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第七章

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第七章
 出汁の香りにこくりと喉が鳴る。
 空腹できゅうっと腹が音を立てて、自分の身体から発せられる音で目を覚ますのは初めてだった。
 やたらと気分がスッキリしていて、身体が軽い。頭にかかっていたモヤのようなものが、綺麗さっぱりなくなっている感じがする。
「あれ、ここ……どこ」
 見覚えのない天井に、見覚えのない部屋。ベッド脇に置かれた時計が視界に入る。夕方にしてはずいぶん明るいから、今は朝の六時なのだろう。
 いったいなにがあったのか、と混乱する頭で思い出していると、部屋のドアが開いて史哉が顔を出した。
「ああ、起きたか」
「ふ、史哉……」
 彼の顔を見ると一気に記憶が蘇ってきた。
 かぁっと頬が熱くなる。史哉が何事もなかったかのように接してくるから、もしかしたら自分の妄想だったのだろうか、と記憶を遡ってみるが、柔らかい唇の感触まで思い出してしまって、いてもたってもいられなくなった。
 嘘だと思いたかったけれど、いくら具合が悪くとも夢と現実の区別くらいはつく。昨日のことは間違いなく現実だ。
「寝ぼけてるな。もう朝だよ。起きられるなら飯食うぞ」
 それだけ言うと史哉はバタンとドアを閉めてしまった。
 昨日ことを気にされなければされないでショックだ。傷ついている自分にも驚いている。
(気にしてほしかったの……私は……? もう忘れるって決めたじゃない)
 ベッドから降りてリビングへ行くと、ダイニングテーブルには朝食というには豪華なメニューが並んでいた。
 味噌汁にわかめとしらすのご飯。焼いたシャケとほうれん草のおひたし、目玉焼きとウィンナーにサラダ、それにバターをたっぷり塗ったフランスパン。
(和食と洋食……なんで?)
「豪華ね……」
「目玉焼きとウィンナー焼いた後に気づいたんだよ。お前全然食事してないだろ、胃に優しいものの方がいいかって」
 倒れた静香を気遣ってのメニューだったのか。朝からこんなに作るのは大変だっただろうに。
「自炊してるんだ」
「一人暮らし長けりゃな、必要に駆られて、ほら」
 キッチンカウンター越しにマグカップに入った温かい緑茶が手渡される。
「ありがとう」
「冷めないうちに食えよ」
「いただきます」
 史哉もテーブルに着くと、手を合わせていただきます、と言った後箸をつけた。味噌汁は静香が使う市販品のとはあきらかに味が違う。出汁がしっかりと利いていて、いくらでも飲めそうだ。
「美味しい」
「そうか、よかった」
 久しぶりに温かい食事をした気がする。
 幸太が一緒にいる時は当たり前だったのに、たった三日間でもずいぶんまともな生活をしていなかったような気さえする。
 あまりに美味しくて涙がこぼれそうになる。幸太は今、何をしているのだろう。おばあちゃんと楽しく過ごしているのだろうか。寂しい、会いたいと思っているのは静香だけなのか。
「う……っ、ぐす……」
 ボロボロと泣きながら味噌汁を飲んでいると、目の前からティッシュが顔に押しつけられる。史哉は何を言うこともなく黙々と食事を済ませていたが、彼のなんでもない優しさが身に沁みた。
 悠長に史哉の家でぬくぬくとしている場合ではない。早く幸太を迎えに行かなくては。学校の問題ではない。幸太自身が本当に戸澤の家で暮らしたいと思っているのか、それを聞きたい。静香は幸太の意思を尊重するだけだ。
 正直、静香の給料だけでは塾に行かせてあげることもできない。なにかあった時のためにと、圭が亡くなった時の保険金には手をつけていないし、戸澤の家からもらっている金を使う気もなかった。
(だから……幸太が、私のところにいるのが嫌って言うなら……ちゃんと受け止めなきゃ)
 戸澤の家で暮らせば、勉強だってたくさんできる。頭の出来は史哉に似たのか、幸太は勉強が好きだ。よく図書館から借りた本を読んでいるし、まだ小学校入学前だと言うのに文庫本も読んでいるくらいだ。ただ文字を書くのは嫌いなようで、幸太が自分の名前をひらがなで書いているのはそのためだ。
「私、今日帰るから……昨日は泊めてくれてありがとう」
「忘れてないか? お前の家の鍵、俺が持ってるってこと」
「お願い、返して」
「返さない。また倒れたらどうするんだ。次は家の中だったら? 誰もいないだろう? だからここにいろ。仕事用のパソコンは持ってきてやるから」
「無理よ、そんなの!」
 史哉の前で平静でいられる自信はない。今だって一緒にいるだけで想いが溢れてしまいそうになるのに。一緒に住むだなんて。
「言ったろ。俺はお前が好きだ。あわよくばって今だって思ってる。だから、お前を振り向かせるために俺はなんでもする。静香が幸太を取り戻したいって言うなら、俺がなんとかしてやる」
「どうやって? 私なんて、門を開けてももらえないのに」
「大丈夫だから心配するな。ただ、俺に襲われたくなければちゃんと警戒しろよ? そんなに隙だらけじゃ、俺も我慢が効かない」
 立ち上がった史哉がおもむろに顔を近づけてきた。慌てて避けてももう遅い。チュッと唇が触れて、すぐに離れていく。
「な……っ、なにするの!」
「ご馳走さま」
 いったいなにがご馳走さまだと彼を睨むが、本当に食事を終えていた史哉は食器を片付けにキッチンへと行ってしまう。
「あ、片付けくらいはやるから」
「いいよ。とりあえず休んでおけ。まだ体調そこまでよくないだろ」
「昨日いっぱい寝たから、もう平気よ」
 静香も自分の食器をキッチンへと持っていき、史哉の身体を無理やり押しやると皿を洗う。リビングへ戻ればいいのに、静香の後ろでおもしろそうに食器を洗う姿を見ているのだから趣味が悪い。
「どうしてそこにいるの?」
「ん~? 触りてぇなって」
「はっ? ちょ、ダメだからね!」
 静香の手は泡だらけだ。今触られてもどうすることもできない。慌てて言い募ると、史哉は口元をニヤリと歪めて、両手を前に出してきた。
「ダメ、ダメっ! やだってば」
「ほら~」
「やっ、あぁん、どこ、触って! ちょ、ほんとに……っ」
「いい声だな」
 史哉は脇腹に手を差し込んでくる。そのまま静香の腰に手を下ろすようにくすぐられて、全身がゾワゾワして堪らない。
「はぁっ、もっ……やめてってばぁ……っ」
 荒い呼吸が続いて涙目になって訴えても、彼の手は止まらない。だんだん史哉の手の動きがくすぐっている感じではなく、撫でるような動きになっていることにも気がつかなかった。

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