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第壱幕 金糸雀百貨店

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「あ、アマネさん……行っちゃった」

 ひとり部屋に残った翡翠は、押し込められるように置かれた寝台に倒れこみ、ふぅ、と息をつく。
 布団の匂いは変わらない。けれど、自分がいる場所は、東京小石川の立花邸ではない。

「皓介さま……」

 一緒に歌劇を観ていたのが、まるで夢のようだ。それともいま見ているものが、夢なのだろうか。
 翡翠は突っ伏した状態のまま、まとまらない思考を遊ばせる。

 ――そういえば、アマネさんって何者なんだろう。

 誠に面倒をみるよう指示されたのは、はじめから翡翠を歌姫にするためだったのだろうか。それにしては金城家の内情にも詳しそうだ。妾の子どもだろうか。

 ――異母姉弟? 不思議……

 あれで自分と同年代だなんて信じられないくらいに大人びている。金糸雀百貨店の歌劇団が創設されて以来ずっと首位の座を護っているという歌姫だけあって、身のこなしは優雅で清らかだ。
 けれど鳥籠と口にしたときの何かを諦めたかのような表情が気にかかる。それから、歌姫を引退することが結婚に直結するという誠の言葉も。
 それに――どこかで昔、出逢ったような、懐かしい気持ちになるのは、なぜだろう。
 父親と横濱を訪れたことは何度かある。父親が商談の間、幼かった翡翠は取引先の従業員やその家族に面倒を見てもらったものだ。その、取引先のなかに金糸雀百貨店は入っていただろうか……もしかしたらかつて一緒に遊んだ従業員の子どものひとりが大きくなって劇団員になっていたとか、その美貌が目に留まって金城氏の養女に迎えられたとか、なんらかの事情があるのかもしれない。

 ――だけど、愛の間を揺蕩う音色、でアマネだなんて。芸名にしても不思議な名前ね。

 もっと彼女のことを知りたいと、持ち前の好奇心が疼く。ちょこまか動き回るなんて令嬢らしからぬ行いだとみどりは文句を言っていたけれど、いまの翡翠にしがらみはない。

「……勝手に調べたら怒られるかしら」

 思わず口に出して笑ってしまう。婚約を破棄され実の父親に売られたばかりだというのに、なぜだろう、アマネの言うとおり、悲観的になれずにいる。
 むしろ、帝都の屋敷と女学校の往復しか許されていなかった昨日までの生活の方が、翡翠にとっては鳥籠のような生活だったのだ。
 ならば、いまの状況を甘受し、誠が差し出した条件から、自分にいちばん見合うであろう未来を選択すればいい。
 父は翡翠を売ることで家を護った。
 このまま翡翠は誠の一人息子と結婚することを選ぶべきなのだろうか、それとも自ら歌姫になってアマネを蹴落とすことで自由を勝ち取るべきなのだろうか。
 
 ――他に何か方法があるんじゃないかしら?

 誠が示した極端な選択肢以外で、翡翠にとっても、アマネにとっても良い未来を拓く方法が。探せばきっとみつかるはずだ。

「それがいいわ、それが……」

 その結論に辿りつくと同時に、翡翠はぷつりと糸が切れたかのように眠りについていた。
 その様子を遠くから見つめていた人物がいることに、気づくこともなく。
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