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第六章
三
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まだ一時前だ。暁史が何時に休憩を取っているかわからないが、許容範囲内だろう。
滅多に人の来ない非常階段のドアを開けて中へと入る。上からも下からも人の足音は聞こえてこない。
名刺に書かれた携帯番号をスマートフォンに入力し待った。コール音が聞こえてきて、ふたばの心臓は緊張で高い音を奏でる。震えそうになる手を必死で抑えて、平静を保った。
『はい、眞鍋です』
「こんにちは。あの、ふたばです」
『ああ、ふたば?』
「はい。同じ会社だったんですね、眞鍋さん」
さも驚きましたという風に告げると、電話の向こうで暁史がフッと微かに笑ったのがわかった。
『俺も朝見かけた時は驚いた。同じ会社なのに会ったことなかったな』
「ええ……あの、眞鍋さんの部署はどちらなんですか?」
ふたばが尋ねると電話の向こうで、驚いたような間が空く。当たり前だ。M&Bネクサス法律事務所で働いている人間で、シニアパートナーである眞鍋弁護士を知らない人間はほとんどいない。
しかし、暁史は気にする様子もなく二十五階だと答えた。二十五階は在籍する弁護士たちが各々部屋を持っている。それで伝わると思ったのだろう。
「そうですか」
『先週、連絡先も聞かないままだったから、気になってた。今日の夜は時間ある?』
「また、先週のようなことを?」
ホテルに連れ込まれるのはもう御免だと暗に言うと、暁史は声を出して笑った。
『そうしたいところだけど、食事でもと思っただけだ。こちらからアクションを起こさないと、君はもう俺と会ってくれないような気がしたからね』
「そんなことはありませんよ。かっこいい男性は好きですから」
さも手のひらの上で男を転がしているかのような発言に、額が汗ばんでくる。なにが、かっこいい男性は好きですから、だ。男と付きあったことなどないくせに、と自分で突っ込みを入れたくなる。さっさと電話を終わらせたいからか、いつもより早口だ。
『かっこいいとは思ってくれてるんだ?』
「そうですね、人並みには。で、今日はどちらに伺えば?」
『このあいだのホテル。八時にスカイラウンジにおいで』
先週と同じ店だ。ほかの女性と会う時、暁史は同じ場所を選んではいなかった。ビジネスホテルだったり、ラブホテルだったり、カラオケということもあった。
(でも……赤坂ロイヤルタワーホテルは一度もなかったな……)
自分が泊まっている部屋には連れ込まないのだろうか。
なぜか、自分が特別扱いされたような気になってしまい、ブンブンと首を横に降る。それこそ自意識過剰というものだ。
「わかりました。では、八時に」
暁史はそれ以上何も聞いてはこなかった。忙しかったのか、電話もすぐに切られてふたばはようやく肩から力を抜く。
やはり暁史はふたばのことを調べなかったようだ。もし、ふたばの素性を調べていれば、こんな風に呑気に電話などしていないだろう。
もしくは、知っていてふたばに対して電話が出来るのだとしたら、彼の中で姉の存在はそれほど小さな存在だったということだ。
(ほかの女と寝ようとするぐらいだもんね……)
わかばは、働くことも外に出ることすらできなくなったというのに。
ちょうど溜まっていた仕事があり終わらせていると、時刻は十九時半になった。
キリのいいところで書類を片づけて帰る準備を始めると、隣に座る吉野もちょうど帰るところだったのか「一緒に出よう」と声がかけられる。
「お先に失礼します」
ふたばの声に、同僚から「お疲れ様」の声がかかる。
「なんだよ、二人揃って。デートか?」
「何言ってんですか、部長。偶然です。しかも、そういうの聞いちゃダメなんですよ、セクハラです」
吉野が笑いながら言い返すと、経理部長が憮然と顔を見せながらも怒った様子は見せずに手を振ってくる。
ふたばが断れないよう外堀から固められているような気がして、面倒で仕方がない。しかも、自分だってセクハラまがいのことをしてくるくせに。
「行こう、花椿さん」
「あ、はい」
ちょうど上から下りてきたエレベーターが二十階に到着しドアが開くと、エレベーターの中に暁史の姿がある。
吉野は暁史の存在を知っているのか、感動したように目を瞬かせた。あれだけ悪い噂があるにもかかわらず暁史は、憧憬の眼差しを向けられている。
見た目もさることながら、一番は弁護士としての実績なのだろう。電話では知らないふりをしたが、新人のふたばでさえ噂が耳に入ってくるほどのいわゆる〝できる弁護士〟だ。彼は現在三十二歳だが、シニアパートナーになったのは三十歳。大手法律事務所において異例の若さだ。
「お疲れ様です。眞鍋先生……ですよね?」
「ああ、お疲れ様。ええと、経理部の人かな?」
暁史はふたばを一瞥するものの、すぐに視線は逸らされた。知り合いだと匂わすつもりはないことに安堵する。
「はい。吉野と申します。こちらは同僚の花椿《はなつばき》」
ふたばのことまでをも吉野に紹介され、背中を冷たい汗が伝った。
花椿、なんて珍しい名字はなかなかいない。きっと、暁史も気づいただろうと視線を向けるが、特に変わった様子を見せてはいない。
(お姉ちゃんを、覚えてもいないってこと……?)
前を向いたまま唇を噛み締めていると、エレベーターは一階へと到着した。ドアを開けるためボタンを押していると「ありがとう」と暁史の声が聞こえた。続いて、吉野とふたばもエレベーターから降りる。
先を歩く暁史から数メートル後ろを歩きながら吉野が口を開いた。
「ね、もしよかったら……少し飲みにでも行かない? あ、もちろん一杯だけ。仕事から離れて、花椿さんと話してみたくて」
こうして誘われるのも珍しいことではない。いつもは、姉の病気を理由に早く家に帰って家事をしなければならないからと断っているが、今日はそういうわけにはいかない。
吉野とは帰り道、同じ路線の反対の電車に乗る。
ここからホテルへ向かうには駅とは反対方向へ行かなければならない。用事があると伝えるしかないかと、ふたばはそっと嘆息を漏らした。
「あの……今日は」
ふたばが口を開くと、目の前が黒い影で覆われる。
滅多に人の来ない非常階段のドアを開けて中へと入る。上からも下からも人の足音は聞こえてこない。
名刺に書かれた携帯番号をスマートフォンに入力し待った。コール音が聞こえてきて、ふたばの心臓は緊張で高い音を奏でる。震えそうになる手を必死で抑えて、平静を保った。
『はい、眞鍋です』
「こんにちは。あの、ふたばです」
『ああ、ふたば?』
「はい。同じ会社だったんですね、眞鍋さん」
さも驚きましたという風に告げると、電話の向こうで暁史がフッと微かに笑ったのがわかった。
『俺も朝見かけた時は驚いた。同じ会社なのに会ったことなかったな』
「ええ……あの、眞鍋さんの部署はどちらなんですか?」
ふたばが尋ねると電話の向こうで、驚いたような間が空く。当たり前だ。M&Bネクサス法律事務所で働いている人間で、シニアパートナーである眞鍋弁護士を知らない人間はほとんどいない。
しかし、暁史は気にする様子もなく二十五階だと答えた。二十五階は在籍する弁護士たちが各々部屋を持っている。それで伝わると思ったのだろう。
「そうですか」
『先週、連絡先も聞かないままだったから、気になってた。今日の夜は時間ある?』
「また、先週のようなことを?」
ホテルに連れ込まれるのはもう御免だと暗に言うと、暁史は声を出して笑った。
『そうしたいところだけど、食事でもと思っただけだ。こちらからアクションを起こさないと、君はもう俺と会ってくれないような気がしたからね』
「そんなことはありませんよ。かっこいい男性は好きですから」
さも手のひらの上で男を転がしているかのような発言に、額が汗ばんでくる。なにが、かっこいい男性は好きですから、だ。男と付きあったことなどないくせに、と自分で突っ込みを入れたくなる。さっさと電話を終わらせたいからか、いつもより早口だ。
『かっこいいとは思ってくれてるんだ?』
「そうですね、人並みには。で、今日はどちらに伺えば?」
『このあいだのホテル。八時にスカイラウンジにおいで』
先週と同じ店だ。ほかの女性と会う時、暁史は同じ場所を選んではいなかった。ビジネスホテルだったり、ラブホテルだったり、カラオケということもあった。
(でも……赤坂ロイヤルタワーホテルは一度もなかったな……)
自分が泊まっている部屋には連れ込まないのだろうか。
なぜか、自分が特別扱いされたような気になってしまい、ブンブンと首を横に降る。それこそ自意識過剰というものだ。
「わかりました。では、八時に」
暁史はそれ以上何も聞いてはこなかった。忙しかったのか、電話もすぐに切られてふたばはようやく肩から力を抜く。
やはり暁史はふたばのことを調べなかったようだ。もし、ふたばの素性を調べていれば、こんな風に呑気に電話などしていないだろう。
もしくは、知っていてふたばに対して電話が出来るのだとしたら、彼の中で姉の存在はそれほど小さな存在だったということだ。
(ほかの女と寝ようとするぐらいだもんね……)
わかばは、働くことも外に出ることすらできなくなったというのに。
ちょうど溜まっていた仕事があり終わらせていると、時刻は十九時半になった。
キリのいいところで書類を片づけて帰る準備を始めると、隣に座る吉野もちょうど帰るところだったのか「一緒に出よう」と声がかけられる。
「お先に失礼します」
ふたばの声に、同僚から「お疲れ様」の声がかかる。
「なんだよ、二人揃って。デートか?」
「何言ってんですか、部長。偶然です。しかも、そういうの聞いちゃダメなんですよ、セクハラです」
吉野が笑いながら言い返すと、経理部長が憮然と顔を見せながらも怒った様子は見せずに手を振ってくる。
ふたばが断れないよう外堀から固められているような気がして、面倒で仕方がない。しかも、自分だってセクハラまがいのことをしてくるくせに。
「行こう、花椿さん」
「あ、はい」
ちょうど上から下りてきたエレベーターが二十階に到着しドアが開くと、エレベーターの中に暁史の姿がある。
吉野は暁史の存在を知っているのか、感動したように目を瞬かせた。あれだけ悪い噂があるにもかかわらず暁史は、憧憬の眼差しを向けられている。
見た目もさることながら、一番は弁護士としての実績なのだろう。電話では知らないふりをしたが、新人のふたばでさえ噂が耳に入ってくるほどのいわゆる〝できる弁護士〟だ。彼は現在三十二歳だが、シニアパートナーになったのは三十歳。大手法律事務所において異例の若さだ。
「お疲れ様です。眞鍋先生……ですよね?」
「ああ、お疲れ様。ええと、経理部の人かな?」
暁史はふたばを一瞥するものの、すぐに視線は逸らされた。知り合いだと匂わすつもりはないことに安堵する。
「はい。吉野と申します。こちらは同僚の花椿《はなつばき》」
ふたばのことまでをも吉野に紹介され、背中を冷たい汗が伝った。
花椿、なんて珍しい名字はなかなかいない。きっと、暁史も気づいただろうと視線を向けるが、特に変わった様子を見せてはいない。
(お姉ちゃんを、覚えてもいないってこと……?)
前を向いたまま唇を噛み締めていると、エレベーターは一階へと到着した。ドアを開けるためボタンを押していると「ありがとう」と暁史の声が聞こえた。続いて、吉野とふたばもエレベーターから降りる。
先を歩く暁史から数メートル後ろを歩きながら吉野が口を開いた。
「ね、もしよかったら……少し飲みにでも行かない? あ、もちろん一杯だけ。仕事から離れて、花椿さんと話してみたくて」
こうして誘われるのも珍しいことではない。いつもは、姉の病気を理由に早く家に帰って家事をしなければならないからと断っているが、今日はそういうわけにはいかない。
吉野とは帰り道、同じ路線の反対の電車に乗る。
ここからホテルへ向かうには駅とは反対方向へ行かなければならない。用事があると伝えるしかないかと、ふたばはそっと嘆息を漏らした。
「あの……今日は」
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