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第1章 出会い編
今後の方針相談
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「ドキッ! 二人だけの大運動会。(おちんちんの)ポロリもあるよ」という男の尊厳をかけたシェロとの鬼ごっこが無事に終わった翌朝、疲労困憊の三人は上がらぬ気分のままリビングで顔を突き合わせていた。
「えーというわけで第一回、今後の予定を決めよう会議を始めたいと思う」
どこか態度を窺うような勇人の宣言に対して、二人は何も答えない。
起きたばかりのリリアは昨日の疲れのせいか、いまだにぐったりしており、シェロもむくれたままである。
これでは会議が踊る以前の問題である。
そして、二人に共通していえることは、どちらも勇人に恨めし気な視線を向けているということだ。
「あーっと、俺に言いたいことが色々とあるのはわかるが、まずはやることやっちまおう、な?」
「……そうじゃのう。不貞腐れていたところでなにも変わらぬ。リアよ、この性欲魔人がすまないことをした。きっちり躾れなんだ妾の責任じゃ」
「いえ、シェロちゃんは悪くありません……。悪いのは目の前の変態です」
「うっ」
二人の非難がましい視線の圧力が増すと、勇人は下手な口笛を吹きながら目を逸らす。
「あの変態については今後の課題として、リアはこれからどうしたいのじゃ。それを聞いておかねば、妾たちはなにもできぬ」
「そう、ですね。隷属契約まで使われてしまった以上は、私も諦めて覚悟を決めました。お二人には我が家でなにが起こったのかをお伝えします」
昨日の疲れが抜けてない筈のリリアだが、力強い声で話を始めた。
「私の家、クレスティン家が二百年前からアリステラ王家に仕えていることは、お二人方は知っていますよね?」
「ああ。よく知っている」
「妾も知識だけならのう」
「知っているなら話は早いです。私たちの一族は仕え始めた時から聖女という肩書をもつ曾祖母のおかげで王家とは親しい間柄でした。それ故に、王が間違った政策をすれば諭したり、国が荒れれば家の財を手放してで支えてきました。実際、それでアリステラ王国はこの二百年平穏を保っていました。ですが――」
苦い物を吐き出すかのように、力強い声に陰りが生まれる。
「今代の王、グレゴリア・アリステラ・ブリューナク陛下が病に倒れられ、政務を息子であるエドモンド殿下が取り仕切るようになってから状況が変わりました。グレゴリア陛下が、民を思い、民の平穏や幸せを願っていた王ならば、エドモンド殿下は民を王家の道具としか見ていないのです」
エドモンドが行った政策は、税率の大幅上昇、兵の強制徴収、福祉施設への資金援助の停止。数を上げ始めれば切りのない愚かな政策を執行してきた。
「そりゃ酷い。クレスティン家は止めなかったのか?」
「お父様は何度も殿下を止めました。けれど、殿下は聞く耳をもたなかったのです。陛下に対しても何度か陳情をお送りしていたようですが、国家反逆罪で我が家がお取り潰しになったということは、きっと陛下の耳に入る前に全て握り潰されていたと考えるのが妥当ですね」
「なるほどのう。口うるさい家を潰すことができる上に、逆らえばこうなるという見せしめにされたわけじゃな」
「おそらく、そうだと思います」
「それにしたって、大胆なことをするな。クレスティン家は聖女の末裔と呼ばれている家系だろ。市民にも人気のある家を簡単に取り潰すなんて、まったくなにを考えているんだか」
すでに薄れかけている現代の記憶だが、それでも世論を完全に敵に回すということがどれだけ恐ろしいことかは覚えている。
それを簡単に行ってしまう辺り、エドモンドは愚かなのかそれとも独裁者の資質があるのか。
「話を聞く限り、既に国民のエドモンド殿下とやらの評価は最悪じゃろうからな。世論など気になどしておらんのじゃろ」
「嫌な開き直りだな……んで、リリアの現状は理解できた。次はどうしていきたいかだ。ちょっと王都に殴りこんでその馬鹿殿下の首をとってくればいいのか?」
「そんな物騒なことは頼んでいません!? 私は、クレスティン家にかかった冤罪を晴らし、民の平穏を取り戻したいのです。……殿下には、自分が如何に愚かなことをしているのか理解してほしいとは思っても死んでほしいとは思いません」
「甘いのう。リアは家族を殺されたのじゃろ? 憎いとは思わんのか?」
「恨み事を言いたい気持ちはあります。ですが、憎んだ所で家族は帰ってきません。それに、私はただ一人残されたクレスティンの血を持つ者。代々受け継がれてきたクレスティンの意思を、私以外の誰が継げるというのです! この場に居たのが父だったとしても、同じことを言った筈です!」
「……なんというか、拗れているな。アリアも大概だったけど、二百年の月日が経って劣化するどころか悪化しているぞ」
「だからこそ、腹に一物抱えておる人間からしてみれば直視できぬ存在なのじゃろうて」
水清ければ魚棲まず。
清廉潔白を是として生きるクレスティン家の生き方は、汚れた貴族社会の人間にとっては、恐ろしいほどの異端であるのだ。
目の前のリリアもそういう傾向を強く感じさせるため、なんとか調教――もとい、教え込んで、普通の人程度に落としこむ必要があると、密かに勇人は決意した。
「理由と目的は理解したのじゃ。次は最初にどうするべきかじゃな」
「話を聞く限り、いきなり王都に乗り込むようなことはしないんだろ?」
「はい。まずはマルセイユ辺境伯に助けを乞おうと思います。彼らも殿下の政策に反発しており、クレスティン家とも懇意の家です」
「マルセイユ? 確かこの森の西にある領地がそんな名前だったな」
「はい。王都から私を逃がしてくれたのはマルセイユ辺境伯の人間です。この森に入ったのも、マルセイユ辺境伯の領地に行くためだったんです」
「なるほど。じゃあ、最初の目的地はそのマルセイユとかいうやつの屋敷か」
「そうなります……あと、ですね。それとは別に一人助けたい女性がいます」
「助けたい女性?」
「はい。クレハという、私付きの侍女をしていた女性です。クレハは小さい頃から私のお世話をしてくれていたエルフの侍女で、王都から逃げる際には私の代わりに捕まって……そして、いまも辱めをうけています。だから、私はクレハを必ず助けたいのです」
「そんな悲壮感漂う顔をしなくても絶対に助けてやるよ。囚われのお姫様を助けるのなんてまさに勇者の仕事じゃないか」
リリアの不安を吹き飛ばす様に勇人が笑いながら頭を撫でる。それだけでどんな無茶でも無茶じゃなくなるような感覚になって、リリアはつい笑みを零してしまう。
「さて、今後の方針についてはこんなところか。出発はいつにする?」
「荷造りの準備と、リアの体力回復を待つ必要があるからのう。二日……いや、三日後がいいじゃろう」
「私もそれで問題ありません」
「よし、じゃあ三日後には西のマルセイユ領へ向かうぞ」
勇人が手を叩いて締めると、二人は力強く頷いてみせた。
******
そこは、質素な作りをした豪華絢爛な執務室だった。
見た目はとても上流階級が過ごすような部屋ではなく、執務机に本棚と、歴代の当主たちの絵画が壁にかけられているだけの部屋である。
しかし、そこの家具は異常ともいえる素材で出来ている。
机と椅子は世界樹と呼ばれる、この世界の中心にそびえ立つ巨木からとれた枝で作られており、防護用の魔法陣がこれでもかというくらいに掘られている。そのため、ドラゴンが執務室に突撃してきたとしても、この部屋の主は無傷でいられるだろう。
窓にかかっているカーテンは超高級と名高いアラクネのシルクで縫われており、混ぜ物などは一切されていない。立てかけられているペンでさえも、不死鳥の羽を加工して作られている代物だ。
大豪邸どころか、城一つ建ってももおかしくはない物で満ち溢れているこの部屋は、気が付かないものからすれば質素な執務室に見え、目利きの者が見ればとんでもない豪華な執務室である。
そんな部屋の主は、書類に向かって手を動かしている。
部屋を照らす光を浴びて輝く金髪に、人々が思い浮かぶ美丈夫という存在を具現化したかのような彫の深い整った容姿をしている二十代前半ほどの男は、つまらなそうな顔をしながら書類を片づけていた。
前が見えなくなるほどに積み上げられた書類にうんざりしながら、それでも一枚一枚丁寧に書類を片づけていると、連続で動いていた手が初めて止まった。
「――殿下」
男以外に誰もいなかったはずの部屋の中、本棚の影に隠れるようにしていつの間にか黒服をまとった男が存在していた。
影に溶けるように、頭の先から爪先まで真っ黒な服に包んだその男は、顔さえも見られぬよう薄いベールに覆われている。
「人影か」
この部屋の主、アリステラ王国の王太子であるエドモンド・アリステラ・ブリューナクは、不機嫌な顔を隠しもしないまま人影と呼んだ男を睨みつける。
「ご報告したいことがあって参りました」
「見てわからないか。どこかの馬鹿共のせいで俺は忙しいんだ。くだらん用件なら切り捨てるぞ」
「私がお伝えすることは、リリア・クレスティン・フェミルナについてです」
クレスティンという家名を聞いたエドモンドは、ピクリと眉を動かして不機嫌ながらも聞く素振りを見せ始めた。
「……言ってみろ」
人影は、一礼すると余計な言葉を削ぎ落とし、端的に報告をする。
「魔の森にて、リリア・クレスティン・フェミルナを追っていたドマ・アージス・ゼクトとその護衛の死体が発見されました」
「……そうか。愚図だとは思っていたが、女一人連れてくることもできないほど愚鈍だったとは」
もとより腐敗が進んでいるアージス家には期待をしていなかった。それでも、逃げ出した女一人を捕まえて連れ帰るくらいのお使い程度は出来ると思っていたが、それすらも失敗したのでは、エドモンドがあの家に期待することはもうないだろう。
「それで、クレスティン家の小娘の行方は」
「残念ながら、魔の森で消息は途切れています」
「戦うこともできない小娘だ。今頃は獣の腹の中かもしれんな。それならばそれで手間が省ける」
「捜索はどうされますか?」
「打ち切りだ。あの小娘よりも先に厄介な連中を潰す」
エドモンドが視線を落とすと、反王家派の同行について書かれた資料が何枚も広がっていた。
「まずはクレスティン家と特に親しい仲にあったマルセイユ辺境伯を切り崩す。お前はその工作に専念しろ」
「御意……」
人影が再度、恭しくエドモンドに頭を下げると、彼はもう人影のことを見ようともしていなかった。
そんなエドモンドを、人影は静かに嗤いならが、現れた時と同じように影に溶けて姿を消した。
「えーというわけで第一回、今後の予定を決めよう会議を始めたいと思う」
どこか態度を窺うような勇人の宣言に対して、二人は何も答えない。
起きたばかりのリリアは昨日の疲れのせいか、いまだにぐったりしており、シェロもむくれたままである。
これでは会議が踊る以前の問題である。
そして、二人に共通していえることは、どちらも勇人に恨めし気な視線を向けているということだ。
「あーっと、俺に言いたいことが色々とあるのはわかるが、まずはやることやっちまおう、な?」
「……そうじゃのう。不貞腐れていたところでなにも変わらぬ。リアよ、この性欲魔人がすまないことをした。きっちり躾れなんだ妾の責任じゃ」
「いえ、シェロちゃんは悪くありません……。悪いのは目の前の変態です」
「うっ」
二人の非難がましい視線の圧力が増すと、勇人は下手な口笛を吹きながら目を逸らす。
「あの変態については今後の課題として、リアはこれからどうしたいのじゃ。それを聞いておかねば、妾たちはなにもできぬ」
「そう、ですね。隷属契約まで使われてしまった以上は、私も諦めて覚悟を決めました。お二人には我が家でなにが起こったのかをお伝えします」
昨日の疲れが抜けてない筈のリリアだが、力強い声で話を始めた。
「私の家、クレスティン家が二百年前からアリステラ王家に仕えていることは、お二人方は知っていますよね?」
「ああ。よく知っている」
「妾も知識だけならのう」
「知っているなら話は早いです。私たちの一族は仕え始めた時から聖女という肩書をもつ曾祖母のおかげで王家とは親しい間柄でした。それ故に、王が間違った政策をすれば諭したり、国が荒れれば家の財を手放してで支えてきました。実際、それでアリステラ王国はこの二百年平穏を保っていました。ですが――」
苦い物を吐き出すかのように、力強い声に陰りが生まれる。
「今代の王、グレゴリア・アリステラ・ブリューナク陛下が病に倒れられ、政務を息子であるエドモンド殿下が取り仕切るようになってから状況が変わりました。グレゴリア陛下が、民を思い、民の平穏や幸せを願っていた王ならば、エドモンド殿下は民を王家の道具としか見ていないのです」
エドモンドが行った政策は、税率の大幅上昇、兵の強制徴収、福祉施設への資金援助の停止。数を上げ始めれば切りのない愚かな政策を執行してきた。
「そりゃ酷い。クレスティン家は止めなかったのか?」
「お父様は何度も殿下を止めました。けれど、殿下は聞く耳をもたなかったのです。陛下に対しても何度か陳情をお送りしていたようですが、国家反逆罪で我が家がお取り潰しになったということは、きっと陛下の耳に入る前に全て握り潰されていたと考えるのが妥当ですね」
「なるほどのう。口うるさい家を潰すことができる上に、逆らえばこうなるという見せしめにされたわけじゃな」
「おそらく、そうだと思います」
「それにしたって、大胆なことをするな。クレスティン家は聖女の末裔と呼ばれている家系だろ。市民にも人気のある家を簡単に取り潰すなんて、まったくなにを考えているんだか」
すでに薄れかけている現代の記憶だが、それでも世論を完全に敵に回すということがどれだけ恐ろしいことかは覚えている。
それを簡単に行ってしまう辺り、エドモンドは愚かなのかそれとも独裁者の資質があるのか。
「話を聞く限り、既に国民のエドモンド殿下とやらの評価は最悪じゃろうからな。世論など気になどしておらんのじゃろ」
「嫌な開き直りだな……んで、リリアの現状は理解できた。次はどうしていきたいかだ。ちょっと王都に殴りこんでその馬鹿殿下の首をとってくればいいのか?」
「そんな物騒なことは頼んでいません!? 私は、クレスティン家にかかった冤罪を晴らし、民の平穏を取り戻したいのです。……殿下には、自分が如何に愚かなことをしているのか理解してほしいとは思っても死んでほしいとは思いません」
「甘いのう。リアは家族を殺されたのじゃろ? 憎いとは思わんのか?」
「恨み事を言いたい気持ちはあります。ですが、憎んだ所で家族は帰ってきません。それに、私はただ一人残されたクレスティンの血を持つ者。代々受け継がれてきたクレスティンの意思を、私以外の誰が継げるというのです! この場に居たのが父だったとしても、同じことを言った筈です!」
「……なんというか、拗れているな。アリアも大概だったけど、二百年の月日が経って劣化するどころか悪化しているぞ」
「だからこそ、腹に一物抱えておる人間からしてみれば直視できぬ存在なのじゃろうて」
水清ければ魚棲まず。
清廉潔白を是として生きるクレスティン家の生き方は、汚れた貴族社会の人間にとっては、恐ろしいほどの異端であるのだ。
目の前のリリアもそういう傾向を強く感じさせるため、なんとか調教――もとい、教え込んで、普通の人程度に落としこむ必要があると、密かに勇人は決意した。
「理由と目的は理解したのじゃ。次は最初にどうするべきかじゃな」
「話を聞く限り、いきなり王都に乗り込むようなことはしないんだろ?」
「はい。まずはマルセイユ辺境伯に助けを乞おうと思います。彼らも殿下の政策に反発しており、クレスティン家とも懇意の家です」
「マルセイユ? 確かこの森の西にある領地がそんな名前だったな」
「はい。王都から私を逃がしてくれたのはマルセイユ辺境伯の人間です。この森に入ったのも、マルセイユ辺境伯の領地に行くためだったんです」
「なるほど。じゃあ、最初の目的地はそのマルセイユとかいうやつの屋敷か」
「そうなります……あと、ですね。それとは別に一人助けたい女性がいます」
「助けたい女性?」
「はい。クレハという、私付きの侍女をしていた女性です。クレハは小さい頃から私のお世話をしてくれていたエルフの侍女で、王都から逃げる際には私の代わりに捕まって……そして、いまも辱めをうけています。だから、私はクレハを必ず助けたいのです」
「そんな悲壮感漂う顔をしなくても絶対に助けてやるよ。囚われのお姫様を助けるのなんてまさに勇者の仕事じゃないか」
リリアの不安を吹き飛ばす様に勇人が笑いながら頭を撫でる。それだけでどんな無茶でも無茶じゃなくなるような感覚になって、リリアはつい笑みを零してしまう。
「さて、今後の方針についてはこんなところか。出発はいつにする?」
「荷造りの準備と、リアの体力回復を待つ必要があるからのう。二日……いや、三日後がいいじゃろう」
「私もそれで問題ありません」
「よし、じゃあ三日後には西のマルセイユ領へ向かうぞ」
勇人が手を叩いて締めると、二人は力強く頷いてみせた。
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そこは、質素な作りをした豪華絢爛な執務室だった。
見た目はとても上流階級が過ごすような部屋ではなく、執務机に本棚と、歴代の当主たちの絵画が壁にかけられているだけの部屋である。
しかし、そこの家具は異常ともいえる素材で出来ている。
机と椅子は世界樹と呼ばれる、この世界の中心にそびえ立つ巨木からとれた枝で作られており、防護用の魔法陣がこれでもかというくらいに掘られている。そのため、ドラゴンが執務室に突撃してきたとしても、この部屋の主は無傷でいられるだろう。
窓にかかっているカーテンは超高級と名高いアラクネのシルクで縫われており、混ぜ物などは一切されていない。立てかけられているペンでさえも、不死鳥の羽を加工して作られている代物だ。
大豪邸どころか、城一つ建ってももおかしくはない物で満ち溢れているこの部屋は、気が付かないものからすれば質素な執務室に見え、目利きの者が見ればとんでもない豪華な執務室である。
そんな部屋の主は、書類に向かって手を動かしている。
部屋を照らす光を浴びて輝く金髪に、人々が思い浮かぶ美丈夫という存在を具現化したかのような彫の深い整った容姿をしている二十代前半ほどの男は、つまらなそうな顔をしながら書類を片づけていた。
前が見えなくなるほどに積み上げられた書類にうんざりしながら、それでも一枚一枚丁寧に書類を片づけていると、連続で動いていた手が初めて止まった。
「――殿下」
男以外に誰もいなかったはずの部屋の中、本棚の影に隠れるようにしていつの間にか黒服をまとった男が存在していた。
影に溶けるように、頭の先から爪先まで真っ黒な服に包んだその男は、顔さえも見られぬよう薄いベールに覆われている。
「人影か」
この部屋の主、アリステラ王国の王太子であるエドモンド・アリステラ・ブリューナクは、不機嫌な顔を隠しもしないまま人影と呼んだ男を睨みつける。
「ご報告したいことがあって参りました」
「見てわからないか。どこかの馬鹿共のせいで俺は忙しいんだ。くだらん用件なら切り捨てるぞ」
「私がお伝えすることは、リリア・クレスティン・フェミルナについてです」
クレスティンという家名を聞いたエドモンドは、ピクリと眉を動かして不機嫌ながらも聞く素振りを見せ始めた。
「……言ってみろ」
人影は、一礼すると余計な言葉を削ぎ落とし、端的に報告をする。
「魔の森にて、リリア・クレスティン・フェミルナを追っていたドマ・アージス・ゼクトとその護衛の死体が発見されました」
「……そうか。愚図だとは思っていたが、女一人連れてくることもできないほど愚鈍だったとは」
もとより腐敗が進んでいるアージス家には期待をしていなかった。それでも、逃げ出した女一人を捕まえて連れ帰るくらいのお使い程度は出来ると思っていたが、それすらも失敗したのでは、エドモンドがあの家に期待することはもうないだろう。
「それで、クレスティン家の小娘の行方は」
「残念ながら、魔の森で消息は途切れています」
「戦うこともできない小娘だ。今頃は獣の腹の中かもしれんな。それならばそれで手間が省ける」
「捜索はどうされますか?」
「打ち切りだ。あの小娘よりも先に厄介な連中を潰す」
エドモンドが視線を落とすと、反王家派の同行について書かれた資料が何枚も広がっていた。
「まずはクレスティン家と特に親しい仲にあったマルセイユ辺境伯を切り崩す。お前はその工作に専念しろ」
「御意……」
人影が再度、恭しくエドモンドに頭を下げると、彼はもう人影のことを見ようともしていなかった。
そんなエドモンドを、人影は静かに嗤いならが、現れた時と同じように影に溶けて姿を消した。
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