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わたしとねずみ 1

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 薔薇の花束が軽やかな音を立てて床に落ちた。絨毯の上に散った真っ赤な花弁は血痕のように鮮やかで、霞色の世界をまだら模様に染めている。灰梅色の寝台の上で横になったまま、その様子を眺めていれば、彼はつまらなそうに近づき、上掛けの上からわたしにのしかかり、乾いた笑みを浮かべて告げる。


「子を産めぬ身体なら、別の女に産ませるまでだぞ」


 淡々とした表情で唾棄すべき言葉を口にしたねずみは、寝台に横たわるわたしが怯えることなく睨みつけているのを見て、何を思ったのかコツンと自分の額をわたしのそこへぶつけてきた。

 発熱している婚約者の額の温度を直に確認した彼は、まだ熱があるなと納得した素振りを見せながらも、ふん、と顔を赤くして去っていく。不機嫌であることを隠すことなく背中からも怒りを滲ませているねずみを見送り、ふぅと溜め息をつけば、扉の前でおとなしく待っていた百冨もとが恐縮しきったようすで入れ替わりに入ってくる。床に落ちた薔薇の花束を拾い上げ、花瓶に入れて飾りましょうとわたしの顔色をうかがいながら。


 ねずみの罵詈雑言など今にはじまったことではないというのに彼女はわたしのかわりにあの男の言葉に一喜一憂し、わたしのかわりに次になすべきことを提案し、すこしでもわたしがあの男と人生を共にする気にさせようと一生懸命になっている。そのしぐさがいっそうわたしを憂鬱にさせていることにも気づかずに。


「お嬢様、あのような言葉を真に受けてなどおりませんよね?」
「残念だけど、百冨が考えているより状況は悪化しているのよ。あの男が欲しているのはわたしではなくわたしについてくる男爵家からの持参金。病弱で後継ぎを産むことすら儘ならないわたしの存在など、彼にとってみれば煩わしいだけ」
「ですが、たとえ両家によって決められた政略結婚だとしても、うまくやっている家だってあるではありませんか。忍耐強い緋鞠ひまりさまならば小岩崎こいわさきさまの奥方として立派に任をこなせると百冨は思うのです」
「忍耐強い、ね……」


 わたしからしてみれば自分の傍にずっと仕えている彼女の方がしぶとく見える。だが、そんなことを言っても彼女はやんわり否定するだけだろう。それに、結婚するのは彼女ではなくわたしなのだ。


「そうですよ。緋鞠さまの献身的な愛情があの頑なな小岩崎さまのお心を時間をかけてやわらかく溶かしていくのが百冨には目に見えるようです。いまはまだお互い知り合ったばかりで反発もされるかと思いますが、ほんのいっときの辛抱でございます」
「時間をかけられる余裕があればいいんだけどね。あいにく、時間がないから彼も苛立っているのよ」


 ねずみは早くわたしと婚儀をあげて田中男爵家の財産の一部を自分のものにしたいのだ。後継ぎなど二の次。だけど病で臥せっているからと婚儀を伸びに伸ばしているわたしに嫌気がさしているのも事実で、ここ最近はちょくちょく見舞いと称して現われてはわたしに対して冷たい言葉ばかりを浴びせかけていく。わたしが病を理由に決められた結婚を取りやめようとしていると疑心暗鬼に陥っているから。その行為が更にわたしを幻滅させているとも知らずに。


 小岩崎由郎よしろう。生まれた頃から決められていたわたし、田中緋鞠の婚約者。だけど、彼などねずみで充分だ。爵位をもたない成り上がり貴族が偉ぶってもしょせん、まがいものでしかない。
 これで偉そうにしていても貫禄はまったくついていないのだから滑稽きわまりない。若いから仕方がないのかもしれないが、わたしからすれば虚栄心だけが目立つねずみの王様にしか見えないのだ。



「たしか、商売で失敗されたんでしたっけ」
「本人の前では禁句よ、百冨」


 父親の事業を引き継いだはいいが、新たに規模を拡げようとして金を使いすぎたときく。借金をすればいいだろうにねずみは高い利息を支払いたくないからと必死になって資金集めに翻弄している、とか。
 損得勘定はできても実行に移すとなるとまだまだ未熟な彼は、窮地に陥って気づいたのだ。いっそ名ばかりの婚約者を正式に娶れば自分の懐に大金が転がり込んでくるという事実に。


「でしたらなおさら不思議です」


 百冨は首を傾げてわたしに問う。婚約者であるわたしをなぜねずみは優しく扱わないのかと。


「知らないわよそんなこと」


 生まれた頃から決められたという婚姻の約束。十五歳の時にはじめて出会った時から、彼はことあるごとにわたしを苛めている気がする。
 自分より倍近い年月を過ごしているくせに、妙に子どもっぽくて、会うたびに憎まれ口を叩く。そんな彼が自分の夫になることが、わたしは未だ信じられない。

 しょせん、両家の利益のためだけに仕組まれた縁組だ。男爵家に生まれたわたしに自由恋愛が認められるわけもない。お互いが好意を持って結ばれるなど夢のはなし。諦めは幼いころからついている。


「ですが、ご主人さまもそろそろ緋鞠さまの嫁入りについて本格的に考慮されていますし……これ以上病を理由に遠ざけつづけるのは最早難しいと思いますよ?」
「そうみたいね」


 ねずみの窮地を知ったからか、父はわたしの結婚式を今年中に執り行うと言い出した。虚弱体質でしょっちゅう寝込んでいることを知っていながらそんなことを口にした父を裏切り者だと罵りたくもなったが……百冨のいうとおり、家長の命令ならば、従わざるおえないのも事実。
 だから結婚式の日取りを決めるという名目でねずみはわたしに逢いに来たはず。なのに。

 結局、具体的な話は何もできないまま、彼は怒って帰ってしまった。


「わたしも彼も、踊らされているのはおんなじなのよね」


 いやなら断ってくれればいいのにとも思うが、ねずみはわたしの父に頭があがらない。だからきっと、虚弱体質の娘を押しつけられても彼には文句が言えないから、わたしにやつあたりをしているのだろう。
 ……だけど、いつもやつあたりされているわたしの気にもなってほしいものだ。
 遅かれ早かれ、夫婦めおととなるのだから。
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