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22 兄として、王として 2
しおりを挟む「お兄様?」
クラウスは小さく笑っていた。それがひどく寂しそうな笑みで、アンネリーゼの胸に鈍く痛みが走る。
「……リーゼ、私は今からの会話を兄としてしたい。……たとえ束の間でも、兄妹の時間を持ちたいんだ。いいかい?」
「もちろんです、お兄様」
兄のその表情と言葉の意味の全てを理解することはできなかったが、彼女に否という理由などない。
クラウスは大好きな……大切な家族、たった一人の兄なのだ。
レオンハルトが王都を去ってから、アンネリーゼはクラウスを前にすると小さな線を引いてしまっていた。それは、彼女が王女でいるために、彼を兄ではなく王として見なくては……と思っていたからだった。
自分自身を守るためのその選択が、ずっと兄を傷つけてきたのだろうか?
アンネリーゼは目の前の兄の寂しげな表情を見ながら、胸に刺さる罪悪感という痛みを掴むように胸元で手を握りしめる。
「リーゼに伝えたいことは本当にたくさんあるんだ。だから、私は今、ちょっと混乱しているのかもしれないな……。一体、なにから伝えたらいいのか、わからないんだよ」
「お兄様が混乱するほど、たくさんあるのですか?」
「ああ。だから、リーゼ……。リーゼは、なにから知りたい?」
「え?」
知りたいこと……。今、自分が知らなくてはいけないこと……。
元々、アンネリーゼは彼──カミルのことをクラウスに尋ねなくてはと、面会を申し込むつもりでいたのだ。
兄のほうからその話を振ってくれた。だから、素直にそのことを話せばよかったのに……。
「……レオンは……レオンは、いつ、帰ってくるの……?」
クラウスの寂しげな瞳に吸い込まれたせいなのか、彼女の口から耐え切れずにこぼれたのは、『彼』の名前だった。
その声はひどく心許なく、彼女の視界まで潤んで歪ませていく。
そして、久しぶりの幼さを見せた妹へ見せるクラウスの笑みが優しく温かな色へと変わり、彼はグラスをローテーブルに置いて立ち上がると、妹の隣に移り両腕でしっかりと彼女を抱きしめた。
「やっと、聞いてくれたな」
「……お兄様が、教えてくれないから……」
「リーゼもずっと聞いてこないしな……。わかってたんだろう? 左遷なんかじゃないって」
「……それは、これだけ時間が経てば、いろいろ……わかるもの……」
クラウスは軽く腕を緩め、まなじりに涙を溜めるアンネリーゼをのぞき込んでくる。
「リーゼは相変わらず頑固だな?」
「……お兄様の、いじわる……」
「あぁ、そうだな」
まるで自嘲しているように大きく息を吐きながらそう言って、今度は片腕で彼女の肩を抱き寄せるクラウス。
──クラウスがなにも言わないのなら、聞くべきではないのだろう。
──アンネリーゼはきっと、裏があることを理解したうえで、あえて聞かずにいるのだろう。
お互いがお互いを理解し、それをもどかしく思いながらも、動かずにいた二人。いつしかこれが、王家に生まれ生きてきた、兄妹の距離感になってしまっていた。
「……家族なのに、こうやって回り道をするしかない……。滑稽なものだ、王族なんて……」
「…………」
「それでも、絶対に忘れないで。アンネリーゼは私の大切な、大切な妹だ。これから家族がどれだけ増えようと、リーゼを愛してることに変わりはないんだよ?」
「……うん……」
「レオンハルトは今、リンベルク辺境伯家の裏で動いているマイヤースを探っている。まだしばらくかかるかもしれない……」
「マイヤース……侯爵家……?」
「ああ」
あの襲撃の夜が、アンネリーゼの脳裏に蘇る。
ヒューゲル侯爵家の庭園で、レオンハルトに寄り添っていた、赤毛の女性……。
(あのとき、もう、私は最中にいたのね……)
「教えて、お兄様。リンベルク領は公国と隣り合う場所。公子であるカミルが偶然でここに来るはずがない。なにがあったの?」
「…………」
「お兄様」
僅かに彼女を抱く腕に力が入り、彼は重苦しく口を開いた。
「……今、やっと元に戻りそうだったティクリッツとの関係が、危うい状況にある」
「なぜ?」
「また『女神の雫』が狙われてる。リンベルク、ティクリッツ、双方でだ」
「そう、なのね……。その裏にマイヤース家がいると?」
「まだ、推測の域を出ないがな……。だが、原因がなんであれ、大公は我がヴォルバルトの不始末に変わりはないと思っているようだ……」
「そんな……!」
アンネリーゼが兄の腕を解き、身体を彼へと向ける。
そして目の前には、いつの間にか国王たるクラウスが表情を作っていた。
「……陛、下……?」
どうしてこんなにも察してしまうのだろう?
クラウスはきっと、これから国王として王女に命を下そうとしている。
そう直感した彼女はスッと背筋を伸ばし、ただ言葉を待った。
「時間がない。このままでは、ヴォルバルトとティクリッツの間に決定的な亀裂が入る。それだけは絶対に避けねばならない。カミルは、大公から最後通牒を預かってきた。そして大公は、五年前の被害者である彼に、判断を任せると……そう言ってきたんだ」
「……カミルに……?」
しっかりと頷いた彼を見て、アンネリーゼが目を閉じゆっくりとひとつ深呼吸する。
彼女が知ってしまった『彼』の温もり──それを心の奥にしまい込み鍵をかけるために……。
そして目を開けた時、彼女の夜空の瞳には一点の曇りもなかった。
「先ほど正式に、カミル・フォン・ティクリッツより王女アンネリーゼに婚姻の申し出があった。私は国王として、そなたにティクリッツ公国第二公子との婚約を命じなければならない」
「はい、陛下」
「…………すまない、アンネリーゼ……。未熟な王である兄を恨んでくれ……」
クラウスは国王として迷いなく命じ、そして掠れる声で妹へと詫びる。
父王の急逝により即位してわずか一年半足らず。彼がどんなに優秀だとしても、国内外の足場を固める前に次々とそこを揺らがせようとする悪意ある現状は、一人の力ではまだ如何ともしがたかったのだ。
「陛下。私にも王家の一員としての矜持がございます。そのお言葉は受け取れません」
「リーゼ……」
「ヴォルバルト王国王女として、カミル公子との婚約、謹んでお受けいたします。ただその前に、ひとつお聞かせください」
「ああ。なにが知りたい?」
「おそれながら、私の元婚約者のことにございます」
「……っ、リーゼ、そなた……」
「ツェラーのエルマー王子は、今どこに?」
夜まだ終わらぬことを悟ったクラウスが、そっと元居た場所へと戻り、もう一つのグラスに琥珀を注いだ。
グラスに揺れるその色は、カミルの……そしてエルマーの瞳の色だった。
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