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京の都の夜のこと
しおりを挟むあ、という声が暖かい息と混じって額に落ちた。
乾かしたばかりの髪の毛を揺らす。くずぐったい。
「湯葉豆腐、駅でどうにか買えるっぽいね。お豆腐屋さんがあるみたい」
くすぐったいし、心底ほっとしたような呟きが面白くて、にやにや笑いながら桜介は恋人にすり寄った。さらりとした有賀の素肌はきもちいい。
もうかなり寒い季節だが、布団の中は暖かい。温泉と食事から帰ってきた部屋には、二組の布団が敷いてあったが、片方は乱れることもなくそのまま放置してあった。
「よかったじゃん。これで姑に土産が出来るじゃん」
「ほんとだよ……ねえ、サクラちゃんはそうやって面白がってるけどねぇ、わりと僕は三浦さんちに気を使ってるわけだよ。僕だってね、自分の外見と職業がちょっと特殊だって自覚あるんだからね。その分のマイナスをどうにか挽回しようっていうこの賢明な気持ちを笑うのはよろしくないよ」
「職業はまあいいとして、外見に不安があるなら髪の毛暗く染めたらいいじゃん?」
「……本当に似合わないの、黒がね。だからできれば僕は金髪のままサクラちゃんも勝ち取りたい」
「わがまま」
「わがままだよ。僕なんてね、やりたいことを好きなようにやってる人生だもの。その上恋人と楽しく生きるためにあれこれ世間様に言い訳しまくってるんだから、最高に我儘だ」
悪びれる様子もなく笑う有賀は、薄暗い照明の中で光っていた携帯端末を放りだす。潜り込んできた腕が冷たくて、首をすくめてから冷えた肌にキスを落とす。
相変わらず脱いでも王子様だ。白い肌は、世の女性たちがうっとりと見つめるに違いないと思う程奇麗だし、桜介の前髪をそっと掻きあげる指も細く長い。
こんな王子様が、深夜、布団の中で男を抱き締めていていいものだろうか。有賀の隣に本来並ぶ筈だった女性を想像する度に、申し訳ないという気持ちと誰が渡すかという嫉妬が沸き上がる。相手の居ない嫉妬は不毛に胃を刺激するだけだと知っているから、今の幸せをめいいっぱい吸い込むように深呼吸をして鎖骨に噛みついた。
痛いと笑う声が甘い。
「サクラちゃんの歯ね、すごく健康的でしっかりしてるんだから、痛いってば。もっと優しく噛んで甘えてください」
「優しく噛んで甘えてるじゃん。本気で噛んだら食いちぎるっつの」
「わぁ。動物的。今のちょっとかっこいい。最終的には食べられちゃうのも、まあ、悪くはないのかもなぁなんて思っちゃうのはさ、旅先の夜のセンチメンタル気分のせいかねぇ」
「わかるわかる。なんかちょっとおセンチなこと口走っちゃいそうだよな。まあ、有賀さんはさっきまでちょう現実的に湯葉豆腐買える店をずっと検索してたわけだけど」
「だって買い逃すわけにいかないでしょ。未来の旦那さんの御両親に手ぶらで御挨拶できません」
「有賀さんはいいじゃんか、うちのオカンのリクエストがあるしさー。俺、何持ってったら有賀さんちの親御さんに殴られずに済むかずっと考えてるけど、もう全部ダメだわ。号泣されて殴られるシュミレーションしかできねえの。もうダメだから一緒に殴られよ?」
「待ってよ、なんで殴られること前提なの。殴らないようちの家族は。……多分」
「多分って言うなし」
うははと笑って、桜介は有賀の首筋に頬を埋めた。
何という目的もなくふらりと観光名所をめぐる旅は、やはり楽しいものだった。休日ということもあってか、どこも人で溢れていたが、それもまた観光地めいていて悪くは無い。待つことも、恋人と一緒ならばどんな時間も愛おしい。
清水寺でお守りを買って、音羽の滝に並んだ。どれがどの効能があるのかと二人で並んでいる間に検索してみたが、三本の滝についてどれが何の御利益がある、と明確には決まっていないらしい。
どれでもいいというので、二人並んで水を飲み、祈願した。桜介はこの先の健康と無事故を祈ったが、後々聞いてみたところ、有賀も桜介の健康と無事故を祈っていたらしい。自分のこと祈れよと突っ込んで笑い、お茶屋でダンゴと抹茶の休憩を取った。
所々、人目を気にせず手を繋いだ。有賀と桜介を目で追う観光客も居たが、大概は放っておいてくれた。
額に唇を落とされて、もう寝ないと明日起きれないよと笑われて、あーそうかもう終わりなのかと思うと少しだけ、泣きそうな気分になった。
旅の終わりは寂しい。日常が嫌いな訳ではない。毎日里倉と走り回る生活は充実しているし、文句など無い。けれどやはり、このまま夜が終わらなければいいのにと思う。
そんな事をぽつりと零すと、桜介の髪を梳いていた有賀が柔らかく微笑んだ気配がした。
「うん。そうね、僕も、ちょっとわかるな。仕事好きだし、結局僕は毎日サクラちゃんと時々会って、頑張って仕事してっていう日常を愛してるんだけど、今この瞬間がずっと続けばなぁって、思っちゃうよね」
「……俺、心中って悲観極まってどうしようもなくなってやるもんだと思ってたけど、もしかしたらこういうさ、幸せ過ぎて明日来るのが嫌で死んじゃうのもあんのかなーって、今思った」
「……どうしたの。珍しいねサクラちゃんがそんなにセンチメンタルなこと言うの」
「おセンチなんだよ、今。寒いじゃん? 夜じゃん? 有賀さん優しいじゃん? 幸せじゃん? なんかこの幸せって永遠じゃないんだろうなみたいなすんげー確証のないどうしようもないおセンチがぶわーって襲って来てんの」
「んー……永遠に愛が続くよ、とは、さすがに言いきれないけど。でも僕は、明日もサクラちゃんの事が好きだよ」
恥ずかしげもなく好きと告げる声を、もう何度聞いたかわからない。
何度聞いても、胸がいっぱいになる。何度聞いても、俺も好きだよバカと言う言葉と共に熱が上がる。
夜は怖い。明日が来てしまうのが嫌な夜は、とても怖い。
それでも目を閉じておやすみと言えるのは、隣に有賀が居てくれるからだろうと思う。
バカップルだと笑われそうだ。実際自分もそう思う。こんな風に甘やかされて、甘やかして、どちらもダメになりそうだ。
かわいくて好きで格好良くてずっと好きだと思うから、桜介は震える息をのみ込んだ。
何度言っても溢れる言葉は、何度だって言えばいい。
「有賀さん好き」
「うん? うん。……ふふ、知ってる。嬉しい。僕も好き」
ああ本当に馬鹿だ。どちらも馬鹿だ。馬鹿は大人しく寝て明日土産を買って帰ろう。そして日常を開始しよう。
夜の冷たい闇の中、おやすみのキスをしてから桜介は恋人にすり寄り目を閉じた。
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