夢見る乙女と優しい野獣

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 庭を散歩しながら、サニーはアレンの婚約のことを興奮気味にエマに話した。
 エマがアレンに憧れていることを知っていたので、エマに諦めさせようとアレンは結婚するのだと繰り返し話してしまっているのだ。
 もちろんこれは逆効果で、エマの機嫌はさらに悪くなる。
 サニーはエマと二人きりで楽しそうだが、婚約者に謀り事をされ憧れの王子様は結婚してしまう今のエマには楽しいことなどひとつもない。

「少し座ろうよ」

 投げやりな気分のままサニーに付いてガゼボに来てしまったが、エマは後悔し始めていた。
 マギーに酷い態度をしてしまった。
 しかもサニーと結婚など、考えたこともないことまで口走ってしまった。
 サニーは男性にしては小柄で痩せていて、顔もハンサムとは言い難い。優しいが気が弱く、蜂に追いかけられただけで泣いてしまった思い出がある。
 サニーを男性と意識したこともないので、エマの思う王子様とはギルバートと違った意味で同じだけ遠い。

「ずっとエマに話したいことがあったんだ」

 ガゼボに並んで座り、エマは自分の軽率を心から悔いていた。もう一刻も早くこの場を切り上げ家に帰りたいとしか思えなかった。

「サニー、ごめんなさい。わたし、今日はあまり気分が良くなくて。だからもう……」
「わかるよ。エマはアレン様がお気に入りだったもんね、結婚はショックなことだろ? でも、自分の結婚を考えるいいチャンスでもあるんじゃないか?」

 エマは何度も繰り返されるアレンの結婚の話など、もうどうでもよくなっていた。

「アレン様の結婚の話はもういいわ。どうでもいいの。わたしもう戻るわ。マギーに今すぐ謝りたいし、そうしたらさっさと家に帰って自分のベッドに潜り込みたいの」

 エマは思っていることをそのまま口に出し立ち上がると、サニーはエマの腕を強く掴んだ。

「サニー!」
「エマ待って。もう少しだけ。話があるんだ」

 掴まれた腕に鳥肌が立ち、エマはサニーに恐怖が込み上がった。
 その時だった。

「こんなところでわたしの婚約者になにをしているのかな?」

 『地を這うような』『ガシャガシャ』な声がする方を見上げると、ギルバートが仁王立ちでサニーを見下ろしていた。
 後ろに撫で付けた波打つ髪がまるで立ち上がり靡いているように見えたのは、ギルバートから発せられるオーラのせいだ。
 真っ直ぐな眉が釣り上がり、燃える瞳がサニーを睨みつけ金縛りにする。
 戦場で称えられた『怒れる焔のライオン』そのものの姿で、サニーを威嚇しているのだ。

「ギ、ルバート……」

 エマの声が震えた。

「エマから手を放してくれ」

 ギルバートは落ち着いた口調でサニーに言い、エマの腕を握る手を払った。
 サニーは電気でも走ったかのようにエマから手を離しその手を背に隠した。

「婚約、者? その……エマの?」

 覚束ない声でサニーが聞くと、ギルバートは揺ぎ無く答えた。

「わたしの婚約者を気安く呼ばないでほしいね。こんなところに連れ込まれているだけでも不愉快なのに、そんな風に呼び捨てにされるのを聞くのは不快極まりない」

 ギルバートの声は確実に恐怖を与えていたが、エマのことが好きなサニーは恐ろしくとも簡単には引き下がれない。それでももう、呼び捨てに出来る度胸まではなかった。

「レディ、エマ。婚約者って、本当なの?」

 聞かれたエマは身体だけじゃなく思考も固まってしまっていたので、すぐに返事が出来なかった。

「そうだと言っているだろう」

 代わりにギルバートが答えたが、高圧的な態度がサニーのなけなしのプライドを刺激した。

「しかし! エマはアレン様に夢中だったはず。今日も婚約にショックをうけていました。それにあなたのことは彼女から聞いたことはありませんギルバート卿」

 サニーの攻撃は焔にガソリンをかけただけだった。

「わたしの婚約者を侮辱するような発言は慎んでもらおうか。それになぜ君にわたしたちの事を報告する必要があるというのだ。君はわたしたちとは何の関係もないのだよ。いい加減わかったどうだ」

 ギルバートの燃え盛るオーラに、サニーは為す術もなく黙って立ち去るほかなかった。
 すべてのやり取りを固まったまま見ていたエマだったが、ギルバートがいつものように腰を屈め目線を合わせてきたのを見てやっと我に返る。

「エマ」

 呼ばれてようやく自分の置かれた状況、ギルバートへの悲しみや怒りが頭の中を駆け巡る。

「先に話をさせてくれ。君に謝らなければならないことがある」

 言ってからギルバートは目を見開いた。
 エマの瞳からはらはらと涙がこぼれてしまっているのだ。
 ギルバートに傷つけられた痛みが蘇り、込み上げた感情が涙になって溢れ出てしまったのだった。
 ギルバートは抱きしめたい衝動を抑えることに持っているすべての力を注いで堪え、そっと肩を撫で座るように促す。
 ギルバートの胸は痛いほど締め付けられていた。自分はエマを泣かせたのではない、悲しませたのだと。
 守ろうとしたのが自分の浅慮でこの事態を招いたことに、サニー以外なら誰でもいいから殴り飛ばしてくれという気分だ。
 理性をかき集め横に座ると長い脚の間で祈るように手を組み合わせ、エマの顔を覗き込む。

「アレンの婚約の事を黙っていて悪かった。この舞踏会への招待状を止めたのも俺だ、本当にすまない。言い訳だが、君を傷つけようとか俺が君をアレンに逢わせたくなかったからとか、そういう理由ではなかったんだ。君がアレンの婚約を聞いてショックを受けないようにしたかったんだが君を傷つけただけだった。でも信じてほしい、そんなつもりはなかったということを。君を傷つけたかったわけじゃなかったんだ。守ろうとして、裏目にでてしまった……」

 エマははらはらと涙をこぼしながら、ギルバートの榛色の瞳を見つめた。
 ギルバートの胸はもう潰れんばかりだったが、それも必死で堪えた。

「ギルバート、わたしに嘘を吐いたわね」
「すまなかった」
「謀った」
「すまない」

 ギルバートには返す言葉がこれしかなかった。
 さっきまでの釣り上がった眉はこれ以上ないほど下がり、燃え盛ったオーラは見事なまでに沈下し自信なく頼りな気なものになってしまった。
 それとは逆に。涙を流し憂いに沈んだエマの瞳が見る見るうちに覇気を取り戻しギルバートに向けて尖り始めた。

「あなたわたしを謀ったのよ」
「すまない、本当に」
「あなた、わたしに。なんてことしてくれたのよっ!」

 エマは轟々と込み上げる怒りを抑えることなくギルバートにぶつけ出した。
 ギルバートの肩や胸をひとつの遠慮もなく力いっぱいボカボカと殴り、その手は顔や頭にも容赦なくぶつかった。
 ギルバートは両手を肩の前に上げて見せ、それを甘んじて受け止めた。

「信じられないわ! わたしを傷つけたわね!」
「わかっている。俺が悪い」
「あなたのせいでマギーも傷つけたわ!」
「それも俺が悪い。本当にすまなかった」
「許さないわ! サニーと結婚してもいいって言っちゃったじゃないの!」

 すべての非難を受け入れるつもりのギルバートだったが、突然のエマの言葉に目を見開き冷静を手放した。

「なに? 今何と言った?」
「あなた以外ならもう誰とだって結婚してやるって思うくらい、あなたのことが嫌いになったのよ!」
「エマ!」

 ギルバートは叫んで頭を抱えた。
 マギーの心配はこの事だったかと。自棄を起こしたエマの何をしでかすかわからない恐ろしさに震えが走った。

「エマ、俺の事を嫌いでも構わない。だが自分の身を危険に晒すような真似だけはやめてくれ」
「危険なことはしてないわ。サニーだもの」
「暗がりで男と二人きりだなんて危ないに決まっている。しかも怒りの勢いで結婚なんて、君は自分がどれほど危険に身を晒していたかわかっているのかい?」

 しかも相手は結婚を持ち掛ければふたつ返事をするに決まっている、エマに惚れている男だったのだ。
 ギルバートの瞳が本気で心配していることを伝えてきたので、エマは勢いを削がれた。

「なにもなかったわ」
「頼む……。もう二度としないでくれ」

 ギルバートの心からの頼みだとはわかったが、元をただせばギルバートのせいでもあるので素直に了承は出来ない。

「もとはと言えばあなたのせいじゃない。あなたがわたしに謀り事をして傷つけたりしなければよかったのよ。それに! 今だってあなたと二人きりでここにいるじゃない。サニーよりあなたの方がよっぽど危険だわ!」
「俺は君の婚約者だ」
「そういえばあなた! 誰にも婚約の話はしないって約束したのに、サニーに婚約者だって言ったわね!」

 エマの削がれた勢いが再び蘇る。

「それは俺も悪かったが、君は危険に晒されていたんだぞ?」
「危険なのはあなたよ! あなたはわたしを簡単に傷つけるのよ!」

 ギルバートをボカボカと殴り、勢いのまま胸に飛び込んだ。

「あなたのことで頭がいっぱいなの。あなたじゃなければわたしはこんなに傷ついたりしないのよ……」

 エマの心と脳と口は直結である。それがどんな意味を持つのかを自分でも解らないまま口に出してしまっているのだ。
 ギルバートの厚い胸板に額を預け、握りしめた拳で何度も叩く。
 胸をノックされて、ギルバートの理性のドアも開いてしまう。
 エマのか細い肩を鍛えられた両腕でそっと包み、壊れないよう最小の力で身体ごと引き寄せた。

「俺だけが君を傷つけた?」
「そうよ」
「アレンの婚約よりも、俺のことが君の頭を占めているのかい?」
「そうよ」
「君を悲しませたのは俺だけなんだね?」
「そうよ」

 ギルバートは堪らず腕に力を込めた。

「あぁ、エマ。君を傷つけてしまったのに、今の言葉がどれだけ俺を喜ばせているかわかっているのかい?」

 エマはギルバートの胸から顔を上げ、榛色の瞳を見上げる。
 ギルバートも空色の瞳を熱い眼差しで見つめ返す。

「君ほど俺を喜ばせる女性はいない」

 ギルバートは蕩けるような優しい微笑みをエマに降らせた。
 ギルバートの甘い囁きに、エマは全身が麻痺するような感覚に陥った。
 胸だけはキュンと高鳴っているのに、頭はぼぅっとして全身の力が抜け落ちてしまった。
 ギルバートの大きな手がエマの頬を捉える。
 親指でそっと、エマの小さな顔に残る涙の後をなぞり唇に触れた。
 ギルバートを見つめるエマの目がその親指の行方を追って伏せられたのを確認し、ギルバートは影を重ねるようにそこへ顔を寄せていく。
 あと数センチもない距離まで唇が迫って。
 エマはヒュッと息を呑み、咄嗟にギルバートの口を手で塞いだ。

「ちょっと」

 見開いた目に迫るギルバートの目も大きく見開かれ、お互いに今なにが起こっているのかを理解しようとした。

「このままだと、くっついちゃうわ……」
「その、つもりだったのだが?」

 途端にエマの顔が発火する。
 口を塞いでいた手でギルバートの顔をグイーっと押し上げ、もがいて腕の中から逃げた。

「なんてことするの! わたしのファーストキスの相手があなたになってしまうところだったじゃない!」

 我に返って暴れるエマに、ギルバートは大きなため息を吐いて笑った。

「その栄誉はいただけないのかい?」
「冗談じゃないわ! せっかくキュンとしたのに……」
「キュンとしたのか? 俺に?」
「一瞬よ! 今ので全部ぶち壊しだわ」
「キスしたらもっとキュンとするかもしれないぞ?」
「やめてちょうだい。一瞬の気の迷いで大切なファーストキスをグリズリーに捧げたりはできないわ」

 キス出来なかったことは残念だったが、エマがいつも通りに戻ったことにギルバートは心底安堵した。

「俺はまだグリズリーかい?」
「違うとでも思っているの? というかあなた、わたしに勝手に障らないで頂戴!」

 完全に本調子に戻ったエマは自分を包んでいたギルバートの腕をバシバシと叩きながら身体を離した。

「こんなところにあなたと居るなんて本当に危険だわ! 戻るわよ!」

 テラスに戻ろうとするエマを追ってギルバートも立ち上がり、そっと腕を突き出して見せた。
 エマは一瞬逡巡したが、薄暗い庭の芝は歩きにくいからと自分で自分に言い訳しそっと腕を絡めた。
 ギルバートはそれだけで満足した。
 テラスではマギーが待っていた。エマは抱きついて謝り、マギーも許した。
 フロアではエマたちのちょっとした事件など知る由もない人々が華やかに煌めいている。
 アレンの婚約はショックだったが憧れの王子様であることには変わりないので、エマはギルバートにアレンと踊りたいと頼んだ。
 ギルバートは友人にエマを頼み、願いを叶えてあげた。

「アレン様。ご婚約おめでとうございます」

 エマは少し寂しい気持ちもあったが、心からアレンに祝いの言葉を言えた。
 アレンは以前と変わらぬ優雅な微笑みと仕草でリードしたが、エマの胸は以前ほど高鳴りはしなかった。

「レディエマニエル、あなたとギルは特別な関係ですか?」

 アレンは疑問に思っていたことを、素直に言わなそうなギルバートではなくエマに聞いてみた。今日のギルバートの焦った様子からエマとなにかあったのだと思っていたからだ。

「いいえアレン様。わたしとギルバートは特別な関係ではありません。ただ……」
「ただ?」
「わたしはギルバートを喜ばせています」

 エマの言葉はアレンには意味不明だったが、エマが嬉しそうに言うのでアレンは友人とエマの良い関係を願った。
 最近は舞踏会で誰とも踊らないギルバートだったが、お詫びも兼ねてマギーを誘って踊った。

「エマに笑顔を戻してくださって、ありがとうございました」

 マギーはエマを治めたギルバートにお礼を言ってくれたが、原因は自分であるので申し訳なさが増した。

「いや、レディマーガレットのおかげです。ご心配おかけしたことと、エマが八つ当たりしてしまった事を心から詫びます」

 踊りながら頭を下げる姿に、ギルバートがちゃんとエマを大事に想っていることがマギーに伝わった。

「頑固で手強いですけど、エマほどかわいらしい娘はそうはいません。明るく朗らかで、わかりやすい! ギルバート様を応援しますわ」
「これ以上ない援軍だ。あなたのような方がエマの親友であることは本当に素晴らしい」

 二人はきっとお似合いだとマギーは確信した。
 アレンと踊って満足したエマを、今度はギルバートが誘った。

「レディエマニエル、わたしと踊っていただけますか?」
「ちゃんと反省しているのかしら?」
「もちろんしている。二度と君に嘘はつかない」
「そこまで言うなら、許さないけど踊ってもいいわ」
「許してはくれない?」
「そうよ。今日はまだ許さないわ」

 言葉とは裏腹に、エマは楽しそうだ。

「許してくれるまで、どんな努力も惜しまないよ」

 ギルバートが優しく囁いて手を差し出すと、エマは自分の手を重ねた。
 ギルバートのリードは完璧だった。
 なにせエマにとっては熊だったので踊る姿を想像したことがなかった。ギルバートがこれほど優雅に踊るとは思ってもみなかったのだ。

「あなた踊れたのね」
「君に付き合える程度には」

 エマは身体だけでなく心も躍らせ、ギルバートの腕の中に身体を預け音楽を堪能した。
 アレンが言っていた通り、エマが声を出して笑いながら本当に楽しそうに踊るのを自分の腕の中で見ることが出来てギルバートは大満足だった。
 なので。ローゼンタールへ送る帰りの馬車の中でエマがアレンと踊った話ばかりしてもギルバートはちっとも気にならず、むしろ楽しんでその話を聞いた。
 エマもずっとご機嫌なままだったが、本当はアレンと踊った時よりもギルバートと踊った時の方が楽しかったことはまだ素直には言えなかった。

「次に舞踏会の招待があったら、今度こそ一緒に行ってくれるかい?」
「あなたが謀ったりしないのなら、考えるわ」
「その時こそ、あの真珠を着けてきてくれ」

 ギルバートに怒っていたので、せっかく貰ったあのチョーカーを着けてこなかった。
 今朝は当たり前のように選ばなかったが、今は着けて見せたかったと思った。

「それも、考えておくわ」

 エマは素っ気なく答えたが、次は絶対に着けることを決めていた。
 帰りを待つロバートはずっと気が気じゃなかったが、エマが笑顔で戻って来たこと。ギルバートが一緒だったこと。
 なによりギルバートと楽しそうにしていることで、追い風はまだ吹いていると安心した。
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