上 下
8 / 52
第一章 心の崩壊

8

しおりを挟む

 「きゃぁあっ」

 堪らず、エカチェリーナの唇から悲鳴が零れる。

 「チェリー?」
 
 イヴァンは動きを止め、エカチェリーナの体を抱き起こした。

 「どうしたんだい、チェリー?もしかして……痛かった?」

 「ぁ……あそこに……皇妃様が……」

 恐怖から目をギュッと閉じ、エカチェリーナはプルプルと震える指先を、扉の方へと向けた。イヴァンは、不思議そうに扉を見つめて、首を傾げる。

 「確かに扉が半開きだけど……きっと、私が閉め忘れてしまったんだ。母上の姿もないし……そもそも、いるはずがないよ」

 「でも……」

 エカチェリーナは、恐る恐る扉の方へと目を向ける。そこには、真っ暗な暗闇が広がっているだけで、ぼんやりとした白い影はどこにもなかった。

 「でも、確かに皇妃様が……」

 「チェリー。君の見間違いだ」

 恐怖で震えるエカチェリーナに、イヴァンは冷静な声で言った。だが、エカチェリーナの心臓は落ち着くことなく、バクバクと鼓動している。気が動転した様子で、エカチェリーナは普段なら口にしないような事を、イヴァンに縋り付きながら言ってしまった。

 「いいえ、見間違いではありません……っ。わたくし、確かに見ました……。恐ろしい顔で、わたくしを睨んで……!殿下は、お解りにならないかもしれませんが、わたくしは、皇妃様に嫌われているんです……!」

 イヴァンは、軽く目を見開いた。その美しいエメラルドを一心に見つめて、エカチェリーナは訴える。一瞬の沈黙の後、パシンと乾いた音が響いた。

 「……ぁ……」

 エカチェリーナは、反射的に頬に手を添える。ジワジワとした痛みが押し寄せ、自分はイヴァンに叩かれたのだと気付いた。

 いつもエカチェリーナを優しく見つめてくれたイヴァンの瞳が、険悪な色を宿している。眉を吊り上げ、鼻の頭にシワを寄せ、イヴァンは心底呆れたとでもいうように、ため息を吐いた。

 「残念だ。まさか君が、母上の事をそんな風に思っていたなんてね」

 「え……」

 「母上は、いつも私にチェリーの話をするんだよ。チェリーの事を実の娘のように思っているんだ。それなのに、君は母上に嫌われていると言うんだね……君を大切に思っている母上が不憫でならないよ」

 怒っていたイヴァンの顔が、悲しそうに歪んだ。まるで、迷子になった子供のような顔だ。

 エカチェリーナの胸がズキンと痛んだ。同時に、こめかみ辺りもズキズキと痛み出す。ヴァルヴァラが、エカチェリーナを大切に思っている……?嘘だ!と叫びたいのに、唇は情けなく笑みを形取り、イヴァンのご機嫌を伺おうと、か細い声が溢れ出た。

 「で、殿下……」

 エカチェリーナは、ガチガチと歯を鳴らし、自分でも何を言おうとしているのかわからなくなりながら、でも何かを口にした。

 「申し訳、ございません……わたくしが、間違っておりました……」

 ぶるぶると手が、指先が震える。心の奥底で、それは事実ではないとイヴァンに叫びながらも、その叫びに蓋をした。エカチェリーナの眉や瞳が、ふにゃりと垂れ下がる。

 「わたくしの、勘違いでございました……皇妃様は、いつも……お優しいのに……」

 小さく体を震わせるエカチェリーナに、イヴァンは微笑んだ。

 「わかってくれれば、いいんだよ。間違いは、誰にでもある」

 イヴァンの大きな手が、エカチェリーナの体を押し倒す。

 「そんな不安そうな顔をしないで。今ので君を嫌いになったりなんて、しないさ」

 イヴァンの手が無遠慮に、エカチェリーナの二つの膨らみを揉みしだき、やがて下腹辺りをなぞるように撫で出した。

 「さっきの続きを、しよう」

 エカチェリーナの体は、人形のように寝台の上で揺さぶられる。エカチェリーナは、無意識に、イヴァンを喜ばせるいつも通りの反応を口にしていた。

 「ぁ……イヴァン様……っ」

 「チェリー……っ!」

 どうやら、イヴァンは果てたらしい。エカチェリーナの体の上に覆いかぶさりながら、荒い呼吸を繰り返している。その吐息を間近に感じながら、エカチェリーナは宙を見つめた。

 ピシ……ピシリ、と何かにヒビが入るような音。その音は、確かに自分の体から響いていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

忘れられた妻

毛蟹葵葉
恋愛
結婚初夜、チネロは夫になったセインに抱かれることはなかった。 セインは彼女に積もり積もった怒りをぶつけた。 「浅ましいお前の母のわがままで、私は愛する者を伴侶にできなかった。それを止めなかったお前は罪人だ。顔を見るだけで吐き気がする」 セインは婚約者だった時とは別人のような冷たい目で、チネロを睨みつけて吐き捨てた。 「3年間、白い結婚が認められたらお前を自由にしてやる。私の妻になったのだから飢えない程度には生活の面倒は見てやるが、それ以上は求めるな」 セインはそれだけ言い残してチネロの前からいなくなった。 そして、チネロは、誰もいない別邸へと連れて行かれた。 三人称の練習で書いています。違和感があるかもしれません

家出した伯爵令嬢【完結済】

弓立歩
恋愛
薬学に長けた家に生まれた伯爵令嬢のカノン。病弱だった第2王子との7年の婚約の結果は何と婚約破棄だった!これまでの尽力に対して、実家も含めあまりにもつらい仕打ちにとうとうカノンは家を出る決意をする。 番外編において暴力的なシーン等もありますので一応R15が付いています 6/21完結。今後の更新は予定しておりません。また、本編は60000字と少しで柔らかい表現で出来ております

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

バイバイ、旦那様。【本編完結済】

ちくわぶ(まるどらむぎ)
恋愛
妻シャノンが屋敷を出て行ったお話。 この作品はフィクションです。 作者独自の世界観です。ご了承ください。 7/31 お話の至らぬところを少し訂正させていただきました。 申し訳ありません。大筋に変更はありません。 8/1 追加話を公開させていただきます。 リクエストしてくださった皆様、ありがとうございます。 調子に乗って書いてしまいました。 この後もちょこちょこ追加話を公開予定です。 甘いです(個人比)。嫌いな方はお避け下さい。 ※この作品は小説家になろうさんでも公開しています。

【第二部連載中】あなたの愛なんて信じない

風見ゆうみ
恋愛
 シトロフ伯爵家の次女として生まれた私は、三つ年上の姉とはとても仲が良かった。 「ごめんなさい。彼のこと、昔から好きだったの」  大きくなったお腹を撫でながら、私の夫との子供を身ごもったと聞かされるまでは――  魔物との戦いで負傷した夫が、お姉様と戦地を去った時、別チームの後方支援のリーダーだった私は戦地に残った。  命懸けで戦っている間、夫は姉に誘惑され不倫していた。  しかも子供までできていた。 「別れてほしいの」 「アイミー、聞いてくれ。俺はエイミーに嘘をつかれていたんだ。大好きな弟にも軽蔑されて、愛する妻にまで捨てられるなんて可哀想なのは俺だろう? 考え直してくれ」 「絶対に嫌よ。考え直すことなんてできるわけない。お願いです。別れてください。そして、お姉様と生まれてくる子供を大事にしてあげてよ!」 「嫌だ。俺は君を愛してるんだ! エイミーのお腹にいる子は俺の子じゃない! たとえ、俺の子であっても認めない!」  別れを切り出した私に、夫はふざけたことを言い放った。    どんなに愛していると言われても、私はあなたの愛なんて信じない。 ※第二部を開始しています。 ※誤字脱字など見直して気を付けているつもりですが、やはりございます。申し訳ございません。教えていただけますと有り難いです。

気付いたのならやめましょう?

ましろ
恋愛
ラシュレ侯爵令嬢は婚約者である第三王子を愛していた。たとえ彼に子爵令嬢の恋人がいようとも。卒業パーティーで無実の罪で断罪されようとも。王子のその愚かな行為を許し、その愛を貫き通したのだ。己の過ちに気づいた第三王子は婚約者の愛に涙を流し、必ず幸せにすることを誓った。人々はその愚かなまでの無償の愛を「真実の愛」だと褒め称え、二人の結婚を祝福した。 それが私の父と母の物語。それからどうなったか?二人の間にアンジェリークという娘が生まれた。父と同じ月明かりのような淡いプラチナブロンドの髪にルビーレッドの瞳。顔立ちもよく似ているらしい。父は私が二歳になる前に亡くなったから、絵でしか見たことがない。それが私。 真実の愛から生まれた私は幸せなはず。そうでなくては許されないの。あの選択は間違いなかったと、皆に認められなくてはいけないの。 そう言われて頑張り続けたけど……本当に? ゆるゆる設定、ご都合主義です。タグ修正しました。

もう二度とあなたの妃にはならない

葉菜子
恋愛
 8歳の時に出会った婚約者である第一王子に一目惚れしたミーア。それからミーアの中心は常に彼だった。  しかし、王子は学園で男爵令嬢を好きになり、相思相愛に。  男爵令嬢を正妃に置けないため、ミーアを正妃にし、男爵令嬢を側妃とした。  ミーアの元を王子が訪れることもなく、妃として仕事をこなすミーアの横で、王子と側妃は愛を育み、妊娠した。その側妃が襲われ、犯人はミーアだと疑われてしまい、自害する。  ふと目が覚めるとなんとミーアは8歳に戻っていた。  なぜか分からないけど、せっかくのチャンス。次は幸せになってやると意気込むミーアは気づく。 あれ……、彼女と立場が入れ替わってる!?  公爵令嬢が男爵令嬢になり、人生をやり直します。  ざまぁは無いとは言い切れないですが、無いと思って頂ければと思います。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

処理中です...