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◆◇◆

『全てを受け入れています。』


そう言って微笑む彼女の瞳には何の色も含まれていなかった。
与えられた物、環境、どんな仕打ちを受けようとも全てを受け入れる。望みも期待も無い。
全てを捨て、諦めたものの瞳。

──嗚呼、彼女は死ぬ事すら諦めているのか。

この瞳を見て、俺は全てを理解した。
本当に本当に本当に、何も持っていない女。
醜い感情も喜びも悲しみも絶望も愛情も何も知らないどこまでも純粋な女。

──彼女が欲しい。

公式な妻としての関係だけではなく、その身も心も。

「お前は…愛を知らないだろう。」

私の言葉に、彼女の瞳は揺らいだ。いつも穏やかな笑みを浮かべるだけの人形のような彼女が、今日はやけに表情が変わる。それもきっと、家族に見捨てられたからなのだろう。もう無理して取り繕い、愛される努力をしなくても良いのだから。

「………はい、お恥ずかしいお話ですが。知識としてはあるのですけれど実感したことはありません。」

彼女はまたいつもの困った笑顔で、けれどその端麗な唇から紡がれる言葉は彼女の本心を語っていた。

「…なら俺が教えてやる。」

彼女の表情に変わりはないものの、動揺していることはその手の硬直具合から分かった。
しかし彼女に選択権はない。勿論彼女の意思は尊重するつもりだが、きっと彼女は今回も受け入れるだろう。期待も、何かを望むこともせず。

長い沈黙の間、彼女は俯いて何かを考えているようだった。しかし暫くすると顔を上げ、その表情はいつもよりも柔らかい。

「…それは…とてもありがたいです。」

いつもよりも柔らかい笑顔に、今度は俺の体が硬直した。断らないにしても、まさかそんな破顔されるとは思ってもみなかったからだ。
きっと見るもの全てを魅了するであろうその笑顔を、俺は1度、侯爵家に行った時に見たことがある。

「お前は…フィオラは、甘いものが好きか?」

俺の質問に彼女は的を射ていないようだったが、少し俯いて考えた後、ニコリと微笑んで「好ましいと思います。」と答えた。

その答えを聞いて、俺の心はあたたかいもので満たされた。
こんな感覚、いつぶりだろうか。

「ふふ、公爵様の笑顔はとてもあたたかいのですね。」

ころころと笑う彼女に、俺は自分が笑っていることに初めて気づいた。

──笑うことなんてできたのか。

もう昔のように笑うことは出来ないと思っていた。
俺は自分のことに驚きながら、目の前で優しく笑う彼女を見て自然と頬が緩むのを感じた。




◇◆◇


心の中があたたかいもので満たされた。
目の前にいる彼は、私に愛を教えてくれると言った。
どれだけの本を読んでも、他者から体験談を聞いても分からなかった愛。
母が私の頭を撫で、微笑みかけてくれたあの時のようなあたたかい感覚に包まれて、私は彼なら私に愛を実感させてくれるのではないかと感じた。

──公爵様を信じよう。

どうせ私には他に何も無いのだから。
私は胸に残るあたたかさを噛み締めるように、にっこりと微笑んだ。

やはり噂だけで人を判断するものでは無い。
周りからはどれだけ冷酷な人と言われようとも、今目の前にいる公爵様の笑顔は何よりも優しくてあたたかいのだから。






「嗚呼、そういえば。」

一ヶ月後に王家主催のパーティーに招かれるという話を聞いていると、公爵様はふと何かを思い出したかのように顔を上げた。その瞳には少しの恥ずかしさと後ろめたさが見て取れたため、私はあえて気付かないふりをして彼の言葉の続きを待つ。

「今朝話した愛人の件なのだが…どうかなかったことにして欲しい。」

そんなことか、と私は微笑みながら了解したと伝えた。確かに、これから愛し合っていくのに愛人を作る必要はない。まあ作ったところで何かする気もないのだが。

公爵様は存外わかりやすい性格をしていたようで、無表情ではあるもののその瞳には安堵の色が広がっていた。
私は公爵様から目を離し、目の前に置かれた紅茶に口をつけた。丁度いい温かさの紅茶はすっと体に馴染み、身も心もあたたかくなる。

──私は今からでもアリスのように愛に満ちた子になれるかしら。

あの子のように皆に愛を振りまくことは出来なくても、誰か一人、公爵様に愛を注げるようになりたい。形だけのものではない。心からの愛を享受し、それを人に与えられるようになりたい。

私の脳裏に浮かぶのは、いつも楽しそうに笑いあっていた両親とアリスの姿。
私がどれだけ笑顔でいようともあの笑顔の輪の中には決して入れない。私の笑顔には中身がないから。

「フィオラ。」

突然名前を呼ばれ、私ははっとして顔を上げた。
名前を呼んだのは勿論公爵様なのだが、その声は平坦ながらも穏やかでまるで私の名前を呼びなれているかのようだったから。

「私の名前をご存じなのですね。」

つい、嫌みともとれる本音が漏れてしまった。
社交界ではアリスのおまけとしてそこそこ名が知れているのだが、公爵様は社交界に出ていないため知らないと思ったのだ。…まあ侯爵家に婚約を申し込むにあたり調べはしたのだろうが、それでも影の薄い私の名前を憶えていることに驚いてしまった。
しまったと思い私が謝罪を口にするよりも先に公爵様が口を開いた。

「俺の婚約者なのだから当たり前だろう。」

公爵様の瞳は声と同じくらいあたたかく感じられた。
今までこんなにも人から向けられるものに心が動かされたことがあっただろうか。

「ありがとうございます。」

私は自然と上がる口角のまま心からの感謝を述べた。まだ公爵様の事も愛も分からないけれど、叶うことなら永遠にこの方の隣にいたいと感じた。

公爵様が席を立ち、私ももう帰るのだろうとつられて席を立つ。すると扉に向かう筈の彼は私の前に跪いた。
身分の高い公爵様が私に跪くなんて。
私が彼を立たせようと伸ばした手は、彼の大きくて男らしい手に取られてしまった。

「フィオラ。」

私の名前を呼び爽やかな笑顔を浮かべる公爵様。

──嗚呼。このような展開をどこかで見たことがあるわ。

脳裏ではそんな考えがよぎりながら、私はできるだけ公爵様と同じ笑顔を作って彼の瞳を見つめ返した。
中身の伴わない言葉ならば幾らでも吐き出せる。
けれど、これから愛し合う人に中身のない愛を囁いてもいいのだろうか。

「俺はフィオラに全てを捧げよう。だからあなたも、愛することは出来ずとも俺に全てを捧げて欲しい。そしてできることなら、俺を名前で呼んで欲しい。」

嗚呼、そうだ。
小説の中の登場人物も、名前を呼び合い愛する人の為に命までも捧げていた。
妹の代わりである私に名前を呼ばれるのは嫌だろうと保っていた距離が、彼によってどんどん崩されていく。
そして全てを捧げるということは、信頼し終生まで共にするということ。適当な返事をすることなんて出来ない。

──なんて優しい人なのだろうか。

私に全てを捧げ、そして私にも公爵様と同じ制約を強いるなんて。
それはつまり、どちらか一方通行の愛になることはないということ。
愛しあう術を教えてくれるのいうのだ。私が断る理由はない。

「是非に。生涯をかけてレイバン様に全てを捧げます。」

公爵様の柔らかな唇が手の甲に触れた。
まさかこの私が誰かと愛を誓う日が来るなんて。
公爵様に触れられた部分は熱を持ち、私は自分の心臓がどくどくと脈打っているのを感じていた。

──まるで生まれ変わったかのよう。

手の甲で生まれた熱は鼓動と共に身体中に広がっていった。
今までで1番自分の生を感じている。
冷酷で冷淡と言われている公爵様のおかげで私は心のあたたかさを知った。

──これが…幸せ?

とてもあたたくてどんな茶菓子よりも甘いもの。





◆◇◆

あの夜のことが夢のように感じられたせいで、近頃は朝起きてもしばらくベッドから動くことが出来なかった。
もしかしたら自分の都合の良い妄想で、彼女の部屋には誰もいないのではないかと思えたから。
そのせいで、朝起きたらフィオラの様子を伺いに行くのが日課になってしまった。

自分が変わったという自覚はある。
今まで何物にも興味を示さず、ただ与えられたことをこなしているだけだった俺が、一人の女に熱を上げているのだ。
今は落ち着いているシーザーや使用人達も、あの夜が明けてから形だけの婚約者に過保護になった俺を最初は驚いた顔で見ていた。
シーザーに至っては俺の病を疑い医者まで手配しようとしていた程だ。

フィオラが頭から離れない。
彼女のあの優しい笑顔が常に頭の片隅に残っていた。
王命の仕事をしているときでさえ、彼女のことを考えてしまう。それでも仕事に支障が出ないのは長年の経験のおかげだろうか。

──らしくない。

彼女の名前を出すと呆れた顔をするシーザーを見る度に、自分が今どれだけ愛にうつつを抜かしているかを実感する。
しかも自分が望んでいた相手からの愛はなく、自分からの一方的な愛のようにも思える。
あの夜からそれなりに日は経ち俺達の関係も深まったと言えるが、彼女は未だに愛が分からない。
それだけ今まで受けてきた仕打ちが酷いということなのか。

フィオラは生まれた時から妹の影のように生きてきたらしい。彼女の両親も使用人でさえもその存在を忘れることが珍しくなかったという。
正直今すぐにでも侯爵家を潰しに行きたいが、そんなことをしなくてもあいつらは勝手に自滅するだろう。
公爵家から半年は裕福に暮らせる多額の持参金を貰い、あいつらは半年どこらか半月でそれらを使い切る勢いで散財をしているらしい。
侯爵家は最早火の車だ。
あの妹の中途半端な善意からくる散財、今まではフィオラがこなしていた本来の仕事を両親が手を抜くことで領地の経営難。全て自業自得だ。
フィオラがどんな反応をするかは知らないが、彼女には一切そのことを伝えていなかった。最も聡明な彼女なら十分に予想出来うる事態なのだが。

フィオラは今まで通り全てを受け入れていた。
俺の独占欲からくる酷い束縛も当たり前のように受け入れる。
彼女が持っているのは愛を知りたいという純粋な好奇心と愛し愛される関係への憧れ、そして俺への信頼だけ。彼女を知るにつれ、自分がどんどん惹かれていることに気づく。

最近は彼女が公爵家から貰った私財を使ってもいいかと聞きに来たので、事情を聞いて翌日に大きなクマのぬいぐるみをプレゼントした。
彼女は驚いた顔をしていたが、直ぐにふにゃりと笑ってお礼の言葉を口にしたのだった。

──なんて愛らしいのだろう。

身も心も美しいだけでなく愛らしい。
彼女は最近よく作り物ではない笑顔を向けてくれるようになり、俺も彼女といる時は普段は微動だにしない表情筋がよく動くのを感じている。

ぬいぐるみを欲しがった理由は聞かなかったが、翌日フィオラの姿を見に行くとその訳がわかった。

正直襲わなかった自分を褒めてやりたい。
フィオラは無防備に、そのくまのぬいぐるみに抱きついてに眠っていたのだ。

──嗚呼、なんて愛らしい。

俺はこの日初めて自分が不能ではないことを知った。

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