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第三章

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 圭は買って知ったる街なのか、迷うことなくデパートの駐車場へと入っていった。よくあるレストランフロアで昼食を取るのかと思っていたが、車を降りて向かったのはこじんまりとしたレストラン。外にはイタリアの国旗が掲げてあるからパスタやピザを提供する店なのかもしれない
「ここ?」
「ああ。おいで」
 手を差し出されて、反射的に圭の手を取ってしまう。あ、と思った時には圭の口元がふっと緩んでいた。
「そうやって、俺と手を繋ぐことにもっと慣れて」
 甘い声で告げられて、目を疑うような値段のパスタも、味を感じることさえできなかった。圭の思惑通りに進んでいる気がしてならない。これじゃダメ、そう思っても上手く断る術を静香は知らない。
「いつも、圭はこういう店で食べてるの?」
「まさか! 静香とデートだからカッコつけてるんだよ。面倒な時はファストフードも行くし、立ち食いそばで昼済ますこともある」
「そうなのっ?」
 カッコつけてる、と自分で言ってしまったら意味がないのに。そう思うとおかしくて静香は相合を崩した。
「そうだよ。ちなみにクーポンも使うからな」
「ふふっ、お得だよね。私も使う」
 真面目だし正直だし、圭の人となりはすごく好きだ。一緒にいて会話が止まっても、苦にならない。
 食事を終えてどこに行くのだろうと思っていると、車が停められたのはコンビニの駐車場だった。なにか買うものでもあったのかと圭を見ると、ギアをパーキングに入れた圭が静香を見つめて言った。
「デザート奢ってくれるんだろ?」
「え、コンビニのでいいの?」
「ああ。買って、どこかで食わないか? 今日暖かいし……この近くに公園ある。花見しよう」
「わかった」
 静香は圭が選んだデザートと飲み物を買った。静香もわりとよく食べるフルーツがたくさん使われたケーキだ。
 車に戻ると、圭もなにか買ったのか後部座席にビニール袋が置かれる。
 都が管理する公園は広く、天気もいいからか広場にはテントを張る家族連れの姿も多くあった。どうせならビニールシートくらい持ってくればよかったと思っていると、コンビニのビニール袋から圭がシートを取り出して広げ出す。
「さっきこれ買ってたの?」
「ああ。コンビニってなんでも売ってるんだな。なかったら新聞紙にでもしようかと思ってたけど」
 おそらく子ども用なのだろう。大人二人が座るには狭いが、足を前に出して体育座りをすればなんてことはない。
「あ、私もコーヒー買ってきたんだ。圭、ブラックでよかったよね?」
「ああ、サンキュー」
 ビニール袋から買ったカップケーキを出して二人で食べた。
「美味しい」
「静香がたまに買ってんの知ってたから、好きなのかと思って」
 たしかに仕事前にコンビニに寄って買っていた。
「うん、けっこう好き」
 肩と肩が触れる距離に圭がいて、紛れもなくこれはデートだ。それでも史哉と一緒にいる時のような高揚感はない。ただ、一緒にいてこれほど落ち着いていられる人もそうはいない。
「コンビニのデザート、バカにできないよなぁ」
「うん。美味しいよね」
 ケーキを食べ終えて、コーヒーを飲みながら舞い上がる桜の花びらをぼうっと見つめる。キュッと繋がれた手のひらから彼の想いが伝わってくるようで、静香はなかなか決心できないでいた。
「圭は……なんで、私なんか好きになったの?」
「なんか、って言うよな、静香はいつも」
「そう、かもしれない」
 圭は肩書きをひけらかしてくるような男ではない。けれど、どうしても自分との差のようなものを感じてしまうのは、仕方のないことだ。生まれも育ちも違うのだから。
「見た目はお高く止まってそうな美人なのに。静香はいつも周りに合わせてばっかりだった。なにかを選ぶ時も、必ず最後に残ったのを選ぶだろ。どうしてだろうっていつも思ってた。そしたら、気になっていつのまにか目で追うようになってたんだよ」
 圭は食べ終えたカップケーキを静香の前に掲げて言った。たまたま好きなケーキだったけれど、圭が違うケーキを選べば静香もそれにしただろう。
 選択を迫られた時、なにが好きとか、なにが嫌いとか自分から言うことはない。圭はそれがわかっていたから、静香がよく食べているケーキを選んでくれたのだ。
「ずっと、施設で育ったから……周りに譲ってあげるのが当たり前だったの。欲しいものが当たり前に買える環境じゃなかったし」
 ランドセルも洋服もおもちゃも、誰かのお下がりだった。けれど不満に思ったことはない。自分が生きていられたのは施設がしかるべき手続きをして引き取ってくれたからだ。
「両親、亡くなったって言ってたよな?」
「本当はわからないの。生まれてすぐ、施設の前に捨てられたから。たとえ生きていても会いたいとは思わないけど」
 静香が自嘲的な笑みを浮かべると、繋いだ手が強く握られる。同情だろうか、かわいそうな目で見られることには慣れている。
「静香と似たような環境だとは言えないけど。俺も、もう何年も自分の親には会ってない。今後も会うつもりはない。わりと冷めた家でさ……だからか、普通の家庭にめちゃくちゃ憧れてるんだよな」
 静香を見つめる圭の目は同情を含んだものではなかった。いつもと同じ瞳の色だ。彼はなにを知っても変わらずに、静香が好きだと伝えてくれている。
「静香と家族になりたい。普通でいいんだ。一緒に笑って、時々喧嘩して、それでも一緒にいられるような……普通の夫婦になりたい」
 繋いだ手が持ち上げられて、愛おしむように圭の唇が触れた。
「無理だよ……圭がよくったって。私には親だっていないし……それに、まだ……」
「史哉を好きなままでいいって言っただろ? 何年だって、静香の気持ちが追いつくのを待つ。それこそ一生だっていい」
「なんで……そこまで」
「静香ほど好きになれた女、いなかったから。自分でもよくわからないけど、たぶんずっと好きだと思う」
 たぶんずっと好きだと思う──そう言った圭の顔は、甘い言葉とは裏腹に切なげだった。たとえ、静香が史哉を忘れられなくとも、圭もまた静香を忘れられないとそう言っているように聞こえた。
「圭、ごめん……でも私、昨日」
 彼の人生を静香に縛りつけることなんてできない。早く自分のような女のことなど忘れて、彼だけを想ってくれる人と結婚してほしい。
 昨夜のことを話せば、さすがに静香に対して嫌悪感があるだろう。そうすれば、きっと彼の目も覚めるはずだ。
「昨日……? 俺が帰った後?」
「ん……偶然、史哉に会った」
 まだなにも言っていないのに、圭が顔色をなくした。申し訳なさで圭の顔が見られない。ポツポツと昨夜の出来事を話す間、静香の手を握る圭の指がかすかに震えていた。
 すべてを話し終えるのにそう時間はかからなかった。彼に抱かれた、避妊はしなかったと伝えただけだから。
「もし、それで子どもができていたら……どうするんだ?」
「産むに決まってる。だから、圭は……もう私のことは忘れて」
「史哉は結婚するんだぞ? 頼れる人もいないのに、どうするんだ。一人で子どもを育てることがどれだけ大変か考えたか?」
「わかってる。史哉に迷惑かけるつもりなんてない。それにちゃんと考えた。ギリギリまで働いてとか、産後すぐ復帰すればなんとかなるかもとか」
 まだ妊娠しているかもわからないのに、史哉の子どもを身籠ることを願ってしまっている。自分がどれほど甘いことを言っているかもわかっている。それでも昨夜、史哉に愛された。それがどれほど静香にとってはかけがえのない時間だったか。
「じゃあ、万が一静香が妊娠してたら、俺が子どもの父親になってやる」
「なに言って……」
 圭はいったいなにを考えているのだろう。おかしいんじゃないか。
 昨夜史哉に抱かれたと言っているのに。もしかしたら妊娠してることもあるかもと話をしているのだ。どうして、父親になるなどと言えるのか。
「おかしいか? お前が誰を好きでも、俺は静香しか好きになれない。静香が産んだ子どもを自分の子として育てられるなら嬉しいよ」
「おかしいよ……そんなの」
「本当に妊娠してたら、子どものために俺を利用していい。史哉に迷惑をかけたくないって言うけどな、未婚のまま子どもを産めば当然行内で噂になるぞ。父親は誰だってな。だから、俺がいた方がいい。俺だって下心がありで持ちかけてるんだ。お互い様だろ」
 たしかに静香のお腹が大きくなってくれば銀行に隠すことはできないだろう。結婚していれば問題はないが、未婚のまま産もうとすれば史哉に気づかれる恐れは十分にある。
「妊娠してないかもしれないじゃない」
「問題ないだろ。してなかったら、普通に夫婦になればいいんだから」
 当然だとでも言うような口振りだ。
 静香はなにも答えられなかった。

***

 それから二ヶ月、静香の妊娠が発覚した。
 圭の言うとおり、史哉にはあのすぐ後に本店での辞令が出た。
 タイミング的にもよかった。
 彼に会わなければもうこれ以上恋心が募ることもないだろうから。
 けれど、まるで彼を忘れることを許さないとでも言うように、自分の妊娠がわかった。そして芽生えたのはたしかに喜びだった。
 忘れたいのに忘れられなくて、あの日の証とも言える子が身体の中にいるとわかったら、もう堪らないくらい嬉しかったのだ。
 何とか一人でも育てていこうと思っていたのに、付きあいの長い圭と奈津子には隠し切れるものではなかった。
 何度断っても、圭は諦めなかった。最終的には「父親がいないとこの子に言うのか」その言葉で圭との結婚を決めたようなものだ。
 その後の圭の行動は素早かった。あっという間に婚姻届を用意し、保証人は奈津子とほかの同僚に頼むと、その足で区役所に提出しに行ったのだから。
 押し負けたといった方が正しい。徐々に変化する体調に心細くなっていたというのが本音だ。自分一人でなんとかできると思っていたけれど、実際は圭の言った通りだった。
 まず、普通に働くことすらままならない。食べるたびに吐き気が起こるし、電車に乗ると他人の匂いにまた吐き気が起こる。家から出られなくなって、静香は仕事を辞めざるを得なかった。
 圭の住むマンションに引っ越す手続きも、実際の引っ越しもすべて圭がやってくれた。妊娠がわかっても穏やかで毎日を過ごせていたのは、圭がそばにいてくれたからだ。たとえ恋愛感情がなくとも、彼のそばにいると安心できる。
 好きになれるかどうかなどわからないが、結婚してから恋が始まることもある、そう言った圭の言葉を信じてみよう。
「ようやく落ち着いたな……具合は悪くない?」
「うん、大丈夫」
 ようやく業者が帰り、ソファーに座っていると圭がノンカフェインのコーヒーをカップに入れてくれた。
「ねぇ、どうしてこんなに広い部屋に住んでるの?」
 もともと住んでいた圭の部屋に、静香が引っ越してきた形になるのだが、彼の住まいはごく一般的なファミリータイプの3LDKだった。誰かと同棲でもしていたのだろうか、と思い聞いたのだが、それは違うらしい。
「早く結婚したかったから。家族がほしかったんだ。だから実家を出てすぐここを買った。嬉しいよ……静香と家族になれて。夢みたいだ」

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