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第一章 心の崩壊

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 「あら。御機嫌よう、エカチェリーナ様」

 そうニッコリと微笑む彼女は、たっぷりとした赤い髪を結い上げて、金のバレッタで止めていた。丸い赤茶色の瞳からは、その真意を探ることは出来ない。

 髪と同じ赤いドレスを揺らして、エヴァはエカチェリーナに友好的に声を掛けた。

 「ご懐妊したのですって?おめでとうございます」

 「ええ。ありがとうございます、エヴァ様」

 「皇子か、皇女……どちらが生まれてくるか、楽しみですわね」

 「……ええ」

 エヴァは、笑顔を崩さない。その後ろに立つ彼女の侍女も、薄らと微笑みを浮かべたまま。それがエカチェリーナには、不気味に映った。

 「わたくし、自分の事のように嬉しかったのですよ?エカチェリーナ様がお生みになる子ならば、自分の子供のように可愛がれる自信がありますわ」

 「まぁ……」

 本当にそう思っているのだろうか。どこか人工的に感じる笑みに、平坦な声。ひくついた口元を隠すかのように、エヴァは手で唇を隠した。それでも、目は笑っていない。側室でありながら、エヴァの元にイヴァンが訪れたのは初夜のみだという。エカチェリーナの懐妊を面白く思わないのは、当然であった。

 「後日、お祝いの品を送りますわ」

 「まぁ、ありがとうございます。お気遣いなく……」

 当たり障りない返答を返すエカチェリーナに、エヴァは頬に浮かぶ笑みを深めた。

 「無事に、健康的な御子が産まれますよう……祈っております」

 皮膚の上に、描いたような微笑を漂わせ……エヴァは侍女を引き連れて去って行った。赤い彼女のドレスが、金魚の尾びれのようにヒラヒラと揺れている。それを見送ると、途端にどっと疲れが押し寄せた。

 ーー何だか、本当に疲れてしまったわ。早く部屋に戻って、横になりたい……。

 額に手を当てて、軽く息を吐く。悪阻により、頭がボーッとするほど体温が高い。胃のムカムカが再び押し寄せて、気持ちが悪いのに、空腹でたまらない。

 アンナに頼んで、フルーツでも持ってきて貰おう。そう思いながら、彼女はよろよろと階段を登った。自室への道のりが、キツい。こういう時、専属の侍女が傍にいてサポートをするものだというのに、アンナはどこへ行ってしまったのだろう。

 手すりを持ちながら、慎重に足を運ぶ。ここで誤って転倒でもしたら大変だ。ドレスの裾を踏まないように、気を付けなくては。ようやく階段を登り切ったところで、恐ろしい形相をしたヴァルヴァラが、肩をいからせて現れた。

 自慢のサンディブロンドの髪は、蛇のようにうねって広がっており、まるで彼女の怒気に反応しているかのよう。今にもその頭から、もうもうと湯気が立ち上がりそうだ。エメラルドの瞳には、暗く燃えるような炎が揺らいでおり、噛み付くようにエカチェリーナを睨み付けた。

 「エカチェリーナ!!」
 
 ヒステリックな金切り声に、エカチェリーナはビクリと肩を震わせた。

 何やらとてつもなく怒っているらしいヴァルヴァラの後ろに、アンナが立っているのが見える。目が合うと、アンナはあろうことか主人であるエカチェリーナに、冷ややかな意地の悪い笑みを返した。

 「な……」
 
 思わず、アンナの名前を呼ぼうとしたエカチェリーナに、ヴァルヴァラが烈火のごとく怒鳴り散らす。

 「エカチェリーナ!お前は、一体どういうつもりなの!?」

 どういうつもりと言われても、エカチェリーナにはわからない。

 「あの……皇妃様。わたくしが何か……?」

 恐る恐る尋ねると、ヴァルヴァラは眉をこれでもかと吊り上げた。

 「何か……ですって?わたくしの夫を誑かしておいて、しらを切るつもり?」

 「た、誑かす……?」

 何が何やら、わからない。エカチェリーナは、セルゲイを誑かしたことなどない。

 ヴァルヴァラはハッと鼻で笑い、困惑するエカチェリーナを見下げた。

 「おお、怖い……!大人しそうな顔をしているから油断したけれど、お前はとんでもない阿婆擦れね。わたくしも、危うく騙されかけたわ。可哀想なイヴァン。こんな女を、正妃に貰っただなんて知ったら、あの子はきっと傷付くわ」

 「待って下さい!わたくしが、陛下を誑かすとはどういうことですか?身に覚えが、ございません……!」

 「お黙り!お前の侍女が証言しているのよ。わたくしの陛下を裏庭に呼び出し……身重の身でありながら、抱いてくれと迫ったそうじゃない」

 「……な、何ですって……」

 あまりの内容に、言葉を失う。とんでもないでっち上げだ。エカチェリーナがセルゲイを誘うだなんて!むしろ、あの舅がエカチェリーナに強引に迫ってきたというのに!

 「嘘です、皇妃様……!わたくしは、そのような事しておりません!」
 
 「何が嘘だと言うのだ。この侍女が、見たと言っているのよ?」

 ヴァルヴァラの影に隠れて、アンナは歪んだ笑いを浮かべながら一言も発しない。エカチェリーナは、目の前が真っ赤になる思いだった。こんな屈辱は初めてだ。夫の父親に迫る痴女に、仕立て上げられるだなんて……!

 「わたくしに迫ったのは、陛下の方です!わたくしは、何もしておりません!わたくしは……!」

 アメジストの瞳を涙で濡らし、無実を主張したいがあまりに、癇癪を起こしてしまう。普段は大人しい彼女であったが、妊娠による影響だろうか。情緒不安定に叫ぶ彼女は、小鳥のようにピイピイと喚き散らすようで、ヴァルヴァラの癇に障ったらしい。

 「なんて、卑しい女!」

 バシンと頬を打たれて、エカチェリーナは言葉を噤んだ。

 「自分のやった行いを認めず、陛下に罪を擦り付けるとは不敬な!妊婦でありながら、陛下に発情した売女が、下品に喚くでない!こんな女が、イヴァンの正妃だなんて、本当におぞましいわ。その腹の子も、どんな卑しい子に育つことか!!」

 エカチェリーナの頬を涙が伝い、ズキンと下腹に痛みが走った。自然と下腹に手を添えて、彼女は涙声で叫ぶ。

 「そんな……っあんまりです、皇妃様。わたくしのお腹の子は、殿下との子でもあるのですよ……。きっと立派な皇子にも、皇女にもなりえます。いえ、立派な人間に、わたくしが育ててみせます……!」

 腹の子まで貶されたことが、悔しくて。痛む下腹が、まるで我が子が祖母の言葉に傷付いているように思えて。エカチェリーナは、縋るように皇妃に詰め寄った。

 「わたくしに近寄るでない、汚らわしい!」

 ドンと、ヴァルヴァラの大きな手がエカチェリーナの体を押した。忘れていたが、ここは階段を登ってすぐの廊下である。エカチェリーナは階段を登り切ったばかりであった。それに気付いた時には、彼女の体は宙を浮いていた。


 

 
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