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舞踏会当日、ケイトはマリリンと一緒にジュリエットの支度の手伝いをした。
マリリンに結い方を教えながらケイトがジュリエットの髪を結う。
「そのうち覚えればいいわ」
ジュリエットは鏡越しにしょぼんとしたマリリンの顔を見て言った。
マリリンはジュリエットに小さく頷いて、ケイトの髪を結う手を見つめた。
普段は後れ毛一本も出さずにきちんと結い上げている髪を巻いて、ふわふわとさせてから両サイドからねじり後ろで交差させて留める。ねじった部分にドレスと共布で作られた薔薇のピンをバランスよく散らして挿すと、華やかな夜会の髪型になる。
ドレスを着る段になってケイトがジュリエットにコルセットを締め直そうとすると。
「マリリンが加減をわかっているから」
言ってからジュリエットはベッドの天蓋の柱に掴まり、コルセットを締めやすいように背を向けた。
マリリンにやらせてくれと言うことだろう。
ケイトが一歩下がると、マリリンはジュリエットに任されるのが嬉しくて仕方がないという顔をしてコルセットの紐を締め直した。
ジュリエットはまったくの無表情で、もしかしたらそのつもりはなかったのかもしれないが確実にマリリンを喜ばせている。
傍にいたケイトは、ジュリエットにそのつもりはあっただろうと確信していた。
やはりジュリエットはマリリンがかわいいのだろうと。
何度もやっているだろうコルセットの締め直しを不器用にやっている様子がそれを物語っている。
これならケイトがやった方が早いし、加減なら確認しながらでも出来る。
それでもマリリンにやらせているジュリエットは本当に優しいひとなのだろうと思った。
少しでもそれが表情に出ればいいのにとも思うのだが、そこまでは贅沢な話だというのもわかってきていた。
飾りのほとんどないボールガウンドレスは鮮やかな深紅の生地の良さが際立ち、すっきりとした印象のジュリエットにとても似合っていた。
肩から胸までがざっくりと開いているが細い長袖と広がりすぎないスカートのシルエットが上品で、侯爵夫人の地位に恥じないものだ。
今までもお綺麗な方だと思っていたケイトだったが、今夜のジュリエットの美しさは別格だ。
普段より化粧が濃いせいもあるだろうが華やかで、これほどならば舞踏会でも際立って注目されるだろうと思った。
オデルから贈られ指輪とネックレスを着け、支度を終えたジュリエットがマリリンとケイトと共に階下へ行くと、すでにホワイトタイに燕尾ジャケットの正礼装を着たオデルが支度を終えて待っていた。
階段をマリリンの必死のエスコートで降りて来るジュリエットをじっと見ていたオデルが玄関ホールで手を差し伸べて迎えると、ジュリエットも差し出された手に手を重ねた。
ホールで並んでその様子を見ていたリーブス、ステファンは思わずため息を吐いた。
感嘆のため息だ。
礼服を着こなした精悍で美丈夫なオデルが、上品で宝石のように輝く妻ジュリエットをエスコートしている様子がおとぎ話のワンシーンを再現しているように美しかったのだ。
もともと姿かたちの美しい夫婦だとは思っていたが、着飾ると普段の何倍もなのだ。
こんなカップルはそうはいないだろうと男二人で見とれてしまった。
着飾った美しい妻に向かって夫からなにか一言あってもおかしくはないが、オデルはじっと見ただけでなにも言わなかったし、ジュリエットも無表情でなにも求めるような素振りはなかった。
「奥様お美しいですよね! 旦那様!」
ここで、ジュリエットの手伝いがいつも通り出来てご機嫌が戻っている、更に初めて見る着飾ったジュリエットの美しさにはしゃぎまくっているマリリンがオデルに向かって空気を読まずに聞いた。
そりゃお美しいけど、それに旦那様が返事出来るのか?
マリリンの言葉に固唾をのんでオデルを見るリーブスとステファンとケイト。
オデルなら頷くくらいだろうとわかっているが、今夜のジュリエットならそれ以上を期待してしまう使用人たちだ。
そしてオデルはその使用人たちの心中を察したわけではないだろうが、期待に応えた。
「ああ、本当に美しい」
だ! 旦那様が奥様を褒めた!
顔は無表情だ。まっすぐ伸びた背筋も変わりない。声に抑揚も、もちろんない。
しかし! 旦那様が奥様を褒めた!
これはジュリエットも答えなくては……とジュリエットを見つめるリーブスとステファンとケイト。
「奥様! 旦那様が本当にとってもすっごく! お美しいって! おっしゃってます!」
いや、そこまでは言っていないだろうマリリン!
というか、君がはしゃぐなマリリン!
「嬉しいですねー奥様!」
「そうね」
ジュリエットはオデルに向かって無表情のまま頷いた。オデルもジュリエットに向かって無表情のまま頷いた。
期待通りにはいかないものだとわかっているが、それでも使用人の胸をときめかすには充分だった。
満足気なリーブスをはじめとする使用人に見送られ、ふたりは腕を組んで馬車に乗り込みスティーブンス伯爵邸に出発した。
「『そうね』って。奥様が『そうね』って言ったのよ!」
興奮気味にケイトが話すと、マリリンも腕を振りながら何度も頷いた。
使用人食堂は興奮で盛り上がっている。
「えー! そんな美しい奥様見たかったよー!」
モリーが悔しそうに言うと、ステファンが笑いながらモリーの頭を撫でた。
「大丈夫! 帰ってくるときは皆でお迎えしよう。本当に驚くよ」
「本当に、お綺麗でしたからねー」
マリリンはこの中でも一番興奮している。『わたしの奥様』の美しさを自慢するように鼻息も荒い。
「あのお二人は本当にお似合いだな」
リーブスが言うと、ケイトは大きく頷く。
「姿勢もいいから立ち姿が特別様になっているんですよね」
「そうそう。お二人とも背も高いし。あのふたりが微笑み合ったりなんかしたら、もう最強だよな」
普段冷静なステファンも興奮気味だ。
「いや、もうそこまでの贅沢は言わないよ。あー! でも早く見たい! 早く帰ってこないかなー」
ジョージが見逃したモリーたちと一緒に口を尖らせて頬杖をついて言うと、ケイトがマリリンのように鼻息荒く自慢気にしていった。
「ドキドキしちゃうからね。本当に、こんな美しいカップルぜーったいにほかにいないんだから!」
なんだかんだいいながらも、ここの使用人たちは主人夫婦が好きなのだと皆が自覚した。
だからこそ関心があるし、こんなにも興奮出来るのだ。
さて。話はガロポロ侯爵夫妻に。
馬車に揺られるふたりは、普段と変わらず背もたれのいらない真っ直ぐに伸ばした姿勢のまま、会話はひとつもなくスティーブンス伯爵邸に到着した。
屋敷の玄関フロアでは賑やかに顔を合わせた貴族たちがお喋りをして楽しんでいた。
そこに入って来たゴージャスなカップルの登場に、着飾った自分が一番だという自尊心の塊たちの視線が釘付けになる。
単体ではオデルもジュリエットも見知っている者たちも、二人揃うとこれほどの存在感なのかと驚かずにはいられない。
しかもふたりはこういった社交場から長く離れていて、スキャンダラスな噂話以降すっかり忘れ去られていた存在だったので、久しぶりの登場に驚きが騒めきになる。
ふたりは相変わらずの鉄壁無表情で安易に挨拶が出来る雰囲気をひとつも見せず、オデルとエスコートされるジュリエットは誰にも止められず舞踏フロアまで入って行った。
ひときわ賑やかに人だかりが出来ている場所。今夜の主役、王弟のアバークロンビー公爵デイビットがいるであろう所まで真っ直ぐ向かうと、避けるように人垣が開く。
「ガロポロ侯爵! 久しぶりじゃないか!」
人懐っこい笑顔で機嫌良さそうに声を上げたのはデイビットだ。
品と威厳を纏う国王である兄アスランには全く似ていない、柔らかい雰囲気の好青年といった感じのデイビットに、オデルが礼をする。
「ご無沙汰しておりますデイビット殿下」
デイビットは頷きながらオデルの隣に立つジュリエットに視線を移す。それに気が付いたオデルがジュリエットの腰に手を回してデイビットに紹介する。
「妻のジュリエットです」
「お会いできて光栄に存じます」
ジュリエットがカーテシーで挨拶をすると、デイビットは満面の笑みを向けた。
「はじめましてだね。こんな美しい奥方を迎えていたなんて知らなかったよ。ガロポロ侯爵は隠すのがうまいなー」
王弟だから緊張しているわけではない、いつも通りのオデルとジュリエットの無表情にデイビットは笑っているが、その周りの人たちは必要のない緊張を走らせている。
ふたりは満面の笑みをたたえるデイビットの前でも、不機嫌に見えるほどの無表情っぷりだ。
「こんな場も久しぶりなんだろ? 奥方と楽しんでいってよ」
砕けた感じでオデルにウインクして見せるデイビットにオデルは礼をするとジュリエットの背中に手を回して人だかりから外れた。
その後ろ姿を見送る人たちは、なぜあんな態度なのかと不安になるほどだったが、オデルの無表情を知っているデイビットは気にする様子もなく再びご機嫌で今夢中になっている芝居の話を再開させた。
オデルはジュリエットを連れこの会の主催者スティーブンス伯爵夫妻にも挨拶を済ませ、ひとつもにこやかにすることなく声を掛けられる貴族たちにも無表情で単語の返事を返した。
ジュリエットもオデル同様、華やかなこの場で最も美しい女性であるにもかかわらず微笑みのひとつも携えずに淡々とした雰囲気で周囲をおかしな気分にさせていた。
この夫婦は何をもってこんなにも不機嫌でこの場にいるのだろうかと不安になるほどの無表情っぷりなので、どう見ても新婚の仲の良い夫婦ではない。
オデルが社交場に来るのは久しぶりのことで、商売の話を聞きたい貴族が次々とオデルの元に押し寄せるので、ジュリエットはオデルの腕から離れた。
オデルは何も言わず離れるジュリエットを視線だけで追い、壁際にあるソファーに座ったのを確認してから集まった貴族たちの話に答えていた。
賑やかな音楽と会話の溢れる中で、背もたれを必要としない真っ直ぐ伸びた姿勢で美しくソファーに座っているジュリエットはそれだけで注目を集めるほどの存在感だ。
深紅のドレスに負けないダイヤとエメラルドのネックレスが鎖骨の上で輝き、その輝きにも負けないツンとすましたような美しいジュリエットの無表情が近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
しかし。興味と関心はここにいる皆が持っている。
当たり前だ。八年間放置された女。社交界のスキャンダラスな噂の元主人公だったジュリエットに関心を持たないはずがない。
しかもそのスキャンダラスな女性が、庭師に妻を寝取られたスキャンダラスな夫とこの場にあらわれたのだから仕方のないことだ。
「ガロポロ侯爵夫人。十年ぶりになりますけど、覚えていらっしゃいます? カーソーン伯爵家の娘で今はルイリード伯爵夫人のモナーレですわ」
誰もが遠巻きにしていたジュリエットに最初に声をかけて来た勇者は、ジュリエットが前夫と結婚する前に何度か社交場で顔を合わせたことがあるモナーレだった。
モナーレはジュリエットと同じ年で当時から不愛想だったジュリエットに顔を合わせる度に気さくに話しかけて来た女性だ。
ジュリエットは立ち上がって久々の再会になんの感慨もない変わらぬ無表情で挨拶を返した。
「お久しぶりです。お元気でしたか?」
「ええ! わたしは元気! 昔のようにジュリエットと呼ぶのは侯爵夫人に失礼かしら?」
「いいえ。かまいませんわモナーレ」
当時男爵令嬢だったジュリエットに伯爵令嬢のモナーレは呼び捨てにして欲しいと言い、ジュリエットなので親しく会話するようなことはなかったが、茶会にも何度か誘われたりもした。
「隣に座ってもよろしい? お会いできて本当に嬉しいわ! 前の嫁ぎ先にも何度か茶会の招待状をお送りしたのだけど返事を頂けなくて、すっかり忘れられてしまっているのかと思っていたわ」
笑顔で隣に座るモナーレの言葉を聞いたジュリエットは黙った。
いや、ジュリエットはいつでも黙っているので、すぐに返事を返さなかったというのが正しい。
「それも覚えていらっしゃらないかしら?」
モナーレに確認されてやっと口を開く。
「残念ながらその招待状はわたしの手までは届かなかったようです」
ジュリエットは簡潔に答えた。
ジュリエットの手元にモナーレの招待状が届いてないのは事実だった。
前夫がジュリエット宛に来た招待状を握りつぶしていたのだ。
ジュリエットも知らない事だったが、そういった場でヘタにジュリエットから自分の悪評が漏れるのを避けるためにジュリエットと友人の交流もさせなかったのだった。
「まぁ、ピット子爵の仕業ね。もう本当に別れてよかったと思うわ。今のピット子爵をご存知? 事業に失敗したらしくて財産も沢山失ったせいで後妻は子供を連れて家を出て行ってしまったらしいわよ。まぁ、また新しい愛人はいらっしゃるようですけど、社交界では誰も親しくしたいと思っていないわ。あぁ、こんなことはどうでもいいわね。余計な話をしてしまったわ。やめやめ」
たった二年もなっていないというのにここまでの落ちぶれっぷりをジュリエットは知らないはずだが、驚いている様子もない。
十年経っても相変わらずのジュリエットの無表情に、モナーレは懐かしそうに微笑んだ。
「ガロポロ侯爵はピット子爵のようなことはなさらないでしょ? また親しくできたら嬉しいわ。今度お屋敷にご招待してくださらない?」
「ええ。どうぞいらしてください」
「本当? 嬉しいわ。わたしの屋敷にも来てね」
「ええ。お伺いします」
ジュリエットなのでやはりにこりともしないが、モナーレはジュリエットがそういう女性だと昔を知っているので微笑んで再びの交流の約束を喜んだ。
ふたりの様子を遠巻きに見ていた人たちもモナーレが普通にジュリエットと話をしているのを見て近づいてきた。
「ルイリード伯爵夫人、なにを楽しそうにお話しなさっているのですか?」
「あら、フェルミナ嬢。久しぶりにジュリエットと逢えたのでまた仲良くしましょうとお話ししていたのよ」
ジュリエットとモナーレの周りにはいつの間にか人だかりが出来て興味津々にジュリエットを窺った。
「バルモア公爵夫人のご紹介でガロポロ侯爵とご結婚されたのだと聞きましたわ」
「ええ」
「ご再婚に不安はありませんでしたの? ガロポロ侯爵は以前奥様を大切にされていらっしゃらなかったと噂がありましたけど」
「お優しいかたですの?」
「ええ」
「とても怖いお方のように見えますのに。難しい方ではありませんの?」
「ええ」
「シルビア様が今どうしていらっしゃるかご存知? 街で働いていらっしゃるとかいう噂もありますのよ」
「まぁおかわいそうに。でももうあの庭師を雇う屋敷はありませんわよ」
「あら、かわいそうなんて思わないわ。自業自得ですもの」
「もともとご実家の借金のためのご結婚でしたものね。ガロポロ侯爵へなさった仕打ちの罰が当たったのですわ」
「そんなみっともない生活をなさらなくてはならないなんて、わたしには堪えられませんわ」
「街の女だなんて、落ちぶれてもそんな風にはなりたくないわ」
「ガロポロ侯爵はシルビア様とお別れになって本当によろしかったと思いますわ。ジュリエット様のようなお美しい奥方をお迎えになられて、本当にお似合いですもの」
「本当にそうですわね」
周りの話が弾む中、ジュリエットは『ええ』以外の言葉は発していない。
数年前まで散々ジュリエットを噂の種にしていたことをすっかり忘れたように、ガロポロ侯爵夫人になったジュリエットのお機嫌伺いをしてくる。
久々に登場したジュリエットの話を聞きたいし、ガロポロ侯爵家との繋がりも得たい魂胆が見え見えだ。
噂の種はいつでも必要だし、地位も資産も充分なガロポロ侯爵家と繋がれば自慢になる。上手く行けばオデルの仕事の手腕という恩恵を自分の家にもたらすことが出来る。
よくも次から次へとシルビアの情報が出てくるものだと不思議に思うくらいだが、ジュリエットもそう思っているかはわからない。
ただ、止め処ないシルビアの噂は悪口に変わり、ジュリエットが黙っているのでエスカレートしていく。
「ちょっと、ダメよ皆さん。シルビア嬢のお話しはこの場にそぐわないわ」
あまりに悪口が続くのでモナーレが止めに入った。こんな話は聞きたくないだろうと気遣ったのだ。
ジュリエットがシルビアの話を聞きたくないかどうかは誰にもわからない。
しかしジュリエットは立ち上がった。
女性にしては長身のジュリエットが背筋を真っ直ぐ伸ばし無表情で周りにいる夫人たちを見渡すと、メデューサと目が合って石にされたかのように固まるだけの迫力がある。
「ジュリエット?」
モナーレが声をかけると、ジュリエットは視線だけで座っているモナーレを見る。
「モナーレ、またお会いしましょう」
それだけ言ってジュリエットは輪になった人垣から抜けようとした。
「ガロポロ侯爵夫人、どうなさったのです」
「もっとお話ししたいわ」
媚の含まれた引き留める声にジュリエットは振り向いた。
「短くともわたしの夫の妻であった方を辱めることはわたしの夫を辱めているのと同じことです。わたしの愛する夫を侮辱なさるような話は一切聞きたくございません」
なにか言い訳を言う声が聞こえていたはずだが、ジュリエットは無視するようにその場を離れようと背を向けたところで立ち止まった。
足が止まったのはオデルが行く手を塞いでいたからだ。
オデルの存在に気が付いた夫人たちが息を呑んで口を押える。
ジロリ、と見たかどうかは多分感じる側の印象だ。オデルはジュリエットと囲んでいた人垣を一瞥してからジュリエットに向かって肘を突き出した。
ジュリエットは自然の流れのように突き出された腕に腕を絡めた。
「もう用は済んだ」
「では帰りましょう」
それだけ言うと、オデルとジュリエットはスティーブンス伯爵邸を後にした。
馬車に乗り込むジュリエットに手を貸しながらオデルが口を開いた。
「愛する夫と言ったな」
ジュリエットはオデルを視線だけでチラリと見た。
「なにか問題でも?」
「ああ、問題だ」
馬車の中では来た時同様なんの会話もなく、ふたりは背もたれのいらない姿勢のままで黙って揺られて帰宅した。
屋敷に到着すると扉を開けたリーブスの後ろ、玄関フロアには使用人が勢ぞろいで待っていた。
柱の陰にはコックやキッチンメイドもいて、出かける時に見逃したジュリエットの姿を見るために集まっていたのだ。
どこも乱れることなく出かけた時と同じ姿で予想よりも早い帰宅だった。
着飾ったジュリエットを初めて見る使用人たちは思わず胸を押さえた。
リーブスもステファンもケイトも、まったく話を盛ってはいなかったことが証明されたのだ。
深紅のドレスを着たジュリエットは気高く美しく、見惚れて感嘆のため息が出るほどだ。
なぜこんなに美しいのに普段は着飾らないのかが不思議でたまらなくなるのだが、もしかしたらジュリエットがあまり自分に構わないからだけではなく、マリリンがその手伝いを出来ないからなのではないかとモリーは思った。
主人の普段の髪も結えないマリリンでは着飾る手伝いはとても無理だ。
ジュリエットの帰宅をはしゃぎながら迎えるマリリンを見下ろすジュリエットがいつも以上にしっくりきて見えるのは、ジュリエットを大好きなマリリンとそれを歓迎しているジュリエットだということが髪を結う話しでわかったからかもしれない。
「奥様! お帰りなさいませ!」
マリリンが言うとジュリエットが頷く。
いや、マリリン。先に旦那様にも言わなくてはならないよ……。
突っ込みたい気持ちを抑えてステファンがオデルを見ると、一向に気にしていない、むしろマリリンをまったく見ていないので大丈夫のようだ。
それどころか。
「マリリン、今日はもういい」
階段を登りかけて後ろにちょろちょろと付いて来るマリリンに振り向いたオデルが言うので、大丈夫ではなくそれどころではない。
ジュリエットの寝支度を仕事としているマリリンはキョトンと丸い目を見開いてオデルを見上げた。
オデルの前を歩くジュリエットも振り返りオデルを見たが、ふたりとも無表情に変化はない。
なぜこんなことを言い出しているのかわからないマリリンが口を開きかけたが、オデルの心中を察した、実際には本当にそうなのかはここの誰にもわからないことだが、ステファンはマリリンの肩を掴んだ。
「旦那様、奥様、おやすみまさいませ」
本来ならステファンもオデルの寝支度の為付いて行かなくてはならないが、多分そうだろうことを想像してマリリンを止め自分も留まった。
後ろに控えている使用人一同は胸を押さえていた手を口に移動して上げそうな声を押さえた。
ふたりが階段を登りジュリエットの部屋へ入ってくのを玄関フロアで見送ってから、全員が速足で地下の使用人食堂に戻っていく。
なにがなんだかわからないマリリンはステファンに肩を抱かれながら強制的に連れて来られていた。
「あれ、絶対にそうだよね!」
「ね! そうだよね!」
「なんですか? なにがそうなんですか?」
「なんでわからないのよマリリン!」
ケイトとモリーは手を握り合って興奮しきりにはしゃいでいる。
それもそのはずだ。この使用人食堂にいる全ての使用人の宿願が結実するかもしれないのだ。
「「「「「愛し合うご主人夫婦の暖かい屋敷になるんだよ!」」」」」
マリリンに結い方を教えながらケイトがジュリエットの髪を結う。
「そのうち覚えればいいわ」
ジュリエットは鏡越しにしょぼんとしたマリリンの顔を見て言った。
マリリンはジュリエットに小さく頷いて、ケイトの髪を結う手を見つめた。
普段は後れ毛一本も出さずにきちんと結い上げている髪を巻いて、ふわふわとさせてから両サイドからねじり後ろで交差させて留める。ねじった部分にドレスと共布で作られた薔薇のピンをバランスよく散らして挿すと、華やかな夜会の髪型になる。
ドレスを着る段になってケイトがジュリエットにコルセットを締め直そうとすると。
「マリリンが加減をわかっているから」
言ってからジュリエットはベッドの天蓋の柱に掴まり、コルセットを締めやすいように背を向けた。
マリリンにやらせてくれと言うことだろう。
ケイトが一歩下がると、マリリンはジュリエットに任されるのが嬉しくて仕方がないという顔をしてコルセットの紐を締め直した。
ジュリエットはまったくの無表情で、もしかしたらそのつもりはなかったのかもしれないが確実にマリリンを喜ばせている。
傍にいたケイトは、ジュリエットにそのつもりはあっただろうと確信していた。
やはりジュリエットはマリリンがかわいいのだろうと。
何度もやっているだろうコルセットの締め直しを不器用にやっている様子がそれを物語っている。
これならケイトがやった方が早いし、加減なら確認しながらでも出来る。
それでもマリリンにやらせているジュリエットは本当に優しいひとなのだろうと思った。
少しでもそれが表情に出ればいいのにとも思うのだが、そこまでは贅沢な話だというのもわかってきていた。
飾りのほとんどないボールガウンドレスは鮮やかな深紅の生地の良さが際立ち、すっきりとした印象のジュリエットにとても似合っていた。
肩から胸までがざっくりと開いているが細い長袖と広がりすぎないスカートのシルエットが上品で、侯爵夫人の地位に恥じないものだ。
今までもお綺麗な方だと思っていたケイトだったが、今夜のジュリエットの美しさは別格だ。
普段より化粧が濃いせいもあるだろうが華やかで、これほどならば舞踏会でも際立って注目されるだろうと思った。
オデルから贈られ指輪とネックレスを着け、支度を終えたジュリエットがマリリンとケイトと共に階下へ行くと、すでにホワイトタイに燕尾ジャケットの正礼装を着たオデルが支度を終えて待っていた。
階段をマリリンの必死のエスコートで降りて来るジュリエットをじっと見ていたオデルが玄関ホールで手を差し伸べて迎えると、ジュリエットも差し出された手に手を重ねた。
ホールで並んでその様子を見ていたリーブス、ステファンは思わずため息を吐いた。
感嘆のため息だ。
礼服を着こなした精悍で美丈夫なオデルが、上品で宝石のように輝く妻ジュリエットをエスコートしている様子がおとぎ話のワンシーンを再現しているように美しかったのだ。
もともと姿かたちの美しい夫婦だとは思っていたが、着飾ると普段の何倍もなのだ。
こんなカップルはそうはいないだろうと男二人で見とれてしまった。
着飾った美しい妻に向かって夫からなにか一言あってもおかしくはないが、オデルはじっと見ただけでなにも言わなかったし、ジュリエットも無表情でなにも求めるような素振りはなかった。
「奥様お美しいですよね! 旦那様!」
ここで、ジュリエットの手伝いがいつも通り出来てご機嫌が戻っている、更に初めて見る着飾ったジュリエットの美しさにはしゃぎまくっているマリリンがオデルに向かって空気を読まずに聞いた。
そりゃお美しいけど、それに旦那様が返事出来るのか?
マリリンの言葉に固唾をのんでオデルを見るリーブスとステファンとケイト。
オデルなら頷くくらいだろうとわかっているが、今夜のジュリエットならそれ以上を期待してしまう使用人たちだ。
そしてオデルはその使用人たちの心中を察したわけではないだろうが、期待に応えた。
「ああ、本当に美しい」
だ! 旦那様が奥様を褒めた!
顔は無表情だ。まっすぐ伸びた背筋も変わりない。声に抑揚も、もちろんない。
しかし! 旦那様が奥様を褒めた!
これはジュリエットも答えなくては……とジュリエットを見つめるリーブスとステファンとケイト。
「奥様! 旦那様が本当にとってもすっごく! お美しいって! おっしゃってます!」
いや、そこまでは言っていないだろうマリリン!
というか、君がはしゃぐなマリリン!
「嬉しいですねー奥様!」
「そうね」
ジュリエットはオデルに向かって無表情のまま頷いた。オデルもジュリエットに向かって無表情のまま頷いた。
期待通りにはいかないものだとわかっているが、それでも使用人の胸をときめかすには充分だった。
満足気なリーブスをはじめとする使用人に見送られ、ふたりは腕を組んで馬車に乗り込みスティーブンス伯爵邸に出発した。
「『そうね』って。奥様が『そうね』って言ったのよ!」
興奮気味にケイトが話すと、マリリンも腕を振りながら何度も頷いた。
使用人食堂は興奮で盛り上がっている。
「えー! そんな美しい奥様見たかったよー!」
モリーが悔しそうに言うと、ステファンが笑いながらモリーの頭を撫でた。
「大丈夫! 帰ってくるときは皆でお迎えしよう。本当に驚くよ」
「本当に、お綺麗でしたからねー」
マリリンはこの中でも一番興奮している。『わたしの奥様』の美しさを自慢するように鼻息も荒い。
「あのお二人は本当にお似合いだな」
リーブスが言うと、ケイトは大きく頷く。
「姿勢もいいから立ち姿が特別様になっているんですよね」
「そうそう。お二人とも背も高いし。あのふたりが微笑み合ったりなんかしたら、もう最強だよな」
普段冷静なステファンも興奮気味だ。
「いや、もうそこまでの贅沢は言わないよ。あー! でも早く見たい! 早く帰ってこないかなー」
ジョージが見逃したモリーたちと一緒に口を尖らせて頬杖をついて言うと、ケイトがマリリンのように鼻息荒く自慢気にしていった。
「ドキドキしちゃうからね。本当に、こんな美しいカップルぜーったいにほかにいないんだから!」
なんだかんだいいながらも、ここの使用人たちは主人夫婦が好きなのだと皆が自覚した。
だからこそ関心があるし、こんなにも興奮出来るのだ。
さて。話はガロポロ侯爵夫妻に。
馬車に揺られるふたりは、普段と変わらず背もたれのいらない真っ直ぐに伸ばした姿勢のまま、会話はひとつもなくスティーブンス伯爵邸に到着した。
屋敷の玄関フロアでは賑やかに顔を合わせた貴族たちがお喋りをして楽しんでいた。
そこに入って来たゴージャスなカップルの登場に、着飾った自分が一番だという自尊心の塊たちの視線が釘付けになる。
単体ではオデルもジュリエットも見知っている者たちも、二人揃うとこれほどの存在感なのかと驚かずにはいられない。
しかもふたりはこういった社交場から長く離れていて、スキャンダラスな噂話以降すっかり忘れ去られていた存在だったので、久しぶりの登場に驚きが騒めきになる。
ふたりは相変わらずの鉄壁無表情で安易に挨拶が出来る雰囲気をひとつも見せず、オデルとエスコートされるジュリエットは誰にも止められず舞踏フロアまで入って行った。
ひときわ賑やかに人だかりが出来ている場所。今夜の主役、王弟のアバークロンビー公爵デイビットがいるであろう所まで真っ直ぐ向かうと、避けるように人垣が開く。
「ガロポロ侯爵! 久しぶりじゃないか!」
人懐っこい笑顔で機嫌良さそうに声を上げたのはデイビットだ。
品と威厳を纏う国王である兄アスランには全く似ていない、柔らかい雰囲気の好青年といった感じのデイビットに、オデルが礼をする。
「ご無沙汰しておりますデイビット殿下」
デイビットは頷きながらオデルの隣に立つジュリエットに視線を移す。それに気が付いたオデルがジュリエットの腰に手を回してデイビットに紹介する。
「妻のジュリエットです」
「お会いできて光栄に存じます」
ジュリエットがカーテシーで挨拶をすると、デイビットは満面の笑みを向けた。
「はじめましてだね。こんな美しい奥方を迎えていたなんて知らなかったよ。ガロポロ侯爵は隠すのがうまいなー」
王弟だから緊張しているわけではない、いつも通りのオデルとジュリエットの無表情にデイビットは笑っているが、その周りの人たちは必要のない緊張を走らせている。
ふたりは満面の笑みをたたえるデイビットの前でも、不機嫌に見えるほどの無表情っぷりだ。
「こんな場も久しぶりなんだろ? 奥方と楽しんでいってよ」
砕けた感じでオデルにウインクして見せるデイビットにオデルは礼をするとジュリエットの背中に手を回して人だかりから外れた。
その後ろ姿を見送る人たちは、なぜあんな態度なのかと不安になるほどだったが、オデルの無表情を知っているデイビットは気にする様子もなく再びご機嫌で今夢中になっている芝居の話を再開させた。
オデルはジュリエットを連れこの会の主催者スティーブンス伯爵夫妻にも挨拶を済ませ、ひとつもにこやかにすることなく声を掛けられる貴族たちにも無表情で単語の返事を返した。
ジュリエットもオデル同様、華やかなこの場で最も美しい女性であるにもかかわらず微笑みのひとつも携えずに淡々とした雰囲気で周囲をおかしな気分にさせていた。
この夫婦は何をもってこんなにも不機嫌でこの場にいるのだろうかと不安になるほどの無表情っぷりなので、どう見ても新婚の仲の良い夫婦ではない。
オデルが社交場に来るのは久しぶりのことで、商売の話を聞きたい貴族が次々とオデルの元に押し寄せるので、ジュリエットはオデルの腕から離れた。
オデルは何も言わず離れるジュリエットを視線だけで追い、壁際にあるソファーに座ったのを確認してから集まった貴族たちの話に答えていた。
賑やかな音楽と会話の溢れる中で、背もたれを必要としない真っ直ぐ伸びた姿勢で美しくソファーに座っているジュリエットはそれだけで注目を集めるほどの存在感だ。
深紅のドレスに負けないダイヤとエメラルドのネックレスが鎖骨の上で輝き、その輝きにも負けないツンとすましたような美しいジュリエットの無表情が近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
しかし。興味と関心はここにいる皆が持っている。
当たり前だ。八年間放置された女。社交界のスキャンダラスな噂の元主人公だったジュリエットに関心を持たないはずがない。
しかもそのスキャンダラスな女性が、庭師に妻を寝取られたスキャンダラスな夫とこの場にあらわれたのだから仕方のないことだ。
「ガロポロ侯爵夫人。十年ぶりになりますけど、覚えていらっしゃいます? カーソーン伯爵家の娘で今はルイリード伯爵夫人のモナーレですわ」
誰もが遠巻きにしていたジュリエットに最初に声をかけて来た勇者は、ジュリエットが前夫と結婚する前に何度か社交場で顔を合わせたことがあるモナーレだった。
モナーレはジュリエットと同じ年で当時から不愛想だったジュリエットに顔を合わせる度に気さくに話しかけて来た女性だ。
ジュリエットは立ち上がって久々の再会になんの感慨もない変わらぬ無表情で挨拶を返した。
「お久しぶりです。お元気でしたか?」
「ええ! わたしは元気! 昔のようにジュリエットと呼ぶのは侯爵夫人に失礼かしら?」
「いいえ。かまいませんわモナーレ」
当時男爵令嬢だったジュリエットに伯爵令嬢のモナーレは呼び捨てにして欲しいと言い、ジュリエットなので親しく会話するようなことはなかったが、茶会にも何度か誘われたりもした。
「隣に座ってもよろしい? お会いできて本当に嬉しいわ! 前の嫁ぎ先にも何度か茶会の招待状をお送りしたのだけど返事を頂けなくて、すっかり忘れられてしまっているのかと思っていたわ」
笑顔で隣に座るモナーレの言葉を聞いたジュリエットは黙った。
いや、ジュリエットはいつでも黙っているので、すぐに返事を返さなかったというのが正しい。
「それも覚えていらっしゃらないかしら?」
モナーレに確認されてやっと口を開く。
「残念ながらその招待状はわたしの手までは届かなかったようです」
ジュリエットは簡潔に答えた。
ジュリエットの手元にモナーレの招待状が届いてないのは事実だった。
前夫がジュリエット宛に来た招待状を握りつぶしていたのだ。
ジュリエットも知らない事だったが、そういった場でヘタにジュリエットから自分の悪評が漏れるのを避けるためにジュリエットと友人の交流もさせなかったのだった。
「まぁ、ピット子爵の仕業ね。もう本当に別れてよかったと思うわ。今のピット子爵をご存知? 事業に失敗したらしくて財産も沢山失ったせいで後妻は子供を連れて家を出て行ってしまったらしいわよ。まぁ、また新しい愛人はいらっしゃるようですけど、社交界では誰も親しくしたいと思っていないわ。あぁ、こんなことはどうでもいいわね。余計な話をしてしまったわ。やめやめ」
たった二年もなっていないというのにここまでの落ちぶれっぷりをジュリエットは知らないはずだが、驚いている様子もない。
十年経っても相変わらずのジュリエットの無表情に、モナーレは懐かしそうに微笑んだ。
「ガロポロ侯爵はピット子爵のようなことはなさらないでしょ? また親しくできたら嬉しいわ。今度お屋敷にご招待してくださらない?」
「ええ。どうぞいらしてください」
「本当? 嬉しいわ。わたしの屋敷にも来てね」
「ええ。お伺いします」
ジュリエットなのでやはりにこりともしないが、モナーレはジュリエットがそういう女性だと昔を知っているので微笑んで再びの交流の約束を喜んだ。
ふたりの様子を遠巻きに見ていた人たちもモナーレが普通にジュリエットと話をしているのを見て近づいてきた。
「ルイリード伯爵夫人、なにを楽しそうにお話しなさっているのですか?」
「あら、フェルミナ嬢。久しぶりにジュリエットと逢えたのでまた仲良くしましょうとお話ししていたのよ」
ジュリエットとモナーレの周りにはいつの間にか人だかりが出来て興味津々にジュリエットを窺った。
「バルモア公爵夫人のご紹介でガロポロ侯爵とご結婚されたのだと聞きましたわ」
「ええ」
「ご再婚に不安はありませんでしたの? ガロポロ侯爵は以前奥様を大切にされていらっしゃらなかったと噂がありましたけど」
「お優しいかたですの?」
「ええ」
「とても怖いお方のように見えますのに。難しい方ではありませんの?」
「ええ」
「シルビア様が今どうしていらっしゃるかご存知? 街で働いていらっしゃるとかいう噂もありますのよ」
「まぁおかわいそうに。でももうあの庭師を雇う屋敷はありませんわよ」
「あら、かわいそうなんて思わないわ。自業自得ですもの」
「もともとご実家の借金のためのご結婚でしたものね。ガロポロ侯爵へなさった仕打ちの罰が当たったのですわ」
「そんなみっともない生活をなさらなくてはならないなんて、わたしには堪えられませんわ」
「街の女だなんて、落ちぶれてもそんな風にはなりたくないわ」
「ガロポロ侯爵はシルビア様とお別れになって本当によろしかったと思いますわ。ジュリエット様のようなお美しい奥方をお迎えになられて、本当にお似合いですもの」
「本当にそうですわね」
周りの話が弾む中、ジュリエットは『ええ』以外の言葉は発していない。
数年前まで散々ジュリエットを噂の種にしていたことをすっかり忘れたように、ガロポロ侯爵夫人になったジュリエットのお機嫌伺いをしてくる。
久々に登場したジュリエットの話を聞きたいし、ガロポロ侯爵家との繋がりも得たい魂胆が見え見えだ。
噂の種はいつでも必要だし、地位も資産も充分なガロポロ侯爵家と繋がれば自慢になる。上手く行けばオデルの仕事の手腕という恩恵を自分の家にもたらすことが出来る。
よくも次から次へとシルビアの情報が出てくるものだと不思議に思うくらいだが、ジュリエットもそう思っているかはわからない。
ただ、止め処ないシルビアの噂は悪口に変わり、ジュリエットが黙っているのでエスカレートしていく。
「ちょっと、ダメよ皆さん。シルビア嬢のお話しはこの場にそぐわないわ」
あまりに悪口が続くのでモナーレが止めに入った。こんな話は聞きたくないだろうと気遣ったのだ。
ジュリエットがシルビアの話を聞きたくないかどうかは誰にもわからない。
しかしジュリエットは立ち上がった。
女性にしては長身のジュリエットが背筋を真っ直ぐ伸ばし無表情で周りにいる夫人たちを見渡すと、メデューサと目が合って石にされたかのように固まるだけの迫力がある。
「ジュリエット?」
モナーレが声をかけると、ジュリエットは視線だけで座っているモナーレを見る。
「モナーレ、またお会いしましょう」
それだけ言ってジュリエットは輪になった人垣から抜けようとした。
「ガロポロ侯爵夫人、どうなさったのです」
「もっとお話ししたいわ」
媚の含まれた引き留める声にジュリエットは振り向いた。
「短くともわたしの夫の妻であった方を辱めることはわたしの夫を辱めているのと同じことです。わたしの愛する夫を侮辱なさるような話は一切聞きたくございません」
なにか言い訳を言う声が聞こえていたはずだが、ジュリエットは無視するようにその場を離れようと背を向けたところで立ち止まった。
足が止まったのはオデルが行く手を塞いでいたからだ。
オデルの存在に気が付いた夫人たちが息を呑んで口を押える。
ジロリ、と見たかどうかは多分感じる側の印象だ。オデルはジュリエットと囲んでいた人垣を一瞥してからジュリエットに向かって肘を突き出した。
ジュリエットは自然の流れのように突き出された腕に腕を絡めた。
「もう用は済んだ」
「では帰りましょう」
それだけ言うと、オデルとジュリエットはスティーブンス伯爵邸を後にした。
馬車に乗り込むジュリエットに手を貸しながらオデルが口を開いた。
「愛する夫と言ったな」
ジュリエットはオデルを視線だけでチラリと見た。
「なにか問題でも?」
「ああ、問題だ」
馬車の中では来た時同様なんの会話もなく、ふたりは背もたれのいらない姿勢のままで黙って揺られて帰宅した。
屋敷に到着すると扉を開けたリーブスの後ろ、玄関フロアには使用人が勢ぞろいで待っていた。
柱の陰にはコックやキッチンメイドもいて、出かける時に見逃したジュリエットの姿を見るために集まっていたのだ。
どこも乱れることなく出かけた時と同じ姿で予想よりも早い帰宅だった。
着飾ったジュリエットを初めて見る使用人たちは思わず胸を押さえた。
リーブスもステファンもケイトも、まったく話を盛ってはいなかったことが証明されたのだ。
深紅のドレスを着たジュリエットは気高く美しく、見惚れて感嘆のため息が出るほどだ。
なぜこんなに美しいのに普段は着飾らないのかが不思議でたまらなくなるのだが、もしかしたらジュリエットがあまり自分に構わないからだけではなく、マリリンがその手伝いを出来ないからなのではないかとモリーは思った。
主人の普段の髪も結えないマリリンでは着飾る手伝いはとても無理だ。
ジュリエットの帰宅をはしゃぎながら迎えるマリリンを見下ろすジュリエットがいつも以上にしっくりきて見えるのは、ジュリエットを大好きなマリリンとそれを歓迎しているジュリエットだということが髪を結う話しでわかったからかもしれない。
「奥様! お帰りなさいませ!」
マリリンが言うとジュリエットが頷く。
いや、マリリン。先に旦那様にも言わなくてはならないよ……。
突っ込みたい気持ちを抑えてステファンがオデルを見ると、一向に気にしていない、むしろマリリンをまったく見ていないので大丈夫のようだ。
それどころか。
「マリリン、今日はもういい」
階段を登りかけて後ろにちょろちょろと付いて来るマリリンに振り向いたオデルが言うので、大丈夫ではなくそれどころではない。
ジュリエットの寝支度を仕事としているマリリンはキョトンと丸い目を見開いてオデルを見上げた。
オデルの前を歩くジュリエットも振り返りオデルを見たが、ふたりとも無表情に変化はない。
なぜこんなことを言い出しているのかわからないマリリンが口を開きかけたが、オデルの心中を察した、実際には本当にそうなのかはここの誰にもわからないことだが、ステファンはマリリンの肩を掴んだ。
「旦那様、奥様、おやすみまさいませ」
本来ならステファンもオデルの寝支度の為付いて行かなくてはならないが、多分そうだろうことを想像してマリリンを止め自分も留まった。
後ろに控えている使用人一同は胸を押さえていた手を口に移動して上げそうな声を押さえた。
ふたりが階段を登りジュリエットの部屋へ入ってくのを玄関フロアで見送ってから、全員が速足で地下の使用人食堂に戻っていく。
なにがなんだかわからないマリリンはステファンに肩を抱かれながら強制的に連れて来られていた。
「あれ、絶対にそうだよね!」
「ね! そうだよね!」
「なんですか? なにがそうなんですか?」
「なんでわからないのよマリリン!」
ケイトとモリーは手を握り合って興奮しきりにはしゃいでいる。
それもそのはずだ。この使用人食堂にいる全ての使用人の宿願が結実するかもしれないのだ。
「「「「「愛し合うご主人夫婦の暖かい屋敷になるんだよ!」」」」」
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