上 下
41 / 56
chapter,4

シューベルトと初恋花嫁の秘密 + 2 +

しおりを挟む



 添田に連れられてきた紡がわたしの方へ茶色い封筒を持ってくる。彼もまだ、中身を見ていないらしい。訝しそうにこちらを見るアキフミに、わたしは「戸籍謄本をもらってきてもらった」とだけ口にする。

「戸籍謄本?」
「夫とわたしが法的に婚姻関係を結んでいたかどうか、誰もきちんと調べていなかったの。婚姻届にサインしたからてっきり結婚して苗字が変わったものだと思っていたんだけど、紡さんが」
「ネメちゃんと喜一さんは事実婚の可能性が高いと思ったんだ。彼が後妻を迎えたって話は突然すぎて、うちの両親も信じられなかったんだ。ましてや祖父と孫のような年齢差だし、きっと遺産目当てだって最初は言っていた」
「紡」
「それに、いくら婚姻届を書いたからといって、証人が誰もいないのはおかしい。添田あたりが証人として書いていることも考えたけど、彼はその件については知らないって言ってた」

 紡の淡々とした説明を前に、アキフミが唖然としている。
 わたしがそもそも法的に結婚をしていなかったなど、考えてもいなかったのだろう。わたしだって、紡にそのことを指摘されるまで、気づかなかったのだから。

「それで、この封筒のなかにわたしの戸籍謄本が入っているってわけですね」
「ああ。ネメちゃんは鏑木家と絶縁したこともあって、軽井沢に転入届を出す際に本籍地の変更もしていたんだね。軽井沢町の役場でスムーズに手続きができたよ」
「よかったです。本籍が違う場所だったら、戸籍謄本を取り寄せるだけでずいぶん時間がかかってしまいますから」

 たしか、わたしが署名して手渡した婚姻届を提出してくると、夫がひとりで役所に行ったことがある。そのときにわたしの転入手続きも代理で行っていたはずだ。
 もしかしたらあのとき彼が提出したのは、婚姻届ではなくて、わたしの転入届と転籍届のふたつだけだったのではなかろうか。実家から除籍された両親のことを考えて、わたしの本籍地を夫がこの軽井沢に新たに置いてくれたと考えるのが自然な気がする。

「つまり、須磨寺はネメと法的に結婚していない、ということか?」

 わたしがバツイチじゃない可能性を知ったアキフミが、信じられないと目を丸くしている。

「きっと――彼ははじめからそのつもりで、彼女をここに呼んだんだろうね」

 見てごらん、と紡が封筒から取り出した戸籍謄本を前に、わたしはああ、と感嘆の息を吐く。

 小難しい文字が淡々と記されている書類の上部には「鏑木音鳴」と記されており、この屋敷ではなく、なぜか“星月夜のまほろば”三号棟のある場所が本籍地になっていたからだ。

「須磨寺音鳴、じゃなかった……」
「見事なまでに騙しきったんだな、喜一さん。下手すれば結婚詐欺で訴えてもいいレベルだよ」
「……だけど、どうして?」

 軽井沢に来てから自分の名前を名乗ることも特になかったし、夫の後妻で不都合がなかったため気にしたこともなかったが、彼ははじめからわたしと結婚していなかったのだ。ただ、わたしの新しい本籍地にした場所が、別荘地の一部にされているというのが不可解だけど。
 そんなわたしの顔を見て、紡が「まだわからないの?」と呆れた顔をしている。ふと隣を見れば、アキフミまで「そうか、そういうことか」とひとり納得した顔をしている。

「失礼なこと言うけど、喜一さんにとってみたらネメちゃんは法的な相続人であろうが特別縁故者であろうがどっちでも良かったんだと思うんだ。極論だけど、遺産を託せる相手がいれば、誰でも良かった」
「法的な相続人が皆無で、特別縁故者もいないとなると、須磨寺が死んだ際にこの土地をはじめピアノや全財産が国庫に没収されていた可能性もある……それは最悪の場合だが」
「で、でもそれなら別にわたしじゃなくても良かったってことでしょう? 添田さんや、病院の担当医さんや、雲野さんに遺言書を渡せばそれで」
「彼らは喜一さんの特別縁故者の対象に入らないよ。およそ三年間事実婚関係にあったネメちゃんだけが、遺産を引き継ぐ資格を持っているんだ……たとえ遺言書が見つからなくても、って思ったけど、それは俺の思い違いだったかな」

 紡の自嘲するような言葉は、わたしにはよく理解できなかった。
 けれど、夫は死の三年前から、この土地とすべてのピアノを守るために予防線を張っていたのかもしれない。わたしが父親の形見のピアノを預ろうかと提案してきたあのときから。
 自分を看取らせるついでに、土地とピアノを継承させればいいと。
 法的な婚姻をしていると見せかけたのは、周囲を欺くため。夫の死後、この土地とピアノを相続する人間は決定していると、添田や家政婦たちをはじめ、身近な人間に知らしめるため。
 そして、白い結婚状態のわたしにバツをつけさせないため、彼は最期までこの茶番をひとりやり遂げたのだ……

「この住所に、心当たりは?」

 彼はどこまで考えていたのだろう。自分が死んだら、すきにしろと言っていた彼は……
 思考の海へ沈みそうだったわたしを拾い上げるアキフミの問いかけに、慌てて首を振る。
 なぜ、わたしの新しい本籍地が、“星月夜のまほろば”の三号棟などという中途半端な場所に設定されたのかという、新たな謎。

 山林を切り拓いて建てられた五棟のログハウス風のコテージのなかでも、中央に位置する三号棟は大理石の浴室にあるおおきな窓から絶景が見られることで人気のある二階建ての建物だ。二階にあるせり出したウッドデッキのバルコニーでは森林浴をしながらバーベキューを楽しめるおおきなスペースを有しており、週末や夏休みは連日家族連れの利用で賑わっている。吹き抜けの天井が印象的な一階部分のリビングと備え付けのキッチンも今風の造りになっている。仕事で何度も清掃に入ったことはあるが、実際に宿泊したことはない。そんな場所が、なぜ本籍地に?

「そこに行ったら、見つかるんじゃないか」
「え」
「彼が隠した、遺言書」

 ぽつりと零したアキフミの言葉に凍りつくわたしに、紡も頷く。

「俺もそう思う。喜一さんがネメちゃんの新たな本籍地にした場所に、遺言書を隠したんじゃないかな、って」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

冷徹御曹司と極上の一夜に溺れたら愛を孕みました

せいとも
恋愛
旧題:運命の一夜と愛の結晶〜裏切られた絶望がもたらす奇跡〜 神楽坂グループ傘下『田崎ホールディングス』の創業50周年パーティーが開催された。 舞台で挨拶するのは、専務の田崎悠太だ。 専務の秘書で彼女の月島さくらは、会場で挨拶を聞いていた。 そこで、今の瞬間まで彼氏だと思っていた悠太の口から、別の女性との婚約が発表された。 さくらは、訳が分からずショックを受け会場を後にする。 その様子を見ていたのが、神楽坂グループの御曹司で、社長の怜だった。 海外出張から一時帰国して、パーティーに出席していたのだ。 会場から出たさくらを追いかけ、忘れさせてやると一夜の関係をもつ。 一生をさくらと共にしようと考えていた怜と、怜とは一夜の関係だと割り切り前に進むさくらとの、長い長いすれ違いが始まる。 再会の日は……。

恋は秘密のその先に

葉月 まい
恋愛
秘書課の皆が逃げ出すほど冷血な副社長 仕方なく穴埋めを命じられ 副社長の秘書につくことになった 入社3年目の人事部のOL やがて互いの秘密を知り ますます相手と距離を置く 果たして秘密の真相は? 互いのピンチを救えるのか? そして行き着く二人の関係は…?

想い出は珈琲の薫りとともに

玻璃美月
恋愛
 第7回ほっこり・じんわり大賞 奨励賞をいただきました。応援くださり、ありがとうございました。 ――珈琲が織りなす、家族の物語  バリスタとして働く桝田亜夜[ますだあや・25歳]は、短期留学していたローマのバルで、途方に暮れている二人の日本人男性に出会った。  ほんの少し手助けするつもりが、彼らから思いがけない頼み事をされる。それは、上司の婚約者になること。   亜夜は断りきれず、その上司だという穂積薫[ほづみかおる・33歳]に引き合わされると、数日間だけ薫の婚約者のふりをすることになった。それが終わりを迎えたとき、二人の間には情熱の火が灯っていた。   旅先の思い出として終わるはずだった関係は、二人を思いも寄らぬ運命の渦に巻き込んでいた。

【R18】豹変年下オオカミ君の恋愛包囲網〜策士な後輩から逃げられません!〜

湊未来
恋愛
「ねぇ、本当に陰キャの童貞だって信じてたの?経験豊富なお姉さん………」 30歳の誕生日当日、彼氏に呼び出された先は高級ホテルのレストラン。胸を高鳴らせ向かった先で見たものは、可愛らしいワンピースを着た女と腕を組み、こちらを見据える彼の姿だった。 一方的に別れを告げられ、ヤケ酒目的で向かったBAR。 「ねぇ。酔っちゃったの……… ………ふふふ…貴方に酔っちゃったみたい」 一夜のアバンチュールの筈だった。 運命とは時に残酷で甘い……… 羊の皮を被った年下オオカミ君×三十路崖っぷち女の恋愛攻防戦。 覗いて行きませんか? ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ ・R18の話には※をつけます。 ・女性が男性を襲うシーンが初回にあります。苦手な方はご注意を。 ・裏テーマは『クズ男愛に目覚める』です。年上の女性に振り回されながら、愛を自覚し、更生するクズ男をゆるっく書けたらいいなぁ〜と。

同居離婚はじめました

仲村來夢
恋愛
大好きだった夫の優斗と離婚した。それなのに、世間体を保つためにあたし達はまだ一緒にいる。このことは、親にさえ内緒。 なりゆきで一夜を過ごした職場の後輩の佐伯悠登に「離婚して俺と再婚してくれ」と猛アタックされて…!? 二人の「ゆうと」に悩まされ、更に職場のイケメン上司にも迫られてしまった未央の恋の行方は… 性描写はありますが、R指定を付けるほど多くはありません。性描写があるところは※を付けています。

副社長氏の一途な恋~執心が結んだ授かり婚~

真木
恋愛
相原麻衣子は、冷たく見えて情に厚い。彼女がいつも衝突ばかりしている、同期の「副社長氏」反田晃を想っているのは秘密だ。麻衣子はある日、晃と一夜を過ごした後、姿をくらます。数年後、晃はミス・アイハラという女性が小さな男の子の手を引いて暮らしているのを知って……。

一夜限りのお相手は

栗原さとみ
恋愛
私は大学3年の倉持ひより。サークルにも属さず、いたって地味にキャンパスライフを送っている。大学の図書館で一人読書をしたり、好きな写真のスタジオでバイトをして過ごす毎日だ。ある日、アニメサークルに入っている友達の亜美に頼みごとを懇願されて、私はそれを引き受けてしまう。その事がきっかけで思いがけない人と思わぬ展開に……。『その人』は、私が尊敬する写真家で憧れの人だった。R5.1月

【完結】一夜の関係を結んだ相手の正体はスパダリヤクザでした~甘い執着で離してくれません!~

中山紡希
恋愛
ある出来事をキッカケに出会った容姿端麗な男の魅力に抗えず、一夜の関係を結んだ萌音。 翌朝目を覚ますと「俺の嫁になれ」と言い寄られる。 けれど、その上半身には昨晩は気付かなかった刺青が彫られていて……。 「久我組の若頭だ」 一夜の関係を結んだ相手は……ヤクザでした。 ※R18 ※性的描写ありますのでご注意ください

処理中です...