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 高難易度である転移魔法を、二人分、顔色一つ変えずに使える術士など聞いたことがない。それをあっさりとやってのけたマシレに腕を引っ張られて、リュカが足を一歩踏み出した先は、土の感触だった。
 目の前に広がっていたのは畑だ。広大すぎて、その奥にある石造りの城が小さく見える。城の建物自体は尖塔がないため一見質素に見えるが、よく見ると窓の装飾や屋根が非常に凝ったものであることが分かる。振り返ってみると、高い城壁がそびえていて、ここが守られた空間であるのを認識する。遠隔地とはいえ、国境がすぐそこだからこんな立派な城郭を備えているのかと思った。

「ここが、サバラン……」
「いや。サバランの隣に建てた、私の城だ」

 何でもないことのように言ったマシレの顔を、驚いて見上げる。

「マシレ様の、お城?」
「そうだ。あの馬鹿げた魔術大会の賞金で建てたのだ」
「すごい……」

 感嘆しか浮かばない。ここに匿ってもらえるのかと考えて、ふと疑問を抱いた。
 何故マシレはリュカを連れてきたのだろう。こんな知らない場所で、リュカに何をするのだろう。想定できるのは、リュカの身体を狙っていることくらいだ。マシレは発情期でもないときのフェロモンを嗅ぎ分けられるようだから、冷静に見えて、単にリュカを手籠めにしたいだけかもしれない。

「あの、マシレ様。何のために僕を」
「言わなかったか? そなたの香りを研究したいのだ」
「い、言ってません!」
「そうか。幼馴染にもよく文句を言われるのだ。説明が足りないと。まあ、安心せよ。済めばすぐ帰すとも。王都ではそなたを探して大騒ぎのようだからな」

 彼の言葉に顔面蒼白となったリュカだ。折角逃げおおせたと思ったのに、これでは。

「嫌です、王都へは帰りません! 僕は……父にさえ見捨てられているんです」

 思い出すと、涙が込み上げてくる。同情を買いたい訳ではなかったが、ずっと信じていた父から道具として見られていた事実は、まだリュカの胸を蝕んでいる。

「ほう?」
「僕は、第一王子の……ダイセル様の運命の番なんです。でもあのひとは僕を襲って、ひどい目に遭わせました。もう顔も見たくありません。なのに父は……王子に僕を差し出して」

 俯くと本当に涙がこぼれそうだったから、せめて上を見上げた。遠く離れても空は青い。残酷なくらいにきれいだ。

「そうか。だが、私はそなたの香りにしか興味がない。研究が済んだ対象を、危険を冒して匿うほど、私は優しくない」
「そんな……」

 絶望に肩を落とすが、マシレが気にした様子はない。延命はしてくれるようだが、逃げ回った罪を追加してあの王子がリュカを更にひどい目に遭わせるだろうことを考えると、己の甘い判断を悔いた。

「マシレ! 困ってる相手にそんな言い種はないだろ!」

 ふと、少年のような甲高い声が二人の間を割って入った。足許から聞こえた気がしてそちらを見る。すると、赤い三角帽子をかぶった、リュカが手を広げたほどの背の高さの、小さな青年、のようなものが居た。

「うわ! 何だ、これ!?」
「え? あんた、おいらが見えるの?」
「ほう、面白い。リュカ殿はガーデン・ノームが見えるオメガなのか。それとも、オメガ自体がガーデン・ノームが見えるのか?」
「それはないよ。おいら、オメガの居る家で仕事してたことがあるけど、誰も見えてなかったからね」

 ガーデン・ノーム。それは、庭の装飾として置いてある小人の像だ。本来ならば、あくまで像であって、生きて喋るはずがない。そう思うのに、まさに陶器の置物と同じ姿をした小人が喋って、それどころか、マシレの身体を伝って肩に上ってきた。

「お、新顔の兄ちゃんびっくりしてるな。ガーデン・ノームは大地の守護精霊ノームの一種で、人間にはふつうは見えないけど、ちゃんと居るんだぜ。おいらはホホラ。今はマシレの使い魔やってるんだ。よろしく」

 立派に手を差し出して来たので、人差し指を伸べてみる。擬似的な握手だが、ホホラの手の温かみが伝わって、驚かされた。

「よろしく。でも、何で僕は君が見えるの?」
「そうだなあ……兄ちゃん、植物が好きかい? 大地に関わることをしてると、稀に見えるようになるって聞いたことがあるけど」
「植物は好きですけど……実家の庭で土いじりをしていましたから」
「そりゃいい! マシレ、この兄ちゃんを畑の作業員として雇おうぜ。そうすれば兄ちゃんも都に帰らなくて済むだろ」

 にやりとしたホホラに対し、マシレは渋面を作った。この風向きは変わったけれど、この城の主は頑固のようだ。

「ホホラ、勝手に決めるな。厄介を背負い込むつもりなど私にはない。ちょうど依頼が終わったばかりで、好きな研究に没頭できるというのに」
「依頼?」
「ああ、マシレの『香りの魔法の香水』は、安くて効果抜群だからさ。厄介な不調も治せるんだ。今回は更年期障害だっけ? そのための調合をしてたんだよ、マシレ」

 ホホラが自慢げにするのではっとした。それならば、リュカのためになるのでは、と。

「マシレ様、それなら、僕もあなたに依頼させてください。お金は持っていないけど……労働で返しますから」
「何? そなたも困りごとがあるのか」
「僕は生まれつきフェロモンが強いんです。ベータさえも惹きつけてしまって、一人では普通の生活を送ることもできません。これから一人で、隠遁生活をしなきゃならないから……僕のために香水を作ってくださいませんか──ついでに、できるまでの間だけ城に置いていただければ」

 これは良い考えである気がした。ここで何ヶ月か過ごすことができれば、事のほとぼりも冷めるはずだ。王子から見つかりにくくなるし、フェロモンが隠せれば、もう無闇矢鱈とひとを惹きつけなくて済む。

「マシレ様ほどの魔術師なら、フェロモンを抑える魔法をお作りになるのは容易でしょう? だから」
 やや挑発気味に言ったのに、マシレは大いに反応してくれた。不快げに顔をしかめたのだ。
「待て。私は魔術師ではない──調香師だ。訂正して言い直せ」
「……はい?」

 調香師。知ってはいるが耳慣れない職業だ。マシレ・グラースが調香師なんて聞いたことがない。

「魔術はできるが、本職は調香師。最先端の科学技術の執行者だ。私を魔術師と呼ぶ輩には出て行ってもらうことにしている」
「ですが、魔術大会で……」
「二度は言わんぞ。私は調香師だ」

 どうやら拘りがあるようで、奇妙な方向へと向きにさせてしまったようだが、依頼は断られていない。それならば、チャンスだ。

「すみません。国一番の調香師でいらっしゃるマシレ様なら、フェロモンを抑える香水をお作りになるくらい、容易でしょう」
「フェロモンを抑える香水か。面白い」
「だよな。それにマシレ、虐げられてる奴を見るのが嫌いだろ。貧乏な家のオメガは抑制剤も買えなくて、娼館で奴隷扱いされてるって聞くぜ。助けてやれよ」

 ホホラの同情的な言い様に、マシレも心を動かされているようだ。ずっと興味のないようにリュカを見ていた瞳が、しっかりとこちらを捉えた。

「む……オメガというのはそれほど辛いものなのか? リュカ殿」
「はい。オメガは千人に一人も生まれないそうですから。僕もこのままでは王子の性奴隷になるしかありません」
「分かった。引き受けよう。だが、ここに留め置くのは香水ができあがるまでだ」

 リュカは喜びで膝をついてしまいそうになった。自由に生き延びられるかもしれない。このマシレという青年は救いの光だ。

「ありがとうございます! マシレ様」
「マシレでよい。そなたのこともリュカと呼ぶが、構わんな」
「はい。でも、僕なんかがマシレ様を呼び捨てにするなど恐れ多いですから、僕はこれまで通りに」
「好きにするがよい。リュカ、それではさっそく城に来てもらうぞ」
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