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第一章

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 東京、赤坂にあるバー『night’s』は、一限様お断りといった雰囲気のある、どこか入りにくさを感じる店だった。
 九月ももうすぐ終わるのに、夜になっても湿度を含んだ空気は夏の余韻を強く残している。
 明るい店構えの飲み屋が連なる通りに『night’s』はある。しかし、その一角だけ看板もなく灯りもなく潰れた店のようにも見えるが、営業中であることは確認済みだ。
 階段下にある入り口にオレンジ色のランプが灯り、店名が浮かび上がっているだけで、道行く人はここに店があることにすら気がつかないだろう。
 ふたばは仕事帰りに駅ビルで時間を潰すと、ある目的のため、金曜日の夜八時に『night’s』にやってきた。
 彼が、金曜の夜『night’s』で軽く酒を飲んでいるのは知っている。行きつけの店だと姉から聞いていたからだ。
 いつもはファンデーションを軽く叩いて、薬用リップを塗るだけのふたばの面様は、まるで夜の仕事に出かける前の女性のように煌びやかだ。
 耳にはイヤリングをつけて、普段真っ直ぐ下に伸びた黒髪は、姉のヘアアイロンを使って巻いた。
 大学を卒業し働き始めたばかりの二十二歳という年齢を誤魔化すために、唇には真っ赤な口紅を。もともと長い睫毛は童顔を誤魔化すようにマスカラをたっぷり乗せた。
 今日着てきたスーツは駅のロッカーへと入れて、身体のラインがはっきり出る光沢のある紺色のワンピースに着替えた。胸はこれでもかというほど中央に寄せた。
 駅のトイレで全身をチェックしてきたが、店の前にくると途端に不安に襲われて、持っていた手鏡でもう一度自分の顔を見つめてしまう。
(よし……口紅もはみ出してないし。雰囲気は出てる)
 薬局の試供品で手首につけた香水もバッチリだ。
 彼は派手な女性との付きあいが多いと聞くから、ふたばなりに派手にはしてみたものの、やはり不安がつきまとう。
 一人で飲みになど行ったこともなければ、今まで男性をナンパしたこともない。自分がこれからしようとしていることは間違っていないのだと、頭の中で呪文のように繰り返した。
 地下に続く階段を降りて、プレートのかかっていない黒いドアを押しあける。
 小さな金属音を立てて開いたドアの向こうはやはり暗く、ところどころにある間接照明に照らされていた。
 店内は思ったよりも広く、十席ほどあるカウンターにテーブルが四つ。目的の男はすでにカウンターで酒を飲んでいた。
 ふたばは迷わずカウンターへ近づくと、彼と一つ席を空けて座った。視線を向けることもなく、カウンターの向こうにいるバーテンダーに酒を頼む。
「いらっしゃいませ」
「アメリカン・レモネードをお願い」
 緊張で震えそうになる手を握りしめて、精一杯余裕の笑みを浮かべる。
 普段は酒などほとんど飲まない。会社での歓迎会は事情があり欠席だったし、大学の頃から人付きあいはあまりしてこなかった。
 大衆居酒屋はあるが、こういったバーに来るのも実は初めてで、値段の書いていないメニューに驚愕している様子を見破られないようにと必死に取り繕う。
 あらかじめ、アルコール度数の低い酒を調べてきてよかったと心底そう思った。
「かしこまりました」
 バーテンダーは特に何を言うこともなく、ロンググラスにレモンを絞りシュガーシロップを入れる。ミネラルウォーターを入れて、上から赤ワインが注がれた。
 ロンググラスの中で二層に分かれたカクテルは美しく、こんな心境でなければ「すごーい!」と手を叩いて喜んでいただろう。
「お待たせいたしました」
「ありがとう」
 コースターの上に置かれたグラスを手に取り、いくばくかの緊張とともに口に含む。甘いシュガーシロップが舌に絡み、ふたばでも飲みやすいことにホッと息をつく。
 店内には数名のグループ客がいたが、落ち着いた大人の雰囲気で騒ぐこともなくグラスを傾けていた。カウンターに座っているのはふたばともう一人の男だけだ。
 ふたばは一つ空けて隣にいる男にそっと視線を向けると、赤くなりそうな頬を冷たいグラスを持った手で押さえた。
 今までは遠目からしか見たことはなかったが、彼はひどく見目のいい男だ。
 年齢は三十二歳のはずだが、男性にしてはきめの細かい肌をしていて、年齢よりも若々しい。
 縁なし眼鏡の奥に隠された細い目は切れ長で、見る者に怜悧な印象と同時に酷薄な印象をも与えているような気がした。すっきりと長い鼻筋と骨ばった顎が男らしく、どのパーツを取っても完璧だ。
 誰にでも一つくらいは外見にコンプレックスを抱いているものだが、彼がもしそのようなことを口にしたら嫌味にしか思われないだろう。
 目にかかる前髪が鬱陶しいのか、時折手の加えられていない黒髪をかきあげる仕草は大人の男の色香を多分に含んでいて、目が吸い寄せられてしまう。
 疲れているのか、眼鏡を外しグラスを傾けながら時折ため息をつく様さえ艶めかしく、動作一つ一つが息を呑むほど美しい。
(見惚れてどうするの……っ)
 ふたばは慌てて目を逸らすと、半分ほどなくなったアメリカン・レモネードを口に含む。先ほどよりも随分と甘ったるく感じて、氷を溶かすようにグラスを揺らしカクテルを飲み干した。
 これからのことを考え、多少は酔っていないと全身が震えそうだった。彼が座る左側に神経が集中し、意識を向ける。わざとスマートフォンを彼の方へと置いて、誰かと待ち合わせをしているフリをした。
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