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第16話 *
しおりを挟む涼太が打ちのめされた最初の出来事。
それは徳間がオファーをくれた美術館への出展が白紙に戻ったことだった。
アートとして作品を作るチャンスをほぼ手にした状態で、それが粉々に砕け指の隙間から零れ落ちていく……。
そこから、涼太がベッドでただ天井を見つめている間に、彼の言葉も必要とされず、宗一郎が次々と先回りをして涼太の仕事を奪っていった。
涼太は宗一郎が喜々として取引先をまわっているなどと知る由もない。
面倒な説明をするために時間を割いてくれているのだと、涼太は申し訳なさそうに宗一郎に感謝の言葉を口にした。
「いいんだよ、涼太くん。これくらいのこと……。」
宗一郎が涼太の柔らかな髪に手櫛を通す。
「アマミヤホテルにも行ってきたよ。」
「…………。」
「天宮さんは不在だったけど、担当の永塚さんに事情を説明して理解してもらったから。」
実際、宗一郎はアマミヤホテルにだけは足を運んでいなかった。
下手に伊織に捕まったら面倒になる。涼太が無断で仕事を放棄した形でトラブルになれば、それはそれで涼太の居場所を奪えて好都合だったのだ。
涼太にとって、毎日聞かされる宗一郎の報告は、ベータだった自分を奪い、消し去っていくものだった。
伊織の優しさから得た仕事を最後に失ったことで、涼太の心を蝕み始めていた絶望が、一気に彼を覆い尽くしていく……。
宗一郎は面白い程に壊れ始め、追いつめられていく涼太に、内心笑いが止まらなかった。
──安心してよ、涼太くん。愛人として、ちゃんと飼ってあげるから……。
「噛み付かない限りは、ね……。」
宗一郎は、泣きながら眠りについた涼太の涙を拭った親指で彼の唇をいやらしくなぞり、冷笑と共に呟いた。
ベータの自分を失い、生きることに絶望していた涼太も、全てを諦めた形で今を受け入れ、食事や薬も拒否することはなくなっていく……。
涼太が無為に毎日を過ごしながら時間は流れ続け、彼がオメガとして覚醒し始めて1ヶ月間が経とうとしていた──。
「最初の擬似発情による症状も落ち着かれ、体力も少しずつ戻られましたし、これからはパートナーの方にも治療に協力していただこうと思います。」
病院のカンファレンスルームで、涼太は宗一郎と共に笹森医師から話を聞いていた。
今の涼太は顔色の蒼白さがなくなり、入院以来一度も太陽の下に出ていないため、肌は透けるように白くなっている。
常に憂いを帯びた瞳は涼太の美貌を引き立て、その色香を纏う美しさは恐ろしい程に研ぎ澄まされていた。
そんな妖艶な涼太を自分の腕の中で支配している宗一郎は、堪らない優越感の中、理想的なパートナーを演じ続けていた。
「私も協力するとは、どういうことですか?」
「はい。まず最初にご理解頂きたいのですが、バース内科では性行為も大事な治療方法になってきます。お二人の非常にデリケートな部分に我々が踏み込ませて頂くことになります。不快に思われるかもしれませんが、病院スタッフはあくまでも医療行為として捉えていますので。」
宗一郎は笹森医師の言葉に涼太の様子を伺う。不安げに宗一郎の腕を掴み彼を見上げた涼太に満足し、宗一郎は涼太の肩を抱き寄せた。
「もちろん、こちらからそういった行為を無理強いすることは絶対にありません。その点は安心して下さい。」
笹森医師が涼太を見て念を押す。
「それで、私は何をすればいいですか?」
「河野さんには弱めの抑制剤を服用していただいて、一色さんに少しずつアルファのフェロモンを感じていただきたいんです。」
「それは、どういう……。」
「一色さんには、オメガフェロモンの分泌を促す薬を服用していただいていますが、思ったように効果が出ていません。あまり強い薬はお勧め出来ませんし、今の中途半端な体の状態が続くのも心臓などに負担が大きいんです。」
笹森医師の「中途半端」という言葉に、涼太がピクリと反応した。
「医師として、一色さんの体がオメガとして安定するまで、セックスは許可できません。が、パートナーの方のフェロモンは薬よりも負担がかからずエフの方のオメガ化を促せます。」
──しばらく彼を抱けないのは、誤算だったな……。
宗一郎が内心舌打ちしながら、涼太の肩に置いた手を腰へと滑らせた。
「具体的にはどうするんですか?」
「他の患者さんに影響が出ないように、一色さんにはしばらく別の病室に移っていただきます。河野さんには病室への入室前にフェロモンが出すぎていないかの確認をさせていただいて、あとは出来るだけキスやハグといったスキンシップを多く取っていただきたいんです。」
涼太の頬にほんのりと赤みがさす。笹森医師はそんな彼を微笑ましく見つめた。
「体に異変がない限り、我々が病室に近づくことはありませんので。」
「キスやハグはもちろん、強制ではないですよね?」
宗一郎が真剣に尋ねる。
「はい、もちろんです。ただ、ご存知の通り、アルファの方の唾液は弱めながらフェロモンと同じ効果が期待出来るので……。まあ、でも、お二人の気持ちを優先して下さいね。」
笹森医師や病院の人間には、涼太と宗一郎は慈しんで愛し合う理想的なカップルに見えていた。それでも無理強いをしたくないと訴える宗一郎に、笹森は信頼すら寄せていたのだ。
病室を移ることを承諾した二人は、カンファレンスルームを出ると、そのまま新しい病室へと案内された。
別棟にあるそこは一部屋ずつそれぞれに外部訪問者用の入口があり、プライバシーが守られるようにしっかりと区切られている。
「河野さんは、朝抑制剤を飲まれたままですか?」
「はい。」
病室の入口で宗一郎のフェロモンを計測した看護師がニッコリと笑いかける。
「そろそろ薬が切れ始めて、少しフェロモンが出てくると思います。もしお時間があるのなら、1時間ほどお二人でゆっくり過ごして下さい。フェロモンが出過ぎると発情が誘発されて危険なので、今日は1時間後にこちらで声をかけさせていただきますね。」
「わかりました。」
看護師に簡単にこの病棟での注意事項の説明を受け、涼太は宗一郎に支えられながら新しいベッドに横になった。
緊張した面持ちでいる涼太に、宗一郎が笑いかける。
「涼太くん、僕は前に言っただろ?いくらでも待つよって。無理にキスしたりしないから、安心して?」
そう言って頬を撫でる宗一郎から、ふわっと甘い香りが漂い始めた。
「宗一郎さん、薬、切れてきた……。」
「ん?何か感じる?」
涼太が頬にある宗一郎の手に自身の手を重ね、甘えるように擦り寄せる。
「涼太くん?」
宗一郎がベッドに腰掛けると、涼太は自分から体を起こし、宗一郎の胸に顔を埋めた。
耳まで赤くなっている涼太を見て、宗一郎はゾクゾクとした衝動に甘く笑い涼太の耳元で囁く。
「どうしたい?」
オメガの性が覚醒し始めた涼太が、アルファの囁きに抗えるはずもなかった。
──医者と言えど所詮ベータだ。アルファがオメガを支配する力を甘く見すぎだよ。
宗一郎は熱くなっていく涼太の体を離し、顎を持ち上げて上向かせる。潤みきった瞳で泣きそうな涼太に、宗一郎はその視線で言葉を促した。
「キス、して……?」
「いい子だ。」
涼太の口に、甘い甘いアルファの唾液が流れ込む。
宗一郎の甘い香り、それは確かに心地いいはずなのに、どんなに舌を絡められても、優しく上顎をくすぐられても、蕩けきれない自分に、涼太は次第に戸惑っていく……。
──俺、もっと甘いキスを知ってる……。
「宗一郎さん、ん、あっ、……もっと……。」
──あのキスは、もっとうんと激しくて……。
「ん、ンんっ……もっと……あ、もっと……。」
「ん?もっと?」
宗一郎が涼太の舌を絡め取り、激しく吸い上げて翻弄する。
パジャマのシャツの中に滑り込んできた宗一郎の手は少し冷たく、涼太は軽く身じろいだ。
──違う、これじゃない……俺が欲しいのは……これじゃ……。
「涼太くん、可愛い……。」
──『涼太さん、綺麗だ……。』
宗一郎に愛撫され、キスで唾液を交換し、フェロモンまで感じている……。
それは確かに甘く染み込む香りなのに、涼太はもっと甘く痺れる香りを知っていた。
──どうしよう、この人はきっと『運命』じゃない……!
「宗一郎さん、お願いだ……。お願いだから……。」
俺をメチャクチャにして下さい……。
涼太は宗一郎に抱きつきながら必死に耳元で懇願した。
「どうしたの、涼太くん?……感じちゃったの?」
宗一郎が嬉しそうに涼太をベッドに押し倒し、首筋を舐めながら涼太の肌に手を吸い付かせ這わせていく。
涼太は身じろぎながら天井を見上げ、泣きながら全てを受け入れた。
──今更、ここまでしてくれる宗一郎さんを裏切れない……。宗一郎さんが俺を『運命』だと思ってくれるなら、それで……。
1時間後に看護師が声をかけてくるまで、宗一郎はこの生殺しのような状態のままで堪えてくれた。
涼太はそんな宗一郎に触れられながら、伊織との夜を重ね続けた自分に吐き気がしてくる。
「涼太くん、明日と明後日は出張で来れないんだ。ゴメンね。」
宗一郎が優しく指で髪を梳く。涼太は小さく頷き目を閉じた。
宗一郎が看護師に挨拶をして立ち去り、看護師がドアを閉めると、涼太は堪えきれずに自身の手首を噛むように声を押し殺して泣き出した。
「ごめんなさい、宗一郎さん………ごめ……っ!」
──ちゃんと忘れます……ちゃんと、諦めるから……。中途半端は、やめるから……。でも……、最後に、最後に1度だけ……。
「……っ、うっ……会いたいよ……伊織…く……っ……。」
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