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第六章
二
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現在経理部は、年に数回の繁忙期だ。九月末で締めた伝票の決算処理を十月の二週目までに終えなければならないのだ。決算期は九月と三月だが、一度目の決算時ふたばは入社したばかりでほとんどファイリングやシュレッダーなどの雑用要員だった。
半年経ってようやく慣れてきたが、未だに自分が何をしているのかはいまいちわかっていない。
「花椿さん」
吉野が急に椅子を近づけてきたため驚いて身構えると、パソコンの液晶を指差して「これ、違うよ」と言われた。彼の足と自分の足が触れ合っていることが気にはなったが、距離を取るのも過剰に反応していると思われるのが嫌でやめた。
そしてパソコンの画面を見つめて首を傾げる。一体、どこが違うのだろう。
「え……?」
「切手。未使用分は決算処理で貯蔵品に振り替えないと。領収証上がった来た時は通信費で処理して大丈夫だけど、九月末の日付で通信費と貯蔵品で振替入れて、十月一日の日付でその反対の処理するんだよ」
「あ……そうなんですか。すみません」
吉野はふたばと同期だが、新入社員として入社したふたばと違い、吉野は経理経験を買われて転職した社員だった。
わからないところなどを丁寧に教えてくれるし、同期だからと気にかけてくれるのは嬉しいが、いつも距離が近過ぎて苦手なのだ。
(パーソナルスペースが狭いのかな……)
決算処理の時期は忙しく、周りの同僚に聞きたいことがあっても声をかけられないほど殺伐としている。
内容がわからないのに言われるがまま仕訳処理をしていると、やはりミスも多くなる。そんな時、吉野がさりげなくふたばを気遣ってくれるのはありがたいのだが。
「切手は資産だからね。使用したら経費で落とすんだよ。でも普段はいちいち貯蔵品勘定で処理してられないから、通信費で計上していいことになってる。だから、決算期に振り替えするんだ」
「そうなんですか……」
わかるようなわからないような。
ふたばが曖昧に返事をすると、吉野は頭をグルリと回してどう説明しようかと考えているようだった。この忙しい時期に吉野の仕事の手を止めてしまうのは申し訳なかったが、聞けるなら今聞いておきたい。
「そんなに難しい話ではないんだけどなぁ。あ、もしよかったら、これ読んでみる?」
吉野は机の中から本を取り出して、ふたばへと手渡した。
「税理士探偵の事件簿? これ小説ですか?」
表紙には、可愛らしい女の子が計算機を手にするイラストがある。一見すると、男性が読みそうな本ではなさそうに思えるが。
「小説なんだけどね。たぶん、花椿さんの〝どうして?〟の謎が解けるかもしれない。税理士の女の子が会社の粉飾決算を暴いていく話。貸借対照表や損益計算書の見方がわかるようになると思うよ。いわゆる決算書類って会社の通信簿だからね。パッと見るだけで〝もう少し頑張りましょう〟なのか〝よくできました〟なのかわかる。だから、こうやって俺たちが仕訳処理していることにも意味があるってこと。流れ作業だと自分が何をしているのかわからなくなるけど、わかると楽しいよ」
「お借りしてもいいですか?」
「もちろん。一回くらい夕食付きあってくれるならね」
ポンと膝頭に手が置かれて、撫でるように手が動かされるとスカートが捲り上がってしまう。ほんの数センチのことだが、吉野の視線がスカートの中にあるような気さえしてくる。
ああ、またかと溢れそうになるため息を何とか堪えた。
手を払うわけにはいかないし、大げさにセクハラだと騒いでこの会社に居づらくなるのは御免だ。
触れ方も巧妙で、わざとなのか、偶然当たってしまったのか判断がつかない程度だから、騒ぎ立てると仕事で信頼を得ている吉野よりもふたばの方が分が悪い気がしてくる。
今までも、それとなく恋人がいるかと聞かれたり、食事へ行こうと誘われることは頻繁にあった。
けれど、特に何かを言われることはなかったし、気がつかないふりをしていた。吉野も探りを入れてくる程度で何も言ってはこないのは、ふたばとの同僚関係を壊したくはないからだろう。
ただ、正直身体に触れられるのは嫌だった。周りからは気にされない程度の時間、ほんの少し掠めるようにして触れてくる。
「じゃあ自分で買います」
「うわ、釣れないなぁ。残念。ま、これは仕事に関係あるからどうぞ。貸すよ」
「ありがとうございます」
「お昼ぐらいは一緒に食べようね」
「はい」
大体の社員が同じ部署内のメンバーと食事を摂っている。全員が席を空けるわけにはいかないため、休憩は一週間ずつ早番と遅番でわかれていた。
運悪くふたばは吉野と同じ遅番で、昼食を共にすることが多い。もちろん他にもメンバーはいるが大体が社食利用者だ。
そして仕事に没頭していると、いつのまにか十一時半から休憩を取っている早番のメンバーが戻ってきたところだった。ふたばは朝作った弁当を手に立ち上がる。吉野が忙しければ逃げられると思っていたのだが、隣に座る吉野もコンビニ袋を手に持った時点で諦めた。
「お昼行ってきます」
「俺も行ってきます」
本当は、昼食に行く前に暁史に電話をかけたかったが、さすがに吉野の前では無理だろう。あとで洗面所に行くとでも言って電話をするしかない。
ほかの遅番メンバーはゾロゾロと社食へ向かう。ふたばは弁当を持ってきているため、同じ階にある休憩室を使わせてもらっていた。
吉野は毎日ほとんどコンビニで買っているようだが、M&Bネクサス法律事務所が入るビルの社食は豪華でレストランにも引けを取らない。その分値段は多少高いと感じるものの、表参道界隈でランチをするよりかは安い。
(コンビニでお弁当買うなら、社食に行けばいいのに……)
まさか、ふたばと休憩を取るためにわざわざコンビニで弁当を買ってきているのだろうか。自惚れているつもりはないが、そう考えると吉野の行動はいささか行き過ぎているようにも思える。
休憩室で弁当を広げると、吉野が感動したように目を輝かせた。
「いつも朝からちゃんと作るんだね。冷食じゃないっしょ、それ」
物欲しそうな目を向けられるが「一口どうですか?」とは言いたくない。
「そうですね……でも、朝に夕飯も作ってから仕事に来るから、これと同じものを夕飯に食べるんですよ」
「何時に起きてるの?」
「五時です」
「五時っ⁉︎」
そんなに驚くようなことだろうか。どうしても、洗濯をして朝食、昼食、夕食を作るとなると、朝五時前に起きなければ間に合わないのだ。
「世間のフルタイムで働いてる主婦の方と同じくらいですよ」
大変ではあるが、手を抜くことも覚えて、疲れた時には惣菜を買うこともあるし、冷凍食品だって利用する。ふたばが倒れるわけにはいかないからだ。
「そっかぁ。確かにな。うちも母さん起きるのそれぐらいだったわ。母親だと当たり前ぐらいに思ってたけど、大変だよな」
ふたばも両親が家事をしていてくれた時は当たり前ぐらいに思っていたから、吉野の気持ちはわかる。今考えれば、それがどれだけ恵まれていたのかも。
「お姉さんの病気どう? まだ悪いの? どういう病気?」
姉が病気で外に出られない──同僚にはそれだけ伝えてある。この手の話については、あまり突っ込んで聞いてくる人がいないのが幸いだった。しかし吉野は姉について遠慮なく聞いてくるところも実は苦手としていた。
「悪い……というか、あまり変わりはないですね」
「寝たきりとか? でも、花椿さん全部一人で背負いすぎじゃない? もし、よかったらだけど……休みの日とか手伝わせてくれないかな。なんでもするよ。ほら、男手がなきゃ出来ないこととかやるし」
もうこの言葉も何度目だろう。
断っても断っても、あまりにしつこいのだ。初めは本当に心配してくれているのかもしれない、と思っていたが、最近では家に来たい口実にしか取れない。
「お気遣いありがとうございます。でも、今のところ何とかなってますから」
「そっか、本当に何かあったら言ってよ?」
「はい。あ……すみません。ちょっと洗面所に行きたいので、あたしこれで失礼しますね」
食べ終わった弁当をしまい、吉野に礼を言って休憩室を出た。
半年経ってようやく慣れてきたが、未だに自分が何をしているのかはいまいちわかっていない。
「花椿さん」
吉野が急に椅子を近づけてきたため驚いて身構えると、パソコンの液晶を指差して「これ、違うよ」と言われた。彼の足と自分の足が触れ合っていることが気にはなったが、距離を取るのも過剰に反応していると思われるのが嫌でやめた。
そしてパソコンの画面を見つめて首を傾げる。一体、どこが違うのだろう。
「え……?」
「切手。未使用分は決算処理で貯蔵品に振り替えないと。領収証上がった来た時は通信費で処理して大丈夫だけど、九月末の日付で通信費と貯蔵品で振替入れて、十月一日の日付でその反対の処理するんだよ」
「あ……そうなんですか。すみません」
吉野はふたばと同期だが、新入社員として入社したふたばと違い、吉野は経理経験を買われて転職した社員だった。
わからないところなどを丁寧に教えてくれるし、同期だからと気にかけてくれるのは嬉しいが、いつも距離が近過ぎて苦手なのだ。
(パーソナルスペースが狭いのかな……)
決算処理の時期は忙しく、周りの同僚に聞きたいことがあっても声をかけられないほど殺伐としている。
内容がわからないのに言われるがまま仕訳処理をしていると、やはりミスも多くなる。そんな時、吉野がさりげなくふたばを気遣ってくれるのはありがたいのだが。
「切手は資産だからね。使用したら経費で落とすんだよ。でも普段はいちいち貯蔵品勘定で処理してられないから、通信費で計上していいことになってる。だから、決算期に振り替えするんだ」
「そうなんですか……」
わかるようなわからないような。
ふたばが曖昧に返事をすると、吉野は頭をグルリと回してどう説明しようかと考えているようだった。この忙しい時期に吉野の仕事の手を止めてしまうのは申し訳なかったが、聞けるなら今聞いておきたい。
「そんなに難しい話ではないんだけどなぁ。あ、もしよかったら、これ読んでみる?」
吉野は机の中から本を取り出して、ふたばへと手渡した。
「税理士探偵の事件簿? これ小説ですか?」
表紙には、可愛らしい女の子が計算機を手にするイラストがある。一見すると、男性が読みそうな本ではなさそうに思えるが。
「小説なんだけどね。たぶん、花椿さんの〝どうして?〟の謎が解けるかもしれない。税理士の女の子が会社の粉飾決算を暴いていく話。貸借対照表や損益計算書の見方がわかるようになると思うよ。いわゆる決算書類って会社の通信簿だからね。パッと見るだけで〝もう少し頑張りましょう〟なのか〝よくできました〟なのかわかる。だから、こうやって俺たちが仕訳処理していることにも意味があるってこと。流れ作業だと自分が何をしているのかわからなくなるけど、わかると楽しいよ」
「お借りしてもいいですか?」
「もちろん。一回くらい夕食付きあってくれるならね」
ポンと膝頭に手が置かれて、撫でるように手が動かされるとスカートが捲り上がってしまう。ほんの数センチのことだが、吉野の視線がスカートの中にあるような気さえしてくる。
ああ、またかと溢れそうになるため息を何とか堪えた。
手を払うわけにはいかないし、大げさにセクハラだと騒いでこの会社に居づらくなるのは御免だ。
触れ方も巧妙で、わざとなのか、偶然当たってしまったのか判断がつかない程度だから、騒ぎ立てると仕事で信頼を得ている吉野よりもふたばの方が分が悪い気がしてくる。
今までも、それとなく恋人がいるかと聞かれたり、食事へ行こうと誘われることは頻繁にあった。
けれど、特に何かを言われることはなかったし、気がつかないふりをしていた。吉野も探りを入れてくる程度で何も言ってはこないのは、ふたばとの同僚関係を壊したくはないからだろう。
ただ、正直身体に触れられるのは嫌だった。周りからは気にされない程度の時間、ほんの少し掠めるようにして触れてくる。
「じゃあ自分で買います」
「うわ、釣れないなぁ。残念。ま、これは仕事に関係あるからどうぞ。貸すよ」
「ありがとうございます」
「お昼ぐらいは一緒に食べようね」
「はい」
大体の社員が同じ部署内のメンバーと食事を摂っている。全員が席を空けるわけにはいかないため、休憩は一週間ずつ早番と遅番でわかれていた。
運悪くふたばは吉野と同じ遅番で、昼食を共にすることが多い。もちろん他にもメンバーはいるが大体が社食利用者だ。
そして仕事に没頭していると、いつのまにか十一時半から休憩を取っている早番のメンバーが戻ってきたところだった。ふたばは朝作った弁当を手に立ち上がる。吉野が忙しければ逃げられると思っていたのだが、隣に座る吉野もコンビニ袋を手に持った時点で諦めた。
「お昼行ってきます」
「俺も行ってきます」
本当は、昼食に行く前に暁史に電話をかけたかったが、さすがに吉野の前では無理だろう。あとで洗面所に行くとでも言って電話をするしかない。
ほかの遅番メンバーはゾロゾロと社食へ向かう。ふたばは弁当を持ってきているため、同じ階にある休憩室を使わせてもらっていた。
吉野は毎日ほとんどコンビニで買っているようだが、M&Bネクサス法律事務所が入るビルの社食は豪華でレストランにも引けを取らない。その分値段は多少高いと感じるものの、表参道界隈でランチをするよりかは安い。
(コンビニでお弁当買うなら、社食に行けばいいのに……)
まさか、ふたばと休憩を取るためにわざわざコンビニで弁当を買ってきているのだろうか。自惚れているつもりはないが、そう考えると吉野の行動はいささか行き過ぎているようにも思える。
休憩室で弁当を広げると、吉野が感動したように目を輝かせた。
「いつも朝からちゃんと作るんだね。冷食じゃないっしょ、それ」
物欲しそうな目を向けられるが「一口どうですか?」とは言いたくない。
「そうですね……でも、朝に夕飯も作ってから仕事に来るから、これと同じものを夕飯に食べるんですよ」
「何時に起きてるの?」
「五時です」
「五時っ⁉︎」
そんなに驚くようなことだろうか。どうしても、洗濯をして朝食、昼食、夕食を作るとなると、朝五時前に起きなければ間に合わないのだ。
「世間のフルタイムで働いてる主婦の方と同じくらいですよ」
大変ではあるが、手を抜くことも覚えて、疲れた時には惣菜を買うこともあるし、冷凍食品だって利用する。ふたばが倒れるわけにはいかないからだ。
「そっかぁ。確かにな。うちも母さん起きるのそれぐらいだったわ。母親だと当たり前ぐらいに思ってたけど、大変だよな」
ふたばも両親が家事をしていてくれた時は当たり前ぐらいに思っていたから、吉野の気持ちはわかる。今考えれば、それがどれだけ恵まれていたのかも。
「お姉さんの病気どう? まだ悪いの? どういう病気?」
姉が病気で外に出られない──同僚にはそれだけ伝えてある。この手の話については、あまり突っ込んで聞いてくる人がいないのが幸いだった。しかし吉野は姉について遠慮なく聞いてくるところも実は苦手としていた。
「悪い……というか、あまり変わりはないですね」
「寝たきりとか? でも、花椿さん全部一人で背負いすぎじゃない? もし、よかったらだけど……休みの日とか手伝わせてくれないかな。なんでもするよ。ほら、男手がなきゃ出来ないこととかやるし」
もうこの言葉も何度目だろう。
断っても断っても、あまりにしつこいのだ。初めは本当に心配してくれているのかもしれない、と思っていたが、最近では家に来たい口実にしか取れない。
「お気遣いありがとうございます。でも、今のところ何とかなってますから」
「そっか、本当に何かあったら言ってよ?」
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