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第五章

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第五章
 ため息をつきながら、静香は左手の薬指にはめられたままの指輪に触れた。
 リビングに置かれた圭の写真は、亡くなった歳の春に家族で花見に行った時のものだ。初めてデートをした公園に幸太を連れていった。幸太はまだ桜がなんなのかすらわかっていなかったけれど、圭に肩車されて嬉しそうだった。
(圭、若いな……)
 もう、彼の歳を越してしまった。気づけば二十八歳。時間が経つのはとにかく早くて、毎日必死に生きていたらあっという間に二十代後半だ。
 目の前でその様子を見ていた奈津子が、同じようにため息をつきながら口を開いた。
「もう、いいんじゃないの?」
「なにが?」
「自分を許してあげても、いいんじゃないの?」
 土曜日、久しぶりに家に来たいと奈津子から連絡があって快諾したのは昨日のことだ。
 部屋は圭と住んでいたあの頃のままだ。
 彼が亡くなって五年が経ち、息子の幸太は七歳になった。
 もうすぐ小学校の入学式だ。今日は同じマンションに住む友達の家に行くといって、出かけている。まだ一人で行動させるのは心配だったが、小学校に向けての練習だと自分に言い聞かせた。
 幸太がいないから、奈津子も重い口を開いたのだろう。いつもは、史哉との過去や、幸太の父親に関することをこの部屋でおいそれと話しはしない。
 静香は圭の遺影に視線を移し、首を横に振った。
 誰が許すと言っても、自分が自分を許せなかった。
「誰も悪くない。圭は事故だったのよ。自分で運転して帰ると決めて、運悪く周りの事故に巻き込まれてしまっただけなんだからさ」
 たしかに帰ると決めたのは圭だ。銀行を出て五分もしないうちに、スリップした車に巻き込まれて電柱にぶつかった。
 けれど、静香があんな雪の日に史哉に会いに外に行かなければ、彼は車で迎えに来ようとは思わなかったかもしれない。家で仕事をしていれば、もっと早くに連絡さえしていれば。後悔ばかりだ。
「でも……やっぱり私のせいなんだよ」
「ねぇ、まだ圭のご両親からなにか言われるの?」
 奈津子の問いに、静香は肯定も否定もできなかった。けれど奈津子はそれを無言の肯定と取ったようだ。
 絶縁状態にあった圭の両親と初めて会ったのは、あろうことか圭の通夜だった。
 銀行からの連絡で両親は圭の死を知ったらしく、結婚していたことさえ聞かされていなかったらしい。
 精神的にボロボロになりながらも「ご挨拶が遅れて申し訳ありません」そう言って頭を下げた静香を前にして、圭の母親はこう言った。
『あなたのせいよ! 雪の日に、迎えに来させるなんて!』
 誰になにを聞いたのかはわからなかったが、後から圭の両親が探偵を雇っていたことを知った。どこまで調べたのか、静香が外で仕事をしていたことまで突きつけられて、二の句が告げなかった。
 圭の両親は明治の代から続く資産家だと同僚が教えてくれた。
 静香を敵視しているのは会った瞬間に気づいた。ただ、幸太を圭のDNAを残す唯一の存在と認識したのか、跡継ぎにと申し出てきてからは圭の思い出に浸る暇さえ与えられなかった。
「向こうがなにを言ってきても、渡しちゃダメよ」
「わかってる」
 幸太は彼の子ではないと正直に言えば、きっと興味をなくす。けれど、そこから本当の父親の存在に行き当たってしまうのは静香にとって非常にまずい事態だ。幸太を戸澤の跡取りにするしないは本人に決めさせます、と告げた静香に、圭の母親は蔑んだ目を向けてこう言った。
『妊娠を盾に結婚を迫るような女ですもの。たしかに子どもがいなかったら、またどこかの男を引っかけてすぐに再婚なさるかもしれないわね。私たちはあなたが幸せになるのは望んでいない。でも、戸澤の跡継ぎに貧乏な暮らしをさせるわけにはいかないから、金銭面の援助はしてあげます。子育てをしていれば男と会う暇もないでしょう? その代わり、少しでも親として不適合とみなした場合、幸太はこちらが育てます。よろしいですね?』
 金銭的な援助は必要なかったが、それも静香の暮らしを見張るためのものだろう。妊娠して結婚するとなればこうなるのが目に見えてわかっていたから、圭は両親に合わせなかったのだと今更知ることとなった。
 けれど、この時の静香にはそれすら嫌だと突っぱねられるだけの体力は残されていなかった。待ってはくれない子育てに、仕事、事故を起こした相手との交渉。圭を思って泣く時間すらなかった。
 奈津子にも言いにくく話せずいたのだが、付きあいが長い分隠し事はすぐにバレる。気づけば、胸の中に溜り続けた恋心さえも話していた。
 ただ、彼らの言うことを聞くわけではないが、静香は圭を忘れて誰かと再婚するなんてみじんも考えてはいない。
「私は、幸太がいてくれればそれでいいの」
「子どもが子どもでいてくれるのは、長い人生の中のほんの僅かな時間よ? 二十歳にもなれば家を出て一人で暮らす子もいる。静香はその時四十代。長ければまだ半分以上の人生が残されてる。ずっと圭のことを後悔したまま、そうやって過ごすの?」
「だって、私があの時、史哉に会いにいかなければ……」
「なに言ってんのっ? 圭はなにもかもを知った上であんたと結婚することを選んだ。史哉への気持ちが残ってることくらい承知の上で。圭は一つも後悔なんかしてなかったでしょうよ。静香が好きで好きで仕方がなくて、どんな手を使っても手に入れたいと思ってたんだから! あんたは何もかも中途半端だよ。史哉を忘れられないくせに、圭にも甘えて、それで自分ばかりが不幸な顔をしてる。旦那には死ぬまで愛されて、愛してる人の子どもがいて、どこが不幸だっての! 恋愛しろとは言わない。けど、圭はもういない。静香が誰を好きでも、誰と恋をしても、咎められない」
「うん……」
 それでも、静香はもう恋愛も結婚もするつもりはなかった。史哉以外の誰かを好きになれるとも思えない。たとえ何年会わなくとも彼への気持ちは残ったままだ。
(ずっとこの想いを抱えたまま幸太と二人で生きていく。それが……圭への償いになるかはわからないけど)
 奈津子と昼食を食べ終えて三時を過ぎた頃。
 静香が時計に視線を移したタイミングで、奈津子がそろそろと腰を上げた。

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