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Epilogue

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 皮のソファに堂々と腰掛け、謡子から報告を聞いた男はつまらなそうに、けれどどこか安心したように呟いた。

「結局、『夜』の斎神が新しくなって『星』の斎の封印を強化しただけか……」

 身神万暁は前世の記憶を失いはしたが、いまは男の紹介によって椎斎市内の国立病院で医師として働いている。彼自身、前世の記憶に囚われていた被害者なのかもしれないが、それを考えると目の前にいる少女も万暁を神と信じて行動していた不幸な少女に違いない。

「市長?」

 鎮目努は巫女装束ではない、斬新な赤とキャラメル色のチェックのブレザー姿の謡子を見つめ、静かに口をひらく。

「きみが犯した罪は、いまの法では裁けない。『夜』の斎神を殺し、『星』の封印を破り、椎斎を混乱に陥れた事実は忘れないで欲しい」

 風祭アペメル謡子。彼女には戸籍がない。滅んだとされるレラ・ノイミの部族の生き残りは、他者とかかわることを拒み、歳老いた祖母が暮らす閉鎖的な山奥に籠っていた。だから謡子は学校に通っていなかった。

 戸籍のない人間が殺人を犯しても、いまの法律では裁けない。それに、彼女はまだ十三歳。しかるべき教育を受けさせれば更生の余地はたっぷりあるはずだ。

「できれば学園に入れてあげたかったが」

 彼女の血縁者である留萌智路なら、謡子の面倒を見てくれるのではないか、とも思ったが、彼はやんわりと拒んだという。彼は血族よりも自分の異母弟の孫であるせのんを選んだということらしい。

「……コトワリヤブリと一緒にいることはできません」
「そうだね」

 カシケキクではなくレラ・ノイミの末裔をせのんの使い魔にさせた先代の斎神は、いったいどこまで未来を見据えていたのだろう。混乱に陥った椎斎を粛正するように、命を散らしてまで後世に遺そうとした少女のことを考え、努は黙り込む。

「すみません、時間ですので」

 謡子の小鳥の囀りのような声が耳に届く。もう彼女は椎斎に足を踏み入れることはないだろう。土地神とともに暮らし、同じ言語を使い、一部の神術を受け継いできた古民族の末裔の少女は、この神話の領域である北海道椎斎市を出ると、常人に戻ってしまうだろう。それでいいのだと努はひとり頷く。

 神とか魔法とか、周りにあるはずなのにそれを感じることのできない努からすれば、隠蔽された神話の世界の延長にある椎斎の方が、異常な世界なのだ。

「達者でな」
「市長には戸籍から祖母のことから学校のことまでいろいろお世話になりました。もう、母なる土地へ戻ることはないと思いますが」
「なんだい?」
「市長はコトワリヤブリを憎んでいるのではないのですか?」

 物怖じしない謡子の言葉を、努は素直に受け入れる。

「憎みたくなるときもあるよ。けれど、水面下で彼らが動いてくれるから、この街が成り立っているのも事実。なかなかどうして、匙加減が難しいんだよ」

 それが裏の仕事なんだけどね、と苦笑を見せると、謡子は花が咲いたようににこりと笑い返したが、すぐに真顔に戻り、向き直る。

「だとしたら、昼顔のことは?」

 たどたどしく謡子は尋ねる。努は唸りながら、彼女を安心させるための答えを探る。

「……たしかに、万暁の前世の記憶を消し去ったことで、彼女はコトワリヤブリを憎んでいる。不思議なのは、彼女が万暁を神と信じて慕いつづけていることだ。前世の記憶のない混血のカシケキクなど、常人と同じだ。それに鏡の欠片を失った彼女がコトワリヤブリとやりあうことはもうはや不可能だろう? 時間が解決する。わたしたちにできることはもう、何もない」
「――昼顔は、彼がすきだったんです。医師である彼に命を救われたって……そんな彼に応えたくて利用されてもいいからついていくんだ、って」

 前世の記憶を持たなくなった万暁は自分が道具として利用していた少女のことも忘れているかもしれない。けれど少女は忘れていないのだ。道具として利用される以前の、恋におちた頃のことを。
 謡子の言葉を理解した努はふん、と鼻を鳴らす。

「ならば問題ないだろうに。前世の記憶などなくても、運命は築けるものだから」

 謡子は何も言わず、弱々しく頷き、努の灰色の瞳を見つめる。すこし不服そうな表情を浮かべて。けれど反論することもなく。律義に礼をして、謡子は市長室から去っていく。
 神など信じない努だが、神にまつわる諍いに巻き込まれた少女の後姿を見て、柄にもなく呟いてしまった。

「――椎斎の斎神に見守らせるさ。新たなふたりの関係のはじまりを」

 椎斎に君臨する男は、背を向けている少女が扉の向こうへ消え去ると同時に、足取りが軽くなったのを耳底に留め、そっと笑みを浮かべるのだった。


   * * *


「なんか煮え切らない」

 ぶつぶつと文句を口にしているのは万暁の前世の記憶を消し去った本人である理破だ。その横で、景臣は彼女の髪を優しく撫でる。

「いまはそれでいいんだよ。月架の望みは椎斎を守り、自分の後継となる斎神を降臨させること。たしかに気になることはたくさんあるだろうね。鏡のことだってそうだ、まさか真昼の月にあたる少女が持ってちからを発動させていたなんて思いもしなかったよ」
「でも、欠片はあたしの手元に戻ってきた」
「正統な持ち主のところへ帰ってくるのは自然なことだ。たぶん、過去に万暁がどさくさに紛れてレラ・ノイミにでも預けたんだろう」

 たいしたことでもないと景臣は理破に言い切り、それよりも大事なのは未来だとうたうように口にする。

「これからはユイちゃんが『夜』の斎神として椎斎に降り立つ。彼女は椎斎の常識を何も知らないままここまで来てしまった。万暁のような輩がまた現れることだってあるかもしれないし、椎斎外から鬼が現れることだって今回の件でないとは言い切れなくなった」
「要するにあたしがユイの補佐をすればいいんでしょ?」
「補佐ね。いまはそれで構わないかな……」

 ――どうせならユイちゃんを傀儡にしてリハちゃんを神の代弁者にしたいけど、そんな不謹慎なことをあからさまに口にすることはできないからなぁ……

 うふふ、と不気味にほくそ笑む景臣を見て、よからぬことを企んでいるなと理破はうんざりする。けれど、そんな彼とともに、この先も一緒にいられるのは嬉しいのも事実。
 つられて理破も笑い返す。いつか自分は景臣の年齢を越え、斎という立場から身を退くことになるだろうけれど。いまはまだ。

「護りなさいよ」

 景臣に、甘えることができるのだから。


   * * *


 万暁から取り戻した月架の眼球は東堂のもとにある。彼はいまも鎮目医科学研究所で執事まがいの仕事をしているが、せのんの容体が安定したこともあり、最近ではしょっちゅう亀梨神社へ顔を出しているという。

「樹菜さんは月架の恋人が運命の騎士だって知ってたんですね」
「まあそうだろう、兄妹で宝珠を口移しするわけにもいかんし」
「口移しってそんな身も蓋もな……」
「でも事実だろ」

 市立公園の薔薇咲くイングリッシュガーデンを、優夜と由為は歩いていく。優夜は一方的に前に行くこともなく由為の手を取り、足取りを揃えてくれる。遠目から見ると恋人同士のようだが、ふたりの関係は未だ先生と生徒の枠から抜け出していない。

「……もういいです」

 宝珠を口移しすることで優夜は由為に斎に対する忠誠と神を降臨させるちからを注いだことになる。自分の身体に異物が入り込んだはずなのに、由為は逆に、足りなかったものをようやく手に入れた気分になっていた。今後も優夜とはそういったことをするのだろうか。考えるだけで顔を赤くしてしまう由為は慌てて話をすりかえる。

「ところで、『星』の斎が復学できるってほんとうですか」
「ああ。鎮目なら二学期から一年留年扱いでお前のクラスに入れるとジークが言ってたな。お前が持つ秘神のちからで眠りの呪詛を弱めることができたんだろう」

 完全に呪詛を取り除くことはできずにいるが、せのんはいまでは一日の半分を眠って過ごすこともなくなり、毎日使い魔の智路や父親代わりのクライネとともに外出を楽しんでいるという。月架が彼女の傍にいたときと同じくらい、いや、それ以上に回復していると優夜は思い、率直に告げる。

 改めて封印された『星』が悪さをすることはないだろうが、できれば由為は彼女から鬼姫を解放したいと思っている。いつか、いつになるかはわからないけれど。

「先生」

 由為が足を止めると、優夜もそれにならって動きを止め、由為の方へ顔を向けてくれる。
 大輪の薔薇の真紅の花弁が、風に躍らされながらふたりの前を舞い散っていく。

「あたしが『夜』の斎神でいるうちに、『星』の呪いを解いてみせる」

 封じつづけることで椎斎の頂点を維持し続ける鎮目一族からすれば、由為の発言は物議を醸しだすだろうが、そのためにせのんがこれからもひとりで耐えていくのは違う気がする。あのときせのんの言うとおりに封じてしまった由為は、今になって後悔している。

「『星』の使い魔も同じこと言ってたな……」

 優夜は由為の言葉に驚くこともなく、うんうんと頷いている。そのために研究所は今日もひっそり活動をつづけているのだ。由為がそう口にするのも別におかしなことではない。

「だから先生も、手伝ってね」

 確認するように由為は囁く。彼女の心地よい声が優夜の内耳をくすぐっていく。

「おかしなことを言う。『夜』の騎士が斎神に仕えるのは当然のことだ」
「……だからそういうことを言いたくて口にしたわけじゃないんだけど」

 ぷぅ、と両頬を膨らませる由為。その愛らしい姿に思わず優夜は彼女を抱き寄せていた。

「――つまり、こういうことだろ?」

 すっぽり彼の身体におさまってしまった由為は、顔を真っ赤にして反論する。

「……それセクハラっ!」

 けれど、由為の反発する声も、優夜にしてみれば心地よい鳥の囀りに変わってしまう。

「ここは学園外だし他に人の気配もない。それに理事長は俺たちを公認している。つまり問題はない」
「そりゃ『夜』の斎神と騎士の関係で考えれば問題ないけど……って駄目でしょ!」

 冗談なのか本気なのかわからない優夜の行為に、由為はおろおろするばかり。
 そんなふたりを見守るように。
 空は蒼く、どこまでも遠く、澄み切っている――……



 ――fin.
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