は、華奢な指を持ち上げ、その先に口付けを落とすもので落ち着いた。
 ……いや、落ち着いたのか、これ?
 更に真っ赤になったマティが、可愛らしくて愛しくて。……そう。愛しいのだ。愛しくて仕方ない。
 歌声に惚れて、その歌声の持ち主にも一目惚れをして。

「昼休みが終わってしまうから。はやく食べるといい」
「あ、あの、はい、えと、は、い」

 狼狽えながらサンドイッチに手を伸ばしたマティを、じっと見つめた。穴が飽きそうなほど見つめた。
 両手でサンドイッチを持ち上げる仕草も、小さな口を開けてサンドイッチをはむっと食べる仕草も。何もかもが可愛らしくて、とにかく見てた。

「……ヴィル、あの」
「なんだい?」
「……見ないでください。恥ずかしくて……食べれません……」
「ああ……それはすまない」

 ……と言いつつも、ちらりと覗く赤い舌や、開く口元から目を離せない。
 しかも、俺の下半身が不埒な妄想で硬くなり始めた。
 男なら誰だって想像するだろ?
 あの小さな口に挿れて、可愛らしく動く舌に舐められたらどれほど気持ちが良いだろうか……って、ことくらい。好いた者を前にしたら、誰だってそんな妄想の一つや二つするものだ。

「……うう」
「気にするな」
「気になりますよ……」

 俺はそんな時間を楽しんだ。

 それからは昼休みにマティと過ごすことが当たり前になった。
 彼の傍は居心地がいい。
 春の間はベンチに寄り添い座りながら、彼とともに時を過ごし、歌を聴きながら時折居眠りもした。
 夏の間はどこか日除けになる場所を探し、春の間と同じように過ごした。
 病を患っていたせいかマティは体力がなく、学園も度々休んではいたが、翌日には変わらない姿と笑顔で俺を待っていた。


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