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第五章

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「幸太、迎えに行く時間でしょ? 久しぶりに静香と話せてよかった。それなのに私、怒ってばっかでごめん。史哉も、静香のこと気にかけてたのよ……でも、会うつもりはないのよね?」
「うん、ない。ごめんね」
 その言葉だけで十分だ。社交辞令に過ぎないだろうが、心配してくれているのだと思えば、支えになる。
「私に謝ることじゃないから。いいの、あんたの中で終わってるなら」
 奈津子はそう言って鞄を持ち玄関に向かった。電話の横に置かれた圭の写真を見て、切なげに目を細める。
 史哉が中央支店勤務になった時はよく四人で食事に行った。誰が誰を好きかなんて関係なく、自分たちは仲のいい同期だった。
 あの頃に戻れたら──そう思わないわけじゃないけれど。
 静香には幸太がいてくれるから、それでいい。
「今度は、また幸太にも会いにくるよ。私のこと忘れんなって言っておいて」
「ふふっ、奈津子のこと忘れるわけないよ。ライダーごっこしてくれるの奈津子だけだからね。いっつもあの人パパみたいって言ってる。覚えてるわけないのに」
「ママじゃなくてパパかよ。でも圭が生きてたら、幸太と戦いごっこしてやられたふりしてさぁ。パパ弱いとか言われてんの想像つくわ」
「ん、想像つくね」
 圭が亡くなった時、幸太は二歳だった。イヤイヤ期に入って、静香のいうことなどなに一つ聞いてはくれないのに、圭の言葉にだけはきちんと耳を傾ける子だったのだ。
 残業が多く帰るのも遅いのに、圭が変わらない愛情を毎日与え続けてくれたおかげだろう。
 そして、それまでは毎日のようにパパと一緒に遊ぶと言って聞かなかった幸太が、圭が亡くなったあと一度も、寂しいと口に出すことはなかった。
 保育園に行く際も、静香の真似をしてか圭の写真に手を合わせて「いってきます」をすることを自然に覚えた。
(たぶん、私が泣いたからだろうな……)
 警察から電話があり、病院へ遺体の確認に行く際、幸太がいるのも忘れて泣きじゃくった。心配した保育園の園長が、事情を聞き夜まで預かると申し出てくれたため、甘えることにして病院へと向かったのだ。
 そのあとは悲しみに暮れる暇もなかったが、あの出来事は幸太の中にも一石を投じるきっかけになったのだと思う。
「なんかしんみりしちゃったね。私帰るわ。またね」
「うん、奈津子、ありがとう」
「なにがよ。じゃあね」
 奈津子は笑って手を振った。
 静香は部屋に戻ると、同じマンション内に住む知人、杉山《すぎやま》美里《みさと》へと連絡を入れた。息子同士が同い年で一つ下の階に住んでいるため、頻繁に子ども同士が行き来している仲だ。幸太は、美里の家に行くと言っていつものように家を出た。
 今日はありがとう、もうすぐ迎えにいきます、とだけメッセージを入れてちょっとした菓子を用意した。
 するといつもなら簡単なメッセージだけ返す美里からスマートフォンに着信がある。なんだろうと電話に出ると、焦ったような声色で美里が「あれ……おばあちゃん家に行くって連絡したよ」と言った。
「え……? おばあちゃん? 何時くらいに?」
 どういうことだろう。まさか連絡もなしに幸太を連れにきたのだろうか。そんなはずはない、とは言い切れない。最近、幸太を通わせる小学校のことに口を出され足が遠のいていたから強硬手段に出たのだろうか。
『三十分くらい前。二人を公園に連れていったんだ。そうしたら、マンションの前で幸太くんのおばあちゃんが来てたの。幸太くんがおばあちゃんって呼んでたから、間違いないと思うけど』
「そう……わかった、ありがとう」
 おばあちゃん、と幸太が呼ぶのは圭の母親一人だけだ。幸太にはいい祖母として接してくれているから、よく懐いているし向こうも可愛がってくれている。
『うちでおやつでも食べようって幸太くん連れて行ったんだけど。ねぇ、まさか、誘拐とかじゃないよね? どうしよう、ごめん……私』
 静香の声色に動揺が含まれていたからだろう。美里の声も震えていた。
 美里だって知らない相手に幸太を引き渡したりしない。幸太がおばあちゃんと呼んでいたのを聞いている。であれば、間違いないはずだ。
「大丈夫よ! 私こそごめんなさい、驚かせて。おばあちゃん連絡し忘れちゃったのかもしれないから、こっちから聞いてみる」
『うん。なにかあったら言ってね』
 美里の電話を切って、すぐに圭の実家へとかけ直す。気持ちを落ち着けるため、深呼吸をしてから相手が出るのを待った。
 そして電話に出たのは、いつもの使用人だ。
「戸澤静香です。そちらに、うちの幸太がお邪魔していると伺ったのですが……」
『少々お待ちください』
 相手が静香だとわかるや否や、使用人の声が不躾な態度へと変わる。静香のことを、息子を騙して結婚相手に収まった悪女だとでも聞いているのだろう。
 圭の家族と仲良くできればいいとずっと思ってきたが、圭の母親は静香を恨んでいるし、父親はあまり家族のことに関心がないようだ。通夜の席でも静香に一瞥をくれることもなかった。
 圭の母親は、静香を恨むことでしか気を晴らすことができないのだろう。幸太は圭と血の繋がりのある唯一の子として可愛がられているが、まったくの他人の静香に対しては辛辣だ。
(あながち、間違ってないしね……)
 ため息を飲み込んで電話の相手を待つと、しばらくして保留音が止まりようやく目当ての相手が電話に出た。
『なんの用かしら?』
「ご無沙汰しております。静香です」
『わかっているわ。用件を言って』
「幸太がそちらに伺っていると聞きました。どうしてご連絡くださらなかったんですか?」
 つい咎めるような口調になってしまう。七歳の子を勝手に連れ出すなんてと怒りさえあった。静香を憎むのは構わないが、幸太がいなくなり静香がどれほど心配するか考えが及ばないのだろうか。
『あら、幸太が家に来ることを望んだのよ。私はちゃんと聞いたわよ、おやつを食べに来るかって』
「そんなの……っ」
 まだ七歳の幸太にそこまでの判断能力はない。祖母におやつを食べにと言われたら行くに決まっているじゃないか。
『そもそもあなたが頑だからいけないんでしょう? 金は出してやると言っているのだからいうことを聞けばいいものを』
「幸太が望めばと言ったはずです! 幸太は近所の友達と同じ小学校に通いたいと言っていますから」
『母親に洗脳されてるのね。かわいそうに。あなたがなんと言おうと、幸太は圭が通っていた私立の小学校に通わせます。特別措置で転校という扱いで編入試験を受けられることになったのよ。けど、びっくりしたわ。まだ自分の名前も漢字で書けないなんて。あなたが母親として愚鈍だから、幸太が勉強嫌いになったのね……まったく、これだから親のいない子は。言いましたよ、私は。母親として至らない点があれば、すぐにでもこちらで引き取ると』
「幸太と話をさせてください……っ」
 七歳で自分の名前が漢字で書ける子もいるかもしれないが、書けなかったからなんなのだ。これから勉強すればいいじゃないか。
 静香を母親として至らない詰る以前に、無断で子どもを連れ出している自分の方がよほど非常識なのではないだろうか。
『もうあなたと話すことはないわ』
「ちょっと待って……っ」
 ブツっと電話の切れる音がする。
 静香は黙っていられずに上着を着て部屋を出た。
 駅まで駆け足で急ぐと、来たばかりの電車に飛び乗って圭の実家へと向かう。ずっと家で仕事ばかりしている生活を送っているからか、体力が年々衰えているのを感じる。少し走るだけで息が切れて苦しい。
 圭の実家に着く頃には、額や背中が汗でじっとりと濡れていた。
 何度来ても慣れない。冷たいばかりの広いお屋敷を見上げる。
 使用人を含めれば大勢の人間が住んでいるはずなのに、門の外からはなんの音も聞こえず、どこか陰鬱な雰囲気すら漂っている。
 インターフォンを鳴らしてしばらく待つが応答はない。鉄製の門を両手で握り締めると、ガシャンと金属の音が響く。まるで檻のようだ。
「いるって……わかってるのに、出てよ……」
 三十分は経っただろうか。何度インターフォンを鳴らしても使用人の一人すら出てはこなかった。
(幸太……っ、どうしよう……)
 子どもの人生を勝手に決める権利があるのか。幸太が楽しく通えるなら学校なんてどこでもいい。圭の母親の金に頼りたくはなかったが、幸太がそれでいいと言うなら私立にだって通わせる。だから──。
「私から……あの子を奪わないで……っ」
 もしかしたら、もう二度と幸太と会わせてはもらえないかもしれない。背中に流れる汗が静香の冷えた身体を震わせた。
(幸太は、圭の子じゃないと言えば……)
 圭と血の繋がった子だから、幸太を可愛がっているだけだ。違うと知れば、幸太にも静香にももう用はなくなるだろう。
 一瞬頭を過ぎったがそれはやはり出来ない。万が一にも本当の父親が誰かという話になったら。彼に迷惑をかけるのは嫌だ。
(史哉は、もう結婚してるんだから……)
 とりあえず待つしかなく、門の前でどうすることもできずに立ち竦む。辺りが薄暗くなり、気温が下がってくると、ますます汗ばんだ身体の芯が冷えて身体が小刻みに震えてきた。
 仕事の電話も入ってしまい仕方なく一旦家に戻るが、パソコンを開いてもとても仕事が手につく状況ではなかった。
 眠れない一夜を過ごし、翌日もその翌日も圭の実家に足を運ぶものの、幸太に会うことは叶わなかった。
 なにか食べ物を口にしなければと思うのに、水さえ喉を通らない。もう二度と幸太に会わせてもらえなかったらと考えると絶望しかなかった。
 また朝になり、ふらふらと電車を乗り継いで圭の実家へと向かう途中、突然なにかに呼ばれるかのようにある駅に辿り着く。
(ここ……ずいぶん久しぶり……)
 駅近くにある二階のカフェで、横断歩道を歩く人々を見つめては史哉の姿を探していた。
 なんとなく足が向いて階段を上がってみたが、そこにはすでに別のカフェが入っていた。
(そりゃ……五年も経てば変わるわよね……)
 人も、人の気持ちも変わるはずだ。
 静香はずっと史哉に抱かれたあの夜から動けないでいる。
 周りの状況はどんどんと変わっていっているのに、自分だけがあの日から置いてけぼりを食らったままだ。
 もう行かなければ、今日こそは幸太に会わせてもらおう。カフェを後にし駅へ向かって歩いていると、急激な目眩に襲われた。天井がグラグラと揺れて、一瞬地震が起こったのかと思った。
 立っていられずに蹲ると、身体から力が抜けて意識さえ遠のいていく。
「こ、うた……」
 目の前が暗くなり、目を閉じる直前、愛しい人の声が頭の中に響いた気がした。
「静香っ‼︎」

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