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Ⅶ 禍星の剣、月に架かる夜闇を断ちて * 2 *

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 身体を舐めるように蠢くおぞましい感覚がせのんを悩ませる。何かが近づいてきている。自分の中で眠っている悪魔だろうか。夢なのか現実なのかも判断できないまま、勢いよくベッドから転げ落ち、感じた痛みでこれが夢ではないことを確認する。
 ふらつく身体を叱咤して、せのんは時計を見上げる。午後四時。窓の外はしとしとと陰鬱な雨が降り続いている。雨の日は起きている時間より寝ている時間の方が長い気がする。病室には誰もいない。付き添ってくれているクライネの姿も、学校を終えて駆けつけてくる使い魔の姿も、時間おきに様子を見に来る担当医の姿もない。
 部屋中に飾られている花々に埋もれるように、せのんは床にしゃがみ込む。夢から醒めてもこの不穏な感覚は途切れない。むしろ、逆に強まってきている。自分の内部で眠る悪魔がついに肉体を乗っ取りに来たのか。

「……これは、外からの瘴気?」

 たいしてちからを持たないせのんだが、魔術師一族として、気配を読むことには長けている。自分の中の悪魔が幽体離脱するように外へ出るのなら、内側からなんらかの衝撃が現れるはずだ。それなのに、いま、せのんが感じているのは、外で蔓延している瘴気が、黒い靄となって自分の身体に沁み入ってくるふだんとは逆の現象だ。
 得体のしれない何かが、せのんに入り込もうとしている。怖い。いまだってその身に悪魔を封じているというのに……

「違う。霊体となって外にでた悪魔が奪ってきた生気の塊が、椎斎に蔓延る瘴気を吸って戻ってきたんだ」

 しゃがみ込んだまま、考えついたことを声に出す。肉体を死守しているせのんに総攻撃を仕掛けに戻ってきた悪魔の一部。それが、この重たい瘴気の正体。
 身体中を這いまわるおぞましい気配をどうにかしようと立ち上がり、せのんはベッドサイドに置かれた十字架を手に取る。蒼い瞳を銀の十字架に向け、召喚術を発動させる。

「――早く来て、チロル」

 強く念じると、呼応するように学ラン姿の智路がひかりのなかから現れ、恐怖に震えるせのんの身体を抱きしめる。

「ごめん、遅くなった。大丈夫か?」
「う、ん。それどころじゃないわ。早くあの瘴気を払わないと……」

 それよりクライネはどうしたのだろう。破魔のちからを持つ彼が近くにいてくれれば、それだけで瘴気は退くはずなのに。
 同じことを智路も思ったのか、せのんの表情をうかがう。せのんはわからないと首を振り、すまなそうに俯く。

「何が起きてるんだ……?」

 智路は実体を現さない黒い靄に苛立ちながらも、せのんを守るために身を楯にして立ちはだかる。

Rikin shupuya燃えあがれ……!」

 月架が教えてくれた古民族の言葉を唱えると、黒い靄に橙色の炎がまとわりつき、一時的に消すことはできる。だが、あとからあとから瘴気は湧きあがり、すべてを消し去ることはできそうにない。

「ダメか」

 これが『夜』の斎なら、血のちからで大元から消し去ることができるだろうに。外法使いである智路はコトワリヤブリのような破魔のちからも鎮目一族が持つ祓魔のちからも中途半端で、いままでひとりで悪魔を倒す経験もなかった。微弱なちからしか持たない智路に月架はコトワリヤブリの中でも『夜』の斎しか知ることのない特別な魔術を教えてくれたが、それも完全に使いこなすことができずにいる。
 右目だけを濃い紫色へ、虹彩を変えた智路を見て、せのんが決意する。

「わたしがやるわ」
「せのん!」
「いい、チロルはあくまでわたしの使い魔なのよ。どっかの騎士や影みたいに斎を守る存在じゃなくて、逆に魔女に使われる存在なの。ひとりでやっつけようとしないで! そのちからをわたしの身体へ放出なさい!」

 いままで震えていたのが嘘のように、せのんは凛とした声をあげていた。智路に抱きしめられたことで彼の生気を得られたのだ。

「……わかった」

 自分ひとりで立ち向かう無謀さを悟った智路は悔しげに唇を噛みしめて頷く。が。

「そうはさせないよ!」

 瘴気を巻き上げるように巫女装束の少女が病室に乱入してくる。そして、そのまま声高に術を放つ。左右の瞳は異なる色彩を見せ、蒼白銀の輝きを生み出す。

Meshrototke眠りなさい
「なっ……」

 少女の放った術は智路をとらえ、愕然とした智路はそのまま意識を失ってしまう。

「チロル! ちょっと、ねえ!」
「眠らせただけよ。その子、邪魔だったから」

 がくりと床に崩れ落ちた智路を必死に揺らしながら、せのんは巫女装束の少女を見上げ、鋭く声を発する。

「……何者?」

 だが、応えの声はなく、開け放たれたままの病室の扉の向こうから、見知ったものの声が響いてくる。

「ようやく太陽の使者が迎えに来たというのにその言い方はないでしょう? 我が神妻となる者よ」

 黒い靄をものともせずに、皺ひとつない白衣を着た青年がせのんの前へ姿を現す。

「――カズアキ」

 それは、せのんが信頼していた担当医、万暁の、尋常な姿。だけど。

「時が満ちる。『星』の器に封じられし鬼姫よ、いまこそ共に、世界を支配しようじゃないか」

 眼鏡越しに見える虹彩は禍々しいまでの真紅に染まり、ぎらぎらとせのんを、せのんの中に封じられている『星』を、見つめている。

「どういう、こと」

 万暁と巫女装束の少女を見比べながら、せのんは唖然とした表情で問いかける。
 太陽の使者。その言葉に心当たりはない。けれど、身体の奥で、どくん、と何かが脈動をはじめたことに気づく。

「わたしのなかの『星』が、狙いだったの?」
「せのん様、あなたはひとつ、間違いを犯しています。なぜあのとき、僕の苗字を確認しなかったんですか?」
「苗字……?」

 藪から棒に何を言い出すんだ。だって、万暁は鎮目一族の関係者で……

「いままでせのん様に仕えていた医師たちの苗字が鎮目だったから、僕も鎮目の人間だと、そう思い込んでいたのでしょう?」

 そうだ。苗字を口にしないで名前だけ教えてくれた万暁のことを、特に不審に思うこともなく受け入れたのは自分だ。
 黙りこんでしまったせのんを見て、万暁はふっと笑みを浮かべる。

「まあ、そのことはおいおい手とり足とり教えてあげましょう。謡子」
「はあい」

 謡子と呼ばれた少女は待ってましたとばかりにおおきく首を振り、小手先で術を発動させる。せのんがいままで見たことのない、魔術に似た動きで、風が生じ、周囲を覆っていた瘴気が四方へ飛び散っていく。そして風はせのんと万暁の身体をも包みこんでしまう。

「……っ」

 そのまま、せのんは自分の意識を手放し、万暁に抱かれたまま、部屋から姿を消す。
 ふたりを送った謡子は、眠りつづける智路の姿を見て、ハッとする。

「そこにいるのは誰だ?」
「おっと、まだいたんだった」

 遅れて施設へ入ったクライネはせのんの部屋が様変わりしていることに気づき、顔色を変える。倒れている智路と、両目の色が異なる巫女装束の少女の姿を見て、ピンとくる。

「お前か。亀梨神社の神木に火を放ったのは」
「よくわかったわね」
「……セノンをどうした」

 呼び込んだ瘴気を施設内に飛ばしたというのに、その男の周囲に黒い靄の姿はなかった。彼が破魔の能力を持つ『月』の人間なのだろう。謡子は舌打ちをしてクライネを見上げる。

「瘴気が効かないのか……厄介だなー」
「セノンをどうしたのかと聞いている」

 クライネは目の前にいる謡子に拳銃を向け、押し殺した声で問う。

「あんたが探している『星』の斎なら、彼女の担当医だった我らが主さまにお迎えされてお嫁に行ったよ」

 謡子はへらへらした態度を変えずに応え、クライネの反応をうかがう。担当医、という単語に顔を顰めるが、それよりもクライネを驚かせたのは別の単語だ。

「主さま、だと」
「そ。こんな施設で生かさず殺さず幽閉生活続けているよりも、主さまに愛された方がきっと『星』も幸せいっぱいだと思うのよね」

 パン!
 銃声が響く。謡子はおどけながらも顔色を白くして銃弾を避ける。

「おっと怖い。ひとが真面目に応えてあげてるのに。主さまと一緒にいるっ……」

 パンパン!
 クライネの持つ銃が唸り、銃口から再び火を噴きだす。謡子は慌ててしゃがみ込む。

「その名を口にするな」

 コトワリヤブリなら誰もが知っている。主さまという呼び名は、禁じられた亡き土地神の諱である。それを軽々と口にする少女を見て、クライネは怒り狂っている。

「もう、短気なひとは嫌いだよ。興ざめ。これ以上話すわけにもいかないし、帰る。あんたもあたいに構ってるより施設内の瘴気を浄化しに行った方がいいんじゃない?」

 くすくす笑いながら異なる色彩を宿す双眸を持つ少女は小声で術を唱える。そしてそのまま忽然と姿を消す。
 残されたのは銃声で目覚めて床の上で茫然自失としている智路と、拳銃を片手に途方に暮れるクライネのふたり。

「せのん?」
「……気づいたか、チロルくん」
「クライネさん」
「奴ら、施設内に瘴気をばら撒きやがってる。とっとと消し去って、助けに行くぞ」

 激昂しているクライネの低い声が、事態の重さを智路へ思い知らせる。せのんは連れ去られてしまった。あの、左右の瞳の色が異なる巫女と、彼女の傍にいた担当医に……

「はい」

 落ち込んでなんかいられない。智路はクライネに頷き返し、床に転がっていた十字架を拾い上げる。

「それから」
「なんでしょう」

 急いでいると口にしているにしては、おっとりとしたクライネの口調に、智路は苛立ちを抑えることができず、ささくれ立った声をあげてしまう。

「ジークから伝言。〈選べ〉だってさ」
「何を」
「それは、オイラがさ。チロルくんならわかるだろう、だって」
「要するに俺が何を選ぶかジークが試したがってるってことだろ。心配されるまでもない。決まってる。俺は自分がどうなってもせのんを助けることを選びます。邪神の花嫁だなんて、認めません」

 窓を叩きつける雨音が、更に強く、しんと静まり返った病室に響き渡っている。


   * * *


「東堂さんが、月架さんの、恋人でしたか」

 由為は確かめるようにその事実を声に出す。

「先生は知っていてあたしに教えてくれなかったんですね」

 恨めしそうな声をあげると、優夜はきっぱりと頷く。

「知っていても意味がないと思ったからな」
「その中途半端な秘密主義、いいかげんにしてください! こっちはこっちで必死に情報収集してたんだから!」
「お前がきいてこないのが悪い」
「はいっ?」

 なんだその理屈は。由為は脱力して優夜から視線をそらす。そんなふたりのやりとりを見ていた東堂は淡い笑みを湛え、柔らかい声でふたりの言い争う声を遮る。

「まあまあ。僕が黙っていたのもいけなかったんでしょう。騎士ばかり責めていてもどうにもなりませんよ」
「いえ、東堂さんは悪くないですよ悪いのはぜんぶこの先生ですいま決めました」
「なぜ決めつける」
「だって『夜』の宝珠を失くしたからあたしは騎士からの忠誠を得られないで……って、あれ?」
「ユイ、ひとりで早合点しないで。つまり、『夜』の宝珠はいま、東堂さんが月架から預かって持っているってことなのよね」

 どおりでおかしいと思ったのだ。『夜』の一族が所有しているはずの宝珠が紛失しているなんて。理破は由為を宥めながら東堂に質問する。

「いえ、いまは騎士のもとにありますよ」

 東堂は自分の役目は終わったのだともはや興味もなさそうに月架の隣で寛いでいる。

「……ってことは」

 由為と理破の視線が優夜に向く。針のような視線をものともせず、優夜はぼそりと呟く。

「そういえば、この前箱を投げつけてきたな。中身確かめないで鞄に押し込んでそのままにしてたが、あれに宝珠を保管してたのか……」
「せーんーせー……」
「いや、だってそんな大切なものを投げつけられるとは思わないだろ普通。てっきり研究所内のスペアキーだと思ったから……鞄は職員室のロッカーにある。なんならいまから取ってくるか?」
「とっとと取ってきてください!」

 神聖なはずの空間に、新たな『夜』の斎となった少女の怒声が響きわたる。
 だが、それよりも早く、黒い靄のような瘴気がこの地下空間にも澱のように降り積もりはじめている……優夜が感づき、次いで理破と由為も異変に気づいて黙り込む。
 その瞬間。

 ――銃声が轟いた。
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