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来る。多分来る。きっと来る。もうすぐ来る。
エマは自室から窓にぴったり張り付いて外を眺めていた。
最後に逢ったのが七日前。今日あたり来そうな気がしてならないのだ。
ギルバートが。
妥協案の話以来ここ三か月、ギルバートは頻繁にローゼンタールを訪れるようになった。
ロバートもマーナも歓迎するが、エマはそうはいかない。歓迎などしないと決めているからだ。
ギルバートも歓迎されないことは端から承知で来るのでエマが居なければ挨拶だけしてさっさと帰るし、エマが居てもそれほど長居はしない。
ロバートにはギルバートからエマと交わした妥協案は説明済みだ。
初めて聞いた時はそんなことはとんでもないと言ったのだが、ギルバートからの発案でそうさせてほしいと願われればこちらとしてはありがたい話だ。父親として婿に望む最高の男が娘にご執心なのだ、悪い気がするわけがない。
いつも馬車ではなく黒い愛馬に乗ってギルバートはやってくるので、エマは窓からその黒い影が現れるのを待った。
今日はどんな手で追い返そうかと企みながら。
風邪をひいたり足を挫いたりとかの嘘はあまり効き目がなかった。身体にいいお茶や怪我に効く薬草を持って翌日また来るからだ。
会いたくなくて仮病を使っているのに、またすぐ来られるのは困る。
来るかもしれない日を予測して外へ出かけてしまうのも、行く場所が少なくて困る。
しかも街や友人の家に行く馬車を執事のクリスに頼んでおくと、『ギルバートが来るかもしれないから今日は外出しないように』とロバートに止められ馬車が使えなくなるのだ。
徒歩で行ける範囲で一番のお気に入りはパールガーデンだが、いつものように遊んでいると屋敷への通り道なので出くわしてしまう。
そこで最終手段として時間を一緒に過ごすことにした。それもすごく嫌な時間を。
エマはギルバートが好きではないし婚約者とも思いたくないので思う存分不遜な振る舞いが出来るのだ。
子供じみているが直接攻撃は効くはずだと信じて嫌味を言ったりデタラメの嘘をついて脅かそうとしたり、嘘泣きで困らせようとしたことも。
しかしギルバートはエマがなにをしても変わらないのだ。いつも微笑んでエマのすることすべてを許し受け入れる。
エマといると楽しいという顔をして、満足して帰っていくのだ。
あまりにも甘いのでエマ自身が戸惑うことがあるくらいだ。
時々怒らないのをいいことに言いすぎてしまうこともある。そんな時はついギルバートを窺ってしまうのだが、ギルバートはなんでもないようにしてエマをからかって罪悪感を消し去ってくれる。
だからまた調子に乗ってギルバートを困らせてやると躍起になる。
今度はなにしてやろうかと、結果としてギルバートのことばかり考えている毎日だ。
侍女のリンジーからすると、エマは口では悪態ばかりつくのにギルバートと逢うと活き活きとしていて楽しそうに見える。
今日も窓を眺めて今か今かと待ち侘びているようにしか見えない。
ギルバートが来た翌日はつまらなそうにしているし、来るかもしれない日は無意識なのだろうが支度に時間も掛けている。
リンジーがエマにギルバートと楽しそうだなどと言えばエマが不機嫌になってしまうのは目に見えているので黙ってはいるが、どう見ても大嫌いな人を待っているようには見えない。
「来たわ! ギルバートが来たわ!」
黒い馬に跨るまだ遠く小さくしか見えないギルバートを見つけ、エマは無意識に鏡の前に行く。身なりを整え後ろにいたリンジーを振り返る。
「今日こそコテンパンにして、もう二度と来たくないようにしてやるんだから」
口では酷いことを言っているが、なぜエマは自分が笑顔なのだと気が付かないのだろう?とリンジーは思う。もちろんこれも口には出さない。
部屋の中をウロウロしながらクリスが呼びに来るのを待つ。
エントランスで出迎えたらいいのに、それも絶対しない。飛び出さないように細心の注意を払っているのだ。
リンジーにしてみたら、無駄な注意だ。
*****
「あなたまた来たの? よっぽど暇な人間なのね。他にやることはないのかしら」
エマはゆっくりと階段を下りながら大げさにため息を吐いて、エントランスで待つギルバートに向かって言った。
毎回挨拶代わりに言われるこのような嫌味も慣れたもので、ギルバートにとっては痛くも痒くもない。
にっこりと笑顔を崩さず、花柄のドレスをふわふわとさせながら降りてくるエマに手を差し出す。
これも毎回のことだがエマはその手を取らない。
クリスにとっても見慣れてしまった光景だが、礼儀を重んじる老齢の執事はエマの失礼な態度に黙ってこめかみをピクリとさせる。
「相変わらず、ご機嫌は麗しくないようだ」
「あなたが目の前にいるからかしら?」
エマはギルバートの前を素通りしてサロンに向かう。いつものようにそこで過ごすと思っているからだ。
しかし今日は違った。
「エマ待って。今日は外へ行かないか? 君と散歩がしたいんだ」
エマは怪訝な顔をしてギルバートを見返す。外を一緒に歩いたりすれば誰かに見られてしまう可能性があるではないか。
「誰かに見られても、たまたまだって言い訳してあげるよ」
エマの考えを先回りしたギルバートによって断る理由は取り除かれた。のだが。
「行かないわ。あなたと散歩に出ても楽しくないもの」
エマはそっけなく言った。
「今日は天気もいいし風も穏やかで気持ちがいい。パールガーデンまで行こう。クリス、お姫様が座れるブランケットを貸してもらえるかい?」
ギルバートはエマの拒否を無視してクリスに頼み、クリスは頷いてブランケットを取りに下がった。
「どうしてわたしがあなたと行くことになっているのよ。行かないって言ったわ」
「行くよ。今日は君にプレゼントを持ってきたんだ。パールガーデンで渡したい」
プレゼントは初めての手だった。
エマはギルバートのプレゼントには興味がある。
花や菓子はよく持って来るが今日は手ぶらだし、花や菓子ならいつも通り黙って土産として渡すだろう。
しかし今日は『プレゼント』と特別な言い方をしている。気にならないわけがない。
「ここで受け取るわ」
「君はロマンチストじゃないなー。ピッタリのシチュエーションで渡したいんだ」
エマは自分の事をロマンチストだと思っていたし、そう見えるはずだとも思っているのに否定され。むしろ熊のようなギルバートがロマンチストを語るものだから吹き出してしまった。
「あなた! グリズリーのくせに図々しいわ! そんな大きな身体でロマンチストだなんて!」
「ロマンに年齢も性別も、もちろん身体の大きさも関係ないよ。ほら、行こう」
クリスからブランケットを受け取ったギルバートがあまりにも自然に促すので、そしてエマもつい笑って楽しくなってしまいそのままギルバートの後に続いて外へ出てしまった。
そこで気が付く。しまったと。
「行かないって言ったのに!」
一瞬前までの満面の笑みを急いで顰める。ギルバートと楽しいなんて今のエマにはあってはならないことだ。
それに気が付いていたギルバートだったが、何も言わずにそのまま歩き出した。
どうしても嫌ならすぐ回れ右をして屋敷に戻ればいいのだが、心の奥ではどうしても嫌ではないらしい。渋々といった体を取りながらギルバートに付いて歩いた。
ギルバートの言う通り、外は暖かくて風も気持ちいい絶好の散歩日和なのだからしょうがないと自分で自分にいい訳をして。
エマを振り返りながら歩くギルバートの歩調はリズミカルで軽快だ。天気は気持ちがいいしエマを笑わせることも出来た。これから渡すプレゼントもきっと喜ぶと確信している。
エマは前を歩くギルバートの大きな身体が揺れるのを、少し不思議な気分で見ていた。
大きすぎて恐ろしかった身体に慣れてきているのだ。まるで恐怖など感じない。
むしろ逞しい背中に見とれてしまいそうになる自分が恐ろしい。
ブルブルと首を振って頭に浮かんだことを追い出す。
ギルバートに怖い・嫌い・獣以外の感情を持ってはいけないのだ。だってギルバートはエマの王子様ではないのだから。
エマの王子様はアレンのような人でなくてはならないと決めているのだから。
「エマ、失敗したよ」
突然ギルバートが振り向いて言うので、ドキリとする。
恐ろしかった『地を這うような』『ガシャガシャ』声にも慣れて、時々耳を擽るように聞こえてしまう時があるのだ。
今ドキリとしたのは突然振り向いたからだから!と自分に言い聞かせ、エマはまた顔をしかめる。
「なに? なにを失敗したの?」
ギルバートはもはや癖になっている屈む仕草でエマと目線を合わせ。
「ピクニックの準備をしてきたらよかった。こんな最高の天気なのだから、君と草原でお茶がしたかったな」
ギルバートの落胆はエマの落胆にもなった。
こんな心地の良い日はピクニックには打ってつけだ。
「本当そうね、先に言っておいてくれたら準備しておいたのに……」
またしても言ってしまってから気が付く。しまったと。
「ちがう! あなたと来る準備をじゃなくて。天気がいいことを。そう、神様が、天気がいいって先に言っておいてくれたら。ほら、マギー! そうマギーを誘ってピクニックしたかったっていう。そういう意味で!」
焦って支離滅裂になってしまったが、なんとか親友マギーの名前を出してごまかせているよう願った。が、願いは届いていないようだ。
ギルバートは「うんうん」と頷きながら前を歩きだしたのだが、さっきよりも身体が弾んでいるように見える。
「今度は前もって伝えるよ」
エマは臍を噛んだ。嫌いな相手にうっかり口を滑らせた自分が悪いのだが、こんな時はすべてギルバートのせいである。
ギルバートから見えない彼の背中にこっそりパンチする仕草を何度もしたが、もやもやする気持ちはすっきり出来なかった。
パールガーデンに着くと草原の真ん中にブランケットを敷き、ギルバートは手を差し出した。エマが座るのを助けるために。
しかしエマは当然のようにギルバートの手は借りず、なるべく離れられるよう端に座った。
もちろんギルバートもわかっているので、エマと反対の端に座ってからゴロリと寝転んだ。
「あぁ。なんて気持ちがいいんだ」
大きな身体をブランケットからだいぶはみ出しながら、手足を思い切り伸ばす。
立っていても大きいギルバートだが寝転ぶとすぐ近くに何もかもが見えてエマはまた心臓が鳴ってしまったのだが、わざと悪態をつくことで自分をごまかした。
「あなた、足も大きいのね」
獣を見る目で足を見ながら言うと、ギルバートは横になって肘をついて頭を支えエマを向いた。
「そんなに大きな男は嫌いかい?」
「あなた大きすぎるのよ、どこもかしこも」
「君はどこもかしこも小さいな」
ギルバートはブランケットに置いたエマの手を見ながら言っただけなのだが、エマはその手を掬いとられるのではないかと一瞬緊張した。
ギルバートはエマの了解なしに触らないようにしているので、勝手に掬い取ったりはしない。
エマの緊張に気が付いたギルバートは小さく微笑んで首を振った。
「大丈夫だよ。何もしないから君も寝転んでごらん。この気持ちよさは君のほうがよく知っているだろう?」
もちろん知っている。この草原で青空を天井に寝転ぶのは最高に気持ちいいのだ。
しかし、レディが男性の前で(男性の前でなくても)そんなことをしてはいけないことくらいはわかっている。
だがそんなエマの逡巡は無意味だ。ギルバートにはとっくにその姿を見られているのだから。
「大丈夫だよ、人が来る気配があれば俺が気付くし。守ってあげるよ」
エマはまたしてもドキリと胸を高鳴らせてしまう。
『守る』は夢見る乙女には魔法のワードだ。エマの王子様に言ってほしいセリフの上位にランキングされている。
「ほら、寝転んでごらん」
もうやめてほしい!エマは心で叫んだ。
『地を這う』『ガシャガシャ』な声が優しく誘うと、最近のエマは頭に血が上りそうになるのだ。
大嫌いな熊の声に身体がおかしな反応をすることなど、エマには受け入れがたい。
「いやよ。あなたの横で寝転べるのはグリズリーの雌だけよ」
ムキになって顔をそらして赤くなっているかもしれない頬を隠すのだが、ギルバートはそのかわいらしい反応にこっそりと破顔する。
「わかった。じゃあ俺は起き上がろう。君の方も向かないよ。安心して伸びてくれ」
起き上がり膝を抱えて座りなおすと、エマを見ないように顔を背けた。
それでもエマはギルバートの前でもう転がって伸びをすることなんてできない。
ごまかすように話を逸らす。
「そんなことより。あなた、ここに来た目的を忘れていない? わたしに渡すものがあるんじゃないの?」
顔を背けたままで言ったが、ギルバートが姿勢を変えエマに向かって胡坐をかいたのでエマもギルバートに身体を向けた。
ギルバートは楽しそうにポケットからベルベットの巾着を取り出し、手のひらの上に中身を出してエマの前に差し出す。
「どうかな?」
エマは小さく息をのんだ。
それは真珠の二連のチョーカーで、薄ピンクの照りが美しく輝いているものだった。
中央に一粒、エマの瞳と同じ色のティアドロップ型の大きなブルートルマリンが下がっていて高級なものであることがわかる。
エマも真珠は持っていたが、こちらの方が格段に上級品だ。
「真珠を送るならパールガーデンがいいだろう? 気に入ったかな?」
パールガーデンで踊る姿を見てエマが欲しいと思ったギルバートは、エマへ送る最初のプレゼントは真珠にしようと決めていたのだった。
プレゼントが気に入ったのは見てわかったが、エマの口からその感動を聞きたかった。
「素晴らしいわ……」
うっとりと見つめる様子にギルバートは満足げに微笑み、留め具のベルベットのリボンをほどいて両手で開いて持ち上げた。
中央のティアドロップの石が揺れ、エマはそのかわいらしく美しいチョーカーを早くつけてみたくて仕方なくなった。
ギルバートもきっとエマに似合うと確信していた。
「髪を上げて。着けてあげるよ」
目の前のチョーカーをうっとりと見つめながら言われるまま下していた髪を上げギルバートの両手が迫ってくるのを待って、ようやく正気が戻った。
なにをしているのだ!ギルバートからこんなに高価なものを貰っていいはずがない!
「待って! 受け取れないわ。だって、あなたとわたしはなんの関係もないんだもの。こんな高価なものを受け取ることは出来ないわ」
急いで持ち上げかけた髪を下ろす。
少しでも油断すればこの真珠を欲しくてたまらなくなってしまうエマは、自分を必死で叱咤して断った。
「君は俺の婚約者だ、俺にとってはね。自分の婚約者に美しいものをプレゼントするのは当たり前のことだ」
「でもわたしにとっては、あなたは婚約者じゃないわ。そういう約束でしょ」
ギルバートは片眉を上げて悪戯な顔をエマの前に出した。
「俺にとっては婚約者だ。だから俺には贈り物をする権利がある。でも君にとっては婚約者じゃないから受け取らなくてもかまわない。だた、これを受け取ったからと言って結婚しなくてはならないなんてことはないから、安心していいよ」
エマは注意深くギルバートの目をのぞき込む。その榛色の目は優しく、温かくエマを見つめ返す。
だから!ギルバートにドキドキしたりなんてしちゃだめなの!
高鳴る胸を悟られないようエマは身体を後ろに反らし、訝しい顔をわざと作った。
「ただ着けてくれたら嬉しい。それだけだよ」
ギルバートは微笑んで、もう一度チョーカーを開いて見せた。あとはエマが首を出せば着けてあげるだけ、というかたちだ。
エマは魅力的なプレゼントをどうしていいものか迷ったが、結婚をしなくていいなら断る理由は浮かばないほどこのチョーカーが欲しくなってしまっている。
「本当に? 結婚しないのよ?」
「いいよ。着けてもいいかい?」
「結婚はしないけど。着けてあげても、いいわ」
「嬉しいね。ありがとう」
プレゼントする側が礼を言うのは違うと思うのだがギルバートが本当に嬉しそうに微笑むので、エマは顔が緩みそうになるのをギュっと引き締めた。
「あなたを喜ばせたくはないんだけど……」
一応の言い訳をしてみるが、あまり効果はない。ギルバートは緩み切っているエマの顔をしっかり見てしまっていたから。
「髪を上げて」
甘く唆すようなギルバートの誘導に、もうエマは抗うことが出来なかった。
言われた通り長い蜂蜜色の髪をまとめて持ち上げると、ギルバートの両手が左右の耳の下をかすめた。
エマはヒュっと息をのみ目を見開いた。咄嗟にすぐ目の前まで来ているギルバートの身体を片手で押し動きを止めた。
また失敗してしまったのだ。
今度は大失敗だ。
ギルバートが近すぎる。
両腕に首が囲まれ鼻先が頬に迫って、咄嗟に手で押さえた固い胸は自分のささやかなふくらみまであとほんの少しの距離なのだ。
「大丈夫。触らないよ」
耳のすぐ下に息がかかりギルバートのコロンの香にふんわりと包まれ、エマは身体を固まらせ首にかかった冷たい感触に小さく身震いしそうなのに耐えた。
触らないと言ったギルバートだったが、首の後ろでリボンを結ぶと身体を離しながら真珠をなぞりエマの鎖骨を長い指の背がかすめた。
エマの顔が初めて経験する熱を持ったことで、自分でも発火していることが分かった。
「よかった。とても似合う」
ギルバートの微笑みを見て、もうこれ以上近くにいるのは危険すぎると悟ったエマは混乱する頭で後ずさった。焦りすぎてブランケットから大幅にはみ出したが、それも気にする余裕はない。
「お願い、それ以上近づかないで!」
「エマ? 落ち着いて?」
ギルバートは落ち着いて両手を上げ何もしないとうポーズを見せたが、エマの頭は混乱中なのでそんなことをしても意味はない。
「ちがうの。そうじゃないの。もうこれ以上は危険だわ。ドキドキしちゃってるの。グリズリーにドキドキしちゃうなんて、どうかしてるの!」
エマは混乱真っ最中で余計なことも口走っているが、ギルバートはそんなエマの様子かかわいくて思わず緩む口元を抑えて隠した。
「プレゼントのせいよ。森のグリズリーが真珠なんか持ってくる?こないわ! あなたグリズリーじゃなくなっちゃうない!」
「俺はグリズリーじゃないよ?」
「いいえ、あなたはグリズリーなの!王子様じゃないもの。だから……、顔が熱いのはなんでなの?!」
なぜなのかと聞かれれば、答えは一つだ。
「俺に恋し始めてるんじゃないか?」
ギルバートは楽しそうに言うのだが、エマはちっとも楽しくない。頭が真っ白になる。
真っ白になったのが、よかったのか悪かったのか。
エマは登り切った熱がスーッと下がり一気に落ち着きを取り戻した。
「ギルバート。それはないわ。絶対ない」
それだけはありえないと断固として認められないものがある。
エマからしたらギルバートに恋などあまりにも荒唐無稽な話なのだ。
おかげで一気に冷静さを取り戻すことが出来た。
ギルバートにしたらがっかりもいいとこだ。かわいくて面白くて、つい焦ってしまったようだ。
「鏡を見るかい?」
落胆を隠さないまま胸ポケットから小さな鏡を取り出した。
冷静を取り戻したエマはブランケットの上まで戻り、鏡を受け取り自分の胸元を映した。
あまりにも高価で美しい物のせいで興奮してしまったようだ。あぶない。あぶない。
エマは角度を変え、胸に飾られたチョーカーを確認する。
「素晴らしいわ。本当にすごい! これは……」
「君の物だよ」
ギルバートはため息交じりだが、エマはうっとり鏡から目を離さない。
「ありがとう、ギルバート。今度の舞踏会にはこれを着けていくわ!」
ギルバートはとりあえずエマのうっとりとした笑顔で今は満足しておくことにした。
「それなら、来月の十五日に宮廷のバルモア公爵夫人のサロンで行われる舞踏会はどうかな?」
バルモア公爵夫人は先王の妹で現王の叔母に当たられる方だ。社交的で有名な婦人のサロンで開かれるパーティーに招待されることは社交界で認められる証となり、ミシェル王妃のお茶会の次に貴族のステイタスでもあった。
ロバートとマーナは行ったことがあるがエマはまだバルモア公爵夫人のパーティーに行ったことがなかった。
「すごい! ギルバートに招待状が?」
「君と行こうと思って、婦人にお願いしたんだ」
「夫人とお知り合いなの? さすが国の英雄ね!」
エマはウキウキと目を輝かせたが、ふと思い当たる。
「俺と一緒に行っても、ただの付き添いってことにしてあげるよ」
またしても思考を先回りされエマはムッとして見せるが、ただの付き添いになってくれるなら断る理由は見つからない。
「行くだろ?」
若い貴族女性でこの誘惑を跳ね除けられる人はそうはいない。
「行くわ。しょうがないから、あなたに付き添いを許すわ」
エマは誘ってくれたギルバートに横柄な態度で返事をしたが、ギルバートは満足気に頷いた。
エマはその日一日ずっと貰ったチョーカーを着けて過ごした。
鏡を見ては左右に身体を揺らし、その美しさにうっとりした。
ギルバートにもらったから嬉しいとは思わないようにしながら。
しかし。これを着けた時のギルバートの香や、掠った指の感触、胸の硬さ。着けた姿を見た時のあの微笑み。
思い出すたびになぜかくるりと回ってしまうのだが、それもエマはチョーカーが美しいからということにしていた。
ロバートはエマ様子を黙って見ていた。
ギルバートが娘の心を徐々に掴んで行くのを邪魔しないよう、娘に余計なことを言って反発させたりしないよう。
確実に吹いていることを感じる追い風がこのまま二人を結婚まで送ってくれるよう祈りながら。
エマは自室から窓にぴったり張り付いて外を眺めていた。
最後に逢ったのが七日前。今日あたり来そうな気がしてならないのだ。
ギルバートが。
妥協案の話以来ここ三か月、ギルバートは頻繁にローゼンタールを訪れるようになった。
ロバートもマーナも歓迎するが、エマはそうはいかない。歓迎などしないと決めているからだ。
ギルバートも歓迎されないことは端から承知で来るのでエマが居なければ挨拶だけしてさっさと帰るし、エマが居てもそれほど長居はしない。
ロバートにはギルバートからエマと交わした妥協案は説明済みだ。
初めて聞いた時はそんなことはとんでもないと言ったのだが、ギルバートからの発案でそうさせてほしいと願われればこちらとしてはありがたい話だ。父親として婿に望む最高の男が娘にご執心なのだ、悪い気がするわけがない。
いつも馬車ではなく黒い愛馬に乗ってギルバートはやってくるので、エマは窓からその黒い影が現れるのを待った。
今日はどんな手で追い返そうかと企みながら。
風邪をひいたり足を挫いたりとかの嘘はあまり効き目がなかった。身体にいいお茶や怪我に効く薬草を持って翌日また来るからだ。
会いたくなくて仮病を使っているのに、またすぐ来られるのは困る。
来るかもしれない日を予測して外へ出かけてしまうのも、行く場所が少なくて困る。
しかも街や友人の家に行く馬車を執事のクリスに頼んでおくと、『ギルバートが来るかもしれないから今日は外出しないように』とロバートに止められ馬車が使えなくなるのだ。
徒歩で行ける範囲で一番のお気に入りはパールガーデンだが、いつものように遊んでいると屋敷への通り道なので出くわしてしまう。
そこで最終手段として時間を一緒に過ごすことにした。それもすごく嫌な時間を。
エマはギルバートが好きではないし婚約者とも思いたくないので思う存分不遜な振る舞いが出来るのだ。
子供じみているが直接攻撃は効くはずだと信じて嫌味を言ったりデタラメの嘘をついて脅かそうとしたり、嘘泣きで困らせようとしたことも。
しかしギルバートはエマがなにをしても変わらないのだ。いつも微笑んでエマのすることすべてを許し受け入れる。
エマといると楽しいという顔をして、満足して帰っていくのだ。
あまりにも甘いのでエマ自身が戸惑うことがあるくらいだ。
時々怒らないのをいいことに言いすぎてしまうこともある。そんな時はついギルバートを窺ってしまうのだが、ギルバートはなんでもないようにしてエマをからかって罪悪感を消し去ってくれる。
だからまた調子に乗ってギルバートを困らせてやると躍起になる。
今度はなにしてやろうかと、結果としてギルバートのことばかり考えている毎日だ。
侍女のリンジーからすると、エマは口では悪態ばかりつくのにギルバートと逢うと活き活きとしていて楽しそうに見える。
今日も窓を眺めて今か今かと待ち侘びているようにしか見えない。
ギルバートが来た翌日はつまらなそうにしているし、来るかもしれない日は無意識なのだろうが支度に時間も掛けている。
リンジーがエマにギルバートと楽しそうだなどと言えばエマが不機嫌になってしまうのは目に見えているので黙ってはいるが、どう見ても大嫌いな人を待っているようには見えない。
「来たわ! ギルバートが来たわ!」
黒い馬に跨るまだ遠く小さくしか見えないギルバートを見つけ、エマは無意識に鏡の前に行く。身なりを整え後ろにいたリンジーを振り返る。
「今日こそコテンパンにして、もう二度と来たくないようにしてやるんだから」
口では酷いことを言っているが、なぜエマは自分が笑顔なのだと気が付かないのだろう?とリンジーは思う。もちろんこれも口には出さない。
部屋の中をウロウロしながらクリスが呼びに来るのを待つ。
エントランスで出迎えたらいいのに、それも絶対しない。飛び出さないように細心の注意を払っているのだ。
リンジーにしてみたら、無駄な注意だ。
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「あなたまた来たの? よっぽど暇な人間なのね。他にやることはないのかしら」
エマはゆっくりと階段を下りながら大げさにため息を吐いて、エントランスで待つギルバートに向かって言った。
毎回挨拶代わりに言われるこのような嫌味も慣れたもので、ギルバートにとっては痛くも痒くもない。
にっこりと笑顔を崩さず、花柄のドレスをふわふわとさせながら降りてくるエマに手を差し出す。
これも毎回のことだがエマはその手を取らない。
クリスにとっても見慣れてしまった光景だが、礼儀を重んじる老齢の執事はエマの失礼な態度に黙ってこめかみをピクリとさせる。
「相変わらず、ご機嫌は麗しくないようだ」
「あなたが目の前にいるからかしら?」
エマはギルバートの前を素通りしてサロンに向かう。いつものようにそこで過ごすと思っているからだ。
しかし今日は違った。
「エマ待って。今日は外へ行かないか? 君と散歩がしたいんだ」
エマは怪訝な顔をしてギルバートを見返す。外を一緒に歩いたりすれば誰かに見られてしまう可能性があるではないか。
「誰かに見られても、たまたまだって言い訳してあげるよ」
エマの考えを先回りしたギルバートによって断る理由は取り除かれた。のだが。
「行かないわ。あなたと散歩に出ても楽しくないもの」
エマはそっけなく言った。
「今日は天気もいいし風も穏やかで気持ちがいい。パールガーデンまで行こう。クリス、お姫様が座れるブランケットを貸してもらえるかい?」
ギルバートはエマの拒否を無視してクリスに頼み、クリスは頷いてブランケットを取りに下がった。
「どうしてわたしがあなたと行くことになっているのよ。行かないって言ったわ」
「行くよ。今日は君にプレゼントを持ってきたんだ。パールガーデンで渡したい」
プレゼントは初めての手だった。
エマはギルバートのプレゼントには興味がある。
花や菓子はよく持って来るが今日は手ぶらだし、花や菓子ならいつも通り黙って土産として渡すだろう。
しかし今日は『プレゼント』と特別な言い方をしている。気にならないわけがない。
「ここで受け取るわ」
「君はロマンチストじゃないなー。ピッタリのシチュエーションで渡したいんだ」
エマは自分の事をロマンチストだと思っていたし、そう見えるはずだとも思っているのに否定され。むしろ熊のようなギルバートがロマンチストを語るものだから吹き出してしまった。
「あなた! グリズリーのくせに図々しいわ! そんな大きな身体でロマンチストだなんて!」
「ロマンに年齢も性別も、もちろん身体の大きさも関係ないよ。ほら、行こう」
クリスからブランケットを受け取ったギルバートがあまりにも自然に促すので、そしてエマもつい笑って楽しくなってしまいそのままギルバートの後に続いて外へ出てしまった。
そこで気が付く。しまったと。
「行かないって言ったのに!」
一瞬前までの満面の笑みを急いで顰める。ギルバートと楽しいなんて今のエマにはあってはならないことだ。
それに気が付いていたギルバートだったが、何も言わずにそのまま歩き出した。
どうしても嫌ならすぐ回れ右をして屋敷に戻ればいいのだが、心の奥ではどうしても嫌ではないらしい。渋々といった体を取りながらギルバートに付いて歩いた。
ギルバートの言う通り、外は暖かくて風も気持ちいい絶好の散歩日和なのだからしょうがないと自分で自分にいい訳をして。
エマを振り返りながら歩くギルバートの歩調はリズミカルで軽快だ。天気は気持ちがいいしエマを笑わせることも出来た。これから渡すプレゼントもきっと喜ぶと確信している。
エマは前を歩くギルバートの大きな身体が揺れるのを、少し不思議な気分で見ていた。
大きすぎて恐ろしかった身体に慣れてきているのだ。まるで恐怖など感じない。
むしろ逞しい背中に見とれてしまいそうになる自分が恐ろしい。
ブルブルと首を振って頭に浮かんだことを追い出す。
ギルバートに怖い・嫌い・獣以外の感情を持ってはいけないのだ。だってギルバートはエマの王子様ではないのだから。
エマの王子様はアレンのような人でなくてはならないと決めているのだから。
「エマ、失敗したよ」
突然ギルバートが振り向いて言うので、ドキリとする。
恐ろしかった『地を這うような』『ガシャガシャ』声にも慣れて、時々耳を擽るように聞こえてしまう時があるのだ。
今ドキリとしたのは突然振り向いたからだから!と自分に言い聞かせ、エマはまた顔をしかめる。
「なに? なにを失敗したの?」
ギルバートはもはや癖になっている屈む仕草でエマと目線を合わせ。
「ピクニックの準備をしてきたらよかった。こんな最高の天気なのだから、君と草原でお茶がしたかったな」
ギルバートの落胆はエマの落胆にもなった。
こんな心地の良い日はピクニックには打ってつけだ。
「本当そうね、先に言っておいてくれたら準備しておいたのに……」
またしても言ってしまってから気が付く。しまったと。
「ちがう! あなたと来る準備をじゃなくて。天気がいいことを。そう、神様が、天気がいいって先に言っておいてくれたら。ほら、マギー! そうマギーを誘ってピクニックしたかったっていう。そういう意味で!」
焦って支離滅裂になってしまったが、なんとか親友マギーの名前を出してごまかせているよう願った。が、願いは届いていないようだ。
ギルバートは「うんうん」と頷きながら前を歩きだしたのだが、さっきよりも身体が弾んでいるように見える。
「今度は前もって伝えるよ」
エマは臍を噛んだ。嫌いな相手にうっかり口を滑らせた自分が悪いのだが、こんな時はすべてギルバートのせいである。
ギルバートから見えない彼の背中にこっそりパンチする仕草を何度もしたが、もやもやする気持ちはすっきり出来なかった。
パールガーデンに着くと草原の真ん中にブランケットを敷き、ギルバートは手を差し出した。エマが座るのを助けるために。
しかしエマは当然のようにギルバートの手は借りず、なるべく離れられるよう端に座った。
もちろんギルバートもわかっているので、エマと反対の端に座ってからゴロリと寝転んだ。
「あぁ。なんて気持ちがいいんだ」
大きな身体をブランケットからだいぶはみ出しながら、手足を思い切り伸ばす。
立っていても大きいギルバートだが寝転ぶとすぐ近くに何もかもが見えてエマはまた心臓が鳴ってしまったのだが、わざと悪態をつくことで自分をごまかした。
「あなた、足も大きいのね」
獣を見る目で足を見ながら言うと、ギルバートは横になって肘をついて頭を支えエマを向いた。
「そんなに大きな男は嫌いかい?」
「あなた大きすぎるのよ、どこもかしこも」
「君はどこもかしこも小さいな」
ギルバートはブランケットに置いたエマの手を見ながら言っただけなのだが、エマはその手を掬いとられるのではないかと一瞬緊張した。
ギルバートはエマの了解なしに触らないようにしているので、勝手に掬い取ったりはしない。
エマの緊張に気が付いたギルバートは小さく微笑んで首を振った。
「大丈夫だよ。何もしないから君も寝転んでごらん。この気持ちよさは君のほうがよく知っているだろう?」
もちろん知っている。この草原で青空を天井に寝転ぶのは最高に気持ちいいのだ。
しかし、レディが男性の前で(男性の前でなくても)そんなことをしてはいけないことくらいはわかっている。
だがそんなエマの逡巡は無意味だ。ギルバートにはとっくにその姿を見られているのだから。
「大丈夫だよ、人が来る気配があれば俺が気付くし。守ってあげるよ」
エマはまたしてもドキリと胸を高鳴らせてしまう。
『守る』は夢見る乙女には魔法のワードだ。エマの王子様に言ってほしいセリフの上位にランキングされている。
「ほら、寝転んでごらん」
もうやめてほしい!エマは心で叫んだ。
『地を這う』『ガシャガシャ』な声が優しく誘うと、最近のエマは頭に血が上りそうになるのだ。
大嫌いな熊の声に身体がおかしな反応をすることなど、エマには受け入れがたい。
「いやよ。あなたの横で寝転べるのはグリズリーの雌だけよ」
ムキになって顔をそらして赤くなっているかもしれない頬を隠すのだが、ギルバートはそのかわいらしい反応にこっそりと破顔する。
「わかった。じゃあ俺は起き上がろう。君の方も向かないよ。安心して伸びてくれ」
起き上がり膝を抱えて座りなおすと、エマを見ないように顔を背けた。
それでもエマはギルバートの前でもう転がって伸びをすることなんてできない。
ごまかすように話を逸らす。
「そんなことより。あなた、ここに来た目的を忘れていない? わたしに渡すものがあるんじゃないの?」
顔を背けたままで言ったが、ギルバートが姿勢を変えエマに向かって胡坐をかいたのでエマもギルバートに身体を向けた。
ギルバートは楽しそうにポケットからベルベットの巾着を取り出し、手のひらの上に中身を出してエマの前に差し出す。
「どうかな?」
エマは小さく息をのんだ。
それは真珠の二連のチョーカーで、薄ピンクの照りが美しく輝いているものだった。
中央に一粒、エマの瞳と同じ色のティアドロップ型の大きなブルートルマリンが下がっていて高級なものであることがわかる。
エマも真珠は持っていたが、こちらの方が格段に上級品だ。
「真珠を送るならパールガーデンがいいだろう? 気に入ったかな?」
パールガーデンで踊る姿を見てエマが欲しいと思ったギルバートは、エマへ送る最初のプレゼントは真珠にしようと決めていたのだった。
プレゼントが気に入ったのは見てわかったが、エマの口からその感動を聞きたかった。
「素晴らしいわ……」
うっとりと見つめる様子にギルバートは満足げに微笑み、留め具のベルベットのリボンをほどいて両手で開いて持ち上げた。
中央のティアドロップの石が揺れ、エマはそのかわいらしく美しいチョーカーを早くつけてみたくて仕方なくなった。
ギルバートもきっとエマに似合うと確信していた。
「髪を上げて。着けてあげるよ」
目の前のチョーカーをうっとりと見つめながら言われるまま下していた髪を上げギルバートの両手が迫ってくるのを待って、ようやく正気が戻った。
なにをしているのだ!ギルバートからこんなに高価なものを貰っていいはずがない!
「待って! 受け取れないわ。だって、あなたとわたしはなんの関係もないんだもの。こんな高価なものを受け取ることは出来ないわ」
急いで持ち上げかけた髪を下ろす。
少しでも油断すればこの真珠を欲しくてたまらなくなってしまうエマは、自分を必死で叱咤して断った。
「君は俺の婚約者だ、俺にとってはね。自分の婚約者に美しいものをプレゼントするのは当たり前のことだ」
「でもわたしにとっては、あなたは婚約者じゃないわ。そういう約束でしょ」
ギルバートは片眉を上げて悪戯な顔をエマの前に出した。
「俺にとっては婚約者だ。だから俺には贈り物をする権利がある。でも君にとっては婚約者じゃないから受け取らなくてもかまわない。だた、これを受け取ったからと言って結婚しなくてはならないなんてことはないから、安心していいよ」
エマは注意深くギルバートの目をのぞき込む。その榛色の目は優しく、温かくエマを見つめ返す。
だから!ギルバートにドキドキしたりなんてしちゃだめなの!
高鳴る胸を悟られないようエマは身体を後ろに反らし、訝しい顔をわざと作った。
「ただ着けてくれたら嬉しい。それだけだよ」
ギルバートは微笑んで、もう一度チョーカーを開いて見せた。あとはエマが首を出せば着けてあげるだけ、というかたちだ。
エマは魅力的なプレゼントをどうしていいものか迷ったが、結婚をしなくていいなら断る理由は浮かばないほどこのチョーカーが欲しくなってしまっている。
「本当に? 結婚しないのよ?」
「いいよ。着けてもいいかい?」
「結婚はしないけど。着けてあげても、いいわ」
「嬉しいね。ありがとう」
プレゼントする側が礼を言うのは違うと思うのだがギルバートが本当に嬉しそうに微笑むので、エマは顔が緩みそうになるのをギュっと引き締めた。
「あなたを喜ばせたくはないんだけど……」
一応の言い訳をしてみるが、あまり効果はない。ギルバートは緩み切っているエマの顔をしっかり見てしまっていたから。
「髪を上げて」
甘く唆すようなギルバートの誘導に、もうエマは抗うことが出来なかった。
言われた通り長い蜂蜜色の髪をまとめて持ち上げると、ギルバートの両手が左右の耳の下をかすめた。
エマはヒュっと息をのみ目を見開いた。咄嗟にすぐ目の前まで来ているギルバートの身体を片手で押し動きを止めた。
また失敗してしまったのだ。
今度は大失敗だ。
ギルバートが近すぎる。
両腕に首が囲まれ鼻先が頬に迫って、咄嗟に手で押さえた固い胸は自分のささやかなふくらみまであとほんの少しの距離なのだ。
「大丈夫。触らないよ」
耳のすぐ下に息がかかりギルバートのコロンの香にふんわりと包まれ、エマは身体を固まらせ首にかかった冷たい感触に小さく身震いしそうなのに耐えた。
触らないと言ったギルバートだったが、首の後ろでリボンを結ぶと身体を離しながら真珠をなぞりエマの鎖骨を長い指の背がかすめた。
エマの顔が初めて経験する熱を持ったことで、自分でも発火していることが分かった。
「よかった。とても似合う」
ギルバートの微笑みを見て、もうこれ以上近くにいるのは危険すぎると悟ったエマは混乱する頭で後ずさった。焦りすぎてブランケットから大幅にはみ出したが、それも気にする余裕はない。
「お願い、それ以上近づかないで!」
「エマ? 落ち着いて?」
ギルバートは落ち着いて両手を上げ何もしないとうポーズを見せたが、エマの頭は混乱中なのでそんなことをしても意味はない。
「ちがうの。そうじゃないの。もうこれ以上は危険だわ。ドキドキしちゃってるの。グリズリーにドキドキしちゃうなんて、どうかしてるの!」
エマは混乱真っ最中で余計なことも口走っているが、ギルバートはそんなエマの様子かかわいくて思わず緩む口元を抑えて隠した。
「プレゼントのせいよ。森のグリズリーが真珠なんか持ってくる?こないわ! あなたグリズリーじゃなくなっちゃうない!」
「俺はグリズリーじゃないよ?」
「いいえ、あなたはグリズリーなの!王子様じゃないもの。だから……、顔が熱いのはなんでなの?!」
なぜなのかと聞かれれば、答えは一つだ。
「俺に恋し始めてるんじゃないか?」
ギルバートは楽しそうに言うのだが、エマはちっとも楽しくない。頭が真っ白になる。
真っ白になったのが、よかったのか悪かったのか。
エマは登り切った熱がスーッと下がり一気に落ち着きを取り戻した。
「ギルバート。それはないわ。絶対ない」
それだけはありえないと断固として認められないものがある。
エマからしたらギルバートに恋などあまりにも荒唐無稽な話なのだ。
おかげで一気に冷静さを取り戻すことが出来た。
ギルバートにしたらがっかりもいいとこだ。かわいくて面白くて、つい焦ってしまったようだ。
「鏡を見るかい?」
落胆を隠さないまま胸ポケットから小さな鏡を取り出した。
冷静を取り戻したエマはブランケットの上まで戻り、鏡を受け取り自分の胸元を映した。
あまりにも高価で美しい物のせいで興奮してしまったようだ。あぶない。あぶない。
エマは角度を変え、胸に飾られたチョーカーを確認する。
「素晴らしいわ。本当にすごい! これは……」
「君の物だよ」
ギルバートはため息交じりだが、エマはうっとり鏡から目を離さない。
「ありがとう、ギルバート。今度の舞踏会にはこれを着けていくわ!」
ギルバートはとりあえずエマのうっとりとした笑顔で今は満足しておくことにした。
「それなら、来月の十五日に宮廷のバルモア公爵夫人のサロンで行われる舞踏会はどうかな?」
バルモア公爵夫人は先王の妹で現王の叔母に当たられる方だ。社交的で有名な婦人のサロンで開かれるパーティーに招待されることは社交界で認められる証となり、ミシェル王妃のお茶会の次に貴族のステイタスでもあった。
ロバートとマーナは行ったことがあるがエマはまだバルモア公爵夫人のパーティーに行ったことがなかった。
「すごい! ギルバートに招待状が?」
「君と行こうと思って、婦人にお願いしたんだ」
「夫人とお知り合いなの? さすが国の英雄ね!」
エマはウキウキと目を輝かせたが、ふと思い当たる。
「俺と一緒に行っても、ただの付き添いってことにしてあげるよ」
またしても思考を先回りされエマはムッとして見せるが、ただの付き添いになってくれるなら断る理由は見つからない。
「行くだろ?」
若い貴族女性でこの誘惑を跳ね除けられる人はそうはいない。
「行くわ。しょうがないから、あなたに付き添いを許すわ」
エマは誘ってくれたギルバートに横柄な態度で返事をしたが、ギルバートは満足気に頷いた。
エマはその日一日ずっと貰ったチョーカーを着けて過ごした。
鏡を見ては左右に身体を揺らし、その美しさにうっとりした。
ギルバートにもらったから嬉しいとは思わないようにしながら。
しかし。これを着けた時のギルバートの香や、掠った指の感触、胸の硬さ。着けた姿を見た時のあの微笑み。
思い出すたびになぜかくるりと回ってしまうのだが、それもエマはチョーカーが美しいからということにしていた。
ロバートはエマ様子を黙って見ていた。
ギルバートが娘の心を徐々に掴んで行くのを邪魔しないよう、娘に余計なことを言って反発させたりしないよう。
確実に吹いていることを感じる追い風がこのまま二人を結婚まで送ってくれるよう祈りながら。
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