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第弐幕 黒糖飴と歌姫修行

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 明治三十七年に株式会社三越呉服店がデパートメント宣言を新聞紙上に掲載したことから、百貨店の普及ははじまった。帝都東京日本橋ではじまったそれは明治の終わりには多くの都市に拡がり、いまでは白レンガのルネサンス式の建築物やエレベーター、スプリンクラーが設備された屋上庭園、きらきらしいシャンデリアにステンドグラスなどの装飾が施されたデパートメントは西洋化の象徴であるとともに庶民の憧れの場ともなっている。
 横濱伊勢佐木町にある金糸雀百貨店もまた、モダンな赤レンガが目を引く五階建ての西洋風建築である。外観を損なわないためか、敷地内はすべて赤レンガで統一されており、住みこみの従業員たちが暮らす寮棟も赤いレンガの壁に囲まれている。とはいえ、手入れが行き届かない裏庭は木蔦アイビーの深い緑色の枝葉に覆われているだけで、華やかな正面と比べると、物淋しく、そこから一番近い部屋は横濱の喧騒を寄せ付けることもない。
 だから青年は耳栓をつけずに安心して眠れるこの部屋で、今朝も当然のように起床し、文句を垂れる。

じんの部屋には華がないね」
「男子寮に華を求めないでください」
「ここならゆっくり眠れるんだよ、耳栓をつけなくても……とはいえ、白レエスの天蓋つきの寝台で姫君のように麗しく目覚められたらもっと素敵な朝になると思わないかね?」
「思いません」

 靭と呼ばれた男は主の夢想を一蹴し、現実を見ろと冷淡に告げる。

「それより、迷い込んできた小鳥を追い払いたいんですよね?」

 それを見て彼はフンと毒づく。

「狸ジジイの思い通りになってたまるか」
「でも、社長は彼女を雇って歌劇団に所属させたと……」
「あれは単なる時間稼ぎ……それに」

 ――売られてきた花嫁には、婚約者がいた。
 夜中に耳にした「皓介さま」という声。耳がよすぎるがゆえにきいてしまった少女の悲痛な声が、昨晩から離れない。

「金糸雀の鳥籠に、翡翠かわせみは不要だよ」
「……珍しいですね。絆されました?」
「誰が!」

 ぷい、と背を向け、青年は耳栓をした後、靭の部屋から優雅に去っていく。それでも聞こえてしまうざわめきを煩わしく思いながら男ばかりのB棟をうんざりした表情で通り抜け、ようやく朝陽が差し込む裏庭に辿りつく。
 陽のひかりを浴びた薄紅色の秋桜が涼やかな風を受け、ゆうらりと揺れている。鼻歌まじりにたおやかな花の動きを思わず目で追いかけ、ステップを踏みながら腰をくねらせたところで自分以外のひとの吐息に気づき、苦笑する。茂みの奥に見えるのは海老茶式部の裳裾だろう、洋装が多い敷地内ではなかなか場違いな装束である。

「誰だい?」
「……たぶん、あなたの婚約者です」

 花と戯れる気色悪い男を隠れて見ていた少女は、ひょっこりと顔を出し、悪びれもせずそう応えた。
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