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 出でていなば 主なき宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな〈ぼくが出て行ったら、たとえ主人のいない家となってしまっても、軒端の梅よ、春を忘れずに咲いておくれ〉

 実朝が暗殺される朝に詠まれたこの和歌は、禁忌の和歌として後世へと伝えられていくのだろう。忌むべき和歌として、真実を伏せられたまま。

「綺麗な梅ですね」

 唯子はかつて滞在した京都の坊門家の屋敷で実朝と梅を見ている。いつ来てもいいという信子の言葉通り、唯子は疑われることなく侍女たちとともに受け入れられた。
 事実上実朝は暗殺されたのだからと正室だった信子は出家し、菩提を弔うことを選んでいる。かつて自分に仕えた侍女が、主人を慕った小姓で、実朝の代わりに公暁に殺される役目を果たしたと知って、信子は複雑な心境でいることだろう。けれど、唯子と実朝の無事を喜び、ふたりを匿ってくれたのだ。

「またこうして見ることができるとは、思わなかったな……」

 実朝も侍女と同じ姿で、唯子の隣に座っている。中性的な容姿だからか、女人の姿でいても不思議と違和感がない。人前では絶えず被っている衣被きも、ふたりきりのいまは膝の上に置かれ、顔に咲く紅緋牡丹が初春の柔らかな陽ざしを心地よさそうに受けている。

「鎌倉は、大変なことになっていますね」

 実朝が公暁によって暗殺され、公暁もまた追い詰められて自死をして早一月。
 公暁に攫われた唯子は長尾に救われ、いったん三浦邸へ戻るも、愛する人を失った衝撃から入水。未だ遺骸は見つかっていない……というのが鎌倉での唯子の消息である。

「忌み姫は死んだんです、春の暁とともに」

 唯子は悪びれもせず言い放つ。眉子に手引きされ、唯子は首を隠し持ったまま鎌倉を脱出することが叶った。先に鎌倉を出ていた実朝と合流したところで将軍のふりをして命を散らした泉次郎の首を弔い、ふたりは京都に落ち着いている。鎌倉では公暁が斬り落とした実朝の首が行方不明だと騒がれているというが、あとは政子が終息させるだろう。

 泉次郎を殺したのは彼が唯子にそうするよう頼んだから。万が一公暁に正体を暴かれる前に首を刎ねて隠せと言われたから。

 とはいえ、いくら頼まれたからといって自分が殺したことは、実朝には秘密だ。
 そして首の主が実朝だったと信じ、最期に裏切られて唯子に命を奪われた公暁のことも、隣で笑顔を見せる彼に言うこともない。

 ただ、血の繋がった姪だということは、泉次郎のせいで露見してしまったようだ。それでも彼は、相変わらず唯子を愛してくれる。

 神託から逃れるため神を欺き生きた忌み姫は愛するひとを護るためひとを殺し、海に散ったのだ。

 神に背きつづける少女が最後に手に入れたのは、すべてを失いながらも牡丹の花を咲かせつづける愛すべきひと。それだけ。

「ずっとこのままでいたいな」

 ずっとこのまま。
 たとえそれが禁じられた恋であっても。
 今度こそ。
 誰にも邪魔されずに。

 実朝の言葉に、唯子は婉然と頷き返し、彼の手をぎゅっと握る。

 そんなふたりの前へ、紅緋色の梅が、ひとひらの花弁を散らして舞い落ちた。



               ――fin.
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みんなの感想(1件)

春宮ともみ
2023.05.18 春宮ともみ

幻想的で惹き込まれる一話目から、ひたひたと不穏な空気が忍び寄ってくる…先がとっても気になります…!

解除

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