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【最終章:ベルナデットの記憶】

魔女の生贄(*イルス視点)

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*残酷描写箇所です。

 
 
 石壁に奴隷へ転落した女の影が激しく揺らめいてる。狭い部屋には獣のような男の声が断続的に響いている。女は男の成されるがまま、人形のように扱われ続けている。
 
「ジェガぁ……ジェガぁ……!」

 女は宙を仰ぎながら、ただひたすら愛する男の名を呼び続ける。
 しかし今目の前にいる男は、女が愛する彼ではなかった。
 
 やがて散々欲望を吐き出した男は、女から離れ、枕元へ金を投げ置き去っていった。
幾ばくもなく、また新しい男がやってきた。未だ呼吸が整わぬ女へ覆いかぶさり、人形のように扱い始める。

 女の名は――イルス。
 かつては勇者フォーミュラ=シールエット一党の闘術士として名を馳せたBランク冒険者である。
 
 しかし彼女は一党解散後、大きな罪を犯した。
 心の拠り所であり、愛してやまなかった恋人の“斥候のジェガ”を自ら手に掛けてしまった。
 
そのためイルスは冒険者ライセンスをはく奪されたばかりか、犯行を激しく糾弾され、奴隷身分へ転落させられた。

奴隷身分に転落して早や一年。顔も良く、魅力的な身体を持っていた彼女はこの間に様々な男の手に落ちた。行く先では必ず慰みものにされ、人形のように扱われた。
そして今では、狭い部屋に押し込められ、日々様々な男の欲望のはけ口とされていた。

「ジェガぁ……ジェガぁ……!」

 その度にイルスは自ら手にかけた恋人の名前を呼び、あろうことか助けを求め続けた。
 これは悪夢で、目が覚めればそこには、いつも通り自分を優しく受け止めてくれるジェガの存在があると信じ込んだ。
 
 しかしどれだけ耐えても、悪夢は覚めない。ジェガは現れない。
 これが現実なのか、悪夢の中なのかもわからない。
 そうしてイルスは“壊れ”ただうわ言の様にかつての恋人の名前を言うだけの、ボロ人形になっていた。
 己が犯した罪さえも忘れて。
 
「ジェガぁ……ジェガぁ……!」
「おい、こいつどうするよ? ボロすぎて最近、客の評判あんまり良くないぜ?」
「そろそろ潮時か。まぁ、元は取れたわけだし。うっし、運ぶぞ」

 イルスは最低限の襤褸だけを纏わされ、どれぐらいぶりか外へ引きずりだされた。
 彼女は荷車へ無造作に押し込められた。馬が嘶きを上げ、馬蹄の音が響き始める。
どうやらまたどこかへ運ばれるらしい。
 どこへ行くなどもはや興味はない。イルスはただ寝そべったまま身動き一つ取らなかった。
 
『イルス……』
「っ!?」

 突然、頭の中へ懐かしく、そして嬉しい声が響いた気がした。
砕けかけた心が寸でのところで形を取り戻し、人としての意思が復活した気がした。
 
『イルス、こっちへおいで。イルス……』
「ジェガ……?」
『こっちへおいで。イルス……』
「ジェガぁ……!」

 ジェガが呼んでいる。彼は近くにいる。彼は待ってくれている。彼は惨めな自分を助けてくれる。
 また前のように優しく抱しめてくれようとしている。

 そうだ、そうに違いない。
 
「ああああああ!!!」
「な、なんだぁ?」

 久方ぶりに生気を取り戻したイルスは叫びをあげた。
脇には醜悪な小男が、腰を抜かして尻もちを突いている。

――今らなら、殺(や)れる。

「ジェガはどこだ……」
「は?」
「ジェガはどこだぁぁぁ!!」
「あぐっ!? あがっ……! あ――!!」
 
 イルスは小男の首を掴んだ。闘術士として鍛えた膂力は、男を絞め殺したばかりか、首の骨さえも粉々に砕く。
 小男の悲鳴を聞いて馬車が止まった。
 
 幌越しに人の影が揺らめき、ばたばたと足音が聞こえてくる。
 
 イルスは絞め殺した小男の腰からた鉄鞭を奪った。
 
「どうした! 何が――!!」
「ああああ!!」

 イルスは目の前の、小太りで醜悪な男の頭を鉄鞭で叩き割った。
死体を蹴飛ばし、荷車から飛び降りる。複数の男が、武器を手に、イルスを取り囲んでいる。
しかしどこにも“ジェガ”はいない。


――きっとこの連中が“ジェガ”を隠しているに違いない。

――“ジェガ”と引き離したに違いない。

――“ジェガ”以外で自分に触れた男は、全て殺すべし。

 
「ジェガを返せ! 私のジェガをぉぉぉ!!」

 イルスはまるで魔物と戦うかのように鉄鞭を振り回した。
 男たちは悲鳴を上げ、次々と肉塊へと変えられてゆく。

 気づけばイルスの纏っている襤褸や傷だらけの肌には、おびただしいほどの赤黒い液体が付着している。
しかし醜悪な男たちを全てせん滅させようとも、ジェガは彼女の前に現れなかった。
 よく殺(や)った、彼女を褒めてくれない。

「ジェガ……どこにいるの……? ジェガぁ……!」

 逢いたい。声を聴きたい。抱きしめられたい。激しい口づけを交わしたい。
 
 ジェガこそイルスの生きる意味であり、彼なしでは生きられない。彼がいなければ生きている意味さえない。
生まれて初めて、愛情をくれたジェガに逢いたい。

 不意に生暖かい風が彼女の頬を撫でた。
同時に空を覆う黒雲から稲妻が迸り、目の前に禍々しい塔があることに気が付く。

「ジェガぁ!!」

 離れていてもわかる。愛する人の姿を間違う筈がない。
 稲妻が轟くたびに、禍々しい塔の下へ“ジェガ”の影が見えた。
 
『イルス、塔の中へおいで。イルス……イルス……』
「ジェガ……ジェガぁぁぁ!!」

 イルスは遮二無二駆け出した。導きの声に従って、禍々しい塔の中へ迷うことなく飛び込む。
 
 当の中へ踏み入ったイルスの足元に輝きが迸った。激しい赤紫の輝きが発せられ、視界を染め上げた。
気づくとイルスはまた別の場所に居た。

 黒雲は手が届きそうな位低く、少し離れたところには踏み入った塔と同じような意匠の施された禍々しい“祭壇”があった。
 
 ここがどこなのかは定かではない。だがそんなこと問題ではない。問題にする価値もない。

「ジェガぁぁぁ!!」

 イルスは目の前で微笑む、斥候の青年ジェガの胸へ飛び込んだ。
 
 彼の匂い。そして熱。間違いなく彼だった。イルスの生きがいであり、人生の全てであるジェガに間違いがなかった。
 そして彼女は思い出す。何故自分がこんなにもみじめになってしまったのか。彼に何をしてしまったのかを。
 
「ごめんなさい、ジェガ! ごめんなさい! もうしません。だからずっと一緒に居て! ずっとずっと! お願いジェガ……」

 ジェガの小ぶりな手がイルスの頭に添えられた。
 久々に彼が撫でてくれた。もっとそれ以上が欲しいのだけれど、今はこれで十分。
 
『イルス……』

 ぽたりと、イルスの頬へねばついた雫が落ちる。

『俺をこんな姿にしてよくそんなことが言えるな、糞女がっ!!』
「――!!」

 そう叫ぶジェガの顔は、半分以上が潰れていた。
彼の腐った肉片が、赤黒く変色した血が、イルスへ降りかかる。

『お前のせいだ! お前のせいで俺の人生はめちゃくちゃだ! もう二度と顔を見せるな! お前なんて嫌いだ! 大っ嫌いだ!! 死ね! お前なんて死んでしまえぇぇぇー!!』
「ああ、ああ!! いやっ……いやぁぁぁぁ!!!」

 愛する人から否定にイルスは悲鳴を上げた。
 治りかけた心が完全に砕け散った。
 形を失った心は体の中で暴走し、イルスに僅かに残っていた人間性を崩壊へ導いてゆく。
 
 そんな中、背中から腹の辺りに衝撃を感じる。
 
「えっ……?」

 気づけば腹からは鋭い剣の切っ先が覗いている。
 
 剣が抜かれ、ごぽりと赤い血がこぼれ出た。
イルスの四肢から力が抜け、彼女は自らの血だまりに沈んでゆく。

「血は流したぞ! さぁ、目覚めよ! 我が盟友! 五魔刃五の刃――東の魔女タウバ・ローテンブルクよ!」
「ジェガ……ごめんなさい……」

 最期に出たのは自らが犯した罪への謝罪だった。

 たとえどんな形であろうとも、最期に最愛の人と逢え、そして謝罪ができたことにイルスは満ち足りた気分だった。
もう十分だった。

 イルスは妖艶に輝く禍々しい祭壇を見つめつつ、その生涯を終えるのだった。

 
●●●


【東の魔女の塔】

 聖王国の本島:ヴァンガード島の東方にある封じられし地である。
その名は聖王国建国戦争時の魔神皇の拠点であったことに由来する。

 そしてそこに、非処女魔法使いであるイルスの血を浴びて、復活した邪悪が降り立った。
 
「……久しぶりじゃな、トリア」

 邪悪は剣を血振りし、イルスの死体を蹴飛ばしていた青い髪の女騎士:トリア・ベルンカステルへ声をかける。
 
「その様子では変わりないようだな、タウバ」
「まぁ、こう見えて永らくの封印のおかげで結構魔力は落ちてるでのぉ。しかし、まさかわらわから復活させるとは。ラインの方は良いのかえ?」
「135日前よりライン様の祠の警戒が厳に切り替わった。故にタウバを優先する方針に切り替え、我々は行動を続けた」

 どこからともなく、人形のように表情が凍り付いている拳士の女:フラン・ケン・ジルヴァーナが現れる
邪悪――【タウバ】は久方ぶりにあったもう一人の仲間の相変わらずの言動に、懐かしさのあまり笑みを浮かべる。

「なるほどのぉ。で、わらわとお主ら二人で協力してラインを“魔神皇”を再臨させる魂胆じゃな」
「ああ」
「これはワタシ達の55年前の、あの日から悲願」
「ふぅむ……勢いと意思は良し。しかし、お主らもわらわ同様に随分と魔力が落ちているのぉ?」

 タウバの言葉にトリアとフランは表情を曇らせた。
 
「良かろう良かろう。仕方ないことじゃ。ならばわらわも含めて、腹ごしらえと行こうではないか! フランよ、ここ何年かで魔力を奪うのに丁度よく、少し運動ができるところはどこかあるかえ?」
「ある。ヴァンガード島の南東……かつての魔導士隊総本部、今の名は“学術都市ティータンズ” あそこには数多の魔法使いが存在し、そして今の聖王国では最も平和ボケしている。狩場には丁度いい」

 フランの言葉を聞き、タウバは邪悪な笑みを浮かべた。
 
「ならばさっそく参ろうぞ、フラン! トリアは留守番を頼むぞえ?」
「無論、そのつもりだ。東(こ)の塔(こ)の異変を察知されたらしい。斥候部隊は私が責任をもって壊滅させる。代わりに私への魔力供給も頼んだぞ」
「勿論じゃ、たらふく食わせてやるから期待しておるのじゃ。行くぞえフラン!」
「了解!」

 復活した魔女は背中に生えた二枚の黒い翼を羽ばたかせて、飛び立ってゆく。
 
 邪悪の再臨。このことは聖王国では一部の者しか知らない。
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