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第二章 始動
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しおりを挟む満月のような瞳を持つ男……ハインツは、浮かれていた。
部下であり悪友でもあるヘンリーが寄越した、耳寄りの情報に嬉々として乗っかり、皇太子妃専属護衛騎士の募集に参加したまでは良かった。
一週間と少しぶりの、運命の番の姿に頬が綻ぶ。番にしかわからないフェロモンの香りに、ハインツはすんと鼻を鳴らした。甘い蜜のような香りが鼻腔に抜けて、体を痺れさせる。彼の瞳孔がきゅるりと縦に伸びた。駄目だ。脳が溶けそうになる。今すぐにでも攫ってしまいたいが、それでは彼女の心を得ることは出来ない。
ハインツの姿に気付いたらしいエカチェリーナが、驚いたようにこちらを見ていた。大きな瞳を丸くする表情は、まるで幼い少女のように無垢だった。俺の番が可愛い。ハインツの頬は、ゆるゆるに溶けた。この間、選んだドレスがよく似合っている。彼女の胸元を飾る宝石に、いつか自分の瞳と同じ満月のような宝石を贈りたい。俺のだっていう証を、身につけて欲しい。ああーー隣に居る男邪魔。
ハインツは、値踏みするように、イヴァンを見やった。
ーーアレが、ベルジェ帝国の皇太子……イヴァン・セルゲイ・ベルジェンニコフか。
甘いマスクの横に垂れたサンディブロンドの美しい髪が、陽の光に反射してキラキラと輝いている。まさに、麗しい好青年。正統派王子とは、彼の事を言うのだろう。ハインツは、薄い唇にせせら笑いを浮かべた。
ーーなぁんだ。俺の方が、カッコイイじゃん。あんなモヤシ男より、俺の方が背も高いし、筋肉もあって男らしいし、美青年だし。
うんうんと頷きながら、俺の勝ち~と脳内で万歳をする。紙吹雪が舞う幻影さえ、見えてきた。ふふんと鼻を鳴らしたところで、再び運命の番である彼女に目を向ける。
「は?」
思わず口から、ドスの効いた声が溢れ出た。
それも仕方がない。何故なら、ハインツにとって大切な番を盗ったクソ野郎のこんちくしょうであるイヴァンが、エカチェリーナを抱き寄せていたのだ。彼女のまろい頬が、あの男の胸元にピタリと当たり、ほんの少し形を変えている。それでも損なわれない愛らしさは、彼女が運命の番だからそう思うのか。伏せられたまつ毛を震わせて男を見上げるアメジストの瞳には、甘い眼差しをしたあの男が映っている。それが、堪らなく苛立ちを募らせた。
それに……。
気の所為だろうか。イヴァンが、こちらを見て、上唇をめくり上げるように笑ったのだ。牽制しているつもりか?
「コロス」
物騒な言葉を呟いたハインツに、彼のローブの内ポケットがモゾモゾと動きを見せた。ひょっこりと顔を出したのは、九官鳥の姿をしたヘンリーだ。ヘンリーは、ハインツにしかわからない鳥類の言葉で話し出した。
『何をやっているんです。貴方の相手はあの豚であって、皇太子ではないのですよ』
黒い翼で対戦相手の大男を差すヘンリーに、ハインツはチッと舌を打つ。
「わかってる。でも、ムカつくんだよアイツ。俺の番に気安く触りやがって」
『おやおや、相手は既婚者ですよ?お触り以上のことも既に終了済みなのは、承知の筈では?それくらいで目くじらを立てていては、先行き不安ですねぇ』
ヘンリーは両手を……いや、黒い両方の翼をもたげて、呆れたように肩をすくめた。そのわざとらしい仕草に、ハインツが眉を寄せる。
「お前喧嘩売ってる?」
『いいえ、そんな、まさか。滅相もない』
ヘンリーの黄色い嘴から、プスゥと空気の音が盛れた。これは笑いを堪えて思わず出てしまった音だ。ハインツは額に浮かんだ青筋をそのままに、片手でヘンリーの首を締め上げた。
『ぐぇっ!何をするんですか!』
「九官鳥で作るフライドチキンって、美味しいのかな~」
『な……、何て野蛮な……っ!共食い反対!』
「あ?聞こえねーなァ」
対になった満月の瞳を見開いたハインツに、ヘンリーがギョエッと鳴いた。
「おい、試合はとっくに始まっているんだぞ」
試合そっちのけでヘンリーと戯れるハインツに、対戦相手である大男が、苛立ったように声を荒らげる。
「鳥とお喋りなんて、随分とイカれてやがる……お前のお友達か?試合に勝った暁には俺がソテーにして食ってやるよ!」
唾を飛ばして怒鳴りながら、下品な笑みを浮かべる大男に、ハインツは瞳だけ動かして大男を見やった。
鈍く輝く満月が二つ、無感情に浮かんでいるように見えて、大男は思わず口を閉ざす。野生の動物のようなソレは、気味が悪い。
「ここらじゃ見ない色だな。その髪色もだ……不気味な奴め。外国人か?」
「豚がどうして、人間の言葉を喋ってんの?」
整った美しい顔を、ニコッと愛嬌たっぷりに破顔したハインツの体が、ゆらりと動いた……ように見えた。大男にとって、それは本当に一瞬の出来事だった。気付いた時には、自分の足に衝撃が走り、空を向いていた。つまり、どうなった?自分は、転ばされたのか?唖然と見上げたところに、軽く片足を上げたハインツの姿がある。
「どうした豚ちゃん。二足歩行がしんどくなって、転んじゃったのかな?」
ハインツはそのまま、大男の腹をグリグリと踏み付けた。ぐうと呻き声を上げる大男に見向きもせず、ハインツはどこか違うところを見詰めている。屈辱的だった。大男は、カッと顔を赤くして、ハインツの足から逃れようともがくも、ハインツはそれを許さない。
「よっわ」
そう嘲笑ったハインツが、大きく足を振り上げたのを最後に、大男の意識はプツリと闇に沈んだ。
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