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第九章
②
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だから、強引に引き止めてほしいと思ってしまっている。
仕方ないという体を装って静香が緩く首を縦に振ると、ようやく満足したのか史哉の視線が前を向いた。
史哉がランチでよく行くというレストランに寄ってからマンションに帰ると、ずっとはしゃいでいた幸太がおとなしくなった。
「あ……幸太寝ちゃった」
「ずっと喋ってたからな。疲れたんだろ」
会ったばかりだというのに、幸太は史哉が大好きらしく、はまっているアニメの話やゲームの話を語って聞かせていた。
史哉が子ども好きだったとは知らなかったが、彼もまた根気よく話に付きあってくれるから、幸太はより嬉しかったのだろう。
(仕事で忙しくて……あまり話聞いてあげられなかったから……)
自分がもう少ししっかりしていたら、といつも考えてしまう。
圭が購入した分譲マンションのローンの支払いはないが、生活費はかかる。どうしても圭の保険金をあてにする気にはなれずに、静香はなんとか翻訳の仕事で食いつないでいた。収入はその時々でバラバラで安定しない。
贅沢もさせてあげられず、戸澤の家にいた方が幸太の環境的にもいいのではと考えることさえあった。
(でもこの子は、圭の子じゃない……)
本来なら戸澤の家とはなんの関係もないのだ。
圭の両親には何度も言おうと思った。けれど、本当の父親は誰だと聞かれたとき、静香は答えられない。戸澤の家が調べないとも限らなかった。
誰にも言えない重い秘密は、静香が墓場まで持っていかなければならないものだ。
マンションについて、静香が幸太を抱き上げようとすると、史哉がその役を買って出てくれた。
「けっこう体重あるな」
本当の親子で触れあえる機会があるとは思ってもみなかった。泣きたいほどに嬉しくて、今泣いては不自然に思われると静香は唇を噛みしめる。
「うん……二十八キロもあるから」
父親に似て体格もいいと言いそうになって、静香は口を噤んだ。
圭は標準体型だ。身長は一七三センチで体重は六〇キロ程度だった。体格がいいとは言えないだろう。
「そうか、身長も一年生にしてはでかいしな」
「うん、そうね……」
パソコンや着替えといった荷物は静香が持ち、史哉は幸太を抱き上げて部屋に戻った。
奈津子に二日分くらいでいいと言ったのに、旅行用バッグに入れられた衣類はずっしりと重い。いったい何日分入っているのだろう。
「重かったろ。あとで俺が取りに来ればよかったな……と、幸太寝かしてくる」
「ありがと」
史哉が寝室に入っていく。そういえば、ベッドは一つしかなかったようだが、今日から幸太と静香はどこで寝ればいいのだろう。
昨夜は疲れていたこともあって彼と一緒に眠ってしまったが、まさか今日も……なんて。
(や……まさか、ね)
好きだと言われてキスをされて、ダメだとわかっているのに、史哉の手を拒みきれない。また同じベッドにいて、なにもないなんて思えなかった。もうとっくに自分たちは一線を超えてしまっている。おそらく二度目は容易いだろう。
抱かれたいとすら思ってしまう自分は、どれだけ浅はかで欲深いのか。
ソファーに座って待っていると、そっと音を立てないようにして史哉が出てくる。ドアを開けたままにしてるのは、幸太が起きたときに不安にならないようにしてくれているのだと気づいた。
「体調はどうだ? 昨日より顔色はいいけど」
「あ、うん。よく寝たから、もう大丈夫」
「じゃあ、俺はちょっと食材の買い物に行ってくるから、必要なものなにかあるか?」
史哉は立ったまま言った。彼はまだ上着すら脱いでおらず、部屋に戻りそのまま買い物に出ようと思っていたことが窺える。
「お世話になるなら……食事くらいは私が」
「無理しなくていい。俺は平日は遅いし、朝はギリギリまで寝ていたい派だ。お前は、幸太の世話に仕事もあるだろ」
「幸太にちゃんとしたご飯食べさせてあげたいの。どうせ作るから、史哉の分も作れる。要らなかったら連絡して」
二人分も三人分も一緒だと告げると、それならと史哉が妥協してくれた。幸太がいなくなってから落ち着かなかった心がずいぶんと安定している。これは間違いなく史哉のおかげだろう。
「なに買えばいい?」
「幸太見ててくれるなら、私が買い物に行ってくる」
「じゃあ、鍵渡しておく」
「ありがとう」
自宅の鍵と一緒にキーホルダーにつけようと思っていたが、そういえば鍵は彼に取られてしまっているのだと思い至る。
静香が鍵を手に固まっていると、史哉は「ちょっと待ってろ」と言って寝室に行ってしまった。
「ほら、これでいいだろ」
戻ってきた史哉の手にあったのは、ブランドもののキーケースだ。
ブランドに疎い静香でも知っている、超のつく有名ブランドで、キーケースだけでもいくらするのか想像もつかない。
「鍵開けるたびに緊張しそう」
「なんだそりゃ」
クッと声を立てて史哉が笑った。静香は雑貨に拘る方ではなかったから、財布すらノーブランドだ。
キーケースなんて持ったことはなく、いつも鍵についているのはプラスチックのキーホルダーだった。
「俺が学生の頃に使ってたもんだからな。年季入ってるけど。たしか、高校卒業のお祝いで親にもらったんだったか」
「そんな大事な物、貸してもらっていいの?」
「使ってやった方が、うちの親も喜ぶだろ」
「ありがとう」
「そうだ、静香。ちょっとスマホ出せ」
キーケースを受け取って鍵をつけていると、史哉が手のひらを静香の前に出した。手が塞がっていて鞄に入ったスマートフォンを取れない。
「テーブルにあるから、勝手に取っていいよ」
「ああ……って、お前ロックくらいかけろよ」
テーブルから静香のスマートフォンを取った史哉が信じられないと言った様子で口を開いた。ロックする必要性を感じなかったため、指紋認証とやらを設定したことはなかった。
「でも、メールくらいしかしないし」
「落としたら個人情報漏れるだろうが」
「あ、そっか」
ブツブツ文句を言いながらも、史哉は静香のスマートフォンを操作している。
十分ほど経った頃にようやく返されたが、その後に言われた言葉はチンプンカンプンだった。
「ほら、これでスマホ決済できるように金入れておいたから、食費はここから使え」
「スマホ決済って何?」
史哉が言っていることがさっぱりわからず聞き返すと、彼は唖然とした表情で口を開いたまま固まった。
おかしなことを言ってしまっただろうかと、立ったままの史哉を仰ぎ見ると、次の瞬間にはおもしろそうに史哉の口元が弧を描く。
「マジか……静香、平成に取り残されてきたな。今は令和だぞ?」
「わかってます!」
「これ見ろ。この画面出して決済端末に翳すだけだ」
史哉は笑いながらも丁寧に画面の出し方を教えてくれた。スマートフォンを翳すだけで支払いが出来るとはどういうシステムなのだろうと不思議だったが、それよりも。
「え、ちょっと待って。これ、史哉のクレジットカードから引かれるってこと?」
「そりゃ、当たり前だろ」
「ダメだよ。それは私が払うから……」
「俺の分も飯作ってもらうんだから、食費くらい払うのは当然だろ。それでも悪いと思うなら、暇がある時でいいから掃除もしてもらえると助かるな」
「それくらいいいけど……でも」
それではあまりに静香に都合が良すぎる。彼が静香を好きだという想いを利用して、部屋に住み、食費まで出してもらうなんて。
「マンション下にスーパーがあるから買い物はそこでしてくれ。ほかに必要な物があるなら駅のデパートで買えばいい。そこもスマホ決済できるから」
史哉は話は終わりだとばかりに、寝室に幸太の様子を見に行ってしまう。
彼に好きだと言えないのに、これほどまで甘やかされて、元の生活に戻れなくなったら、そう考えると怖くなった。
「買い物、行ってくるね」
寝室にそっと声をかけると、史哉が片手を上げて「了解」と応えてくる。彼が幸太を見る目は慈愛に溢れていて、まるで本当の親子のようだ。
自分が本当の父親だと知っているはずもないのに。静香が産んだ子だから、大事に思ってくれているのだろう。それが辛くて、嬉しくて、切なかった。
三日は足りるくらいの量をカゴに入れて、初のスマホ決済を試みる。
スマートフォンを手にしたままレジに並び緊張していたが、現金を出すよりも早く決済が済んだことにむしろ感動を覚えたくらいだ。
マンションに戻る足取りは重い。
史哉のために料理をする日が来るなんて思わなかった。一緒に寝起きする日が来るとも思わなかった。
このまま流されるわけにはいかないのに、たった一日で彼との生活を心地良く感じてしまっている。
(圭……ごめんなさい……)
静香さえいなければ、圭はもっと幸せな結婚生活を送れていたのではないかと何度も思う。圭を不幸にしてしまった時と同じように、今度は史哉を巻き込もうとしている。
そんな自分が許せなくなる。
鍵を開けて部屋に入ると、なにも物音が聞こえてこない。靴を脱いで寝室を覗くと、史哉は幸太と一緒に眠ってしまっていた。
眉毛の形も少しだけ下がり気味の目元も、肉厚の唇も、二人はそっくりだ。
遠目に見ていた頃は、顔の造形までじっくりは見られなかったけれど、こうして並んでいるとよくわかる。史哉が気づかなかったのが不思議なくらいだが、自分の顔はなかなか客観的には見られないものかもしれない。
静香ともよく似ていると言われるが、自分ではどの辺りが幸太と似ているのかいまいちわからない。
「パパに似たんだね……そっくり」
たしかに幸太の中に史哉の血が流れている。
そのことが静香を奮い立たせていた。史哉と一緒にはいられなくとも幸太がいればいいと、どれだけの孤独感に苛まれても一人ではないと思えたからだ。
それなのに、心地いい腕の中を知ってしまったら、静香はいったいどうすればいい。
彼の腕を取ることもできないのに、離れられなくなりそうだ。
そっと手を伸ばして史哉の髪に触れる。
「髪質は……似なかったみたいね」
幸太の髪は柔らかくて真っ直ぐだ。硬くて芯のある髪質も史哉に似ていたら、生き写しのようだっただろう。
(幸太も、こんな風になるんだろうな……)
将来が楽しみな半分、言い寄ってくる女性も多そうだといらぬ心配ばかりしてしまう。
「あ、買い物袋片付けなきゃ」
生物がビニールに入ったままだ。早く冷蔵庫に入れければ悪くなってしまう。
今日の夕飯はなににしようかと浮き足立つ気持ちを抑えることができなかった。
夕飯が終わって、幸太を風呂に入れさせてもらおうかと思っていると、来客を知らせるインターフォンが鳴り響いた。
誰か来るのなら自分たち親子は外した方がいいのではないかと彼の顔を窺うが、どうやらエントランスに来ていたのは宅配便だったらしく、上まで持ってきてほしいとインターフォン越しに彼が告げた。
「幸太、風呂入った方がいいだろ? ママと一緒に入るのか?」
史哉が聞くと、幸太がブンブンと首を振りながら答えた。
「僕一人で入れるもん!」
「そうか、偉いな」
仕方ないという体を装って静香が緩く首を縦に振ると、ようやく満足したのか史哉の視線が前を向いた。
史哉がランチでよく行くというレストランに寄ってからマンションに帰ると、ずっとはしゃいでいた幸太がおとなしくなった。
「あ……幸太寝ちゃった」
「ずっと喋ってたからな。疲れたんだろ」
会ったばかりだというのに、幸太は史哉が大好きらしく、はまっているアニメの話やゲームの話を語って聞かせていた。
史哉が子ども好きだったとは知らなかったが、彼もまた根気よく話に付きあってくれるから、幸太はより嬉しかったのだろう。
(仕事で忙しくて……あまり話聞いてあげられなかったから……)
自分がもう少ししっかりしていたら、といつも考えてしまう。
圭が購入した分譲マンションのローンの支払いはないが、生活費はかかる。どうしても圭の保険金をあてにする気にはなれずに、静香はなんとか翻訳の仕事で食いつないでいた。収入はその時々でバラバラで安定しない。
贅沢もさせてあげられず、戸澤の家にいた方が幸太の環境的にもいいのではと考えることさえあった。
(でもこの子は、圭の子じゃない……)
本来なら戸澤の家とはなんの関係もないのだ。
圭の両親には何度も言おうと思った。けれど、本当の父親は誰だと聞かれたとき、静香は答えられない。戸澤の家が調べないとも限らなかった。
誰にも言えない重い秘密は、静香が墓場まで持っていかなければならないものだ。
マンションについて、静香が幸太を抱き上げようとすると、史哉がその役を買って出てくれた。
「けっこう体重あるな」
本当の親子で触れあえる機会があるとは思ってもみなかった。泣きたいほどに嬉しくて、今泣いては不自然に思われると静香は唇を噛みしめる。
「うん……二十八キロもあるから」
父親に似て体格もいいと言いそうになって、静香は口を噤んだ。
圭は標準体型だ。身長は一七三センチで体重は六〇キロ程度だった。体格がいいとは言えないだろう。
「そうか、身長も一年生にしてはでかいしな」
「うん、そうね……」
パソコンや着替えといった荷物は静香が持ち、史哉は幸太を抱き上げて部屋に戻った。
奈津子に二日分くらいでいいと言ったのに、旅行用バッグに入れられた衣類はずっしりと重い。いったい何日分入っているのだろう。
「重かったろ。あとで俺が取りに来ればよかったな……と、幸太寝かしてくる」
「ありがと」
史哉が寝室に入っていく。そういえば、ベッドは一つしかなかったようだが、今日から幸太と静香はどこで寝ればいいのだろう。
昨夜は疲れていたこともあって彼と一緒に眠ってしまったが、まさか今日も……なんて。
(や……まさか、ね)
好きだと言われてキスをされて、ダメだとわかっているのに、史哉の手を拒みきれない。また同じベッドにいて、なにもないなんて思えなかった。もうとっくに自分たちは一線を超えてしまっている。おそらく二度目は容易いだろう。
抱かれたいとすら思ってしまう自分は、どれだけ浅はかで欲深いのか。
ソファーに座って待っていると、そっと音を立てないようにして史哉が出てくる。ドアを開けたままにしてるのは、幸太が起きたときに不安にならないようにしてくれているのだと気づいた。
「体調はどうだ? 昨日より顔色はいいけど」
「あ、うん。よく寝たから、もう大丈夫」
「じゃあ、俺はちょっと食材の買い物に行ってくるから、必要なものなにかあるか?」
史哉は立ったまま言った。彼はまだ上着すら脱いでおらず、部屋に戻りそのまま買い物に出ようと思っていたことが窺える。
「お世話になるなら……食事くらいは私が」
「無理しなくていい。俺は平日は遅いし、朝はギリギリまで寝ていたい派だ。お前は、幸太の世話に仕事もあるだろ」
「幸太にちゃんとしたご飯食べさせてあげたいの。どうせ作るから、史哉の分も作れる。要らなかったら連絡して」
二人分も三人分も一緒だと告げると、それならと史哉が妥協してくれた。幸太がいなくなってから落ち着かなかった心がずいぶんと安定している。これは間違いなく史哉のおかげだろう。
「なに買えばいい?」
「幸太見ててくれるなら、私が買い物に行ってくる」
「じゃあ、鍵渡しておく」
「ありがとう」
自宅の鍵と一緒にキーホルダーにつけようと思っていたが、そういえば鍵は彼に取られてしまっているのだと思い至る。
静香が鍵を手に固まっていると、史哉は「ちょっと待ってろ」と言って寝室に行ってしまった。
「ほら、これでいいだろ」
戻ってきた史哉の手にあったのは、ブランドもののキーケースだ。
ブランドに疎い静香でも知っている、超のつく有名ブランドで、キーケースだけでもいくらするのか想像もつかない。
「鍵開けるたびに緊張しそう」
「なんだそりゃ」
クッと声を立てて史哉が笑った。静香は雑貨に拘る方ではなかったから、財布すらノーブランドだ。
キーケースなんて持ったことはなく、いつも鍵についているのはプラスチックのキーホルダーだった。
「俺が学生の頃に使ってたもんだからな。年季入ってるけど。たしか、高校卒業のお祝いで親にもらったんだったか」
「そんな大事な物、貸してもらっていいの?」
「使ってやった方が、うちの親も喜ぶだろ」
「ありがとう」
「そうだ、静香。ちょっとスマホ出せ」
キーケースを受け取って鍵をつけていると、史哉が手のひらを静香の前に出した。手が塞がっていて鞄に入ったスマートフォンを取れない。
「テーブルにあるから、勝手に取っていいよ」
「ああ……って、お前ロックくらいかけろよ」
テーブルから静香のスマートフォンを取った史哉が信じられないと言った様子で口を開いた。ロックする必要性を感じなかったため、指紋認証とやらを設定したことはなかった。
「でも、メールくらいしかしないし」
「落としたら個人情報漏れるだろうが」
「あ、そっか」
ブツブツ文句を言いながらも、史哉は静香のスマートフォンを操作している。
十分ほど経った頃にようやく返されたが、その後に言われた言葉はチンプンカンプンだった。
「ほら、これでスマホ決済できるように金入れておいたから、食費はここから使え」
「スマホ決済って何?」
史哉が言っていることがさっぱりわからず聞き返すと、彼は唖然とした表情で口を開いたまま固まった。
おかしなことを言ってしまっただろうかと、立ったままの史哉を仰ぎ見ると、次の瞬間にはおもしろそうに史哉の口元が弧を描く。
「マジか……静香、平成に取り残されてきたな。今は令和だぞ?」
「わかってます!」
「これ見ろ。この画面出して決済端末に翳すだけだ」
史哉は笑いながらも丁寧に画面の出し方を教えてくれた。スマートフォンを翳すだけで支払いが出来るとはどういうシステムなのだろうと不思議だったが、それよりも。
「え、ちょっと待って。これ、史哉のクレジットカードから引かれるってこと?」
「そりゃ、当たり前だろ」
「ダメだよ。それは私が払うから……」
「俺の分も飯作ってもらうんだから、食費くらい払うのは当然だろ。それでも悪いと思うなら、暇がある時でいいから掃除もしてもらえると助かるな」
「それくらいいいけど……でも」
それではあまりに静香に都合が良すぎる。彼が静香を好きだという想いを利用して、部屋に住み、食費まで出してもらうなんて。
「マンション下にスーパーがあるから買い物はそこでしてくれ。ほかに必要な物があるなら駅のデパートで買えばいい。そこもスマホ決済できるから」
史哉は話は終わりだとばかりに、寝室に幸太の様子を見に行ってしまう。
彼に好きだと言えないのに、これほどまで甘やかされて、元の生活に戻れなくなったら、そう考えると怖くなった。
「買い物、行ってくるね」
寝室にそっと声をかけると、史哉が片手を上げて「了解」と応えてくる。彼が幸太を見る目は慈愛に溢れていて、まるで本当の親子のようだ。
自分が本当の父親だと知っているはずもないのに。静香が産んだ子だから、大事に思ってくれているのだろう。それが辛くて、嬉しくて、切なかった。
三日は足りるくらいの量をカゴに入れて、初のスマホ決済を試みる。
スマートフォンを手にしたままレジに並び緊張していたが、現金を出すよりも早く決済が済んだことにむしろ感動を覚えたくらいだ。
マンションに戻る足取りは重い。
史哉のために料理をする日が来るなんて思わなかった。一緒に寝起きする日が来るとも思わなかった。
このまま流されるわけにはいかないのに、たった一日で彼との生活を心地良く感じてしまっている。
(圭……ごめんなさい……)
静香さえいなければ、圭はもっと幸せな結婚生活を送れていたのではないかと何度も思う。圭を不幸にしてしまった時と同じように、今度は史哉を巻き込もうとしている。
そんな自分が許せなくなる。
鍵を開けて部屋に入ると、なにも物音が聞こえてこない。靴を脱いで寝室を覗くと、史哉は幸太と一緒に眠ってしまっていた。
眉毛の形も少しだけ下がり気味の目元も、肉厚の唇も、二人はそっくりだ。
遠目に見ていた頃は、顔の造形までじっくりは見られなかったけれど、こうして並んでいるとよくわかる。史哉が気づかなかったのが不思議なくらいだが、自分の顔はなかなか客観的には見られないものかもしれない。
静香ともよく似ていると言われるが、自分ではどの辺りが幸太と似ているのかいまいちわからない。
「パパに似たんだね……そっくり」
たしかに幸太の中に史哉の血が流れている。
そのことが静香を奮い立たせていた。史哉と一緒にはいられなくとも幸太がいればいいと、どれだけの孤独感に苛まれても一人ではないと思えたからだ。
それなのに、心地いい腕の中を知ってしまったら、静香はいったいどうすればいい。
彼の腕を取ることもできないのに、離れられなくなりそうだ。
そっと手を伸ばして史哉の髪に触れる。
「髪質は……似なかったみたいね」
幸太の髪は柔らかくて真っ直ぐだ。硬くて芯のある髪質も史哉に似ていたら、生き写しのようだっただろう。
(幸太も、こんな風になるんだろうな……)
将来が楽しみな半分、言い寄ってくる女性も多そうだといらぬ心配ばかりしてしまう。
「あ、買い物袋片付けなきゃ」
生物がビニールに入ったままだ。早く冷蔵庫に入れければ悪くなってしまう。
今日の夕飯はなににしようかと浮き足立つ気持ちを抑えることができなかった。
夕飯が終わって、幸太を風呂に入れさせてもらおうかと思っていると、来客を知らせるインターフォンが鳴り響いた。
誰か来るのなら自分たち親子は外した方がいいのではないかと彼の顔を窺うが、どうやらエントランスに来ていたのは宅配便だったらしく、上まで持ってきてほしいとインターフォン越しに彼が告げた。
「幸太、風呂入った方がいいだろ? ママと一緒に入るのか?」
史哉が聞くと、幸太がブンブンと首を振りながら答えた。
「僕一人で入れるもん!」
「そうか、偉いな」
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