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epilogue
わたしの愛するシューベルト
しおりを挟む多感な高校時代に出逢い、初恋にときめきながら再会を約束して九年。彼の分も自分のピアノの音を鳴らそうと必死になって生きていたわたしは、支えてくれた両親の死によって夢を諦めざるをえなくなってしまった。
父親の恩師と契約結婚という形で軽井沢に隠居したわたしはそのまま恋心を腐らせていくのだとばかり思っていた。そのあいだも、アキフミが夢を叶えるために奔走しつづけていたことを知らずに。
「お前がシューベルトの妻になると言ったそのときから、俺はお前を妻にしたいと、そう思ったんだ」
調律師と人妻として再会し、夫の葬儀で社長だと知らされ土地とピアノを守るため愛人になったわたし。
アキフミははじめからわたしを妻に望んでくれたけれど、自信喪失していた自分は信じられなくて、受け入れるまでずいぶん彼を傷つけてしまった。
それでも彼は諦めなかった。夫の遺言書を探す傍らで、いつも愛を囁いてくれた。
紡をはじめ、アキフミの双子の弟たちや秘書の立花、ずっと夫に仕えていた添田や住み込みの家政婦たちにも見守られて、わたしは夫が死んでからもひとりじゃないことを痛感した。
「すぐに結婚式を挙げることは難しいでしょうが、相続の手続きが終わったら、東京と軽井沢で式を行いたいと思います」
――アキフミの誓いの言葉は、天国の彼に届いただろうか。
教会墓地はレモンイエローの柔らかい色合いのコスモスの花で埋め尽くされていた。八月の終わりの最終日曜日、ときおり涼しい風が吹く軽井沢はすっかり秋の気配に満ち溢れている。
澄み切った青空の下、亡き夫の墓石に青紫色のトルコギキョウを飾る。入籍後にアキフミとふたりで彼の墓参りをするのは初めてだ。
紫葉グループ総代表のアキフミの義父に結婚を認めてもらった翌日、ふたりで婚姻届にサインをし、一緒に都内の役所へ出しに行った。
そしてわたしは鏑木音鳴から紫葉音鳴になる。それでも三年間をともに過ごした須磨寺喜一のことは、いまも親しみを込めて夫と呼んでいる。アキフミはそんなわたしに嫉妬するときもあるけれど、夫にあったのが恋愛感情とは異なるものだと知っているからか、わたしの好きにさせてくれる。
「結婚式を二回行う必要はないと思うんだけど」
「いや。会社関係者にネメを見せつけるための東京での式と、軽井沢の教会でのロマンティックな式、俺は両方譲れない」
「……軽井沢はフォトウェディングでもいいんじゃない?」
「イヤだ。結婚離婚歴がなければ教会で式を行うことはなんの問題もないと牧師も言っている。俺はお前とここでも愛を誓いたいんだ」
「夫の墓の前で何言ってるの……もう」
身体を寄せ合ったまま、わたしたちは想いを馳せる。
そう遠くない将来、この地で結婚式を挙げて、自分たちを見守ってくれたひとたちから祝福されるであろう未来を。
* * *
わたしとアキフミの婚約が全面的に認められ、スピード入籍したことで紫葉グループの会社全体はお祭り騒ぎのように盛り上がっているらしい。
そこには、アキフミに玉砕したものの舞台で華麗な演奏を見せた多賀宮詩の花婿探しという新たな余興も加わり、詩の標的としてアキフミの双子の弟たちに注目が集まっているんだとか。
詩がアキフミに固執していたのは彼が持っていた肩書だけみたいだから、ほかの会社の若い社長に見初められたらほいほい嫁いでいきそうな気がしないでもない。願わくばこれ以上わたしたちを巻き込まないで素敵な異性と出逢って見えない場所で勝手に幸せになればいい。
とっとと軽井沢に戻ったわたしはその後の騒動など知る由もなく、入籍前と同じように、別荘管理の仕事をしながらピアノとともに穏やかに過ごしている。アキフミも相変わらず軽井沢の屋敷でわたしと一緒に生活しながらリモートで仕事をしつつ、週に一回、日帰りで東京の本社に顔を出すという日々を送っていた。
幸い、桜色の封書に入っていた夫の遺言書にはのりがついていなかったため、家庭内裁判所で検認手続きを行う前に内容を知ることができた。それでも遺言書を発見して検認の申込みを行わなくては相続が進められない。検認を行うだけでも一月から二月はかかるだろうと弁護士は言っている。具体的相続分の確定や名義変更、預貯金の払い戻し等の手続きと相続税の申告は早くても年内になりそうだ。
「“星月夜のまほろば”のいまの管理責任者は支配人の添田になっているが、将来的にはネメにお願いしてもいいか?」
「わたしでいいの?」
「むしろ、お前が適任だよ」
カレンダーは九月を示している。
夏のシーズンが落ち着いた別荘地は週末に利用予約がちらほら入っているだけで、いまはもとの静けさを取り戻していた。相続の手続きを終え次第、別荘地の所有権は紫葉リゾートに移るため、それまでは普段通りの業務をのんびりつづけている。
夫の死後一年目にあたる昇天記念日に教会で記念集会を行ったら、ちゃんとした結婚式を挙げようとわたしたちは約束した。来年、ここ軽井沢でいちばんうつくしいという緑と花がいっぱいの季節に、わたしはアキフミのためにウェディングドレスを着るのだ。真のシューベルトの花嫁となって。
「そうだ……来週、ネメと行きたいところがあるんだ」
「え?」
「軽井沢のジュエリー工房。たったひとつの……結婚指輪を一緒につくりたいと思って」
「指輪?」
そういえば、結婚指輪のことなどすっかり忘れていた。
わたしの驚いた顔を見て、アキフミが苦笑する。
「いつお前が指輪をねだってくるか、こっちは待っていたのに。入籍してもぜんぜんその気配がないんだものな……まぁ、お前らしいか」
「世界にひとつだけの、指輪をつくるの?」
「ああ。この先ずっと一緒にいられるように、オーダーメイドの結婚指輪を、な」
「なにそれ、すごい嬉しい……!」
パーティーのときに彼が贈ってくれたサファイアが煌めく白銀の蝶の髪飾りもとても気に入っている。
きっと、ふたりでこれからつくる指輪も、素晴らしいものになるだろう。
それは彼方とピアノで弾いたグラン・デュオのように。
わたしたちはこれからも、しあわせな未来を奏でつづけていく――……
“Grand Duo * シューベルトは初恋花嫁を諦めない”――fin.
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